永井均の著作三冊:『子どものための哲学対話』・『翔太と猫のインサイトの夏休み』・『私・今・そして神』
Posted on 2015.01.16 Fri 02:38:42 edit
子どものための哲学対話 (1997/07/23) 永井 均、内田 かずひろ 他 商品詳細を見る |
子供から〈子供〉までの超難問集。
小学生でも読める。
でもわからないかも。
大人でもね。
いや、大人だからこそかな。
本書は何よりも
〈子供〉のためのものだ。
※引用ページは、文庫になる前(哲学本が文庫になるってすごいと思う)のハードカバー本のものです。
永井均,内田かずひろ 『子どものための哲学対話』講談社,1997
※講談社文庫版発売日 2009/08/12
子どものための哲学対話 (講談社文庫) (2009/08/12) 永井 均、内田 かずひろ 他 商品詳細を見る |
二人の人がそれぞれ一つの穴を掘っている。
Aさんが掘っている穴Aの傍には「ボクは今 世の中のためにあなを掘ってます」と書かれた看板がある。
Aさんは、「ヘイ! どう!? ボクのあな!! かんそうおまちしてまス」
と外の人に言ってます。
一方、
穴Bの側には看板が立っていない。穴Bを掘っているBさんは、外に一切話しかけず、「ああ あなをほるのはたのしいな」と心の中で思いながらニコニコして穴を掘っている。
Aはネクラ
…表面的な明るさや暗さではなく「根」が暗い。外部に意義を求める、他人に認めてもらわなくては満たされない人。それが下品ってこと。
Bはネアカ
…いつも自分の中では遊んでいる人。「根」が明るい。なにかの目標のために努力しているときも、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人。
根本的に、自分自身で充ち足りていて、意味のあることをしていなくても、他人に認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで充ち足りている。
それが上品ってこと。
根が明るくて上品な人が、自分の遊びのために他人を酷い目に遭わせることは勿論ある。あまりないが、絶対ないとは言えない。
上品な人は道徳的な善悪なんてあまり重視しないから、けっこう平気で悪いとされていることができる。
逆に、下品な人は、道徳的な善悪を重視しがち。なぜなら、自分の外側にしか、頼るものがないから。
それなら、上品な人があまり悪いことをしないのはなぜか。
将棋で例えよう。
上品な人は、勝つという結果が絶対に大事ではなく、勝とうとしながら将棋をするという「過程自体」が大事だから。それが将棋が遊びになったということ。達成目標第一主義ではないってこと。
だから、インチキをしてでも勝つってことはしない。インチキをしてでもわざと負けることはあるかもしれないけど。
下品な人が上品になったり、上品な人が下品な人になったりすることはもちろんありうる。
第一章 8 こまっている人を助けてはいけない?
ぼく:こまっている人や苦しんでいる人がいたら、やっぱり助けてあげなくちゃいけないよね? 助けてあげるべきだよね?
ペネトレ:いや。こまっている人や苦しんでいる人を、やたらに助けちゃいけないよ。そのときかぎりの単純なこまりかたの場合ならいいよ。たとえばけがをしたとか、さいふを落としたとかね。でも、もっと深くて重い苦しみを味わっている人を助けるには、きみ自身がその人の苦しみとおなじだけ深く重くならなくちゃならないんだ。そんなことは、めったやたらにできることじゃないし、できたとしたら、きみの精神に破壊的な影響を与えることになるんだ。もし、「きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことができる可能性がある。」そういう場合だけ、相手が助けてもらったことに気がつかないような助けかたができるからね。
ぼく:なんだかむずかしいはなしだな。
ペネトレ:そんなにむずかしいはなしじゃないんだけど……。じゃあ、これだけ覚えといてくれよ。自分が深くて重くなったような気分を味わうために、苦しんでいる人を利用してはいけないってこと……。“p.30‐31
※「」内は原文では太字
p.31の三コマ漫画
男の子
「どうしたの!? しょんぼりして…」
女の子(泣いている)
「あした えんそう会なのにワタシのクラリネット
“ド”と“ミ”と“ソ”と“ラ”の音が出なくなったの」
男の子
「ちょうどよかった
ボクは“レ”と“ファ”と“シ”の音が出なくてこまってたとこなんだ
協力してくれないかい」
二人ともクラリネットを楽しそうに演奏しています。
その光景を、ぼくとペネトレがにっこりして見ています。
※“”は原典では傍点
破れ鍋に綴じ蓋。
第一章 10 学校には行かなくてはいけないか?
“ぼく:猫はいいなあ。学校に行かなくてもいんだから。
ペネトレ:どうしてきみは、学校に行かなくちゃいけないんだい?
ぼく:だって、お父さんもお母さんも先生たちも、みんなそう言っているよ。
ペネトレ:世の中のいろんなことにはね。公式の答えというものが用意されているんだ。世の中をこのままちゃんと維持していくためには、どうしてもみんなにそう信じてもらわなくちゃこまるってことなんだよ。そういうものを、すこしも疑わずに信じられる人のほうが、うまく、楽しく生きていけるんだけどね。でも、もしどうしても信じられなかったら、無理はいけないな。
ぼく:信じなくてもいいってこと?
ペネトレ:小さい集団にはその外というものが必ずあるからね。外に出ればいいんだ。どうしても学校になじめなければ、行かなければいい。でも、死なないかぎり、この世の中そのものの外に出ることはできないな。『だから、世の中そのものが持っている公式の答え、世の中が成り立つためにどうしても必要な公式の答えは、受け入れなくちゃならないんだ。』すくなくとも、受け入れたふりをしなくちゃならないんだ。それさえどうしてもいやなら、死ぬほかない。あるいは、殺されるほかはない。
ぼく:殺される?
ペネトレ:たとえば、きみがもし人を殺してはいけないという世の中の常識をどうしても受け入れられなくて、受け入れているふりをすることさえもできないなら、そのことで、きみは殺されることになるかもしれないよ。きみの考えをきみ自身に適用することで、世の中はきみに復讐をするのさ。
ぼく:それって死刑ってこと? じゃあ、死刑は必要なの?
ペネトレ:刑務所の中で生きているのでは、世の中の外に出たことにならないとすればね。”
p.35-36
※『』内は原典では太字
言葉の意味は必要から変わる
気が置けない
気を許せない、信用できない
気を使わずに、遠慮なくつきあえる
情けは人のためならず
他人に情けをかけることは、情けをかけられたその他人のためにならない
他人に情けをかけることは、情けをかけた自分のためになる。
通用している意味(建前、つまり嘘なので、ほとんどの人が表だって公言する意味)
他人のためという利他主義を根拠にして他人に同情しないことをすすめる。
(四の五の言わずに助けろよ!
めんどくさがってんじゃねーぞ!
他人に情けをかけるなって言ってるが、本当は単に他人を助けるのが面倒なだけだろうが!
と言いたい人がいそうですねー
ウルトラマンとかエミヤとか上条さんとかね)
本当の意味(ほとんどの人が表だって公言しない意味)
自分のためという利己主義を根拠にして他人に同情することをすすめる。
他人を助ければ、自分を誰かが助けてくれるから結局、得をする。
「本当の(もともとの)意味を隠すように、新たな公共の意味が発明される」。
圧倒的な多数派に支持されたから正しい意味になったのではない。
それが必要だったから圧倒的な多数派に支持されるようになったはず。
もっとも、そのこと自体が、圧倒的な多数派の支持があったあとで、はじめてわかることだ。
元気が出ないときどうすればいいか
気分や感情は無理に抑え込もうとすると心の中でくすぶり続けるから、ただ忘れるのが一番いい。
でも、嫌なことほど、心の中で反復したくなるし、嫌な感情ほど、それに浸りたくなる。その嫌なことを忘れてしまうと、自分にとって何か重大なものが失われてしまう気がしてしまう。
嫌なことは、何かで埋め合わせしたいと思うから。
どうしたらいいのか。
不愉快な気分や嫌なことを自分で上手く処理する方法を身につけている人が、本当の意味で大人。
じゃあ、子どもでもできるやりかたは?
ヒントだけ。
1、元気が出ない本当の原因や理由を、一度徹底的に考え直してみる。理由や原因を曖昧にしておいては駄目。できたら紙などに書いてみたり、パソコンでワードなどに打ってみたらいい。対策もかきだす。
すべて考え出したと思ったら、そこで考えるのをやめる。できる対策はこれから実行していくことにして、どうしようもないことは諦める。
2、もうそのことは繰り返して考えないことにする。そして、なんでも良いから他のことに没頭する。別の喜びを見出す。今問題になっていることと関係ない遊びをはじめる。
3、時間が経つのを待つ。時が解決。
原因を考えてわかれば不安も解消されます。
1と2はさまざまな場合に有効。
ある感情が沸き起こって来た原因をよく理解すると、その感情が薄れたり消えたりすることがある。頭でよくよくわかれば、心のもやもやも消える。
いやな奴がいやな奴にならざるをえなかった必然性=原因、がある。
心理学を学ぶのも手ですね。これはこういう法則にもとづいているなー。実例が目の前にあるなー、とか思ってたら、冷静でいられますからね。
「強さ」について
一生懸命やっても上手くいかなくってがっかりしたり後悔したりする。
でも、そういうことは結局、そうでしかありえなかった。人為だけではできないことはもちろんある。
そうでしかありえなかったのだから、それでいい。そう、自分に言ってやらないと。くよくよ悩む必要なんてぜんぜんない。
誰かがそう言ってなぐさめてくれれば、安心できるのですがねー。
そう思うなら、あなた自身が、自分で自分がいいと思えずになやんでいる人に向かって、そう言ってやればいい。いや、ただ言ってやるだけじゃなくて、本気でそう思えるようになればなおいいね。
あのありかた、そのままでいいんだってね。
あなたがそう心から思えるってことが、その人にとってものすごく力になると思うよ。
誰かがぼく自身にも言ってくれるかな。
誰も言ってくれないさ。他人からそんなこと期待しても駄目だよ。
自分の場合は、自分自身で「これでいいんだ」って思わないと。
ほんとうにそれができることが「強い」ってこと。
でも、
たとえきみがそこまで強くなれなかったとしても、ひとにそう言うことなら、簡単にできる。
言うだけじゃなく、本気でそう信じることだってね。
人はみな、肯定を望んでいる。
何かを失っても、その人自体はありのままにそのままです。
第2章 6 友だちは必要か?
“(前略)
いまの人間たちは、なにかまちがったことを、みんなで信じこみあっているような気がするよ。それが、いまの世の中を成り立たせるために必要な、公式の答え(…)なんだろうけどね。でも、その公式の答えは受け入れないこともできるものだってことを、わすれちゃいけないよ。
ぼく:猫のことは知らないけど、人間は、自分のことをほんとうにわかってくれる人がいなくては、生きていけないものなんだよ。
ペネトレ:そんなことはないさ。そんな人はいなくたって生きていけるさ。それが人間が本来持っていた強さじゃないかな。ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることが、いちばんたいせつなことだっていうのは、いまの人間たちが共通に信じこまされている、まちがった信仰なんだ。
ぼく:そんなことを言ったのはペネトレだけだよ。
ペネトレ:『人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。』
そして、友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?
ぼく:そんなはなしは、はじめて聞いたよ。“
p.62-63 ※『』内は原典では太字
友だちの基準ってなんだろう?
知り合いとの違いは?
いやなことをしなければいけないとき
1、そのことが正当なこと、すべきことであることを自分に言い聞かせる。
それが終わったら
2、じゃあやろうかな、と思って、ちょっと待っている。力を抜いて。そうすると、すーっと、ふと、やれるときがくる。
その時が来るのをただ待つ。大切なのは、不図=意図なしに、やってみること。
なれてくれば、人生全体をふと生きることができるようになってくる。
そして、人生全体から小さな作為をすこしずつ取り去っていく。そうすると最後には、いやなことなんて、なくなっちゃうさ。
勉強や仕事などいろいろ
まずやりはじめてみる。なにかをやりとげようとしないで、ただやりはじめる。はじめるだけでいいって考える。
ふと続けていく。
やめかたのコツは、なんとなく調子が出てきて、もっと続けたいと思うところでやめる。
一区切りついたところでやめると、あとでまた続けるのに力が必要なので、わざと区切りをつけずに持続力を残しておく。
勉強は、人生を遊ぶためにする。
将来遊ぶより、いま遊んだほうがいいいのでは?
ちゃんとした人=自分の未来のために自分の現在を犠牲にできる人
どうしようもないやつ=自分の現在のために自分の未来を犠牲にしちゃう人。
善人=他人のために自分を犠牲にできる。
悪人=自分の為に他人を犠牲にしてしまう
善人や悪人になれるのは、ちゃんとした人だけ。
どうしようもないやつは、ちゃんとした悪人にさえなれない。
善でも悪でもなく中立な人はどんな人なんだろう?
