どっこい生きてた中国のマニ教
文:吉田一郎(ヤジ研)
「マニ教」って、世界史の授業で習いましたよね?
3世紀初めにササン朝ペルシャでマニが始めた宗教で、西はギリシャからシリア、エジプト、北アフリカ、東はシルクロードを通ってウイグ ルの国教となり、中国まで広がったが、その後衰退してしまい消滅。その原因は「謎」で、滅亡した世界宗教の 代表だと言われています。
ところが、何百年前に滅んだはずのマニ教が、中国では細々と生き残っていて、寺もあれば信者もいて、毎年マニの生誕祭が開かれているというのだ。
中国にマニ教が伝来したのは、唐の時代の694年のこと。当時、唐の都・長安はアラブ人やペルシャ人も交易に訪れる国際都市で、仏教や キリスト教ネストリウス派(景教)、ゾロアスター教とともに、マニ教(摩尼教)の寺院も建て られて信者を増やしていた。しかし845年に唐の武帝による廃仏で、これら外来の宗教は禁止され、寺は壊され、僧侶は還俗させられた。仏教はやがて復権し たが、他の外来宗教も都から遠く離れた江南の地(浙江省や福建省)では脈々と受け継がれていった。
マニ教は弾圧を逃れるためにその教義から明教とも称するようになった(同 様に景教は秦教と称した)。マニ教の教義はペルシャの伝統宗教だったゾロアスター教をベースに、仏教やキリスト教、ユダヤ教などの要素を取り入れたもの で、簡単に言ってしまえば、世界では光の王国(善)と闇の王国(悪)が対立しており、現在は闇の勢力が支配していて、人間の肉体も闇によって構成されてい るが、肉体には「光の破片」も残されており、智慧によってその光の部分を自覚し、厳しい戒律を守ることで光の部分を太陽へ戻すための修行を続け、来るべき 光と闇との最終戦争に備えるべし・・・というもの。
マ ニ教概説 序章 マニ教の教義についてわかりやすく説明していま すこの世を「闇=悪が支配している」と考え、闇を倒す最終戦争がやって来ると教えているわけだから、根っからの反体制指向なわけで、政治権力者にとってはは なはだ危険な邪教と映り、マニ教は魔教、その信者は喫菜事魔(菜 食主義の邪教徒)とまで呼ばれて、江南ではしばしば禁止のお触れが出されていた。
摩尼光仏教法儀略一巻 敦煌 で1900年に発見さ れた唐の 開元19年(731年)に書かれたマニ教の漢訳教義本
摩尼教下部賛 敦煌で 1900年に発見さ れたマニ教の漢訳経典(8世紀末か9世紀初めのもの)
例えば宋の時代の1162年では『応詔 条対状』という報告書で「秀才(科挙に合格した人)や吏人(役人)、軍兵の間で明教を習いたがり、インチキ経文や妖しい神像が広まっている」と警告され、 1221年には「莫習魔教、莫信邪師(魔教を習うな、邪師を信じるな)」というお触れ(再守泉州勧農文)が出ている。しかし政府が弾圧しても「世直し」を 望む民衆の間で明教は途絶えることなく信仰され、秘密結社化して道教を装ったり、弥勒信仰と集合した白蓮教を 新たに派生しながら広がっていった。老子化胡経 老子が西へ旅に 出てブッタとなりマニになったという道教の経典宗教に寛容な元の時代になると、マニ教は再び公認されて、福建省を中心に寺院が建てられるようになるが、元代末期には白蓮教徒が大規模な反乱(紅巾の乱) を起こし、新たな王朝を築いた朱元璋は元朝打倒の原動力になった明教にあやかって、新王朝の国号を明朝と 名付けたが、権力者の座に就くと一転して明教や白蓮教を弾圧して寺を破壊。白蓮教はその後も清朝末期まで続き、義和団に受け継がれたが、明教はというと 15世紀には完全に姿を消してしまった。かくしてマニ教は最後に残っていた中国でも滅んでしまったのである。
