権中納言敦忠の本名は、藤原敦忠(ふじわらのあつただ)といいます。
彼は三十七歳でこの世を去りました。
亡くなる前年に任官した役職が「権中納言」です。
「権中納言」が、どのような役職かというと、後世、同じ役名をもらった有名人に、徳川光圀(とくがわみつくに)がいます。ご存知、水戸黄門です。
権中納言は、唐名が黄門侍郎(こうもんじろう)で、略して「黄門」です。
水戸黄門は、徳川家康の孫であり、徳川御三家の水戸藩の二代目藩主であり、天下の副将軍です。
権中納言がどれだけ高い位か分かろうというものです。
その藤原敦忠は、はじめから偉い人だったわけではありません。もともとは「従五位下」です。「従五位下」も殿上人(でんじょうびと)には違いないのですが、貴族としてはもっとも身分の低い、いってみれば貴族の中の大部屋暮らしです。
藤原敦忠はたいへんな美男子であるとともに、管楽にも優れた才能を発揮する人でした。
管楽の腕前がどれほどのものだったかを示すエピソードがあります。
藤原敦忠が亡くなったあと、源博雅(みなもとのひろまさ)が音楽の御遊会でもてはやされていました。
源博雅は、映画『陰陽師』で、伊藤英明さんが演じておいででした。
映画では笛の名手となっていましたが、弦楽もかなり達者だったようです。
その源博雅の演奏を聞いた老人たちが、
「敦忠が存命中は、
源博雅あたりが音楽の道で
重んぜられるとは思いもしなかった」と
「嘆いた」
という話が、中世の歴史書の『大鏡』にあります。
源博雅の笛が、まるで児戯(じぎ)に思えてしまうほど、藤原敦忠の管楽は、素晴らしかったというわけです。
身分は低いけれど、若くて、ハンサムで、歌も上手で、しかもうっとりするほどの管楽の達人です。
管楽を多くの人前で披露する機会も多かったことでしょう。
藤原敦忠は内裏(だいり)の女性たちにモテモテでした。
その藤原敦忠が二十五歳のとき、なんと第六十代醍醐(だいご)天皇の皇女である雅子内親王(がしないしんのう)と、良い仲になってしまうのです。
このとき雅子内親王は二十一歳です。
これまた若くて美しい盛りです。
二人はまさに熱愛となりました。
このとき互いに交わした愛の歌の数々が『敦忠集』に収められています。
もう「大丈夫か?」と心配したくなるほど、二人の愛は熱々、ラブラブです。
けれど困ったことに、身分が違いすぎるのです。
やむなく大人たちは、雅子内親王を伊勢神宮の「斎宮(いわいのみや)」に選んで、都から去らせてしまいました。
「斎宮」というのは、伊勢神宮の祭神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の御杖代(みつえしろ)(=神様の意を受ける依代(よりしろ)となる女性で、皇女の中から選ばれました。
お伊勢様の中に専用の建物が与えられ、五百人の女性たちがそこに傅(かしず)きました。
もともと天照大御神様にお言葉を奏上し、天照大御神様のお言葉を下に伝えるのは、女性神である天宇受売神(あめのうずめのかみ)の仕事でした。(だから「天の声の受け売り」というご神名になっています。)
現世において、その天宇受売神の地位に匹敵するお役目になるのが「斎宮」です。
どれだけ貴重な存在かわかろうというものです。
このときの藤原敦忠は、貴族とは名ばかりの最低の下士です。
片や雅子内親王は天皇の皇女です。
あまりにも不釣り合いなことに加え、「斎宮」に選ばれたとあっては、もはや二人は二度と逢うことは許されません。
だからこそ藤原敦忠は、その苦しい胸の内を、この歌に詠んだわけです。
禁断の恋、つらい別れだからこそ、
「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」
なのです。
しかし敦忠は男です。身分の差があるからと愛する女性(ひと)を失った悲しみに、ただひたるだけのようなヤワではありません。
彼は、「ではそれに匹敵する身分の男になってやろう!」と、猛然と仕事に精を出すのです。
もともと才能ある若者です。