ネクラや下品な人がちゃんとした人になるためには、なにか人生全体に対する「理想」のようなものが必要。そういうものをどっかから借りてきて、その理想の観点から見て、いまやってることに意味があると自分に言い聞かせなければならない。
ネアカや上品な人は、そんな理想は不必要で、未来の遊びのための準備それ自体を現在の遊びにしてしまう。他人のための奉仕を、自分の娯楽にしてしまう。
うまく眠るこつ
人間がするたくさんのことのうちには、自力で絶対に実現できないことがある。眠ろうとすることはできても、あとは待つしかない。
自分で何かをやろうとしたらかえって妨げになる。
眠れなくていいんだと信じこまないと。
眠る時にだけ使えるいいやりかたを紹介。
眠るとは、別の世界に入ること。起きている時の世界を忘れること。ただ忘れることは、ただ待つことよりも難しい。
だから逆に、眠ってから入る世界のほうをあらかじめ自分で作ってしまうほうが簡単。夢の世界を勝手に作ってその世界の中で生きている気になっちゃうのさ。それが完璧に成功したときあなたはもう眠っている。
羊を数えても効果ないよ。英語だとsheepがsleepを連想させるけど日本語じゃあ無理だから。
青い鳥はいつ青くなったのか?(1)
“答えはね、「あとから青く変わった」でもなければ、「もともと青かった」でもなくて、『「<もともと青かった>ってことにあとから変わった」』なんだ。”
p.83 ※『』内は原典では太字
×青くない→青
×青→青
○「どっちか不明」だけど青かったことにしとこう→(今も)青(だということにした)
ものは見えるからあるのか、あるから見えるのか?
“物はたんに「見えるから存在する」のでもなければ、たんに「存在するから見える」のでもなくて、『「<存在するから見える>というように見える」』ってことになるんじゃないかな?”
p.86 ※『』内は原典では太字
×見える=原因→存在する=結果
×存在する=原因→見える=結果
○「どっちが原因で結果か不明」
泣くから泣き虫なのか、泣き虫だから泣くのか?
“たんに「しょっちゅう泣くから泣き虫」なのでもなければ、たんに「泣き虫だからしょっちゅう泣く」のでもなくて、『「しょっちゅう泣くから<泣き虫だからしょっちゅう泣く>」』ってことなんでしょ?”
p.89 ※『』内は原典では太字
自殺に成功すると、「あいつは自殺したかった」と判断される。
自殺に失敗すると、「あいつは“本当は”死にたくなかった」と判断される。
“本当は”は本人のみぞ知る
天才だとか、成功したのは努力が報われただとか当て嵌まる例はいろいろありそうです。
青い鳥はいつ青くなったのか?(2)
“(前略)
ペネトレ:たとえば、人にうまくだまされたりして自分は幸福だと思いこんでいた人が、だまされていたことに気づいたとき、そのとき不幸になるんじゃなくて、もともとほんとうは不幸だったって思うようになるだろう? つまり、たんに「気づいたときに不幸になった」わけでもなければ、たんに「もともと不幸だった」わけでもなくて、「気づいたときに<もともと不幸だった>ことになった」ってわけだ。「青い鳥」の場合はどうだろう?
ぼく:そうか、「青い鳥」の場合はその逆なんだ! 『子どもたちは、そのとき幸福になったわけでも、もともと幸福だったわけでもなくて、そのとき<もともと幸福だった>ってことになったわけだ。』”
ペネトレ:だから、幸福だと思ってはいなくても、ほんとうは幸福だったってことは、ありうることになるね。
ぼく:ほんとうは幸福だったってあとから思うってことが、でしょ? それって、ほんとうに、ほんとうは幸福だったってことなのかな?“p.92‐93
※『』内は、原典では太字
人生体験マシンで幸福な人生を体験している人は、幸福なはずです。なぜなら、その中にいる人は「外」なんてものは認識できませんから。
しかし、人生体験マシン内の「私」と人生体験マシンを使用している「私」は違う存在なのでは?
クジラは魚である!
“ペネトレ:クジラは魚のように見えるけど、ほんとうは哺乳類で、魚じゃないってはなし、聞いたことある?
ぼく:もちろんあるよ。クジラは、魚のようにえらでじゃなくて肺で呼吸するし、魚のように卵の形で子どもを産むんじゃなくて、クジラの形で産むんだよ。それで、産まれてきた子どもは水中で母乳を飲んで育つんだ。だから、クジラは魚のように見えるけど、ほんとうは哺乳類で、魚類じゃないんだよね?
(…)
ペネトレ:つまり、『そういう点ではクジラはどうしても哺乳類のように思えちゃうけど、肝心な外形や生活環境が魚みたいだから、ほんとうは魚なんだ』って言ったら?”
ぼく:なんで外形や生活環境のほうが肝心なのさ?
ペネトレ:そんなら、なんで内部のしくみのほうが肝心なのさ?
ぼく:だって外形のほうがだいじなら、ほんものと見分けがつかないようなにせもののダイヤモンドは、ほんもののダイヤモンドだ、ってことになっちゃうよ!
ペネトレ:そうなんじゃない? とくに宝石なんて、見かけの美しさこそがいちばん肝心なんだから。内部構造はぜんぜんちがうけど、いちばん肝心な見かけがおなじだから、『ほんとうは』ダイヤモンドなんだ、って言えると思うよ。
ぼく:そんなの、なんかおかしいよ。
ペネトレ:それはきみが科学に洗脳されているからだよ。科学っていうよりもっと根本的な、ある種のものの見かたにだな。見かけや外形の奥にかくれているものこそが、その物のほんとうの姿である、っていうような。
ぼく:そうじゃないの?
ペネトレ:それは、ひょっとしたら、奥にあるものを知っている人が知らない人たちに対して権力を持つために作り出した作り話だったんじゃないかな? みんな、うまくだまされちゃったのかもしれないよ。
ぼく:まさか!
ペネトレ:でも、分類のしかたによってはクジラは魚でもあることは、たしかなことだよ。外形や生活環境よりも内部のしくみを重視するって前提があってはじめて、クジラはほんとうは魚じゃないなんて言えるんだ。じゃあ、なぜ内部のしくみのほうを重視するのかっていえば、それはぼくらがそういう文化の中に生きているから、としかいいようがないんだよ。いつか人間たちが、クジラはやっぱり『ほんとうは』魚だったって思うようになる日がくるかもしれないんだ。“
p.94‐97 ※『』内は原典では太字
科学は、構造や構成要素や因果関係を解析するのが目的ですから、ものの内部が本質だと考えますからね。
むしろクジラが哺乳類ってことは、「教えられなければわからない」ので、
人間の自然な感覚からしたら不自然で、魚だという認識の方が自然でしょう。
その教える側の教師や教科書だって、クリスチャンで白人の銀行家(金の支配者)と銀行家を手先として使っている王侯貴族たちが都合よく決めるのですから。
あとダイヤモンドの話ですが、違いが分かる人が存在しなければ、本物も贋物もありませんから。
目利きがいなけりゃみーんなモノホンってこった。
厳密にはな、パチモン・ホンモン自体が成立せーへんねんけどな。ナンセンスや。
8 地球は丸くない!
ぼく:地球が丸いってことも、太陽のまわりをまわっているってことも、『発明された』の?
ペネトレ:そうさ。でも、地球は丸いのに、どうした下のほうにいる人が落ちちゃわないんだと思う?
ぼく:そりゃあ、引力があるからじゃん!
ペネトレ:でも、引力って引っぱる力だろ? そんなものがあるんなら、もっと地面に引っぱられているような感じがするはずじゃないかな? どうして引っぱられて、はりついているような感じがしないんだろうね?
ぼく:たしかに、そんな感じはしないけど……。
ペネトレ:だから、ほんとうは、ぼくらは引っぱられてなんかいないんじゃないかな? 『引っぱられるっていうのは、この地面の上にいて、ひとに腕を引っぱられたりするときの、あの感じについてだけ、言えることなんじゃないかな?』
ぼく:じゃあ、引力はないって言うの?
ペネトレ:引力がないだけじゃなくて、地球が丸いっていうのも、ちょっとあやしいな。
ぼく:どうしてさ!?
ペネトレ:丸いっていうのは、この地面の上にある、スイカとかボールとかについてだけ、言えることなんじゃないかな?この地面が球体であるって考えたとたんに、ぼくらは地球というものを、この地面のことじゃなくて、この地面の上のほうにある巨大なボールのようなものだと考えてしまっているんじゃないかな?その証拠に、地球は丸いのに下のほうにいる人が落ちないのは引力があるからだ、なんて考えてしまうだろう?
ぼく:どこがいけないのさ?
ペネトレ:地球には「下のほう」なんてないはずだからだよ。でも、ぼくらは上下のある絵しか描けない。できるって言うんなら、上下のない地球の絵を描いてごらんよ。世界地図だって、地球儀だって、星座早見盤だって、必ず上下がある。それはつまり、地面の上に乗っているってことだよ。だから、ぼくらが住んでいるとされる地球という名前の惑星をふくめて、ほんとうは、すべてのものが、この地面の上にあるんじゃないかな?
ぼく:ペネトレ、それ本気で言ってるの?!!!”p.100‐102
※『』内は原典では太字
物理法則という客観的だとみなされている(この法則の観測は主観的になされる)のですが、結局のところ、人間の肉体的制約や生活様式の前提に縛られます。
肉体的制約とは、左右対称、上下非対称などで、
生活様式の前提とは、重力下で生活(頭は上、足は下)などです。
地球上にいる時、われわれにとっての地球とは地面のことであり、そこから逃れられないのです。
仮に、人間の体が完全な球体だとすれば、文字は左から右へだとか、その逆だとか、縦書きだとか、横書きだとか、という概念が生まれるか?
などなどさまざまな思考実験ができますな。
森博嗣『笑わない数学者MATHEMATICAL GOODBYE』文庫版
にある鏡に映ると左右は入れ替わるが、上下や前後は逆にならない理由↓
「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」(…)
「定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ」
「待って下さい(…)鏡の映像に……、そんな、人間の考えた定義が関係するのですか?あれは物理現象であって、人間の言葉には関係がないと思いますが……」
「いいえ、我々は、ものを定義して、それを基準に観察するんですよ。
(…)僕たちに、顔がなかったとしましょう。そのかわりに、片手だけが大きくて、バルタン星人のようにハサミがついているとします……。この場合……、ハサミのある大きな手が、右と定義される。顔がないから、前後の定義が相対的なものになります。つまり、上下と左右が定まって、初めて前後が決まることになります。この顔なしバルタン星人が、鏡を見たら、前後が逆になりますよ。良いですか?ハサミの方の片手を挙げて、鏡を見てみましょう。鏡の中の自分も、やっぱりハサミの手を挙げているでしょう?つまり、左右は入れ替わっていない」
(…)
「それでは……、こういう説明ではどうでしょう。右と前、左と後ろ、この言葉を入れ替えて使う国があったとしましょう。その国では、右という言葉は前のことです。左という言葉は後ろのことです。顔がある方が右、背中が左です。さて、この国では、鏡を見て、左右が入れ替わるでしょうか?」“p.433‐435
ぼくが生まれるために必要なこと(2)
“ペネトレ:まだ人間のいない世界を考えてみよう。そこで神さまが五人の人間を作るとする。もちろん、それぞれ顔かたちも性格もすべてちがう五人だよ。さて、そのとき、ただたんに五人のちがう人間が作られるだけじゃなくて、その五人のうちに自分というものがふくまれているためには、神さまは、それぞれ個性を持った五個の肉体と精神を作る以外に、なにをしてくれればいいのだろう?
ぼく:自分って、このぼくってこと?
ペネトレ:そうだよ。でも、その世界には、まだ、きみというものは一度もあらわれたことはないんだ。そのとき、神さまがいまのきみのような肉体と精神を作ったとしても、そいつがきみになるかどうかはわからない。どれかひとりがきみであるためには、なにが必要だろう? 神さまは、なにをしてくれればいいんだろう?
ぼく:五人のうちのひとりがぼくであるためには、神さまが五人に、それぞれちがった肉体と精神を与えるだけじゃ、足りないね。それだけじゃ、五人がそれぞれみんな平等に、それぞれの個性を持ったそれぞれの自分である、ってことにしかならないからな。その中のひとりだけが、ぼくであるという特別のありかたをするためには、肉体や精神のもつ個性とはちがったなにかが必要だな。
ペネトレ:しかし……、そのなにかを与える能力が、神さまにあるだろうか?全能の神でも、その能力だけはないんじゃないだろうか?
ぼく:どうして?
