『半分、青い。』が教えてくれた日本の過去40年の「軽さ」とは テレビだけで振り返れるこの時代
とても長い、恋愛ドラマ
『半分、青い。』はとても長い恋愛ドラマだった。
恋愛ドラマだったとは、途中、ずっと気付かなかった。
ヒロインのスズメ(鈴愛、永野芽郁)と相手役の律(佐藤健)は第一話から一緒にいた。同じ病院でほぼ同時に生まれ、同じ小学校、同じ中学校、同じ高校の幼なじみで、そのあと少し別の人生を歩み、それぞれ結婚して、それぞれ子供を儲けていたので、まさか、まわりまわって最後でこの二人が一緒になるドラマだとはおもわなかった。(主人公名を鈴愛と書くと書いてる私自身がすずめと読めないので、申し訳ないが、ヒロイン名は以下、スズメと表記させてもらいます)
最後のほうで、40歳近くなった二人が、接近していって、怪しい雰囲気になっていっても、だからといってふつうに二人の行く末を応援する気配にはならず、まさかとおもっていたら、最後、二人が一緒になりました、めでたしめでたし、で終わってしまった。
やられた、という痛快な気分でもあった。まさかそう来るのか、とちょっと驚いた。ドラマ評の原稿を書いていて、放映中に出そうとおもっていたが、そういう展開をみせたので、最終話まで見届けないと書けなくなってしまった。
結末について、「賛否両論」という記事も見かけた。そりゃそうだろう。
「やられた」というのが素直な感想だったので、痛快におもう人と、騙されたとおもう人が出てきて当然である。
そういう反応はおそらく狙いどおりだったのだろう。
おもいだしてみれば、スズメも律も付き合っていた相手や結婚した相手が、あまりいい人には描かれてなかった。
番組公式インスタグラムより
スズメの高校時代の唯一のデート相手は、見た目からして微妙だった小林くんで、恋愛の相手ではなかった。
でもこのデートエピソードはすごくよかったですね。好きでもないのに一回デートした相手がいるというのは、高校時代のエピソードとしてとてもリアルで、なかなかいい話だとおもう。
かなりコメディタッチのドラマだったから、そういう細かいエピソードがいろいろ楽しかった。たとえば、律は、高校入試の当日に跳ねられた犬を助けて受験に失敗したのだが、じつはその前に犬を路肩によせたのは、のちに律の友人になる正人(中村倫也)だったという偶然はものすごく驚いたし、好きだった。
後日談として、助けられた犬がギネス的に長生きして表彰され、そのお礼に飼い主がやってきて二人に礼を言うシーンも、とても好きだった。見ていてうきうきした。うきうきするドラマはいい。高揚する。あまり朝ドラ的ではなかったけれど、楽しいドラマだった。素敵にばかばかしかった。
スズメが付き合っていた相手は、最初は正人くんで、とてもやさしい性格ながら、次々と人を傷つけていくタイプだったし(いるいる、こういう男、とすごく納得して見ていた)、スズメが結婚した映画の助監督の涼次(間宮祥太郎)は、自分の映画を撮るとなると余裕がなくなって妻も子供も捨てた、わかりやすく素敵なダメ男だった(クリエイティブ業界にはたしかにいそうなタイプです)。
律の相手も、弓道をやっていたサヤ(古畑星夏)は高校時代は憧れのマドンナ的存在であったが、大学時代に律の恋人となってからは嫉妬深く独占欲の強いいやな女になり、律が結婚した相手・より子(石橋静河)も登場したときから心の狭そうな女として描かれていた。
見ている誰もが、いやな女だとおもえるような描写で、わかりやすい恋愛ドラマのパターンだなとおもっていたが、朝ドラだから看過していた。最後になって、そのへん全部がまとまってすっと腑に落ちた。そのあたりは、見事といえば見事だし、だまされたといえば、だまされた。
まわりまわって、最初から仲の良かった二人が(身近にいる人みんなが似合いだとおもっていた二人が)一緒になるところ(厳密にはなりそうなところ)で終わるというのは、シンデレラとか白雪姫という昔話の「王子さまと結婚して幸せに暮らしましたとさ」というパターンそのもので、太古から人を楽しませてきた物語の祖型そのままである。それは初期の少女漫画に継承されたスタイルでもあった。