・・・ ということになっていたのだが、実は福建省泉州郊外の蘇内村にマニ教のお寺が現役で残っていることがわかった。この寺は草庵という寺で、元朝の時代の1399年に建てられたもの。御本尊はその名も摩尼光仏という石の浮き彫りで、仏像のような格好で座っていて後光が差しているのだが、頭は釈迦のよう な巻毛はなくてストレートな長髪だし、2本の長いアゴ髭が伸びていて、かなりスタイルが違う。境内の崖には「教え」が彫られているが、仏教のお寺によくあ る「南無阿弥陀仏」の類ではなく、こういう内容だ。
清浄光明 大力智慧 無上至真 摩尼光仏清らかな光とか、大いなる力の智慧とか、どう見てもマニ教の教義っぽい。さらに周囲のお寺では旧暦2月19日を釈迦の生誕日(ホントは観音菩薩の生誕日) として祝っているのに、草庵だけは旧暦4月16日を摩尼光仏の生誕日としてお祭りをやっていたのだ。もっとも、1950年代に中国の学術調査団が調べたとき、村人や信者たちはもちろん、草庵の坊さんたちも「マニ教?なにそれ」という反 応だった。曰く摩尼光仏の「マニ」というのは、釈迦牟尼の「ムニ」が訛っただけで、仏教の寺だと信じて疑わず、「ウチの寺のお釈迦様はちょっと変わってんだよ!」くらいに思われていたらしい。
お釈迦様ならぬおマニ様
ところ が、1979年に草庵の境内から、かつて法事の時にでも使ったであろう「明教会」と書かれたお皿が出土して、「ほ~ら、やっぱり明教=マニ教の寺じゃない か」とはっきり証明された次第。1991年にはユネスコの国際調査団が訪れて「摩尼光仏は、マニである」と お墨付きを与え、政府からは重要文化財にも指定された。
1960年代の文化大革命で、草庵の僧侶たちは離散してしまったが、寺に下女として住み込んでいたおばさんが摩尼光仏を守り続け、最近 では再び参拝者が訪れるようになり、お釈迦様ならぬおマニ様の聖誕祭も復活。境内では「家内安全」や「商売繁盛」のお札も売られて いるようだ。
紙馬 草庵で売られている御 札。添福添寿(子孫繁栄&不老長寿)、祈求平安(家内安全)、生意興隆(商売繁旺)の3点セット権力者から何百年も弾圧されていたマニ教は、仏教や道教を装っているうちに、いつしか僧侶や信者たちも「本当はマニ教なんだよ」という自覚が失われてし まったようだ。明朝末期の頃に書かれた地方史誌では、「その術を習う者は、呪術などを行っているが、その教えははなはだチンプンカンプンである」と記録さ れており、その頃には民間信仰と融合して、マニ教本来の教義はすでにあやふやになっていたようだ。日本でもかつてキリスト教が徹底弾圧され、250年間の潜伏活動を経た隠れキリシタンの間では、マリア様は「丸屋の娘」、クリスマスは「安産祈願の日」となってしまい、最初は弾圧を逃れるために仏教 の信者を装っていたはずが、いつしか本物の仏教の信者兼隠れキリシタンの信者になってしまいましたからね(※)。
※ 明治時代になって再びキリスト教が解禁されたのに、隠れキリシタンの多くが本来 の信仰だったカトリックに復帰せず、「隠れ」独特の信仰を続けたのもこのため。カトリックになれば家の仏壇は捨てなければならず、先祖と同じお寺の墓には 入れなくなる。彼らは隠れキリシタンの信者といえども仏教の檀家であったわけで、「隠れ」を捨てて(=仏教も捨てて)カトリック教会に通うようになった者 を、「親不孝者!」と非難した。
世界で唯一残ったマニ教のお寺へお参りに行く 2010年夏に私が草庵へ行った時の話
【動画】マ ニ教の占いと祈りの儀式 草庵の境内と参拝に訪れた人たちの様子
続々と「発見」されるマニ教徒の村々
ところで、21世紀に入り中国の学者たちが本格的に調査に乗り出すと、福建省の各地でマニ教の神々を祀った廟や、摩尼光仏を信仰する村 が次々と発見されている。
