日本のお坊さんもビックリ!お賽銭で潤っていた聖地の飛び地 カイラス山
旧ブータン領
17世紀 カイラス山一帯の霊場がブータンの支配下に置かれて飛び地となる
1959年 人民解放軍が占領し、飛び地消滅
ブータンから1000km近く離れたカイラス山やガルトク(左上)チベット高原の西の果てにある標高6656mの「カン・リンポチェ」ことカイラス山は、チベット仏教のみならずヒンズー教やジャイナ教、ボン教(チベットの伝統宗教)にとっても聖地。山を囲んでチイコルと呼ばれる1周52kmの巡礼路があり、宗教熱心なチベット人はご丁寧にも五体投地しながらここを何周もまわる。
で、カイラス山にはかつてブータンの飛び地があった。それを最初に世界的に明らかにしたのは、河口慧海という日本人のお坊さんだ。
河口慧海は幕末に生まれた禅宗の僧侶だが、漢文を読み上げるお経では信者にとってチンプンカンプンだと、口語訳のお経を作ることを決意。そのためにはお経の原典から翻訳し直すべきだと考えたが、インドではとっくに仏教が廃れているので、インド仏教の影響を残しているチベット仏教の修行をすることを決意し、当時鎖国状態だったチベットに潜入して、1900年に日本人として初めてラサを訪れた。この時ネパールからヒマラヤを越える4年がかりの旅の途中でカン・リンポチェにも立ち寄っているが、その著書『チベット旅行記』でこの山の支配権がブータンに属していて、寺の収入はすべてブータン国王に納められていたことを指摘している。
――その廻り道の東西南北の隅々に一軒ずつ寺がある。これを名づけて雪峰チーセの四大寺という。私は始めに西隅にあるニェンポ・リーゾンという阿弥陀如来の祀ってある寺に参詣しました。その寺がこの霊場では一番収入の多い寺で、日本でも阿弥陀様を祀ってある寺は収入が多うございますが、奇態にこのチベットでもそういう事になって居って大変な上り物です。僅か夏季三月の間にこの寺の上り物は一万円内外の物が納まるという。かかる霜枯れた土地としては非常の収入といわなければならぬ。それは皆ブータン国の王様に納めるのです。妙です。この雪峰チーゼという寺はすべてブータンの管轄地です。一体チベット法王の支配に属すべきものであろうと思うのに、その昔ブータンのズクパ派の坊さんがこの寺に関係が多かったものですから、そこでこの山の支配権がブータンに帰したものと考えられる。(河口慧海 『チベット旅行記(二)』 講談社 1978)日本の仏教に天台宗や日蓮宗などいろいろな宗派があるように、チベット仏教にも多くの宗派があるが、政教一致のチベットでは宗教権力=政治権力だから、宗派間の抗争は激しかった。チベット仏教の新教(ゲルク派)の法王だったダライ・ラマが、モンゴルの介入でチベットの政権を握ったのは1642年のこと。一方でチベットでの政争に敗れたドゥクパ・カギュ派の法王ンガワン・テンジン・ナムギュルがヒマラヤ山脈の南に逃れ、新たに建てた国がブータンの始まり。カギュ派はもともとチベット西部が拠点で、カイラス山の巡礼路沿いの寺院はすべてドゥクパ・カギュ派に属している。これらの場所はラダック王国(※)が確保し、ドゥクパ・カギュ派の法王へ寄進した。カイラス山一帯にブータンの支配が及んだのはそのためだ。※チベットの西の果てにあった国。1842年にカシミールのジャンムー王国に征服されて滅亡し、イギリス領を経て現在はインドが支配。1904年に出版された河口慧海『西蔵旅行記』の挿入地図には「タルチェン」の地名が・・・ブータンに属していたのはタルチェン、ニャンリ・コンパ(別名:チュク・コンバ)、デングマル、リンプン、ドバなど8つの寺や集落など合計約300平方kmで、カイラス山の巡礼路沿いや、西方のガルトクにかけて散在し、ドゥクパ・カギュ派の僧侶が統治していた。ガルトクはカシミールやラダックとの交易の中心で、1904年にはラサへ侵攻したイギリス軍がチベット政府と結んだ条約により、ヤートン(チベットとシッキムの国境)やギャンツェ(ラサとシッキムの中間の都市)とともに、イギリスの官吏や軍隊が駐屯した町だ。
その一方で、ブータンはチベットへ朝貢もしていた。日本人の密入国者であることがばれそうになった河口慧海が、ラサからシッキム経由でインドへ逃げる途中での記述によると・・・。
――その夜は、チョモ・ラハリという山際の、ラハムトェという貧村に泊った。この村はほとんど食物もなく政府へ租税を納めることが出来んで苦しんで居る者ばかりだそうです。ところがブータンからチベットへ貢物を納めるためにこの村に来て居る者がおります。ブータンは一体独立国であるがどういう関係かチベット政府に対し毎年幾分かの貢物を納めて居る。もっともブータンには国王はあるけれども国内は統一して居ないそうです。それゆえかある部落部落からチベットへ貢物を納めるだけで、一国の中央政府から納めるのではない。(河口慧海 『チベット旅行記(五)』 講談社 1978)当時のブータンはイギリスの保護国だったが、ブータンの村々がチベットへ朝貢している事実を根拠に、後に清朝を倒した中華民国はブータンの宗主権を主張したようだ。もっとも、内戦と抗日戦争に手一杯だった中華民国は、チベットにすら宗主権を十分に行使し得えない状態だった。そして戦後、中華人民共和国が成立すると、本格的なチベット支配に乗り出し、1951年には人民解放軍をラサに進駐させる。もっともこの時は現代の中国式に言えば「一国二制度」を実行して、ダライ・ラマを頂点としたチベット政府はそのまま存続し、チベットは自治を続けていた。しかし59年のチベット動乱で人民解放軍はチベット全域を占領し、ダライ・ラマはインドへ亡命。チベット政府は解体された。