努力し成果をあげ、翌年には従四位下に昇格したかと思うや否や、その年のうちに蔵人頭(くろうどのとう)に出世、翌年には左近衛権中将、さらに次の年には播磨守を兼任と、みるみるうちに宮中で頭角をあらわしていきます。そして十年後には押しも押されぬ「権中納言」にまで昇り詰めていったのです。
まさに彼は、「女を妻にしても足るだけの男」になっていくのです。
けれど仕事で出世するということは、それだけ人の何倍もの仕事をこなすということです。
あまりにも仕事に打ち込みすぎた藤原敦忠は、その翌年、過労のために、わずか三十七年の生涯を閉じるのです。
作者名に、あえて「権中納言敦忠」と職名を付したのは、この歌は単に愛の讃歌というだけでなく、背景に、つらい別れを経験した男が、そこから立ち上がり、世の中におおいに貢献し、出世し、そして愛した女性と釣り合うだけの人物に成長していった、というドラマがあったからに他なりません。
この解説を聞いた友人が、次のようなことを話してくれました。
「もしかしたら敦忠は、
たとえ噂でも自分の近況を伝えるために
頑張ったのかもしれませんね。
雅子内親王が伊勢神宮の斎王となれば、
もう噂でしか近況を届ける手段はなくなります。
半端な噂では斎王まで届きませんから、
かなり頑張らなアカンかったのでしょうなあ・・・」
四十三歌は、純粋に恋の歌です。
けれど藤原定家がこの歌を百人一首に入れたのは、
「男なら、そうやって成長せよ」
そんなメッセージを伝えたかったからなのかもしれません。
最近の百人一首の解説本では、この歌をただ「愛の讃歌」として紹介しているものが多いようです。
しかしこの歌の本当の素晴らしさは、身分の違いからその愛を成就できなかった男が、そこから這い上がり、男としての成功を勝ち得、そして死んでゆく、その男の人生そのものにあります。
その人生そのものが、この、わずか三十一文字に込められているのです。
その意味ではこの歌は、日本の和歌文化をある意味、代表する歌だともいえます。
「愛」とは、もともとの大和言葉では「おもひ」です。
昔の人は「おもうこと」に、この「愛」という漢字をあてたのです。
親が子をおもうこと、夫が妻をおもうこと、妻が夫をおもうこと、恋人のことをおもうこと。それが愛です。
以前、蝶の話を聞いたことがあります。
アゲハチョウの幼虫を捕まえようとしたら、おそらく母親なのでしょう。
蝶が、幼虫を取ろうとした人に、しきりにまとわりついて、それを阻止しようとしたのだそうです。
昆虫でさえ、愛する我が子を守ろうとします。
動物だって我が子を守るためには、敵わぬ相手でも、必死でこれをしりぞけるのです。
まして私たちは人間です。
自分より誰かのことを大切におもうことができる。
そして、それこそが、日本人にとっての「愛(おもひ)」です。
ただし男の愛には、責任がついてきます。
男は家を守るもの、男は国や社会を守るものだからです。
その責任を自覚して生きることができるようになることを、日本男児は大人になることだといいました。
権中納言敦忠は、本気で人を好きになれる男、本気で好きな女性を愛せる男だったからこそ、仕事もできたし、出世もしたのです。
もっというなら、人より自分のカネや虚栄や贅沢を愛するような自己中な男には、組織も家も委ねてはいけません。
おもしろいことに虚栄を愛する男は、その特徴としてやたらとゴージャスに身を飾ろうとします。
手にしているモノや地位が、自分の価値だと思い込んでいるのです。
なぜなら自分を愛することさえもできない。まして他人を愛するなど思いもよらない。あるのは自分のものにしたいとか、支配したいという欲望だけです。だから外見を物で飾ろうとするのです。これを虚栄といいます。昔の日本人がいちばん嫌ったのが、この手のタイプです。
歩のない将棋は負け将棋です。
ボロは着てても心の錦。
男は黙って責任を果たす。
それが日本男子です。
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