例えば草庵に近い蘇内村にある境主宮という廟では、摩尼光仏に加えて明使(ミフルヤズド?)と霊相(イエス?)というマニ教の神が、観 音菩薩や福徳正神など仏教や道教の神々と並んで祀られ、村の人々が日常的にお線香を上げにやって来る。また村には木彫りの摩尼光仏像があり、「清浄光明 大力智慧 無上至真 摩尼光仏」という16文字を唱えながら手で印を結ぶ魔 除けの真言も伝わっていて(※)、2005年にやって来たイギリスやオーストラ リアの調査団が、「21世紀に現存するマニ教信仰」だとお墨 付きを与えることになった。
※例えば、暗い夜道を1人で歩いていて「嫌な気配」がした時、摩尼光仏の真言を唱えて印を結ぶと、「全身がパッと赤い光に包まれて 邪気が払える」のだそうな。
マニ教徒の村を訪ねて 2010 年夏に私が蘇内村へ行った時の話
さらに2009年には、福建省北部の霞浦県上万村に、11世紀に明教の教主だった林瞪(1003年~1059年※)の子孫が住んでい て、マニ教の法器や香炉とともに教主が使う「聖明浄宝」の印鑑が家宝として伝わっており、現在でも毎年旧正月などのお札作りに使われていることや、村では「摩尼 大法旨 無上明尊祖 慈悲最聖明」などと書かれた魔除けの札が使われていることが確認された。
※明の時代に編纂された『福寧州誌』によると、宋の嘉祐年間(1056~1063)に 福州で大火災があり、群衆が空を見上げると、空中で鉄扇を持った白衣の男が火と立ち向かっていた。そして火事を消し止めると、「我こそは上万の林瞪なり」 と 宣言したそうな。こうして林瞪は「興福大王」「度師真人」と讃えられ、数十人の弟子を集めて雨乞いなどで活躍したとか。また村の密教の僧侶は木彫りの摩尼光仏とともに、清の時代に写本された明教の経典を持っていて、読経に使っているが(※)、その一部は敦煌で 発掘されたマニ教の漢訳経典(下部賛)とまったく同じ内容だという。
※経典では5人の仏を讃えていて、一仏が那羅延(バラモン教のヴィシュヌ、金剛力士、仁王)、二仏が蘇魯支(ゾロアスター)、三仏 が釈迦文、四仏が夷数和(イエス)で、五仏が摩尼光(マニ)。文化大革命で破壊された上万村の三仏塔の破片には、マニ教の神々が浮き彫りにされていたことが発見され、また林瞪が拠点にしていた楽山 堂(龍首寺)は文革で荒れ果て、2006年に倒壊してしまったが、霞浦県北洋村にある飛路塔(道の神の祠)には、「清浄光明 大力智慧」とマニ教のスロー ガンが彫られていて、今も焼香が絶えないことがわかった。
そして、福建省の省都・福州の街中でも、バリバリの現役の明教の廟が「発見」された。これは福寿宮という廟で、明教文仏と度師真人(= 林 瞪)が祀られており、明教文仏像は草庵の摩尼光仏とそっくりだ とか。堂の入り口には「朝奉日乾坤正気」「夕拜月天地光華」という文字が書かれているが、これは明の時代の史誌に「朝拝日、夕拝月」と記載された明教の礼 拝そのままだ。
福寿宮では清の時代に描かれたボロボロの絵が見つかり、復元してみたところ当時は「明教文仏祖殿」と言う名で堂々と明教の教祖(=マ ニ)を祀る廟だったことがわかり、福州市では「草庵に次ぐマニ教の重要な遺跡であることが確認された」と発表しているが、参拝に訪れる地元住民たちは福寿 宮を今でも「明教文仏祖殿」と呼んでおり、「昔の明教の偉い人の廟だなんて知ってるよ。マニ教? 何それ?」と言うことらしい(※)。
※福寿宮がある福州市台江区政府の公式サイトでは、「マニ教は平等を追求して暗黒統治に反対し、その信者の多くは下層の民衆であ り、封建的な弾圧に反抗する人民の精神的な武器となり、たびたび農民蜂起の発動や大衆を闘争に向けて組織する際に用いられた」と、マニ教を共産党的に都合 良く絶賛している。