でもそれは、NHKの朝ドラのスタイルではなかった。
異色の朝ドラ
朝ドラは、“結婚したあとのシンデレラ”を描くドラマとして人気だった。
半年間の長丁場、週6話で26週、156話のドラマは、基本「女の半生記」が多い。ひとつ前の『わろてんか』がそうだったし、新たに始まった「まんぷく」もそうである。
『“王子さまと結婚してめでたしめでたし”だとおもいこんでいたからあとの、逃れようのない現実とその苦難がやってきてからの物語』がメインである。実際にそういう苦労をしている主婦層が熱心に見るドラマだった。
いま午後に再放送している『カーネーション』などはその代表的な一例だろう。結婚相手は、ほんの短い時期しか登場しておらず(戦死した)、そのあとの「後家の踏ん張り」を描くドラマである。昭和の主婦層は圧倒的に支持していた(平成時代のドラマですけど)。
今回はそのパターンからはずれたうえに、最初から出逢っていた二人が最後に一緒になるという半年ものとしての掟破りな展開を見せた。朝ドラとしては新鮮である(恋愛ものとしては定番である)。
一緒になるスズメと律の二人がこれからうまくいくのだろうか、という問いかけに対する答えは示されていない。ロンバケのセナとミナミ(木村拓哉と山口智子)があのあと幸せなのかを聞いても意味がないのと同じである。その答えを欲しがるタイプが、最終回まで見てちょっとご立腹なのだとおもう。近くにいたらなだめてあげるしかない。
ただ0歳から40歳までの二人を、途中、中断の時期がありながらも追いかけてきたのだから、何となくは想像できるようになっている。また、40歳を演じているのが18歳の永野芽郁で(放映時は19歳だったけれど、撮影時は18歳のはず)とてもかわいい40歳だから(そのへんはずるいといえばずるいが)、これからの二人の行く末もたぶん大丈夫だろうと感じさせてくれる出来上がりになっていた。
永野芽郁がいい。
この朝ドラで、またしっかりした女優がひとり生まれて、とても楽しみである。(永野芽郁のこのドラマ以前のイメージは、「僕たちがやりました」が強く、その前になると「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」での目立たない役になってしまう)。
「背景」に過ぎなかった、それぞれの時代のイベント
ドラマ上の二人はともに1971年の7月7日生まれ、ドラマの最終話はその40年後の2011年7月7日、二人で協力した扇風機が完成したときで終わった。
いちおう、昭和平成の40年の歳月を描いたドラマでもあった。
ただ、軽い。
かなり軽い。まあ、ラブコメだから当然なんだけれど。
でも朝ドラでもあるから、それなりに40年間の日本社会での出来事や変化を反映して描いていた。それが軽い。
時代を設定を40年前にするなら、満州事変があって中米英と戦争して、焦土と化した国土を復興させて繁栄する、という異様な劇的さに満ちるのだけど、その繁栄する1971年から始めた40年は、見事に何もない。とても平穏である。
1971年から2011年は、のほほーんとしていた時代でしたね、というメッセージも込められているようである。
いちおうそれぞれの時代の風俗は反映されたいた。
まず、スズメ誕生前の1970年の大阪万博から紹介され、、1980年は松田聖子人気と、お尻だって洗って欲しいのウオシュレットが取り上げられていた(8話)。
〔PHOTO〕Gettyimages
そのあと1989年になって、ねるとん紅鯨団をテレビで見ていたし(16話)、ハウスマヌカンと、イカ天(16話)にマハラジャ(36話)が出てきた。
1992年の朝ドラ「女は度胸」(64話)と1996年の『ロングバケーション』(68話)を秋風先生(豊川悦司)が見ているシーンがあったし(なぜか1996年のロンバケをドラマ内では1992年に見ていたのだが)、1999年には、カリスマ美容師(83話)に動物占い(84話)と「失楽園」のブーム(89話)が話題になっていた。
