空白こそが真実を示す。何を言ってい「ない」かと、言ってい「ない」理由こそが嘘の中心。嘘(フィクション)こそが真実を語る。『聖書アラビア起源説』。でっちあげ偽伝統の神道家の天皇。真の天皇は仏教徒。クリスチャン国学者の平田篤胤が神道=和風キリスト教作成。でっちあげ総本山の金剛峯寺(明治に創建)
Posted on 2014.12.14 Sun 17:26:24 edit
"真実が知りたい人の大半は
新しい宗教=執着の塊を探しているだけ。
真実は、信じる(検証しない)ことをやめて
疑って確かめる(理詰めで検証する)ことで近づける。
何が真実かはわからないが、
何が真実では「ない」かはわかる。
スピリチュアルをセットにして検証を妨害する新✝。 "
何が真実かはわからないが
何が真実では「ない」かはわかる。
嘘
嘘をつく理由
嘘のコストは三位一体。
嘘自体を作るのにかかるコスト。
嘘を維持するのにかかるコスト。
嘘と同様に、重要事項の欠落、空白、「ない」こそが
真実を指し示す。
世界史最大級の嘘は、聖書の神とイエスと聖書のユダヤ人の実在です。
聖書の神もイエスもユダヤ人も実在しません。
当然、彼らの子孫も遺伝子なんて存在しません。
自称と、ユダヤ教徒ならいますが、宗教名が民族名なんておかしいでしょう?
キリスト教はミトラ教の一派
だからクリスチャンはキリスト人?
ミトラ人?
当時の歴史書にも記述がなく、考古学的証拠もありませんから捏造です。
無論、宗教書=聖書=小説は根拠にできません。
なお、「キリスト」という記述が歴史書に出てきても無効。
キリストは称号=複数いる、ですから。
キリスト教の盗作元であるミトラ教にも拝火教にも救世主=キリストはいますから。
Bell Boyd@Bell_Boyd
旧約聖書における歴史記述を概観したが、王国時代の歴史記述が最も詳しく、バビロン捕囚以後の歴史は断片的にしか語られていない。ヘロドトスの『歴史』で有名なペルシャ戦争も、ユダヤは軍隊の通行路に当たっていたと考えられるが、旧約聖書ではまったく言及されていない。:wiki
ヘロドトスが古代イスラエル王国やユダ王国、そしてユダヤ教について何ら語っていないのはやはりおかしいですね。
kibikibi20@kibikibi20 · 2011年10月13日
ヘロドトスがギリシャ語で『歴史』を書いた時、エルサレム神殿は既に再建されていたのに、エジプトの隣の、当事としては特異な(興味を引くはずであった)1神教のユダヤ人について、彼は全くふれていない(不愉快で書かなかったのかもしれぬが)。サリービーの『聖書アラビア起源説』を信じたくなる
日本史最大級の嘘は、神道という天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教の実在です。
神社に権力はなく、単なる土着の信仰を扱う祭壇であり、仏教徒の天皇と坊さんの側近と武士勢力に支配し管理されるだけの存在でした。
神仏習合とは、仏が圧倒的優位であり、神と仏は対等ではありませんでした。
仏教徒の支配層が採用した本地垂迹説は、神は仏が変装した姿=神は実在しないですから、
天皇が神道家で神道のトップだったことはありえません。
仏教徒が他の宗教を支配してしただけです。
さあ、あなたの明治以前の日本史を思い出して下さい。
仏教用語、仏教美術、仏教文化、仏教徒の皇室と側近の坊さん、徳川と皇室の菩提寺、門跡寺院……
仏教ばかりですね。
逆に、神道用語、神道美術、神道文化、神道家の皇室と側近の神主、徳川と皇室を弔う神社(菩提は仏教用語)、門跡神社……
一切出てきませんね。
なのに、天皇が神道家のトップなのが明治以前からの伝統という大ウソがまかり通っているのです。
明治に日本がキリスト教の植民地になるまでは、天皇は道教家か仏教徒でした。
道教の時代の後に仏教国教時代が来て、明治にキリスト教に見えないキリスト教=国家神道が実質的国教となるまでは天皇はずっと仏教であり、側近も坊さんばかりなのに、
それをなかったことにしたいのが神道=キリスト教勢力です。
仏教は創造神を否定しますから。
村手 さとし@mkmogura·1月3日
神社格付けランキング。
3 どう考えても寺である。日光東照宮、鶴岡天満宮、下鴨
2 実はキリスト教とやたら親しい。つまり、神神うるさい。亀岡の出雲など。
1 もともと仏教な天皇が参拝したことはないのに、なんか天皇の神社みたいになっている。伊勢、他官国幣社多数。
子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi
泉涌寺が天皇家の菩提寺 ×神社
神仏習合=仏教化による神社支配(寺>神社)
鰐淵寺(出雲大社を管理)
石清水八幡宮護国寺
祗園社(祗園は仏教用語)
伊勢大神宮寺
弥勒寺(八幡大菩薩宇佐宮の宮寺)
鶴岡八幡宮寺(八幡は菩薩=仏教)
愛染寺(伏見稲荷大社を管理)
天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教=神道は明治期の #キリスト教 の捏造。
輪王寺:日光東照宮=寺の一部。天台宗の門跡寺院
寛永寺:徳川家菩提寺。天台宗
増上寺:徳川家菩提寺。浄土宗
仏教用語と仏像だらけの歴史。
初詣はキリスト教製の偽伝統。初詣の初出は明治18年。
キリスト教のおかげで真言宗は再興できた。金剛峯寺の建立は明治以降。
神社(和風教会)は神道=和風キリスト教の施設。