ペネトレ:もし、「その五人のうちのひとりがなぜかたまたま自分だったとしても、そんなことはなかったとしても、神さまには、そのちがいを見分けることができない」からだよ。だって、その二つの世界は、五人のうちに自分というものがふくまれているかいないかという点以外は、まったくおなじ世界なんだから。
ぼく:見分けることができないんだから、作りわけることもできないってこと?
ペネトレ:神さまにできることは、さまざまな心や体を持ったさまざまな人間を作ることだけなんだ。
ぼく:その中にぼくがいるかどうかは、神さまにとっては、なんのちがいもないのか……。つまり、神さまは、ぼくが存在していることを知らないんだ。だから、神さまは、ぼくのような人間を作ることはできても、ぼくというものを作ることはできないのか……。”p.110‐113
※「」内は原典では太字
宗教における死後の世界を「生きている」人間にわかるはずがない。
全部嘘っぱち。
あるいは錯覚。
“ぼく:夢の中では夢の外のことを考えられない?
ペネトレ:夢の中で、自分はいまふとんの中で眠っていて、夢を見ているだけだ、と思ったとしても、そういう夢を見ているだけのことだろう?夢の外のことを考えたことにならないだろ。それとおなじように、きみが中心にいるこの世界の中で、きみ自身が消滅することを、どんなに考えようとしても、それはどうしても、この世界の中で起こるひとつの出来事になっちゃうんだよ。それから、夢なら、逆に、さめてからその夢の中のことを覚えているから、夢の外からその夢について考えることはできるんだけど、人生の場合はそれもできない。死んでから生きていたときのことを覚えていることはできないからね。だから、人生は、さめたときにはけっして覚えていられない夢みたいなものさ。
ぼく:死後の世界はないの?
ペネトレ:だから、考えることができるきみの死後の世界というのは、すべて錯覚なんだ。そういう意味で、死後の世界というものはありえないんだよ。死ぬっていうのは、すべてが終わることなんだ。それなのに、生きているうちは、そういうすべての終わりであるような死について考えられないから、だから、そういう錯覚が起こるんだよ。
ぼく:死ねばすべてが終わるのか……。
ペネトレ:世の中がきみに与えることができるいちばん重い罰は死刑だね? 死刑以上の重罰はないだろ? ということはつまり、世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。「認めざるをえない」のさ。“
p.116‐117
※「」内は原典では太字
死を恐れない存在ほど怖いものはない。
目的しかないから。
未来を対価にして現在における強さを手に入れる。
翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫) (2007/08) 永井 均 商品詳細を見る |
“精神病院で自分はナポレオンだと信じてる患者がいた。
あるとき、医師が
「なぜキミは自分がナポレオンだと主張するんだ」
と訊くと、その患者は、
「神様がおまえはナポレオンだと言った」
と答えた。
すると、すぐそばにいたべつの患者が怒った顔でこう言った。
「おれはそんなことを言った覚えはない!」
” http://koee.net/1096
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』を参考にして、
主に言語を学べる条件について考える。
実は、『ロボット』とか『人間』とか『黒』とか『痛み』などの言葉の意味を習得しつつある子供には、人間がロボットに見えるとか、黒が白く見えるとか、痛みが眠気に感じられるとかを主張する権利はない。
意味が固定=基準が決定、された後にはじめて事実に関する極端な主張ができるようになるのであって、意味を学びつつある段階では、誰もが凡人。
なぜなら、
人間=ロボット、だと認識している人が、
人間がロボットに見える=人間とロボットは一般的には別物である、と言えるはずはないから。
子供のころから汚水をきれいだと感じて、浄水をきたないと感じる人がいたとすると、その人は『きれい』や『きたない』の言葉の意味を学べない。
なぜなら、私たちは言葉の意味を「実例を通じて学ぶので、最初から多数と判断が一致していないと、そもそも意味を学ぶことはできない」から。
つまり、感じていること、考えていることなどが同じ(あるいは「ほぼ」同じ)だという前提のもとで、はじめて意味を教えたり学んだりすることが可能になる。
例えば、日本語が母国語の人が、マレー語をまったく知らずにマレーシアに行ったとしても、その人は少しずつわかるようになっていくだろう。
なぜなら、なんとなくわかることがあるから。
自分を指差して何かを言ったら自己紹介をしているのだろう、
自分以外を指差して何かを言ったら指差されたものについて何か言っているのだろう、といったことなどだ。
ではなぜ、「何かを指差して何かを言ったら、その言った内容は指差したものに関係しているはずだ」って思うのか?
まさにそこがキモ。
要は、相手がこちらが予想できることをしてくれないと、相手の言葉は絶対に学べないということだ。
そうでないと、相手の話している内容を推測して、自分の言葉(おそらく母国語)にあてはめて理解し学んでいくことはできない。
他にも言語を学ぶ前提はある。
相手が言っていることの意味がわかるようになっていくためには、相手が、(こちら側の基準で)まともでありふれた存在でないといけない。
そうでないと予想すらつかない。
相手がほとんど正しいことを言っていると前提しないとどうしようもない。
皆が真理を語るとは限らないが、相手がこちらの観点から見てたいていは真理を語っている、理のあることを、整合性があることを言っていると前提することが、理解の前提。
つまりは、自分とぜんぜん違う言葉が喋っている人が、「汚水はきれいだけど、浄水はきたない」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提なので、ひょっとしたらほんとうはそう思っているかもしれないってことすらない。
相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実とみなすものを真実だとみなす、といった言語以前の形式--人間は言語は違っても、重力下で生き、表皮は固体で、左右対称で、生存のためにはエネルギー摂取が必要で、挨拶し、自己紹介し、などなどといった共通項--
を少なく或る程度はもっていると前提しないと、意味の理解ははじまらないってこと。
いや、この「言語以前の形式」以前の形式、
つまり、カントのカテゴリーなどのものさえ共有できていればまだ理解は可能かもしれない。
感性(感覚みたいなもの)的に見出される経験における一般性を支えるのが「悟性」(知性と訳すことあり)である。
悟性的な理解とは、それが何であるかを把握する能力である。
五感で感覚される対象が一般的に何かであることは悟性によって規定される。
悟性固有の形式が、純粋悟性概念=カテゴリー↓
カントのカテゴリー
※悟性…感性が与えてくれた対象を、カテゴリー(質、量、関係、様態など)に基づいて判断。
①分量
(すべてのものか、
特殊なものか、
それともこのひとつか)
②性質
(これは~である、といえるものか、
これは~でない、といえるものか、
これは非~である、といえるものか)
③他のものとの関係
(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、
もし…なら、~である、という条件付きのものか、
これは~か…のどちらかである、といえるのか)
④様相(物事のありよう)
(~であるだろう、といえるのか、
~である、といえるのか、
かならず~でなければならないといえるのか)
別の表現だと
1. 量(単一性、多数性、全体性)
2. 質(実在性、否定性、限界性)
3. 関係(実体性、因果性、相互性)
4. 様態(可能性、現実存在、必然性)
[アリストテレスの10のカテゴリー(範疇)
1実体
主語が何であるか
2量
主語がどれほどの量であるか
3質
主語がどのような質であるか
4関係
主語が他のものとどのような関係にあるか
5場所
主語がどのような場所にあるか
6時
主語がいつあるか
7状況
主語がどのような状況にあるか
8状態(所有)
主語が(物との関係で)どのような状態にあるか
9能動
主語が他のものに対してなにをしているか
10受動
主語が他のものから何を被っているか]
カテゴリーは認識のフィルターのようなもので、カテゴリーに引っかからなければ認識されないので、カテゴリーを外れたものは存在しないとみなされる。
言語の話に戻す。
相手が人以外でも同様。
何やらよくわからない異世界あるいは宇宙空間からやって来たらしきものが、どうやら言葉を話しているようなのだが、何を言っているのか意味がさっぱりわからない存在がいたとする。
では、その存在が言語(らしきもの)を話していると仮定して、そいつの言っていることを推測していくにはどうしたらいいのか。
外国語学習とまったく同じく、私たち基準で合理的に行動していると解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
人間以外の動物や植物なども同様。
よって
言葉は持っていて私たち人間にもその意味もわかるけど、私たち人間と(言語が成立する前提的な意味で)まったく違う考え方をしているものなんて「いない」。
いるかもしれないが私たち人間には決してわからない、なんてことに意味は与えられない。
そして、意味が理解できるようになってはじめて、相手の間違いやこちらの誤解がわかるようになる。
考えや理解の違いを確認するためには、相手がほとんど言葉の意味を間違えず、相手が今まで従ってきた意味体系と同じ体系に従っていると前提しないと成り立たないからだ。
話すたびにまったく違う意味体系に従って喋っていて、なおかつその場にまったく関係ないことしか喋らない存在の言語なんて学びようがないってことです。せいぜい、わめいている、と認識されるのがおちでしょう。
言葉の意味がわかるようになる場合
①相手がまともで言葉が違うだけのとき。
②相手の気が狂っているが、正しく日本語(一例)を使っているとき。
言葉の意味がわかるようにならない場合
(その人が何を信じているかもわからない)
①相手の気が狂っていて、しかも間違った日本語(一例)を使っているとき。
②相手の気が狂っていて、しかも私たちの知らない言葉を使っているとき。
冒頭の引用のような精神病的妄想を持っている人に対して、精神科医やカウンセラーは、普通、相手が言葉の意味自体は誤解していないって前提で接するらしい。
私はナポレオンだ。神がそう言った。
と言ったら、「その人はそういう妄想を持っている」と考える。
言葉自体は受け入れる。
ナポレオンが実は「敵前逃亡の一兵卒」だったり、神が実は「人間」だという可能性は、相手に質問して肯定しない限り、あの有名なナポレオンとみなす。
そうしないと、話が成り立たない。
今度は、「色」という概念が存在しない(必要としない)宇宙生命体(生命体の定義も実に曖昧だがここでは議論しない)を仮定する。
私たちがとらえる世界では、物の種類とその色とは対応していない。
しかしもし、物の種類と色が完全に対応している、例えばカラスは絶対に赤いといった風に、と彼らが認識していたら、彼らに「色」なんて概念は存在しない。
また、例えば三角形は絶対に青いと認識していれば、やはり「色」の概念は存在しない。
「形」と「色」が一体となっているとも言える。
つまり、「形」と「色」が一体となった概念が誕生しているはずだ。
我々から見れば、認識の一部が欠けているとみなされる。
が、先に行ったカテゴリーを少なくともある程度は共有していれば、宇宙生命体の言語も学べるのである。
カテゴリーのことを相手に伝えればいいのではないのか。
と言いたい人がいそうである。
カテゴリーは頭の中や心の中にあるものではなく、言葉を使って「実際に活動しているその活動の中に“示されている”形式」。
活動中に意識するなんてありえない。意識しようがない。
絵がどんなものかは言語で伝えられない。
「とにかく見て!」と言って見てもらわないといけない。
見ないとだめだから「示す」しかないように。言葉の限界を示す。
カテゴリー「について言葉で言う」のではなく、
カテゴリー「に従って『赤いリンゴ五つ!』と言う」。
そうすると、
果物屋は、
「まず」『リンゴ』という「実体」のある場所へ行って、
「次に」『赤い』(性質)のを、
「最後に」『五つ』(個数)選ぶ。
この順序は変えられない。
まず個数から初めて、次に性質、最後に実体(=個数や性質の前提)
なんてことは、カテゴリーの中で生きる人間には想像すらできない。
果物屋のこの「必然的な行動形式の中にカテゴリーが示されている」。
そしてこの「カテゴリーに背後はない」。
カテゴリーは動物の必要からできたってことはありえない。
なぜなら、動物とか生物といったとらえる枠組み自体がすでにカテゴリーに依存しているから。
因果関係が逆。
原因と結果を入れ替えてはいけない。
「まず」カテゴリー「によって」ものごとがとらえられ、「そこからすべてがはじまる」。