中国人の宗教は日本人と似たり寄ったりで、仏教だろうが道教だろうが関係なく、近くのありがたそうな所へお参りするというもの。それが もともと明教の寺か廟で、摩尼光仏が飾ってあろうと気にしないということでしょう。そうえいば、中国では毛沢東の写真が「交通安全のお札」と してすっかり定着していますが(強くて偉大な人物だから、邪気を払って守ってもらえる)、そのような「何でもいいから、ありがたそうなものにあやかる」という便利な宗教観 の下で、マニやその経典も何だかよくわからなくなっても信仰の対象とされ続けたようだ。
福建省の沿岸部では、文化大革命の頃まであちこちに斎堂があり、時おり村人が集まっては菜食を食べながら夜通しお祈りするという、かつ て「喫菜事魔」と評されたマニ教信仰の名残のような行事が行われていたという。今後も「マニ教徒の発見」はまだまだ続きそうだ。
明教的新 發現――福建霞浦縣摩尼教史跡辨析 2009年に発見された上万 村の明教遺跡や資料など
《倚天屠龙记》明教遗迹藏闽霞浦小山村 上万村の明教遺跡や資料など
漫話福州新発見的摩尼教遗址 福 寿宮の明教文仏
中華圏で大人気のマニ教時代劇とマニ教新聞?
元朝末期から明朝にかけては、中国の時代劇でよく舞台になっているが、そこに悪役として登場する定番が、明教もしくは日月神教(地下に潜って秘密教団化した明教は、明の字を分解して日月)という魔教軍団だ。これらの時代劇は、金庸とい う香港の作家が書いた一連の武侠小説が原作になっていて、いずれも超が付くほどの大ベストセラー。そして香港では原作から内容が限りなく離れつつ繰り返し 映画化やテレビドラマ化されて、人気シリーズになっている。日本でも劇場公開されたりビデオ販売された作品が多いので、中国におけるマニ教の姿を(果てし なくデフォルメされて)拝むことができますヨ。
『倚天屠龍記(カンフーカルトマスター魔教教主)』 あらすじ 映像 ペルシャを拠点に 世界制覇を企む明教(=マニ教?)の魔王と対決
『笑 傲江湖(スウォーズマン 剣士列伝)』 映像 自治を求めて朝廷に反抗する山の民・苗族を支配する日月神教(=マニ教?)
『笑 傲江湖之東方不敗(スウォーズマン 女神伝説の章)』 あ らすじ 映像 日月神教の女教主が服 部半蔵ら倭寇の忍者軍団を率いて襲いかかる
『東 方不敗之風雲再起(スウォーズマン 女神復活の章)』 あ らすじ 映像 日月神教の女教主が倭 寇に加えて南蛮人も率いて襲いかかる
金庸は香港の新聞記者出身で、明教をネタにした小説シリーズで財を成した後、1959年にその名も『明報』という新聞を創刊。80年代から90年代前半にかけては民主化支持のリベラル紙として香港を代 表する新聞になった。また67年にはシンガポールとマレーシアで姉妹紙の『新明日報』も創刊 している。もっともシンガポールの『新明日報』は1980年代に政府系企業によって買収されて現在では大衆路線の夕刊紙となり、マレーシアの『新明日報』 は96年に廃刊。『明報』も90年代に売却されて、すでに金庸とは関係がなくなっているが、もちろんマニ教ともまったく関係はないでしょう。
『明報』 もちろん中国語ですよ80歳を超えた金庸は2004年に草庵を訪れて、念願の摩尼光仏を参拝。感想は「私がかつて小説で描いた明教の存在は、間違っていなかった」とか。
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マニ教(?)の妖しい女教主。演じているのは中華圏で美女の代名詞 だった台湾女優の林青霞(ブリジット・リン) 。日と月が描かれた日月教(=明教=マニ教)のシンボルを手に していますが、どう見たって相撲の軍配。戦国武士に扮して忍者も率いたり大活躍!
マニアックついでに書きますが、The East is Redという英語タイトルは、中国の文革プロパガンダ映画の代表作『東方紅』(エンディン グ)と同じです。
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一体どこがマニ教・・・?ワケわからん