信仰心よりも憎しみが勝った。オウム真理教"天才科学者"が真実を語ったきっかけ
- "オウムがサリンを製造したこと"を証明するため伝説の刑事が取り調べを担当
- サリンを製造した土谷の取り調べで麻原を「尊師」と呼び、大きな勝負に出た
- 「区切りはついていない」捜査一課のエース・大峯氏が語るオウム真理教
2018年7月、教祖・麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚(以下、敬称略)を含めて13人の死刑が執行され、大きな節目を迎えたオウム真理教。
この宗教団体が行った数々の犯罪行為の中でも、1995年の地下鉄サリン事件は前代未聞の無差別化学テロ事件だ。この事件解決の裏には、ざまざまな難事件を解決してきた”伝説の刑事”と”天才信者”と称されたオウム幹部との白熱の取り調べがあった。
10月4日に放送された「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、伝説の刑事と呼ばれた捜査一課のエース・大峯泰廣氏などへの取材を元に、登場人物のセリフや行動は可能な限り忠実に再現しドキュメンタリードラマ化した。
土谷正実と遠藤誠一の逮捕がオウム解体のカギに
1995年3月20日、日本を震撼させた地下鉄サリン事件が発生。死者13人、負傷者約6300人と、人類が経験したことのない大都市での毒ガステロが東京で起こった。
2日後の3月22日には、山梨県にあるサティアンと呼ばれるオウムの教団施設や、東京総本部をはじめ、各地の教団施設にも強制捜査が入った。
だが、のちに広報としてマスコミの前に立つようになった上祐史浩氏は、「地下鉄サリン事件は警察側の自作自演で、オウムへ強制捜査を実行するための建前が必要だったため、サリンを撒いたのでは」と主張。さらに、サティアンからサリンの原材料となる薬品が見つかったことに対しても「印刷で使う通常の産業物」と反論した。
一方の警察は、“オウムがサリンを作った”と明確に証明できず、行き詰っていた。
この状況を打破するためには、サリンを作ったと思われるオウム化学班のキャップ・土谷正実元死刑囚(以下、敬称略)の証言が必要だったが、警察は彼の行方を掴めずにいた。
そんな中、3月30日に、当時警察庁長官だった國松孝次氏が拳銃で撃たれ、4月23日には麻原に次ぐ、実質的なナンバー2の立場にあった村井秀夫が刺殺。
國松長官狙撃事件に続き、事件のカギを握っていると見られていた村井の刺殺により、世間では警察に対する批判が一気に噴き出していた。
4月26日、オウムの教団施設である第2サティアンを捜索中の捜査員によって、オウム第二厚生省大臣を務めていた土谷と、土谷の上司にあたる第一厚生省大臣の遠藤誠一元死刑囚(以下、敬称略)も逮捕女性信者の監禁の関与などで逮捕された。
この二人の関係がのちに、オウム解体へと結びつく重要なカギとなった。
「重要な使命」を帯びた取り調べを担当した"伝説の刑事"
土谷の取り調べは、“オウムがサリンを製造したことを証明する”という重要な使命を帯びていた。その取り調べを任されたのが、大峯氏。1989年に連続幼女誘拐殺人犯・宮崎勤を自供させたことでも名を馳せた人物だ。
大峯氏は、いつも独特な方法で取り調べを行っているということで、番組MCの坂上忍が本人を直撃。
大峯氏の容疑者をいつも壁際に座らせる取り調べは、「気が反れないように、私に集中できるような位置関係」だからだという。
取り調べ室をイメージした部屋で、坂上がその席に座ってみると「景色が違う。隣が壁なので圧迫感と2人きりの感じが強まる」と驚いていた。
大峯氏の土谷に対する第一印象は「物静かで穏やかな男」だった。
取り調べでは、女性信者監禁については「指示に従って一緒にいただけ」と話すが、地下鉄サリン事件について尋ねると「黙秘します」の一点張り。「麻原の指示だったのか?」という問いには「呼び捨てにしないで頂きたい。“尊師”と呼んでください」と話し、大峯氏は土谷の麻原に対する信仰心は簡単に解けるものではないと感じたという。
裕福な家庭に生まれ、大学で有機化学を研究していたが…
1965年に東京・町田市の裕福な家庭に生まれた土谷。成績は優秀、スポーツも得意で人気者だった。筑波大学で博士課程に進むと、有機化学を研究した。
その頃、土谷は高校時代からの恋人とうまくいかなくなり、もだえ苦しみ、好きな漫画の1シーンを思い出して、体を傷つければ心の痛みを忘れると考え、試していたという。
その後、交通事故でむち打ち症を患い、オウムのヨガイベントに参加。ほどなくして、セミナーに通うようになり、シークレットヨーガと言われる個人面談で、初めて麻原との面会が許され、崇拝するようになった。