神や宇宙生命体の姿をイメージすると、思わず人型になってしまうのは当然だということ。人間の思考形態に当てはめないと思考すらできないから。
カテゴリーを外れた宇宙存在とは交流不可。
正確には、存在自体を認識しないから交流以前の問題である。
このような日常の大前提について徹底的に考えたウィトゲンシュタインが偉大なのは、
「意図的にするはずがないことを意図的にする」
という、いと面白き意図を持って哲学し、哲学史に
「無意識的に意識的になるような」不思議で奇跡な書物を残したからである。
青山拓央『新版 タイムトラベルの哲学』ちくま文庫、2011
p.261における、永井均による本書の解説(本書をヒントにした永井独自の哲学小論)
“ともあれ私は、このような考え方を、というかこのように考えていくやり方そのものを、(二人ともこんな考えは自分とは関係ないと言うであろうが)『純粋理性批判』のカントと本書の青山拓央から学んだ。本書を書いた時点で青山は哲学を学び始めたばかりの学生にすぎなかった。そんな素人の議論と哲学史上最大の古典を並べるのを可笑しく思う人がいるかもしれないが、それは違う。哲学界で慣習的に受け入れられている思考法に依存せずに、自ら手探りでゼロから哲学をするやり方そのものを直に学べるのは、素人と古典からだけであるからだ(言い換えれば哲学の古典はどれも素人の書いた書物である)。だが、素人なら誰でもいいわけではもちろんない。いったい本書の何がこれに類例のないほどの啓発力を与えているのか、それは各人が自らの探究と摺り合わせて確認していただくほかはない。”
永井均『私・今・そして神』
私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書) (2004/10/19) 永井 均 商品詳細を見る |
『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社現代新書、2004年
“私は、私を叱った先生よりも、私の発言を支持した生徒たちから、理解されなさを強く感じたのを覚えている。
哲学的疑問は理解されない。哲学はつねに無力であり、力があるのは科学や常識や思想である。授業科目や学問領域としての哲学の問題は理解できても、実際に哲学的疑問をなまで感じる人は驚くほど少ない。表明してみても、ほとんど理解されない。理解しているつもりの人も、実際にはぜんぜんちがう意味に取っていることが多い。
そういう体験を重ねて、私は哲学的疑問をみだりに口にするのはやめた。それは慎みを欠く行為である。いまではその理由もよくわかる。学問領域としての哲学の世界に足を踏み入れてからは、ふだんはみんなと口裏を合わせて、なんとなく適当なことを言っておいて、本当に言いたいことは自分の哲学としてだけ語ることにした。
もちろん、哲学の世界といえども、中学校と同じで、そこで通用している一般的常識は、これまた驚くほど疑われない。そこにもまた、あの理科の先生のような人たちと、あの生徒たちのような人たちがいる。それは当然のことである。なぜなら、私自身も他者に対しては、そのように振る舞うことにしたのだから。
この本で書いたようなことは、実際の人生の中で口にされることはまずない。そんなことを言うのは、つねに的はずれだろうから。幸か不幸か、私が言いたいと思うことは、なぜかこの種のことが多いのだ。”p.4-5
“音楽を例に取ろう。日々音楽を聴くことを糧として人生を過ごしており、たとえばリパッティの演奏するショパンのワルツやルプーの演奏するシューベルトの即興曲やグリュミオーの演奏するヘンデルのソナタから、えもいわれぬほど大切な何かを聴き取る感性は持つが、しかし楽譜ひとつ読めず練習曲ひとつひけない人と、日々スケール練習に余念がなく、たとえばリストなりパガニーニなりを高速で正確にひけるが、しかし人生の中で音楽を聴く歓びを味わったことのない人、この二者を比較してもらいたい。音楽の本当の意味と価値を知っているのはどちらだろうか。
この二者の比較であるかぎり、前者の人であることは疑う余地がない、と思う。この比喩によって私は、俗に「ついて論文」といわれる(典型は「○○期××の『△△』の概念について」)研究論文を書くことを主要な仕事としている「哲学」学者を馬鹿にしてはいけない、と言いたいのである。彼らは哲学をそのもの〔原文ママ〕を自分でやってはいない、としばしば言われる。たしかにそうかもしれないが、その彼らこそが哲学の本当の意味を理解している可能性は十分にある。逆に、出来合いの哲学練習問題集に収められている「哲学問題」をどんなにスマートに解くことができても、それはじつはちっとも哲学ではない可能性はきわめて高い。たいへんに頭がよく、とてもよく勉強もしているが、少しも哲学が感じられない(先ほどの比喩でいえば音大生の技巧誇示のような)読むからに寒々しい「哲学論文」を書く人は――私の印象では最近とくに――多い。
とはいえ、「ついて論文」派と「練習問題」派への分裂は、哲学を殺してしまうように私には思われる。それはたぶん、哲学が学問でありながらも、じつはなにか特別の種類の天才の、凡人に真似のできない傑出した技芸の伝承によってしか、その真価を伝えることができないようにできているからだと思う。矛盾対立する学説がいつまでも淘汰されずに共存しつづけ、敬意を払われつづけるのは、たぶんそれゆえだろう。このことについては、本書の内容とは直接に関係ないから、ここではくわしく論じない。
かわりに、哲学を志す若い人にちょっとした提案をしたい。先生筋の模範演奏からではなく、古典的名演奏から直接に何かを学び、しかし崇め奉るのではなく、それらを直接勝手に使って、自分自身の哲学をやったらどうか、ということである。たとえばプラトンやアリストテレスを「研究」するのではなく(かといって出来あいの無人称的な「哲学問題」を直接考えるのでもなく)、彼らの仕事を勝手に使って、そこから直接問題そのものを考えたらどうか。本書を書きながら、私はそういう可能性があると感じた。
私は本書において、ライプニッツとカントをはじめとする古典的な哲学者について論じ、彼らの議論を自分の問題を考えるために利用している。「ついて論文」派の専門研究者から見ればこれらはほとんど牽強付会に近いものだが、それでも彼らの議論のある面は確実に継承されているはずである。哲学の古典はこのように利用してもいいし、むしろそうすべきものであろう。この点に関しては、私の真似をすることを、おおいに勧めたい。”p.6-8
“だれも覚えていない過去はつくれない
世界は、その時そうであった通りのあり方で、本当はまったく実在しない過去を「覚えている」と思い込んでいる全住民ととともに、五分前に突如として存在しはじめた――これは少なくともどういう事態が起こったのかがわかる。だから、全能でいたずら好きの神さまなら、≪その≫事態を引き起こすことができる。しかし、その神さまでさえ、だれも覚えていない過去を≪そのとき≫同時に作り出すことなどはできない。全能の神でさえ、それは≪不可能≫なのである。
全能なのにできないことがある? そうなのだ。だって、住民のだれひとりとしてその時点で「覚えている」と思い込んでさえいない過去そのものを、≪その時点で≫つくるって、いったい何をすることなんだ?
もし≪その時点で≫つくられたなら、やっぱり過去には存在しなかったんじゃないか。神が≪いま≫それをつくったということがいったい何をしたことなのか、どういう事態を起こしたということなのか、われわれにそれがわからない。われわれにそれが理解できないのだ。だから、それだから、全能の神でさえ、≪そんな≫ことをすることはできない。神でさえ≪それ≫は作り出せない。≪それ≫はわれわれの言葉で表現され、われわれの理解によって指定されている事態だからだ。神の全能でさえ、この壁は打ち破れない。なぜなら、この壁は神の側からは存在せず、われわれの側からだけ存在する壁だからだ。
だから、ひょっとしたら、気まぐれな神さまは、五分前に、だれも知らない五年前の出来事を急につくったかもしれない。それは五分前にできた以上五年前にはなかったのか、それとも、神が五年前という時点に設置した以上五年前にもうあったのか、答えはない。時間の内部でその時間をつくり直すという想定がわれわれに理解できないかぎり、この想定は不可能な想定なのである。「記憶一般と記憶の対象とを同時に可能ならしめる条件」に反しているからである。世界にはわれわれに理解可能なことしか起こりえない。なぜなら、われわれに理解できる形で捉えられたときにのみ起こったとされるから。この意味において、神もまたわれわれに理解可能なことしかなしえない。“
p.27-28 原典の傍点を≪≫で代用。
人格神は全能ではありえない。
人間化=不完全化され、人間が解釈できて人間の理解の範囲のことだけができる、
宗教家の操り人形だから。
「全知全能」という記述すらも人間の理解の範囲内にある。
そもそも物事の誕生の根源があるとすれば、それは創造神ではなく、「変化」それ自体である。
Aが存在し「ない」状態から、
Aが存在「する」状態への「変化」がなければ何も誕生することができない。
「変化」がなければ創造神は何もなすことができない。
その創造神に人格があるとされていることも奇妙だ。
人格がない状態のときには既に変化は存在していた。
つまり、創造の根源は存在していた。
したがって、意志によって初めて創造が行われたとするのは誤り。
その「意志」が誕生するための「変化」こそが創造の源泉なのだから。
仏教ではこの「変化」を
“諸行無常”
と呼んでいる。
無論、人格はないので、解釈者=宗教家が支配に利用することができないようにしている点が重要である。
万物の根源が「人格と意志ある」存在だという宗教家の主張は嘘だということだ。
人格と意志が誕生する為の前提=変化が根源だ。
創造神を想定するなら最初は無感情だったということだ。
後に感情が誕生して感情的になったといえる。
つまり、創造神が文字通り無慈悲で無感情だったころがあるということだ。
その創造神が一神教の神ならば、感情、人格を持ってからもやっていることは、無慈悲な悪魔そのものである。
悪、悪魔を創り、そのまま悪を滅していないのだから。
そもそもゴッド=善、ということ自体が悪が存在しないと成立しない。
善と悪は同時に生まれたものだ。
一神教は敵=悪を必要とする。
ゴッドとサタンは同業者であり一心同体。
共倒れしない程度に自作自演しているわけだ。
ゴッドが悪魔を創ったとわかる聖書は世界一流布している本であり、安価(時にはタダ)であることが、聖書が偽りであることの証明である。
支配層にとって都合が悪いなら、ここまで流布することはありえず、値段も高額になるはずだからである。
“外界だけの懐疑論を、五分前世界創造説との類比でつくってみよう。それは、知覚されているものがじつは五十センチ前方でつくられている、というようなことになるだろう。もちろん、記憶はふつうに成立している。これを「五分前世界創造説」に対応させて「五十センチ先世界創造説」と呼ぼう。
少し考えてみると、五分前世界創造説の「五分前」という条件は、なかなか味があることがわかる。第一に、五分前にできたということは、できた時点が固定していて、その後は世界創造の時はしだいに遠ざかっていく、ということである。まさかラッセルは、世界が<つねに>五分前につくられている、なんて想定をしたわけではないだろう。もし、つねに五分前につくられているのだとしたら、これは大変なことだ。そして、じつをいえば、この大変さこそが近ごろの私を捉えて離さないテーマなのだ(ある意味で本書は全体としてこのテーマをめぐって展開しているともいえる)。
第二に、五分前であって今ではないということは、その五分間はふつうの記憶が成立していたということだ。これをもし、今できたということにしてしまうと、今からはじまるふつうの記憶の身分があやしくなってしまう。そもそもそれが記憶であるとなぜいえるのかが不明確になってしまうのだ。すでに成立しているちゃんとした記憶があって、それと<連続的に>贋物の記憶がある、というところが、とてもうまくできているところだ。
五十センチ先世界創造説ではどうか。眼の五十センチ前方であって眼の位置ではないということは、その五十センチの区間はふつうの知覚が成立しているということだ。これをもし、眼の位置でできたということにしてしまうと、それがそれでも知覚であるということの意味が不明確になってしまう。前方五十センチの間はちゃんとした知覚があって、それと連続的に贋物の知覚風景が開けている、という点がとてもうまくできている……と言えるだろうか。
どう考えても、これはまずいところがある。第一に、今から五分前は客観的な時間点だが、私から五十センチ前方は客観的空間点ではない。今と私の性質の違いがどうしても気になる。だって、私の前方三メートルのところにはよく他人というものがいて、なぜだか私に話しかけたりしてきて、場合によっては、五十センチ以内に近づいて、私に触ったりもする。もちろん、触角はすべて本物で、聴覚は(五十センチ以内の至近距離から発せられた音以外は)贋物なのだろうが、それにしても、その他人がもつ知覚はどうなっているのか、という問題はやはり気にはなる。世界を完璧に独我論的に考えるという条件を入れないと、この世界描写は完結しない。”p.33-35
