【閲覧注意】

フォンニィ・フォンニャットの虐殺
は、ベトナム戦争中の1968年に、南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で、大韓民国海兵隊第2海兵師団(青龍師団)によって、非武装の民間人69-79人が虐殺された事件である。


1968年2月12日。
フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。

ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名・南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着。
アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した。
また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われている。
事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示した。

当時のフォンニィ・フォンニャット村はアメリカ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍に参加していた。

続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺されている。

事件を受けてアメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランド大将が韓国軍に調査報告を繰り返し求めたところ、韓国軍は韓国海兵隊の軍服を着たベトコンによる陰謀であったと報告した。

(フォンニィ・フォンニャットの虐殺当時の韓国内では、韓国政府が行った聞慶虐殺事件保導連盟事件では共産主義者に罪を着せることで虐殺事件を闇に葬りさることに成功していた)


韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、監察官による調査を行う。
1970年にはに韓国海兵隊による虐殺事件であったことが判明する。

ベトナム派遣軍最高司令官だった蔡命新は、ハンギョレ新聞によるインタビュー(2000年)に対し、アメリカ人はゲリラ戦に無知であったために韓国側と対立することがあったが、最終的にはアメリカ軍は韓国軍の戦術を取り入れるようになったと述べている。


関係の程は明らかかではないが、事実、翌月には、アメリカ軍の一小隊によってソンミ村虐殺事件が引き起こされている。
だが、アメリカ軍は軍法会議を開き、実行犯を処罰した。
この事件について蔡は、戦争では普通のことであるとして実行犯を擁護する発言を行っている。

アメリカ軍内部では韓国軍を完全な後方部隊とするべきか、南ベトナム民族解放戦線が完全に支配する地域に配置転換するべきか、検討が行われている。
南ベトナム民族解放戦線では、全員が敵となるため、虐殺が起きてもトラブル扱いはされずに済む

韓国兵は残忍なやり方で女性を強姦してから殺害するケースを好み、アンリン郡の村人によれば、とりわけ女性にとって韓国軍は恐怖の的だったらしい。
また、妊婦や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだりした。
生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬るしか術がなかった。

1969年2月。
事件の遺族達によって南ベトナム議会に賠償を求める請願書が提出される。

一方、2000年には、蔡命新将軍は数々の事件について、我々は誰にも償いをする必要はないと宣言。

2013年8月。
クォン・キヒョン大韓民国国防部スポークスマンは、グローバル・ポストに対して、「韓国軍が組織的に民間人虐殺を行うことは不可能」「ベトナム女性への性的搾取はない」と、ベトナム戦争当時の韓国軍によるベトナム人虐殺・女性凌辱を否定した。

韓国軍によるベトナム人虐殺事件は、他にタイヴィン虐殺・ゴダイの虐殺・ハミの虐殺等が挙げられる。

以下、虐殺証拠写真。 【閲覧注意】 (スクロールで閲覧可能)














両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられた瀕死の21歳の女性。
写真撮影後に病院に徹送され、「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で絶命した。
(J・ボーン米海兵伍長撮影)



至近距離から撃たれ前頭部を吹き飛ばされた2名の妊婦。
(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)



アメリカ軍の手当を受ける負傷した少女。
(J・ボーン米海兵伍長撮影)



殺害された子供。
(J・ボーン米海兵伍長撮影撮影)



韓国軍に焼かれた住民。
(J・ボーン米海兵伍長撮影)




ロバート・モレヘッド・コック米陸軍大佐が監察官として作成した虐殺事件の報告書。
(1970年1月10日)


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