中華人民共和国はブータンの宗主権は主張しなかったが、カイラス山一帯の8ヵ所をブータンの領土とは認めなかったので、チベット動乱の際に他の地域と同様に占領。これに抗議してブータン政府はチベットとの国境を封鎖した。47年にインドがイギリスから独立した際に、ブータンがイギリスと結んでいた保護条約はインドに引き継がれ、ブータンの外交はインド政府が担当することになっていたので、インド政府は飛び地占領について中国政府と交渉を求めたが、中国側は「中国とブータンの問題であって、インドと話し合うつもりはない」と門前払い。61年にはブータンの北部国境をめぐっても中国と対立することになった(※)。
※中国とブータンとの国境をめぐる対立は、62年の中印国境紛争の要因の1つにもなった。この紛争は人民解放軍の圧勝に終わり、ヒマラヤ山麓ではインド軍を撃破した後で撤退したが、チベットと新疆を結ぶ道が通っていたカシミールの東北部(アクサイチン地区)を確保し、インドに認めさせた。この時ブータンは中立の方針を採った。その後中国とブータンは1998年に、中国・ブータン国境地帯の平和と安定を保つ協定(人民日報日本語サイトによる訳)を結んで国境線を画定。ブータンは正式にカイラス山一帯の飛び地を放棄したようだ(※)。
カシミールの地図※「もう1つの中国」つまり台湾政府(=中華民国)は、現在もブータン北部の領有権を主張している。こちらの地図のピンクの部分がそれ。そういえば、ブータンは世界で唯一チベット仏教を国教にしている国ですが、ダライ・ラマはブータンを亡命先には選びませんでした。チベット仏教と言っても宗派が違って対立していたことがあったし、なによりブータンへ亡命したところで、資金援助は望めないでしょうからね。★ネパールにあったブータンの飛び地:スワヤンブーナート寺
カトマンズ市内の観光マップ。Swyambhuがスワヤンブーナート寺ネパールは国民の90%がヒンズー教徒で王朝もヒンズー教だが、西北部の山岳地帯にはチベット人が住み、チベット仏教はおろかチベットでは何百年も前に途絶えてしまった白ボン教(仏教化したボン教)や黒ボン教(古来のボン教)の村もある。チベット文化の中心地はやはりラサなどのチベット中央部なので、チベット文化圏で「辺境の地」に当たるネパールでは、古い宗教文化が残っているというわけで、チベット仏教もネパールでは旧教が中心だ。
さて、現在の王朝はインド・アーリア系のグルカ人(ゴルカ人)が、1769年にそれまで3王国に分裂していたネパールを統一して成立したものだが、チベット仏教にも敬意を払い、カトマンズのスワヤンブーナート寺などをブータンの法王へ寄進した。チベットの法王であるダライ・ラマに寄進しなかったのは、もちろん宗派が違ったから。
こうしてスワヤンブーナート寺はカイラス山の寺同様にブータンの飛び地となったのだが、1854年から56年にかけてネパールとチベットの戦争が起こると(※)、ネパールは「ブータンはチベットを支援した」と言い出して、寺の支配権を接収したのでした。
※河口慧海によれば、ラサのネパール人商店で万引きの疑いをかけられた女性が服を脱がされて調べられ、それを目撃した僧侶たちがネパール人の経営する店を次々と襲撃した事件が戦争の発端。この戦争はネパールの勝利に終わり、チベット政府は賠償金を支払った。
●関連サイトカイラス巡礼 カイラス山一周の巡礼コースの案内。カイラス山周辺の地図もあります。
中国 チベット必見 カイラス巡礼 カイラス山の巡礼路についての詳しい案内
パヤンからタルチェンへ 現在のタルチェンの写真があります
河口慧海コレクション 東北大学の博物館のサイト。河口慧海がチベットで収集してきた資料が閲覧できます
河口慧海師を訪ねる旅 ネパールの山奥の村に河口慧海記念館があるとか
エナン・ラ これまで謎とされてきた河口慧海がネパールからチベット入りしたルートを検証。でも最近発見された慧海の日記によるとエナン・ラ峠ではなくクン・ラ峠だったとか
ラウンド・スワヤンブー スワヤンブーナード寺の境内の地図
旅行記 スワヤンブーナード寺の写真があります。あぁ、この「目玉の寺」ってカトマンズのシンボルでしたね
参考資料:
河口慧海 『チベット旅行記』(一、二、四、五) (1978 講談社)
『現代地図帳 三訂版』 (二宮書店 1979)
平松茂雄 『中国人民解放軍』 (岩波書店 1987)
レオ・E・ローズ 乾有恒・訳 『ブータンの政治』 (2001 明石書店)
ダライラマ法王日本代表部事務所 http://www.tibethouse.jp/cta/index.html
人民網日文版 http://j1.people.com.cn/
Twujiche http://www2.tokai.or.jp/Twujiche/index.html
Bhutan country studies http://www.country-studies.com/bhutan/
BoundaryPoint http://groups.yahoo.com/group/BoundaryPoint/message/6903?viscount=100 (仏語)
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