<>は傍点の代役。
“気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、<私>とか、<今>とか、いろいろな名づけがなされていく、といった感じである。
他人との対比が持ち込まれれば<私>ということになり、過去や未来との対比が持ち込まれれば<今>ということになる。身体との対比が持ち込まれれば<心>ということになり、外界との対比がもちこまれれば<内界>ということになり、死との対比が持ち込まれれば<生>ということになり、さらに非現実との対比が持ち込まれれば<現実>ということになり、もっとさらに決定論のようなものとの対比が持ち込まれれば<自由意志>ということにもなる……といったぐあいである。
対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれる。そして、この錯覚こそが現実になるわけだ。<私>と他人との対比が持ち込まれると、あたかもそれらに共通の「人間」というものが存在するかのように考えられることになり、<今>が過去や未来と対比されると、あたかもそれらに共通の客観的な「時間」というものが存在するかのように考えられるようになる。
もともと存在しているのは< >で囲んだほうだけなので、それがそれ以外のものと一緒にその内部に位置づけられるような共通項は、じつは存在しない。人間たちの中に私はおらず、時間の中に今はない。むしろ<私>の中に人間たちが、<今>の中に時間がある。
< >で囲んだほうが存在することこそが、世界の開闢そのものなのである。これを「開闢の奇跡」と呼んでおこう。
ところが、対比が持ち込まれた後では、話が逆になって、もともと存在していた< >で囲んだほうが共通項の中の一つとされるので、その例外的なありかたを何とかうまく共通項の中に埋め込んで消去しようとする、倒錯的な努力が開始されるわけである。
開闢それ自体が、それによって初めて成立したはずのものの内部に位置づけられることになるわけである。”
永井均『私・今・そして神』P40-P42より
“時間的に表現すれば、すべての始まりであって、時間的位置を持たないはずの開闢の奇跡に、その内部に存在する事物の存在基準が適用され、時間的位置を持たされるということだ。つまり、開闢は、それ以上遡行不可能な単なる奇跡にすぎないのに、そこで開闢したものが「存在する」といえる基準は、対比が持ち込まれて共通項が設定された後で、その共通項の中で決まることになるわけだ。
〈私〉についていえば、他人と対比されて自己同一性(self-identity)という問題が生じ、それが他人と同じ人物同一性(personal identity)の基準なしには把握できないものとなる、というわけである。
開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。この構造こそが、本書全体を通じて私が問題にしたことの根源である。“p.43
“たとえば、五分前に突然できたのか、ちゃんとふつうに継続してきたか、というこの違いのように、われわれの能力によっては原理的に識別できないのに、われわれの知性にはその違いが理解できるようなことがらが存在する。しかしなぜ、われわれの能力によってその違いがけっして識別できないのに、違いがあることが理解はできるのだろうか。
それは、つまり、われわれが神を信じているからなのである。神の存在を、というよりは神の概念を、つまり、われわれに理解できる全能者という概念を、である。
言い換えればわれわれは、(違いが)識別できること、(違いを)理解できること、(違いの)理解さえできないこと、の三つを区別しているのだ。重要なのは真ん中である。つまり、識別はできなくても理解はできるという領域を認めること。それによって、われわれはある種の超越性を容認しているのである。”p.47
永井均の神(の概念)
①人間が理解できることのみをなす(なしたことになる)全能者。
②全ての前提たる開闢(開闢後は、レベルが強制的に下げられてしまう=殺されてしまうもの)。
要は、超越的なものは皆が信じています(あるいは思考の前提になっています)よってこと。単なる自然法則と言う人もいそう。人間の語る神など所詮は人間が勝手に設定した人間の能力に縛られた神でしかないということ。
“心を与える者は、ぜひとも神(あるいは神のごとき者)でなければならない、ということである。これはきわめて重要な条件なのだ。たとえばロボット工学者は、このロボットに心を与える能力がない。ロボット工学のいかなる進歩を想定しても、原理的にない。ロボットがどんな反応をするようになっても、心が付与されたかなお付与されていないかは、いつまでも謎にとどまるからだ。ここで想定されている意味での心を与えるということが何をすることなのか、ロボット工学はけっして理解することができない。
だから、五分前世界創造説の場合と同様、人間に識別できない違いなどはないのと同じことだという立場も、十分に成り立つ余地がある。しかし、人間に識別できないという点こそが重要なのだ。もし神というものに固有の仕事があるとすれば、それは世界に人間には識別できない(が理解はできる)変化を与える仕事だからである。自然や人間にもできる土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)は本来の神の固有の領分ではありえない。
だから、ロボットのこの変化を理解し、そういうことがありうると思った人は神の概念を信じているのであり、(識別できるかぎりではこのロボットと変わりがないはずの)他人たちに心があると現に信じている人は、神が現に存在していることを、つまり神の実在を、信じているのである!”p.49
“ロボットに心が与えられるケースは他者に起こる変化であり、人間から心が奪われるケースは私に起こる変化であること、それが問題の本質なのである。
だから、後者のケースの本質は、私から心が奪われることにあるのではなく、私が<私でない>者にされることにある。そこで私ではなくなった者がなお心を(もちろん<そいつの>)持っていたとしても、問題の本質に変化はない。それゆえ、前者のケースであっても、ロボットに心が与えられるだけでなく、そのときロボットが<私になる>のだとすれば(それまでその世界に私は存在しなかったとしよう)、そこに識別可能なはっきりした変化が起こったことになるだろう。
それなら、私におけるこのような変化<と同じこと>が他者における変化の場合にも起こっていることを、私が(識別はできなくても)理解はできるのはなぜだろうか。それは、心を与えたり奪ったりするのが神だからであり、かつ私が神(の概念)を信じているからなのである。実際には私の場合にだけ識別できる違いを、他者にもあてはめて理解するとき、この超越を根拠づける存在は神でしかありえない。
この理解可能性が五分前世界創造説などよりも複雑な構造を持つのはここである。私から心が奪われるとは、私が私でない者に、つまり他者にさせられることであった。すると、他者から心が奪われる場合、他者はもともと私ではないのだから、どうしてさらに他者にさせられることなどができようか。<他者の≪私≫>というものを想定しておいて、それが奪われると考えるほかはないだろう。それはしかし、あの「開闢の奇跡」が複数化されるということなのだ。世界の開闢そのものである私とは、世界にひとりしか存在しない本性上の唯一者なのだから、相並ぶ他の私などはありえない。しかし、神によって、そして神によってのみ、そのありえないことが易々と実現されてしまうのだ。
『省察』のデカルトは、方法的懐疑によって「私の存在」の確実さに到達した後、まずはその内部から「神の存在」の証明をしなければならなかった。『省察』を読む者の多くがそこで躓くが、以上のように考えれば、それは理解しがたいことであるどころか、むしろ、それ以外にはありえないほどの必然的な道筋だったはずなのである。
「心」とは、世界を開く「開闢の奇跡」を世界<の内部に>複数個並存させるためにつくられた高度に抽象的な超越概念である。「個人」も同じだ。だれもがロボットに心が与えられる際の変化の意味を理解できるはずだ、と私が言うとき、私はすでにこの超越性に乗ってその内部で発言している。”p.51-52
<>は傍点の代用。
擬人化して人間の認識、言語をあてはめて物事を理解するのが人間。そして人は擬人化ならぬ「擬私化」して他者などを理解する。しかし私と他者とは別次元のごとき隔たりがあり、「私」に擬するなんて不可能なのではないか。それを繋ぎ可能にするのが超越する何か(永井曰く神だが人格神ではなくてもよいように思える。神の概念でも可)。世界に唯一しか存在していない特別な開闢の前提の私が、特別でもない他者と繋げられるのはなぜかということ。
<>は傍点の代役。
“たとえば、五分前に突然できたのか、ちゃんとふつうに継続してきたのか、という違いのように、われわれの能力によっては原理的に識別できないのに、われわれの知性にはその違いが理解できるようなことがらが存在するのはなぜだろうか。
この問いに対する前節の答えは、それはわれわれが神を信じているからだ、というものであった。そのさい私は「神」の概念を「われわれに理解できる全能者」という概念に言い換えていた。何でもできるのだが、何をやっているのかわれわれに理解できないようなことができるのではなく、やっていることの意味がわれわれにも理解できるようなことが何でもできるような全能者、である。識別できないのになぜ理解できるかといえば、理解には本質的に拡張的な性質があるからだ。”p.53
“自分(たち)が識別できない違いを、識別できないにもかかわらず理解はできることには、だから、必然性がある。自分(たち)が識別できることによって獲得した概念の適用範囲を拡張し、とりわけそれを自分(たち)自身にも遡及的に適用すること、これがわれわれの世界把握の基本的なあり方だからである。
さて、それでは、神はどこにいるのか。開闢に神の業を見るか。それとも、開闢は自明の所与とみなして、そこからの超越にこそ神の業を見るか。私が存在することが神の業なのか。それとも他者が、つまりありえないはずの他の私が存在することこそが、神の業なのか。今が存在することが神の業なのか。それとも、ありえないはずの他の今が存在することこそが神の業なのか。
もちろん、どちらも神の業だ。しかし、両者を一つに束ねる「心」とか「自我」とか「個人」とか「実在」とか一様に流れる「時間」とかいった概念が生まれ、そちらのほうが出発点とされることによって、神は死ぬのである。もちろん、神の死は必然である。なぜなら、神が死ななければ、われわれがふつうに理解している客観的世界は生まれないからだ。
さてそれでは、なぜ神が世界を五分前に創造したと想定することが可能なのだろうか。それは、結局のところ、こうしてできたわれわれの客観的世界を、開闢の視点へと引き戻してみることが、つねに可能だからなのではあるまいか。そのような仕方で神を復活させることが、つねに可能だからなのではあるまいか。
もちろん、いったん神が客観的に存在するものとされてしまえば、開闢と結びつかない神の業も当然ありうることになるだろう。宗教というものを信じている人は、基本的にこの形で神を表象することになるだろう。だが、それは神の死のもう一つの形態ではなかろうか。“p.55-56
「世界把握」を「世界は悪」と誤変換された。しかし或る意味では「正」変換である。
開闢=神の死、それは原因と結果の逆転。すべての前提である開闢を理解する為には、開闢のおかげで生まれた言語によって開闢のレベルを下げなければそもそも人間に扱えない。どんな高次のものでも、言語表現するためにはレベルを強制的に下げないといない。
文章でも何でもそうだが、筆者の主張あるいは重要だと考えていることは、形をかえて繰り返されることが多い。読書のコツ。読解のコツ。国語問題を解くコツ。
神(開闢)の死=言語による開闢の隠蔽=(人間の言語)世界の誕生。
“ある夜、哀れに思った神さまが、ロボットに心を与えた。あくる朝、意気揚々と学校にあらわれた彼が、友人たちに向かって「今日からぼくは心があるんだぞ」と言ったら、友人たちはどう反応するだろうか、というのが前節の問いであった。
しかし、彼が「今日からぼくは心があるんだぞ」などと言うはずがない。なぜならその夜、神は彼に心そのものをはじめて与えたのだから。それはつまり、それまでの人生の記憶も与えたということだ。だから、そのとき与えられた心は、その内側から見れば「そのとき与えられた心」ではない。「はじめからずっと存在していた心」なのである。それでも、<神は>彼にそれを与えたのだ。
それでも、神はそれを与えた? しかし、いつ? そして、だれに?
いつ、というなら、それはもちろん「その夜」である。この変化は、他人たちにも自分自身にも、だれにも知られることはない。だれにとっても変化ではない。それでもこれが変化だといえるとすれば、それはこれが神による変化だからであり、まさにこのような変化を与えることこそ、神にふさわしい業だからである。――というのが、私の神学上(?)の見解なのであった。そこで、神に敬意を表して、だれにも知られなくとも、やはり変化はあったのだと考えることにしよう。さてしかし、その変化はだれに起こったのだろうか?