そして、2002年の日韓ワールドカップの「稲本のゴール」が語られ(98話)、テツandトモのなんでだろうがテレビから流れていた(99話、音だけ)。
2007年紅白の石川さゆりに触れて(106話)、2008年は爆笑オンエアバトルのオードリーが出ていて(120話、これは映像つき、オードリーの成績は通算1勝7敗になっていた、すげえ悪い)、そういうふうに各時代の風景を描いていた。
最後は2011年になり、3月11日の震災が描かれたが、これだけは違っていた。きちんとストーリーにからむ出来事として扱われていた。
それ以前の時代の様相は、かなり上澄みだけをすくいとったような軽さがある。
政治的な動きや社会的な事件は触れられていない(映像で一瞬流れたくらい)。
つまりこれらの時代の出来事は、主人公たちが生きていくのに、さほど影響のある事件や社会の動きはなかった、ということを示している。1971年から2010年までは日本は平穏無事であったというメッセージでもある。そういう見方も可能だろう。
描かれた様相は、すべて「情報」でしかない。ねるとんも、イカ天も、ただの情報だ。時代らしさは「あった、あった」で済ませられる情報として描かれていた。
情報として処理されてなかったのは、実際に主人公たちが踊りに行ったバブル期のディスコの「マハラジャ」(ドラマ内ではマハジャロ)くらいであり(お立ち台に立った永野芽郁はみものではあったけど)、あとはリアルに描かれていない。
ほぼ、テレビ発信の情報として紹介されるだけで、テレビを消してしまえば、交わることのないただの情報でしかない。根本的なところで主人公たちの人生と関わるほどの社会的な動きはなかったのだ、というのが制作側のメッセージだったのだろう。
1970年から2010年まで日本社会の動きは、だいたいテレビ情報でつかめるようなものだった、ということで、2011年の東日本の震災だけは違っていた、という解釈でもある。それが北川悦吏子およびドラマスタッフのメッセージと受け取っていいだろう。ただ、私は個人的には、東日本の震災さえも、被災地以外ではかなり情報化されていた事件だったと考えられるとおもっているのだが、その話はまた別のところで。
若村麻由美のあの台詞がいい
40年間の社会の風景が、テレビ情報だけでことたりる、というのは、これはこれで痛烈なメッセージだったとおもう。
テレビを切ってしまえばふれることのない情報文化が、1970年代から2000年代の日本文化の中心だった、というのは、実感を伴った解釈なのだろう。身近な人と懸命に暮らしていれば、世界はそう見えてしまう、ということでもある。「恋愛ドラマ的朝ドラ」だからこそなしえた風景だとおもう。
だから、言葉がそんなに残らなかった。
人生そのものを語る言葉があまり発せられてない。
強いてあげるのなら、最後のほう、くりーむしちゅーの有田哲平が演じる津曲が、いじめられたと言ってきた息子に対して「友だちなんて、いなくていい」というセリフ(149話)である。このセリフによって、ほとんどペテン師にしか見えてなかった有田哲平の津曲が、すごく実在感のある男に見えてきて、あれは見事だった。
もうひとつ心に残ったセリフをあげるのなら、99話、若村麻由美が演じる売れっ子小説家・佐野弓子が、中途半端な覚悟の映画監督(斎藤工)に向かって放った言葉である。
いい人じゃこの仕事できないよ、競争なんだからと言ったあと、こう叫んだ。
「一等賞でテープ切っても、またすぐ次のレースがある。そうやってずーっとテープに向かって走り続ける! それが、この仕事!」
斎藤工の頭を両手で鷲づかみにし、にらみつけるようにそう言い放つ。迫力あるシーンだった。
このセリフが、『半分、青い。』のなかで個人的には強く印象に残った。北川悦吏子じゃないと書けない言葉だ。
あまり主婦向けのセリフではないかもしれない。でもクリエイティブ現場の過酷さを的確に伝えていて、魂に響く言葉だとおもう。
また主人公たちではなく、周囲の人たちにそういう重い言葉を言わせているのが、このドラマの特徴だったようだ。主人公は、人生について、あまり深く考えてるようには見えなかった。彼女を眺めているのはとても楽しかったけれど、あまり共感をした覚えがない。