オウムの異常性に気付いた土谷の両親は、何が何でも脱会させるために、専門の施設に監禁。だが、翌月にオウムの教団弁護士が人身保護請求を行い、その隙に逃走してそのまま出家してしまった。
土谷の取り調べは、停滞していた。
土谷の逮捕理由は、女性信者を監禁した犯人の蔵匿。犯人に隠れる場所を提供したということだけで、大きな罪ではなかったため、拘留期間は最大でも20日間。
困窮の日々が続く中、ある男の供述で、事態が急変する。
5月6日、すでに逮捕されていたオウム幹部の一人、林郁夫受刑者がサリン事件の実行犯であることを突如認めた。あとは、オウムがサリンを作ったことを証明できれば事態を動かすことができる、そんな状態だった。
取り調べで麻原を「尊師」と呼び大きな勝負に出る
そこで、大峯氏は作戦を変更。取り調べでは麻原のことを「尊師」と呼ぶようにし、土谷が口を開くようになると、さらに大きな勝負に打って出る。
土谷に対して大峯氏は「オウムに対して内乱罪が適用される」という話を切り出した。
「内乱罪」とは、国家を転覆させるために暴動を起こす重大な犯罪のことで、当時の自民・社会・さきがけの連立政権の幹部らからオウムに対して、内乱罪を適用することを検討すべきという声が挙がっていた。メディアでも、地下鉄サリン事件が内乱罪に当たるのではという論調が巻き起こっていた。
そして「内乱罪が適用されれば、首謀者は死刑が適用される。今回の事件の首謀者は尊師。何も話さなかったら、尊師だけが死刑になる。お前の供述が必要だ。サリンの製造実態を教えてくれ」と大峯氏は土谷に訴えかけた。
そして、土谷はついに「私がサリンを作りました」とサリンの製造を認めた。
番組では、土谷の記した極秘資料を独自入手。そこには、サリンや多くの化学兵器製造の実態が克明につづられていた。そして、その資料を読み解いていくと、オウムの驚くべき真の姿があぶり出されてきた。
土谷の記したサリン製造工程の一部には、開発したナチスドイツでさえ、使用をためらったという極めて危険な毒ガス兵器も。民間で製造されたのは、歴史上オウムが初めてで、土谷の類まれなる能力によって実現したのだ。
製造には、土谷のほかに、麻原の主治医であり医学の知識を持っていた中川智正元死刑囚らが携わり、猛毒サリンは作られていった。
地下鉄サリン事件の1年前の、1994年12月12日には、オウムによって公安警察のスパイと勝手にみなされた会社員がVXガスで殺害された。世界で初めてVXガスで人が殺された事件だ。
VXガスとは、サリンの千倍の殺傷能力を持つという最強の毒ガスで、2017年2月に北朝鮮の金正恩委員長の兄・金正男氏の殺害にも使われたもの。
サリンの製造実態を明かした土谷と、サリンを撒いたと自白した林郁夫の供述を得て、警察は5月16日についに、麻原を逮捕した。
なぜ、"遠藤"だけは呼び捨てなのか…
さらに、大峯氏はサリン製造の実態に迫ろうとしていた。“サリンの指示をしたのは麻原”という供述を土谷から引き出そうとしていたが、土谷は「村井さんから言われた」の一点張り。
そこで、これまでの供述書をすべて読み返した大峯氏は、土谷が村井や中川のことは常に“さん”付けで呼んでいたが、遠藤のことだけはなぜか“遠藤”と呼び捨てにしていたことに気付く。
土谷が呼び捨てにする“遠藤”とは、オウムで生物兵器を担当していた幹部の遠藤誠一のこと。教団から命じられた生物兵器の開発に失敗し続けていたようだが、土谷より位は上で、上司だった。
刺殺された村井に責任を押し付けようとする土谷の突破口は、上司・遠藤の存在だと気づいた大峯氏。遠藤は、土谷と同じ研究者だが、研究者としての“才能”が決定的に違った。
サリン、VXガスなど、次々と毒ガス化学兵器の開発に成功していった土谷は、まさに化学の天才だった。それに比べて、遠藤は研究の成果を出すことが出来ず、部下である土谷との差は開くばかりだった。
獣医師の資格を持つ遠藤は、細菌の培養が専門ではなかった中、未遂に終わった亀戸異臭事件と呼ばれる“炭そ菌の培養の失敗”でプライドはズタズタに。
土谷に対する嫉妬と恨みの感情が膨れ上がる遠藤。一方の土谷も、手柄を横取りにされるなどの遠藤のやり方に憤慨し、取り調べの中で感情的になったという。
土谷の遠藤に対する感情を利用し、大峯氏は「サリン製造の指示」という確信に迫っていき、ついに土谷は「サリン製造の指示が遠藤からだった」と証言した。
もし、地下鉄サリン事件で撒かれたサリンの製造を指示したのが村井ではなく、遠藤であれば、それは麻原逮捕につながる重要な供述となる。教団ナンバー2の村井と違い、遠藤は独断でサリン製造を指示できる立場ではないため、遠藤が指示を出したということは背後で麻原が命じたことを意味する。