ここで重要なことは、前節の、逆のケースを経由した考察を思い出すことである。逆のケースとは、神が人間から心を奪ってロボットにしてしまうというケースであり、それは私に起こることなのであった。この場合、問題の本質は、私から心が奪われることにあるのではなく、私が私でない者にされることにあることが分かった。この考察を経由して、私はこう書いた。「前者のケースであっても、ロボットに心が与えられるだけではなく、そのときロボットが私になるのだとすれば、そこに識別可能なはっきりした変化が起こったことになるだろう」と。
では、ロボットは、心を付与されるだけではなく、私になるのだとしよう。そこに私に識別可能なはっきりした変化が起こっているだろうか。
たしかに私は、昨夜までは心などなかったのかもしれない。しかし、神が昨夜、私に心をあたえてくれたのだとしても、私はそれを知ることができない。だから、それは<私に>起こった変化ではない。むしろ神が、そして神だけが起こしうるある変化によって、私ははじめて誕生したのである。それまでもずっと存在しつづけてきたとの確信とともに。
つまり、問題は五分前世界創造説の場合とまったく同じなのである。前に使った言葉を使うなら、これはいわば開闢である。しかし、この開闢は、実際に「それまでもずっと存在しつづけてきたこと」と<だれにも>区別がつかない。
五分前世界創造説と対比して、これを昨夜私創造説と呼ぼう。
さて、そこで一つの問題は、後者が私に起こった変化だといえないなら、同様にして、前者も世界に起こった変化だといえないということにはならないか、というものだ。
もう一つの問題は、神による私の創造が昨夜一回だけではなく毎晩であることは可能なことだろうか、というものだ。これはもちろん、世界がそのつど五分前につくられているという想定に対応する。“p.57-59 <>は傍点の代用。
“ロボットが私にさせられるとは、ロボットに記憶が与えられることではない。記憶が与えられても、それだけでロボットは私になるとはかぎらない。ロボットが私にさせられるとはまた、ロボットに感情や感覚が与えられることでもない。思考力や想像力が与えられることでもない。記憶も含めて、そういうものがすべて与えられても、ロボットは私になりはしない。せいぜい人間になるにすぎない。私にさせられるとは、世界が私という特異点を持ち、世界がそこから開かれるようになる、ということなのだ。そこから開かれるような世界が、新たに誕生するということなのである。
さて、このように考えたとき、神には〈私〉の着脱能力があるか。これが問題だ。これは、感情や感覚のような心理状態や、記憶や知覚のような表象状態を着脱するような、なまやさしい話ではない。もし神にこの能力があるのだとしたら、それはロボットに心を与えたりする通常の神より高階の神でなければならない。すなわち、開闢の神である。
通常のオーダーの低い神では、世界の中にそもそも私が存在するかどうか、かりに存在するとして、どれが私であるか、識別する能力がない。神はただすべての人の心をお見通しなだけである。すべての人の心を見通したって、そのうちのどれが私であるかはわからない。識別能力がないのだから、神はもちろん私を創造する能力もない。ある特定の性質をもったある特定の人間を造れるだけである。私が生じるのは神の手の及ばない≪偶然≫である(デカルトの「我」が「欺く神」に対抗できるのはそれゆえである)。
だからもし、神に私を創造する能力があるとすれば、ふつうの神より高階の神を考えなければならない。心を持った人間が複数存在する世界を(主として物理的に)創造する神という神表象を捨てなければならない。どれが私であるかを含み込んだ世界をつくる神を考えなければならない。
さて、私にかんするこの高階の「神の事実」に対応するような、世界にかんする高階の「神の事実」がありうるだろうか。これが問題であった、そしてこれが、これから考えていきたい問題である。
この高階の神なら、実在の過去そのものを作ったり消したりできるかもしれない。なぜなら、どの人間が私であるかを含み込んだ世界をつくる神は、どの時点が今であるかを含み込んだ世界をつくる開闢の神でもあろうから。”p.65-67 ≪≫は本書の傍点の代用。
「私」を着脱する能力者が「ある人の私」を剥奪して、哲学的ゾンビ=永井の言うロボットになったとしても、その人以外の人にとっては何の変化もないし、その変化を感じる「その人の私」はもはや存在しない。つまり、実質なにも起こっていないように思える。
読者などの上位存在だけが認識可能な変化。これこそ魔法である。しかも最上位の。
最も驚くべき点は最上位、否、世界の開闢に関わるのだから位を超越した絶対魔法は、「何も起こらない」のだ!
こんな物語はどうか。
この絶対の魔法による変化が前後でわかる者を探す旅の話だ。
「ずっと……<私>のあるなしを、私の世界の開闢の存在と不在の違いを感じられる存在を、探していた。私にとっては最強にして最高の、他者にとっては最弱で最低どころか無意味の絶対魔法、<私>の着脱を使える術者を」
で、その術者により<私>を持つ存在全員から<私>が抜かれていて、三次元世界に<私>は文字通り存在しないが、高次元に<私>は送られた、というオチ。
<私>が抜かれようが、抜かれまいが、高次元にいようが、三次元にいようが、今の生活が何一つ変化しないことに恐怖を覚えないだろうか?
開闢後の世界で開闢を操作できるのかな?
何せ、操作する操作される、操作「前」・操作「後」の区別すらないのが開闢あるいは開闢以前(以前という言葉に意味があるのかな)なのに。
でも言葉は前後関係無しでは絶対に成立しないから言葉ではそもそも議論できないのでは?
「変化」が根源だと前述したが、その「変化」以前があるかどうかをそもそも議論できないのと同様の問題=言語の限界である。
言葉が通用しない分野ではロゴスの権化たる哲学は無力すぎる。
“デカルトの方法的懐疑では、まずは、これは夢ではないか、と疑い、次に、悪霊に欺かれているのではないか、と疑う。これはいわば、神の位階を上げているわけだ。
<これ>が夢だとしても、夢の中でも外でも、二たす三は五で、四角形の辺は四つである。夢には、現実ではないことを現実だと思わせる力はあるが、それだけの力しかない。神の能力にあてはめれば、これはかなり位階の低い神だ。デカルトが次に想定する悪霊(欺く神)の位階はもっとずっと高い。悪霊には、たとえば、われわれが四角形の辺を数えるたびごとにまちがって四つであると思い込ませるといったような力があるのだ。これはなかなかすごい力だ。そんな力があるなら、言葉の意味をすべてまちがって理解させるといった力もあるにちがいない。しかし、そんな可能性を「疑う」なんてことがそもそも可能だろうか。その疑いの遂行において使われている言葉の意味がすべてまちがっている可能性を疑うなんてことが。(そもそもこういう場合「まちがっている」とはどういう意味なのだろうか。この点については第3章で考えよう。)
夢なら覚めることがある。そして、覚めたかどうかがわかる。たとえそれもまた夢だったとしても、少なくともそれ以前に見ていた夢から覚めたことはわかる。で、悪霊の位階が高いことは、まず、悪霊の欺きから覚めたかどうかがわからない、という点にあらわれるだろう。覚めるということの基準そのものを、いやそれどころか「覚める」という概念そのものを(!)、この悪霊が(われわれを欺いて)作り出しているのかもしれないからだ。さらにまた、もしほんとうに覚めたとしても、悪霊の能力があまりにも巨大なら、欺かれて成立していた世界とその外部の世界とに共通するものは、もう何もないだろうから、やはり「覚めた」といえる根拠はないだろう。たとえば、時間というものそのものをそいつが作っているのだとすると、「覚めた」なんて過去形は適用できない、とか。何度も言うけど、これはすごい力だ。
とすると、そもそもほんものの神とこういう悪霊との区別は、どこにあるのか。この悪霊は何が悪なのか。もちろん、われわれが知っている善悪や真偽の区別は、この悪霊が作り出しているはずだ。それでも、そいつはほんものの神ではなく、私はそいつに<欺かれ>ているのだ、という認定はどこからなされるのか。さらにもっと位階の高い神の視点からか!
それで思い出したのだが、『創世記』のような神の世界創造の場面の描写を読むといつも疑問に思うことがある。それは、ナレーターは誰なのか、という疑問だ。人類未到の山頂への初登頂の模様を、テレビカメラが山頂から撮影しているといったことにちょっと似ている。もしそれが開闢であるなら、そこにナレーターがいるはずがないじゃないか、とよく思ったものである(私は神を信じているにもかかわらず宗教というものに対する不審の念はとことん深い)。
話は逸れたが、欺かれて出来たこの世界の外に本当の世界があるとしても、断絶があまりにも大きくて、私(あるいは私たち)が同一性を保ったまま、その二つの世界を架橋することが不可能ならば、欺かれているという認定には実質内容がなくなる。結局、この世界こそが現実の世界だというほかはなく、悪霊こそが神だということになるだろう。”p.68-70 <>は原文にはなく、原文では傍点。
GODによる世界創造が三人称視点で記述されている=GODの創造を見ている存在がすでにいる。
GODの一人称で記述されていない時点で、創世記はGODがなしたことの記録ではない。一人称という一番厳密な語り方をしない時点で、三人称というより厳密でない=不完全な語りをGODが採用したという、完全ゆえに矛盾だらけな問題が生じる。
三人称視点で記述した文章は「完全」なのだという前提を逆手に取ると、三人称視点が正しいのならGODを見ている何らかの別の存在の視点を認めていることになり、GOD以前あるいはGODと同時にGODに類する存在が生まれていたことになり多神教化する。
ナレーターこそが真の創造神かもしれない(すでに多神教になってしまい一神教破綻)。
創世の物語は文字の読み書きができるエリート層の人間が書きました。識字率は非常に低かったから。てゆうか全知全能のGODなら人間の脳に記憶をインプットすればいいよね。
徹底的に疑って論理を積み上げるが哲学なのに、わざわざ絶対に疑って検証してはならない宗教を信仰するってアホ過ぎますな(身を守るために表向きに表明しているだけである場合は除く)。
悪魔も異教徒も創ったGODが善であるはずはなく、自作自演で騙す悪魔そのものである。ほんものの神がいるとすれば善悪を超越した人格なき単なる世界全体そのものあるいは世界が誕生する前提そのものであるから、原理的に人間が解釈することなどできないし、ましてや意志など存在しない。人格神は絶対に全能になれない。人間が全能ではないからだ。
“哲学のお勉強は、それに先立って相手の問題水準まで自分なりの問題意識から(つまり相手とは独立に)到達していないと、何の役にも立たない。到達していればおおいに役に立つが、それはもちろん、相手の言っていることとは全然ちがうことをそこから読み取ることができる、という意味である。
ライプニッツは真理を、理性の真理と事実の真理の二種類に分類した。理性の真理は必然的で、そうでないことは不可能だが、事実の真理は偶然的で、事実はそうであるが、そうでないことも可能ではある。
理性の真理は、概念を分析するだけで真理であることがわかる。どんな未亡人の夫も必然的に死んでいる。それは世界の事実を調べてみなくても、「未亡人」という概念を分析するだけでわかる。対して、事実の真理は、世界の事実を個別的に調べてみなければ真理であるかどうかわからない。三島由紀夫が割腹自殺する(した)かどうかは、いくら「三島由紀夫」概念を分析してみても、世界の事実を調べてみなければわからない。だから、三島由紀夫が割腹自殺しなかった可能性もじゅうぶん考えられるのである。
しかし、ライプニッツには充足自由律(=十分な理由の原理)というものがある。すなわち、すべての事実には必然的にそうであるべき理由がある、というのだ。だから、「未亡人」という概念(一般概念)に「夫が死んでいる」ということが含まれているのと同じように、「三島由紀夫」という概念(個体概念)にも「割腹自殺する」ことが含まれている。そうすると、「三島由紀夫」という概念を分析するだけで、彼が割腹自殺する(した)ことを知りうる者がいることになる。それはだれか?
神である。つまり、三島由紀夫が割腹自殺することは、もともと「神の知性」の中に用意されていたことなのである。しかし、もともとそうだったのだとすると、神はいつ、どこで、おのれの自由意志を行使できるのだろうか。アルノーのこのような問いに、ライプニッツはこう答えている。
「三島由紀夫と彼の割腹自殺の結びつきは、神の自由意志に依存しないという意味で必然的な結びつきなのではない。というのは、可能的なものとして考えられた神の自由な決定は、可能的な三島由紀夫の概念の中に含まれていたのだが、まさにこの決定が≪現実≫となったとき、つまり、神がそう意志したとき、≪現実の≫三島由紀の原因となるからである。三島由紀夫のような個体的なものは、その個体概念のうちに、神の自由意志を原因として持つ、ということを含んでいるのである。一般概念や理性の真理が、神の自由意思を仮定しないで、もっぱら神の知性にのみ依存するのとは、その点が違っているのである」(『ライプニッツ著作集8』工作舎、二六〇-一頁参照)。
神ではなく、一七世紀のヨーロッパ人にすぎないライプニッツが、なぜ三島由紀夫のことを知っているのか、などという野暮な疑問を持たないかぎり、ここではきわめて重要なことが言われていることがわかる。概念や理性の真理は、もっぱら神の知性にのみ依存し、神の意志を必要としない。それは、神の知性の中にあるあらゆる可能世界に同じように存在するから、≪現実に≫創造される必要がない(正二十面体が可能であることが証明されれば、正二十面体はそれだけで存在する)。対して、個体や事実の真理は、その概念のうちに、現実世界で生じるということが含まれているので、神の知性のみならず神の意志もはたらく必要がある。つまり、神によって≪現実に≫創造されなければならない(三島由紀夫は個体概念として可能であることが証明されても、それだけでは存在することにならない)。だからこそ、≪それ≫が現実には創造され≪ない≫ことも可能であるわけだ。
お勉強ついでに一言。この分類において、神の知性を神の意志に吸収してしまうのが、デカルト哲学。逆に神の意志を神の知性に吸収してしまうのが、スピノザ哲学である。
さて、しかし、三島由紀夫の個体概念が、彼に関して成り立つすべてのことをあらかじめ含んでいるなら、どうして≪彼が≫割腹自殺しなかったことも可能なことではあるのか。それは不可能ではないか。”p.84-87
一般概念・理性の真理(定義的に絶対正しい)
…神の知性にのみ依存。神の自由意志なし。
事実の真理(正しいかどうか検証が必要)
…神の自由意志を原因として持つ。神の知性も必要。
“何が起ころうとそれが起こるのは現実世界である。ある意味で、これは自明であって、疑う余地がない。
では、こういう場合はどうか。この現実世界の内容が、あるとき突然、これまでとまったく関係ないものになってしまったとする。人類は突然消滅してしまう。自然法則も無くなって、世界は突如としてまったくの無秩序になってしまう、等々、どんな突飛なことを考えてもいい。何であれ、考えられるようなことは、すべて考えられるようなことなのだから。どんな内容であれ、現実にそれが起こってしまったのなら、それは仕方がない、起こってしまったのである。何が起ころうと、それが起こるのは現実世界なのだから、それは現実だ。
ここまで読んで、「それは、そうだ」と思ったなら、この状況に次のような想定を付け足してみたらどうなるか、考えてみてほしい。現実世界に異変が起こったちょうどそのときから、現実世界のこれまでの歴史経過と内容的に完全に連続した内容が、別の(非現実の!)世界で生起しはじめる、という想定である。非現実というのは、神の知性の中の可能世界でもいいし、だれかが見ている夢の世界でも、何でもいい。だから、もちろん、この連載もその世界でつづくことになる。つづけて読んで下さいね!
