この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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ハバーマスの「市民的公共性」はそのままでは現代にそぐわないし批判の多い取り扱い注意の概念だよというお話

https://togetter.com/li/1273256
読みました。まとめは難癖っぽいのであんまり支持しませんが、それでもやはり千田さんのこの発言は問題あると思う。

ハバーマスの「市民的公共性」=「自分で考えてわたしと同じ考えになりなさい」であってはいけない

正直言うと、批判が多いハバーマスの「市民的公共性」概念を無造作に持ち出してくるあたりからしてかなりアウトだと思います。

また、ハバーマスの「市民的公共性」自身はまだ議論の余地がある概念ですが、千田有紀の場合使い方が完全にこれになっています。

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こういう使い方をする人がいるからこそ、ハバーマスの「市民的公共性」は批判されたのだという見本みたいになっています。自由な討議や情報公開性について強調するのではなく、私達の意見が公共だ!みたいな使い方をしてはいかんのでしょ。ガンダム00かよ。


私は、公共性をちらつかせて自分が気に入らない意見に圧力をかけようとする意見は「ハラスメント」だと認識しています。

会社における「パワハラ」はそういう構造に寄って行われていると思うので反対です。

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「公共性」を恣意的に利用する人に対抗する意味でも、ハバーマスの公共圏や公共性の構造転換の話は知っておくと良いと思います。

https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%85%B1%E5%9C%8F-186002
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この目的意識を支えるのは,現代社会においては公共性の概念が国家の独占物となっていることへの懸念である。本来,公共性とは自立した市民の理性的討議による「公論」の形成を目的としていた。それゆえ「批判的公開性」の原則がそこでは貫徹されていたのである。ところが立法国家から行政国家への移行,さらに介入主義的な国家政策の活発化によって公共性概念そのものが行政サービスの対象に変質した。ハーバーマスはこれを「示威的・操作的公開性」あるいは「統制された公共性」と呼んでいる。こうした公共性をめぐっての危機意識から「市民的公共性」の理念の再建という課題が提起された

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/papers/PAPER19.html

我々は「公共」概念を「共同体的公共性」と「市民的公共性」の二つに区別することができる。共同体的公共性とは、「共同体ないしそれに関するものごと」という意味である。市民的公共性とは、「自由な討論」と「公開性(越境性)」が認められているということである。この市民的公共性は、社会正義ないし政治的諸価値が討論される場合には「政治的公共性」となる。

ハーバーマスの「市民的公共性」概念は、近代家父長制のイデオロギーが深く刻印されているという批判がある

この「市民的公共性」の概念には、いくつかの批判があった。

(1) 市民的公共性の実質は、市民層(ブルジョワジー)の公共圏であり、それは絶対主義の公権力と宮廷・教会等の文化的権威に対抗する一方で、より劣位の公共圏-地方や都市下層の「人民的公共圏」など-を抑圧する関係に初めからあった。
(2) この市民層の公共圏には、近代家父長制のイデオロギーが深く刻印されており、女性の排除(女性の「主婦化」)はこの公共圏の存立に取って本質的な意味をもっていた。
(3) このように「公共性の他者」を排除する市民的公共性は、対内的には等質の一次元的な空間であった。

実際、最近「市民的公共性」みたいな考えをやたらと広範囲に適用しようとしたり、すぐに国家の介入をちらつかせる人が多くて、正直オタク云々をおいといて危険な感じがします。NHKはともかく、書店に対してまで過剰に公共性を求めるのは、ちょっとおかしいと思うな。(私はNHKも自由であっていいと思う)


さらに詳しく知りたい人は
このページで完璧にまとめられているので是非見てください。
https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Habermas%20Structural%20Transformation.htm

「市民的公共性」の概念は表現のありようを論じる際に正当性を持ちうるのだろうか?

私は、そもそもこれだけ多様化してきた価値観、特にエンターテインメントのありようを考えるときに、画一的な正しさを前提としているような「市民的公共性」の概念を用いるのが適当とは思えません。同様に、多様性をはぐくむはずの書店の陳列に公共性を求めることもおかしいと思っています。

それよりも、もっと政治的な話とかについて、まず市民的公共性を発展させることが効果的であることを示してほしい。そちらのほうをやってないとは言いませんが、まずそちらのほうでこの概念が今でも有効であることを示してほしい。

千田さんは、今回初手で炎上と呼ぶにふさわしくないものを炎上として紹介したりした時点ですでに信頼性がかなり落ちているのですが、「市民的公共性」の概念を使用することの正当性を問うこともなく、無批判に紹介して自説の強化に使おうとする態度はかなりいけ好かないです。さらにその信頼性を損なうものであるといえます。


どうしてもね、こういう雑な絡み方をしてくる人を見ると私は、批判する人の気安さや雑さが気になる。差別だとは思ってませんが、ナメられてるとは思う。どうせ対象が実在の人間ではない二次元やオタクが、雑に攻撃しても被害者が出にくく、面倒くさくないから安易にそちらを攻撃してるという印象を拭えません。


しかし、あまりにもナメすぎたよね。
今回珍しく、実在の、しかも女性から傷ついたとか批判が出ました。そうなってから急に攻めの切り口を変えたり、キズナアイそのものを攻撃したわけではないという言い訳をする始末。アホかと。今までそういう反撃を受けることが少なくて、ようやく少し気づいたのだと思いますが、いままで自分たちがどれだけ自分たちの加害性に無自覚にやってきたか少しは考えてほしい。

私は、性的客体化やら性的搾取を唱えて雑な理屈や内面の決めつけまで行って二次元コンテンツやオタクを殴ってる人たちのほうが、よほど人を客体化していると思います。


おまけ。