もう一つ、ひたすら気になった言葉があった。相手役・律のセリフである。
ラスト近く151話で「おれの生まれてきた意味は、あいつを守るためなんで」と友人の正人に言っていた。
ヒロインのスズメを守るために生まれてきたと言っているわけで、恋愛ドラマのセリフとしては見事であるが、聞いた瞬間、ぞわっとした。いい意味ではない。悪寒と言ったほうが近い。
男性が男性に言ってる言葉として、男性として聞いていると、まったく愛の言葉に聞こえずに、何かしらの心の闇を告白しているようで、世界の前提が崩れたように怖かった。朝から、おそろしい底なし沼のような不安の渦に人を引きずりこまないで欲しい、と、しばらく画面を凝視してしまった。
深く考えずに聞くとそれなりのセリフであるが、40歳の男が、友人に言うセリフとしては、かなり怖い。この、気付いた人だけに不安をかき立てるところも、狙いだったようにおもえる。言葉の力はやはりすごい。
軽く、さらっと見せながら、ところどころで、ざわっとさせるドラマでもあった。
「時代描写」はどうだったのか
細かい時代描写にも、不思議な感覚を抱いたところがある。
ときに、それは違ってるんじゃないの、とおもう部分があって、それまでも狙いだったようにおもえてくる。一応、気になった部分を言葉にしておくが、べつだん、非難しようというものではない。私個人が違和感を持った部分を、ひょっとしたら見えざる狙いではないかという意味で、並べてみる。
たとえば、第一話で、大阪万博の映像が流れた。1970年。しかしそのあとに大橋巨泉のハッパフミフミのCMが流れて、イエイエのレナウン娘CMが流れた。放送されているときに見て、ふつうに、順番が逆じゃね? と半身になりながら反応してしまった。
大阪万博は1970年で、1970年代の新しい時代の象徴であった。それが私の強い印象で、つまり大橋巨泉ハッパフミフミもレナウンイエイエ娘も、これは古い1960年代のものだった。1970年に中学に入学したという切れ目の世代だったこともあって、そこの境目は、私のなかではものすごく大きく、70年代に入ったのだ、新しい時代だった、という気分はとても鮮烈で、その区切り目を鮮明に覚えている。
だから、それと60年代の事物が並列(しかも前後逆にして)入ってくるところに、すごい奇妙な感じを抱いた。なんでだろう、とすごく引っかかりを持ったままドラマを見続けることになった。このあたりが、どこまで狙いだったのかが、ちょっとわからない。
同じことが1980年の描写でもあった。
それは「ときは1980年です」とナレーションが入ったあとに流れてる曲がジュディ・オングの「魅せられて」だったところである。いや、この曲は1979年の曲であって、しかも1979年中に強く消費した覚えがあって、1980年に入ったところでなんで流すのか、すごくわかりにくかった。
1980年に入って、たとえば「大都会」とか「ランナウェイ」とか、それまでなかった新しい曲がヒットして、なんかまた新しい1980年代に対してうきうきしていた記憶が強いのだけれど(ほんとに当時は10年区切りですごく高揚していたのだ)、どうして敢えて、当時だと「ちょっと古い歌」だとおもわれていた「魅せられて」から入るのか、この微妙な違和感がとても不思議だった。
現実世界とは少し違うというメッセージのようでもあったし、岐阜の田舎ではこうでした、ということだったのかもしれない。でも説明がないのでわからない。
私には微妙なずれを(それでいて看過できないずれを)感じさせられた。とりあえず私の知っている世界の昔の風景と、このドラマの世界の風景は違っていた。
漫画の「古さ」の感じ
もうひとつ、さらに細かく、ほんとにどうでもいい指摘。
スズメの生まれた育った家、つくし食堂では、古い漫画をそろえていて、スズメはそれを読んで育った。
その本棚がしっかり映し出されたことがあるのだが(6話)、「どろろ」や「マグマ大使」「バンパイヤ」「0マン」や「あしたのジョー」「ハリスの旋風」は、たしかに1980年の地平から見て「古い漫画」だとおもう。