「私が作った完璧なサリンなら…」
そして、地下鉄に撒かれたサリン製造の実態が徐々に明らかになっていく。
オウムは1994年に土谷が作ったサリンで松本サリン事件を起こしていた。1995年の新聞によるスクープで、松本サリン事件とオウムの関係が疑われると、教団はそれまで作っていたサリンをすべて処分。
ところが、3月18日に捜査の手が迫っていることを知った麻原は幹部を集め、地下鉄サリン事件を計画して、遠藤にサリンの製造を指示。
地下鉄サリン事件まであと2日と迫る中、麻原の期待に応えるため、遠藤は土谷に協力を仰いだという。
土谷の中には、オウムという組織を守る気持ちや信仰心よりも、人間的で単純な遠藤への憎しみが勝っていたこと。それを突破口に土谷に迫った大峯氏は“サリンの製造は麻原の指示”という真実にようやくたどり着いた。
大峯氏が地下鉄サリン事件の被害について土谷に問うと、「もったいなかったなと思いました。地下鉄サリン事件で使われたのは遠藤の不完全なサリン。私が作った完璧なサリン、ピュアなサリンだったらあんなものじゃなかった」と話したという。
確かに、土谷が作り出した松本サリン事件で撒かれたサリンの威力は凄まじかった。密集した通勤ラッシュ時の地下鉄とは比べものにならないほど、人口密度が低く、その上、屋外からだったにも関わらず、8人もの死者を出した。
もし、地下鉄で撒かれたのが土谷のサリンだったら…。
一番の後悔は「遠藤を殴らなかったこと」
地下鉄サリン事件から5年。1999年5月18日の土谷の裁判は64回目を迎え、この日の証人は遠藤だった。法廷で、遠藤は土谷を挑発した。一方で、土谷も遠藤に対して怒り出し、憎しみを吐き出していた。
2003年7月2日、被告人質問最後の日。
土谷は裁判の中で「人生を振り返って一番後悔していること」を聞かれるとこう答えた。
「私が最も後悔していること、遠藤を殴らなかったことです。尊師は殴ってもいいから言いたいことを言えとおっしゃっていたのに、殴っておくべきだった。これが一番の後悔です」
あれだけの事件を起こした土谷の心を占めていたのは、遠藤への憎しみだった。
そして、2004年1月30日、土谷に対して死刑が言い渡された。サリンを撒いた実行犯ではなかったが、サリンを作ったことそのものが“犯罪の中枢を担った”と断じられた。長い裁判の間、土谷は遺族への謝罪はなく、麻原への信仰心を持ち続けていた。
麻原の裁判は8年に及び、不可解な言動を繰り返すようになった。“精神疾患”も疑われたが、土谷は麻原の精神疾患を信じていなかった。
法廷で暴かれたのは、自分たち信者のことなどまるで考えていない、宗教者としての尊厳など微塵も感じられない男の姿。土谷はそれに気づき、ようやく麻原の呪縛が解けていった。
2011年2月。事件から16年が経ち、最高裁で土谷の刑が確定。その直前、ようやく遺族や被害者への謝罪を表し、その手記を新聞社へと送った。
そして、2018年7月に麻原をはじめ、土谷、遠藤らの刑が執行された。
大峯氏は「オウム真理教の組織自体、階級制度になっていて、カルト集団であったにも関わらず、欺瞞や嫉妬、階級闘争、組織内の権力闘争、そこらにある集団と同じような一般的な集団でもあった。土谷も麻原の寵愛を受けたい、大事にされたい、こういった感情がありましたから、麻原のマインドコントロールが巧みであった。麻原がこれから神格化されると非常に困る。まだまだ、区切りはついていないと思います」と話した。
オウム真理教の今の姿とは…
日本を震撼させた地下鉄サリン事件から23年。
麻原の信仰から殺戮集団と化したオウム真理教の今の姿とは…。
サリンが作られることになったオウム真理教の教団施設「サティアン」。当時、上九一色村と呼ばれた場所は今はなく、白く特徴的だった建物もすべて解体された。
その後、同じ地区にテーマパークなどが建設されるも経営破たん。「サティアン」の跡地は、現在は公園となり、教団施設で亡くなった人たちのために作られた慰霊碑がひっそりとたたずんでいる。
オウム真理教という名の教団もすでに存在はしないが、オウムの後継団体として主流派のアレフ、分裂したひかりの輪、山田らの集団という3つの団体が公安調査庁の監視下に置かれている。
史上類をみない、凶悪な事件を起こしたオウム真理教。そして、殺人を救済という言葉にすり替え、大量殺戮の首謀者とされた教祖。死刑が執行されてもなお、崇拝をやめない信者たち、彼らは一体何を追い求め、何を思うのだろうか。そして、私たちはあの恐るべき事件から何を教訓にすべきなのだろうか。
「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54