さきほど「それは、そうだ」と思った人も、今度はむしろ、内容上の連続性によって、その非現実の世界のほうが現実世界に<なる>、と言いたくなりはしないか。だって、そっちには、これまでどおりの自然法則が支配していて、これまでどおりの人間たちがちゃんといるんですよ。でも、もしそうだとすると、まったくの無秩序になってしまった世界のほうはどうなるのかなあ? <現実に>そうなってしまっただけなのに、非現実ということにされてしまうのか?
二つの原理が対立している。何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ、という原理と、起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる、という原理だ。この対立は、何が経験されようと経験するのはつねに私だ、という原理と、経験されることの内容的なつながりによってどれが私であるかが決まる、という原理との対立に、平行的である。現実の場合も私の場合も、前者をライプニッツ原理、後者をカント原理と呼ぼう(勝手な命名だが)。
ある意味で、ライプニッツ原理の正しさは疑う余地がない。さまざまな可能性のうち、最も起こりそうなことが起こったのは現実だ、なんていえるわけがないからだ。どんなに起こりそうもないことが起こったって、それが起こってしまったなら、それが現実だ。最も起こりそうなことが起こっている可能世界のほうは、非現実というほかはない。
同じことは私についてもいえる。私とは、現に世界がそこから開けている唯一の原点のことである。だから、何が経験されようと、経験されてしまったなら、それを経験するのは必ず私なのだ。ということは、経験される内容に関係なく、ということである。経験される内容のつながり方によって、どの人物が私で、どの人物が私でないかが決まる、なんてことはない。もし全然つながらないことを経験するようになってしまったなら、つながらないことを経験するようになってしまっただけのことだ。現に端的にそこから世界が開けている主体は一つしかなく、原理的に一つしかありえないのだから、つながり具合を相互に比較してみることなんか、そもそもできないのだ。いちばんつながりぐあいのいいやつが私になるなんて芸当ができるわけがない。
私が分裂するという、よくある思考実験の場合だと、別れた二つは内容的にほとんど同じ人物なので、どちらが私になるかは、ただ偶然が(言いかえればただ神の意志が)決める。問題なのは、それまでの私の記憶をちゃんと受け継いでいるほうがなぜか私ではなく、受け継いでいないほうがなぜか私である、という場合だ。ライプニッツ原理によれば、そういうことが起こりうることになる。私である人物の経験内容の継続として最もふさわしい人物は、しかし、他人でありうるわけだ。
言うまでもないことだが、この思考実験を物体の分裂と並行的に論じるのは、まったく的はずれである。心的性質を持つ物体である人間や動物でも駄目だ。「現実」の歴史経過と「私」の記憶との類比こそが問題の本質なのだから。並行的に論じて哲学的意味を失わないのは、世界の分裂、今の分裂、そして神の分裂! だけである。
しかし、それにもかかわらず、私の場合と世界の場合とでは、事情が異なるのではないか? だって世界の場合には、現実世界のこれまでの歴史とつながった歴史経過が別の世界で生起しはじめたら、内容上のつながりによって、その非現実の世界のほうが現実世界に<なる>、と言いたくなったではないか。私の場合にも、これと対応することが考えられるだろうか?
もし私の場合と世界の場合とで事情が異なるのだとすれば、その理由は、現実世界とつながった歴史経過が別の世界に起こると考えたときに、その別の世界にもとの世界から連続した<私が>存在しつづけていると感じたからではないか。それはつまり、どの世界が現実であるかはそこに私が(しかも今)存在するか否かで決まる、ということではないか。
もしそうだとすると、神は、人間たちの中から一人を選んで意志によって私を創造するとき、諸世界の中から一つを選んで意志によって現実世界を創造するときの意志と知性の対比をそこでもう一度<反復>したのでは<ない>ことになる。その二つの行為は、じつは二つの別の行為ではなく、同じ一つの行為でしかありえなくなるからだ。”p.104-108
<>は傍点の代役。
ライプニッツ原理
何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ
何が経験されようと経験するのはつねに私だ
(現実世界や私の同一性は、起こったことや経験の内容と無関係。
何かが起こったり、何かを経験さえすれば、現実世界や私は同一〔そして恐らく唯一〕のままである)
カント原理
起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる
経験されることの内容的なつながりによってどれが私であるかが決まる
(現実世界や私の同一性を前提とせず、起こったことや経験内容によって現実世界や私であるかが決まる。現実世界や私は、起こったことと経験の大前提なのだが、その大前提が逆転している。これだと、私が二つに分裂して、片方だけが記憶を引き継げるとすると、記憶を引き継いだ側=私、となる。
対して、
ライプニッツ原理だと、今までの記憶を引き継いでい「ない」側が私となり、記憶を継いだ側が他者となりうる。
私が二つに分裂するということが私という言葉の定義上=唯一であると制約上、そもそも想定してはいけないのではないのか。私が、私①と私②に分裂したとしても、私=私①、私②=私あるいは私①から見た他者、となるだけで、私が分裂したことにならないのではなかろうか。他者が増えただけなのではないのか)
何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ
(あまりにも今までも違うことが起こっても、同じ世界のまま。
あまりにも今までと違っていても別の世界とはみなさない)
起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる
(今まであまりにも違っていれば、別の世界とみなす。複数の世界を想定)
何が経験されようと経験するのはつねに私だ
(経験内容に関係なく私はずっと私のままであり、別の私なるものはない)
経験されることの内容的なつながりによってどれが私であるかが決まる
(あまりにも今までと違う経験をする私は、別人Xであり私ではない。
あるいは、その別人こそが真のあるいは新たな私である)
“開闢そのものが、それによって開かれた世界の内部に位置づけられ、その内部を支配する条件の側から、その存在と持続の基準を与えられることになる。そうなれば「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」などとはもう言えない。これがカントの洞察だ、と。開闢とは、ここでは、その条件設定そのものの開闢である。
で、こんどはカントのお勉強。その条件とは、同じ世界が連続して存在しているといえるための条件である。世界のつながり方には因果性をはじめとする一定の型があって、それに従っていなければ同じ世界が連続して存在しているとはいえないのだ。その条件が、同じ私が連続して存在しているといえるための条件と一体をなしている。それがカントの決定的な洞察である。
一体をなしているから、「我思うゆえに我あり」という原理だけから客観的世界の存在が証明できる。なぜなら、意識に与えられたまとまりのない多様なものが、私の側が与える条件に従ってまとめられることが、すなわち客観的世界を構成する(=客観的世界が成立する)ことだからである。だから、意識の一定のまとまりだけで(そしてそれだけが)客観的世界を成立させることができる。それゆえ、すべての現象は、たとえ外的な事物であっても、ある意味ではやはり内的であるわけだ。
すると「内的」という言葉には二つの意味があることになる。客観的な外的世界をも含み込む意味での「内的」世界と、それを含まない「内的」世界、つまりいわゆる「心の中」とである。
だが、その「心の中」にも、二つの意味があるはずだ。客観的世界を成立させるはたらきそのものであるような「心の中」と、成立した客観的世界の内部に位置づけられるような「心の中」とである。カント的な用語で言えば、前者は「無規定的な(=位置づけられていない)私の存在」の「自己意識」にあたり、後者は「規定された(=位置づけられた)私の存在」に対する「自己認識」にあたる。つまり私は、ただ私であるだけで、この客観的世界そのものをはじめて成立させる主体であり、それと同時に、その世界の内部に存在する、身体をもって持続的に存在する、一人の人間でもあるわけだ。ここにもやはり、開闢を開闢された世界の内部に位置づけるという構造が見て取れるだろう。
しかし、ただ私であるだけのものが、客観的世界をはじめて成立させるはたらきなんぞというだいそれたものを、なぜ持てるのか。それは、私であるというまとまりをなすことが、それだけですでに、客観的世界を成立させるというまとまりをなすことと不可分の関係にあるからだ。だからこそ、「我思うゆえに我あり」という原理だけから、客観的世界の存在が証明できるどころか、証明されてしまわざるをえない、というわけだ。「我思う」から「我あり」を導く「ゆえに」の一語には、客観的世界の成立という大事件が隠れているのでなければならないのだ。
しかし、ここにはある循環構造がはらまれてはいまいか。ただ私であるというまとまりをなすことが、<すでにして>客観的世界を成立させるというまとまりをなすことと不可分の関係にあるのなら、その不可分の私は、すでにして成立した客観的世界の内部に位置づけられるような客観的人間なのではあるまいか。”p.109-111
<>は傍点の代用。
“「心の中」の諸表象が因果性その他の条件によって相互に関係づけられれば、そのことによって「心の外」の外界が成立する。そのように関係づけられて外界を成立させたとき、それは知覚や記憶等の客観的判断とされ、そうでないとき、<そのことによって>それは夢や幻覚や妄想等の主観的経験とされるわけだ。私が自らを一人の人間として客観的世界の中に位置づけていれば、たとえ私の客観的判断が他者によって訂正されても、私であるその人間の主観的経験(という名の客観的なもの)の実在が、なお認められるわけである。
因果性その他の条件によって関係づけられる、と言ったが、その条件がカテゴリーと呼ばれるものである。どんなに奇想天外な世界を想定しても、それがおよそわれわれに経験可能な世界であるならば、それはカテゴリーに従っていざるをえない。世界がこういう点で現実と違っていたらこのような概念を使うことができない、ともし語ることができるならば、そのような概念は単なる経験的概念であってカテゴリーではない。そんな場合をそもそも想定することができないとき、その概念はカテゴリーとなるわけだ。
ということは、カテゴリーはそもそも語る(枚挙する)ことができないはずではないか、という疑問(ウィトゲンシュタイン的疑問)が自然に湧いてくるが、それはいまは棚上げしておこう。カテゴリーの適用によって客観的世界が成立するなら、夢もまた客観的世界ではないか、という疑問もいまは棚上げにしよう。それよりも先に、カントのデカルト主義批判に注目すべきだからだ。
カントは、我思うゆえに我ありという原理だけから客観的世界の存在が証明できると言った。しかしこのことは、世界全体を経験する単一の非物質的な主体(肉体から離脱した霊魂あるいは自我)が実在するという意味ではない。世界を成立させるはたらきそれ自体もやはり世界の中に位置づけようとする傾向のために、われわれは、統覚のこの統一作用を世界の中にある単一の非物質的主体であるかのように誤認しがちである。だが、経験を可能にする統一のはたらきは世界を成立させることそのものなのだから、世界の中の一対象として現れることはできないのだ。客観的世界とそれを成立させる心のはたらきとの、この表裏一体性の認識は、カント哲学の比類なき洞察である。
この洞察によって、私が同じ私でありつづける条件と世界が同じでありつづける条件とが文字どおり一体化する。この洞察によって、私が二つに分裂するという思考実験が世界そのものが二つに分裂することとして理解されなければならない必然性がはじめて理解され、「私の今」が突然三十年前に戻ってしまうと無関係な森昌子も「せんせい」を歌ってデビューせざるをえない必然性がはじめて理解される。
だが、カントのこの比類なき洞察にも、致命的な難点が含まれている。たしかにカントは統一的な客観的世界の成立可能性の条件を示した。だが、統一的な客観的世界はまだ唯一の現実的な世界ではない。統一的な客観的世界としての条件を満たすもののうち、どれが唯一の現実世界となるのか。ライプニッツにあった唯一の現実世界の成立条件の問題が、カントにはないのだ。決定的とも見えるカントの批判からデカルトを擁護する道が、そこになお残されているはずなのである。”p.114-116
<>は傍点の代役
“私が夢を見ているとき、私は私の存在を客観的時間の中に位置づけてはいない。しかし、それがわかるのはつねに後からだ。私は、夢の中でも、その世界の他者と客観的世界を共有し、共通の客観的認識に達している――というように自分の諸表象をまとめあげている。私は、夢の中でも、知覚と幻覚を区別して体験することができる。いま私が夢を見ているとしても、私はそういう客観的世界の構成には成功している。