でも全31巻がそろっていたちばてつやの「おれは鉄兵」は、当時の最新作である。連載が終了したのは、ドラマのこの時点(服装などから1980年の秋だと推察される)の少し前である。1980年4月に少年マガジンでの連載を終了したばかりだ(最終話掲載は1980年20号。月号は5月10日号だけれど、発売されたのは4月16日水曜)。
『おれは鉄平』31巻
最終31巻の単行本が出たのは、おそらく2カ月から3カ月後、だいたい夏前だろう。鉄兵は、最後はなんだか豪華客船みたいなのに乗ってどっかに行ったように記憶しているけれど、でも最終回が1980年だったのはたしかで、つまりこのドラマの時点で「つい先だって終わったばかりの新刊ほやほや」だったことになる。31巻が出て完結したばかりの漫画なのに、あまりそういう扱いにはなっていない。
もちろん1980年の秋にはおれは鉄兵は全31巻が揃っていて何もおかしくないし、そのとき本が汚れていてもべつに不思議ではない(食堂で激しく読まれれば二ヶ月で古びる)。でも、なんか1980年の風景の中に自分を移動させて、この本棚を見てみると、ちょーっとなーんかずれているようにおもうのだ。
鉄兵がそこにそう並ぶのかなー、というポイントでざわついて、ほんとに個人的な感覚をもとにした難癖で、ものすごい薄い違和感でしかなくて、とりたてて言うほどのことではないだけど、でも、何か、どうしてもそういう空気が漂っていた。これ、本物じゃないんだよー、わざとフェイクを入れてるんだよー、というそういう作りである。
89年に「替え玉」はあるか
もうひとつ言うなら、1989年の、他高の新聞部の小林君とデートする前にスズメは「ラーメンで替え玉するのは、あかん」と注意されるのだが、1989年のこの時点で、「替え玉」というのがそんなに全国レベルで広まっていたのか、というのは、(反証の材料があるわけではなく、私個人の記憶に頼ってのことなのだが)かなり不思議に感じる。
「大盛」にして食べたらあかん、というのならわかるのだけれど、1989年時点で、博多のラーメンは、その存在は知ってはいて、でも私は椎名誠の本で読んで学んでいただけで、このころ「日常的にふつうに替え玉を頼む」というような風習の中には私は生きていなかった。
そもそもいまでもラーメン店の半分以上では「替え玉」は存在せず、大盛りを頼むほうがふつうである(いま高田馬場のラーメン店データで確認したが(自分で作ったものです)替え玉があるラーメン店は、総数のおよそ3割程度だった)。なんで、『替え玉』と岐阜の女子高生に言わせたのだろうか、ととても引っかかりがあった。
このあたりも、フェイクを入れても何かしら揺るがせたかったのではないか、と想像するしかない(博多ラーメンの店が一軒だけ岐阜でピンポイントで繁盛していたという可能性もあるし、たまたま替え玉方式の店がスズメたちの高校近くに一軒だけあったということもふつうにあるわけで、これがありえないと言っているわけではない)。
何かしら、過去世界の描き方が、現実と少し離れていて、バーチャル感があった。
懐かしいというより、別の世界に引き込んでいかれるようだった。それはおそらく狙いだったとおもう。
そういう試みもふくめて、新しいドラマであった。
全話を最後まで見て、すごく納得する、というのも、ずっと朝ドラを見てきたなかで、とても新鮮であった。(しかもおもいだすと、二人の恋愛を、べつだん応援はしてなかった。でも二人がくっついたのを見て安心もした。そのへんの心持ちの持っていきようもドラマの力だったとおもう)。
朝ドラは、前のドラマが終わっても待ったなしで次のドラマが始まって、そこがいいところでもあって、すでに頭のなかでは『まんぷく』の世界が動きだしている。こちらはまた昔ながらの手法で(ドラマは日中戦争の翌年から始まりました)しっかりとした女の半世紀を見せてくれそうで(それを彷彿とさせる松下奈緒がいてゲゲゲとおもいだしてしまう)、なかなか楽しみである。