夢の中での知覚と幻覚の区別は夢の中での相対的区別にすぎないではないか、と言われるかもしれない。しかし、相対的区別という点では、現実の知覚と幻覚の区別も同じだ、というのがカントの根源的洞察であったはずだ。だから、「それがわかるのはつねに後からである」という構造自体は、夢でも現実でも変わらないだろう。他の諸世界を非現実として内部に位置づけて、いま私が存在する世界こそが、現実世界なのである。
夢世界は、他人にとってもまたそうであるという形で現れてくるかぎり、カント的には、統一的な客観的世界である。因果性その他の条件によって相互に関係づけられることで現実が存在するなら、夢もまた現実なのだ。”p.117-118
“私のあずかり知らぬところで、私のあずかり知らぬ主体が、突如として私のこれまでの経験の記憶を(私以上に正しく)受け継いだとしても、それは私には関係ない。たしかに一方ではそう言える。たとえその主体のその記憶がその主体自身にとって真なる記憶で、私にとってはそうでないとしても、である。
しかし他方では、内容的連関こそが「何が起ころうとそれが起こるのはつねに……」という原理を凌駕するとも考えられるのだ。このときはたらく原理は、現実と内容的に連続した世界でありながら現実世界でなくなることはありえない、という原理であり、私と内容的に連続した人でありながら私でなくなることはありえない、という原理である。それはすなわち、そこで神の意志がはたらくことは不可能である、神でさえそこに自由意志をはたらかせることはできない、というカント原理なのである。
ここには原理の対立があるのだが、ここで重要なことは、ライプニッツ原理とカント原理は、一方の原理によって他方の原理を包み込んで消滅させることはできない、ということである。
ただし、カント原理がライプニッツ的現実の内部でしかはたらかなくてもじゅうぶんカント原理だといえたのと同じように、ライプニッツ原理も、カント的に可能なもの『の中からの選択』(そのうち一つの現実化)としてしかはたらかなくても、じゅうぶんライプニッツ原理だといえるだろう。可能性の空間をはじめてつくりだすような強いライプニッツ原理は、むしろデカルト原理と呼ばれるべきかもしれない。
さて、この議論において、カントにはさらにもうひとつの貢献があるだろう。ライプニッツは無数の可能世界の中から一つを選んでそれに現実性を付与する能力が神にあると考えたが、私は、この能力は無数の人間の中から一人を選んでそれを〈私〉にする能力に対応すると考えた。カントは、『もし』神のそういう能力がありうる『とすれば』、その二つは同じ一つの能力でしかありえないことを論証したことになる。”p.126-127『』は傍点の代用。〈 〉は原文ママ。
“夢を見ているとき、われわれはそれが≪後で思い出される≫ことを意識していない。それは突如として思い出される。かりにもし夢を見ているときに後で思い出されると思っていたとしても、その思いと思い出しとは結びついていない。
現実に生きているとき、われわれはすでにそれが≪後で思い出される≫ことを知っている。思い出される可能性があらかじめ知られていて、それが思い出される。現在は、過去になったときはじめて過去だとわかるのでなく、現在であるその時すでにして必ず過去になることが知られている。つまり、現実の現在は、可能な現在のひとつにすぎないことが、その現場においてあらかじめ知られているわけだ。現在を可能な現在としての過去や未来の視点から位置づける超越論的構造が体験自体に宿っている。
文(命題)は否定できるが、絵(像)は否定できない。否定文(命題)は作れるが、否定絵(像)は描けない。これが言語の本質に属することは、『論理哲学論考』の根本洞察だった。だがそれなら、文は時制変換可能だが、絵はそれが不可能だ、も同じだろう。肯定絵を否定絵に変換する操作と同様、現在絵を過去絵に変換する操作もない。が、肯定文を否定文に変換する操作と同様、現在文を過去文に変換する操作は必ず存在する。言語をもつ存在であるわれわれは、端的な現在を可能な現在の一例として把握できるからだ。そしてそれは、まさにカント的な超越論的構成作用に基づいている。”p.140
“時制と同じことは、人称についてもいえるだろう。一枚の人物画はそれ以外の情報なしには自画像であるともないとも分からない。絵は人称を描けないからだ。対して、文は文自体の中に人称情報を繰り込むことができる。つまり私は私自身を、つまり現実の私を、可能な「私」の一例として把握し、「私は」と語り出すことができる。そのことによって、ただそのことによってのみ、過去や未来と同様、他我(他者の「私」)もまた必然的に存在することになるわけである。いわゆる独我論が誤りであることの根拠は、結局はそこにしかありえないだろう。
客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができること、人々が「あたりまえ」のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである。いいかえれば、カント哲学の洞察の深さはほとんど驚天動地というほかはないのである。もう一つおまけに四字熟語を使うなら、文字どおり空前絶後。”p.141 ≪≫は傍点の代役
「私」や「今」が唯一絶対のもののはずなのに、「他人も『私』や『今』という言葉を使え、しかも意味が了解できる」。
つまり、「私」や「今」が言語化された瞬間に、レベルが一段階下がってしまい、唯一絶対のはずのものが、共有可能で相対的なものになる。それが成立することは正に奇跡的でスサマジイことである。
“全宇宙に生起するすべての事実が記されている巨大な書物を想定しよう。その本には、文字どおりすべてが書かれている。昨日私が東千葉駅で見かけた野良猫の、二〇〇四年二月二十一日正午における身体全体の毛の総数までちゃんと記されている。でもその本には、いつが今であるかは記されていない。その本の中の「全宇宙史年表」が時計機能をあわせもっていたとしても、その針は、それだけでは今を示せない。それが今を示せるのは、その本の外に(そして時間の中に)いるわれわれが、それを『いま』見ることによってだからである。
同じことはもちろん「私」についても言える。その本には、だれが私であるかは書かれていない。全宇宙史年表の時計の針と同様、その本には各人の自己意識の記述があって、『私が』覗けば「永井均」と書かれているわけである。
どちらも、この本にあらかじめ書き込むことができない。だから、この二つの事実は「実在しない」というわけである。神の意志が神の知性の中にはないように。“p.144-145
今=私=私の世界=神の意志。
世界=神の知性
“哲学者たちはいわゆる独我論の誤りをいろいろな形で論じてきた。しかし、逆の問いが手つかずに残されている。すなわち「それなら逆に、その他人たちは私ではないのはどうしてなのか?」という問いである。
「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという根本的な違いが生じているのはなぜなのか?」――肝腎かなめのこの問いに、多少とも肉迫できた哲学者は、史上ひとりもいない。哲学の終焉とか哲学の生き残りとかを語る人々がいるが、私は哲学はまだ始まっていないと思っている。
もう一つの不満は、歴史上の哲学者たちがみなそうだったからであろう、下々の哲学徒たちまでが彼らの真似をして、彼らの下請け作業に没頭するばかりで、ふつうに生きていて素朴に哲学的関心をはぐくめば当然問題に感じてよいはずのこの問いに、だれも迫ろうとさえしないことだ。不可思議な事実のほうはまるで自明の事実であるかのように前提しておいて、それが不可思議であるということに驚嘆した不器用な誇張表現にすぎないいわゆる独我論なんか批判したって、何の意味もないことはあまりにも明らかではないか?
とはいえ、そうでもしなければとことん寄る辺ない存在になってしまう哲学者たちが、ほかのだれよりも伝統や風習や作法や定石(や徒党や流行!)に寄りかかってしまうことは、いまに始まったことではないし、また同情の余地もあるので、しつこく責めるのはやめて、マクタガートをめぐる議論にもどろう。”p.150-151
p.166“ところで、一般に哲学においては、議論で劣勢にまわる側に魅力的な視点と深い洞察が隠されていることが多いようだ。劣勢とはつまり、問題が解決されない側、解決できない側で、それなのに相手の「解決」にはどこまでも納得できない側である。”
“≪どちらか≫一方が私≪なら≫他方は私ではない。これは前提である。このとき、≪どちらか≫一方だけが私でありうる、というのがカント的意味で、≪この特定の側≫が現に私になってしまっている、というのがライプニッツ的意味だ。後者だけに、神の意志がはたらいている。それは端的な現実を作り出し、そして跡形もなく消えるのである。
神自身にもあてはまる
この区別は神自身にもあてはまるのではないだろうか。神の知性と神の意志の区別は、神自身にも遡及的に妥当するのではないだろうか。神の現実存在もまた、神の本質と独立に考えられねばならないからだ。神の存在についての、いわゆる存在論的証明をめぐる問題は、そのことを示している。
存在論的証明とは、たとえばこんなふうな証明である。「神は定義上完全である。ところで、もし存在しなければ完全さを欠く(完全ならば存在もまたするはず)。ゆえに、神は存在する。」こういう証明である。ん? 何か変だな、と誰でも思うだろう。
この証明をする(読む)人が神の存在を完璧に信じているほうがおもしろい。まちがいなく存在するはずの≪あの≫神に、この証明は到達しえているだろうか。最後に「ゆえに、存在する」とされた≪その≫神は、現に実在する≪あの≫神だろうか? 論証された「ゆえに、存在する」の「存在」の意味は、現に存在するあの「存在」(つまり現存在)を指せているだろうか?
(ここまでp.175 中略)
近代に入ると、デカルトが存在論的証明を復活させた。この伝統に対して、またまたカントが決定的な批判をおこなう。その趣旨は、「存在する」をその他の通常の述語と同列に並べることはできないというものである。定義上「立方体で赤くて軽くて小さい生き物」を考えると、それは定義によって立方体で赤くて軽くて小さい。その定義に「存在する」を加えると、それは定義によって存在もするようになる。つまり、それが赤くて小さいことが必然的真理であるのと同様、それが「存在する」こともまた必然的真理となる。しかし、そうなったからといって現実に存在するようになりはしない。それならというので、定義に「現実に」を付け加えて「現実に存在する」と定義してみても、定義上「現実に存在する」ようにはなるが、少しも現実に存在するようにはならない。「夢ではなく十億円持っている」という夢を見た人が、夢ではなく十億円持っていることにはならないように。そこにはつねに決定的な「断絶」(本章第2節)があるのだ。“
p.174-177≪≫は傍点の代役
言葉の世界の恐るべき特殊性。
“「我思うゆえに我あり」もまた、神の存在論的証明が成り立たないのと同じ理由で、成り立たない。
まちがいなく存在するはずの≪この≫私に、この証明は到達しえているだろうか。最後に「ゆえに、存在する」とされた≪その≫私は、現に存在する≪この≫私だろうか? 論証された「ゆえに、存在する」の「存在」の意味は、現に存在しているこの「存在」(つまり現存在)を指せているだろうか? 先ほどの神の存在を完璧に信じている人と同じ問題がここでも起きる。
神・現実・私・今
私もまた概念と存在(本質と実存)の一致を実現することはできない。
思うことによって存在が帰結するのは、思っていることが直接明らかな「私」だけであることをいくら強調しても、そのことはどの「私」についても言えるのだから、このコギト命題は結局「ある人思うゆえにその人あり」という概念的関係に還元されることになる。
(中略)
神が≪現実に≫存在することを証明するとは、この現実世界に神が存在することを証明することだろう。すると、神が存在しない可能世界もあることになる。このような存在の仕方は、神の本性に反してはいないか。そもそもそうした諸可能世界そのものが神の知性の内部にのみあるのではなかったか。
現実世界は諸可能世界の内の一つの世界であるにすぎない。ところが逆に、それらの諸可能世界はすべて、現実世界の内部で(そこに現実に存在するものを基にして、それを変容させて)構想されているにすぎないともいえる。だから、われわれはその現実世界の存在を「証明」することはできない。それは必然的に(あらゆる可能世界で成立するという意味での必然性よりももっと根本的な意味で必然的に)前提されるほかはない。すべてはそこから始まるのだ。
神はこの意味での(こういう二重性を持った)現実世界の創造者であるのだから、このことに対応して、同じ二重性を持つことになる。それは現実世界に現に存在するという意味では偶然的存在にすぎないが、同時にそのとこ〈引用者註。「そのこと」の間違いだろう〉によって必然的存在である。すべての可能世界はその内部にあるのだから。(ただし、神はその現実世界を超越したその創造者であるから、現実世界の存在とちがって、神の存在を前提にすることはできない。)“p.178-180
「完全」(=「存在する」という設定)という「設定」がある存在ならなんでもかんでも存在を証明してしまう。しかも、その証明はGOD以外の完全な存在を認めてしまう。そして複数いる完全な存在同士を区別したり不在だと証明はできない。
“言語は開闢を隠蔽する。逆に言えば、世界を開く。人称、時制、様相は、客観的世界の成立に不可欠な要件だが、それは開闢それ自体を隠蔽することによって可能になるのだ。「私の今の言語」――この言い方が、言語の内部ではその人称概念と時制概念に吸収されて理解されることになる。”p.222
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