✝の手先に金が集まるのが全国初詣客数ランキングでわかる。
平和を願い戦争屋に金を送る大衆。
琢@777Taku7 · 12月22日
”@mkmogura @kitsuchitsuchi 日光東照宮・世良田東照宮・仙波東照宮・上野東照宮は徳川家縁の寺の近くに在る事からも解かるように、東照宮は元々独立した神社ではなく、寺の境内社でした。”
1869年に、豊臣秀吉ゆかりの寺院・青巖寺と興山寺を合併し、金剛峯寺と改称しました。
明治以降は、総本山寺院=「金剛峯寺」と称していて、あたかも明治以前からずっと真言宗の山だったふりをしているのです。
みやびや@two_dimensionsZ · 7月19日
総本山金剛峯寺。金剛峯寺自体は後発で、もともとは豊臣秀吉の母の剃髪を収めた剃髪寺。それが青厳寺となり、明治に入り行政からの要請を受け金剛峯寺に改名して総本山となった。
無月庵(風月堂)@MoonCottage · 2月3日
恵方というと…鉄道が変えた社寺参詣/平山昇によると、恵方の向きの社寺に参る恵方参りの昔からの習俗があったのが、鉄道会社が恵方の向きに関わらず参詣客を呼ぶために「初詣」として広告したのが始まりという。元来歳時記に「初詣」の語はなく初出は明治18年の新聞。
高野山開創1200年 南山坊@nanzanbou · 2012年10月10日
金剛峯寺に宗紋と氏子中と書かれた提灯。
※五三桐 - 豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋。
y.tama@tama311 · 9月21日
川崎大師。真言宗智山派大本山。初詣参拝客全国3位。かっては日本に初詣の習慣はなかった。京浜急行が引き込み線を入れ初詣を誘導。それが日本の初詣の始まりとか。電鉄が日本の正月風景を変えた(笑)
詳しくは過去記事(タイトルだけでお腹いっぱい)
偽伝統一覧。『日本の伝統』の多くは明治期の『創られた伝統』。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-47.html
御嶽山、浅間山、富士山関連の団体の動向をウォッチして下さい情報求む
大本教系も御嶽山とゆかりあり。『密教の本』『真言密教の本』。
明治まで実在しなかった金剛峯寺。青厳寺。興山寺。
後醍醐天皇の南朝正統宗教は真言立川流=セックスカルト。
醍醐寺はカルトメーカー。
のりぴーの真如苑。卍教団(ナチスと紅卍字会=大本教系ですか)。
皇室と関係ありの解脱会。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-39.html
多くの陰謀論者が無視する点を盛り込んで陰謀論者チェックリストを作りました~はじめにお読みください①
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
をよかったらどうぞ。
「天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教」という意味での神道は明治期の捏造です。
仏教の神=“~天”
神=祭壇+雷(神秘的存在)
だったので”神”は大したものではありません。
明治維新で日本を植民地化した欧米が土着の信仰を乗っ取り、神道なる偽伝統が産まれました。
漢字文化を否定する為に神代文字を捏造し、
仏を否定するのが国学と神道=キリスト教の手先。
仏教国教時代の本地垂迹説では神は仏が変装したもの=神は実在しません。
国学者の平田篤胤 はクリスチャンで、
本教=神道=和風キリスト教を発明しました。
平田篤胤が捏造した神代文字はハングルそっくりです。
無論、ハングルが先です。
神道家の偽天皇はキリスト教の捏造。
真の天皇は仏教徒。
Hikaru151系(国鉄特急こだま)@hiruandon89 · 7月1日
>「平田篤胤の紹介した神代文字、殆んどハングルではないか。テレビの先生も言っているが、やはり後世の偽造だろうな」 和魂洋才という語の発明者ですよね。国学は、捏造の学者から始まっているのか。歴史修正主義、前近代オカルト国家神道。あーあ
”平田神道:平田篤胤
1.宣長の継承者:平田篤胤(1776-1843)の神道-キリスト教の強い影響
1.禁書のキリスト教書-中国からひそかに入手し、彼の思想に取り入れた
2.『本教外編』(上・下)←カトリック宣教師からの盗作
3.上巻:M.リッチ著『き人十篇』の意訳、G.アレニ著『三山論学紀』の改訳
4.下巻:D.パントーハ著『七克』の翻訳
5.全能の創造神、三位一体、原罪、死後審判等のキリスト教教理が紹介
1.世の悪…責任を人間に帰している
2.宣長…「禍津日神」というカミに帰している
3.比較すると、一歩前進
2.平田篤胤著『霊の真柱』、『古史伝』…キリスト教教理をさらに深く神道理論と関係づけ
1.主宰神としての天之御中主神の登場
2.死後審判の思想の出現
3.宇宙支配の構造
1.天之御中主神…宇宙すべてを支配する主宰神
2.『古事記』の冒頭部分-「高天原」→「天御虚空」と改ざん
3.天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神…三位一体になぞられている
1.創造神としての「アメノミナカヌシ」の登場…神道で不明確であった宇宙全体の支配構造の明確化
2.大国主神の地位の向上…天孫降臨以前は国土を支配、天皇の祖神に譲り、
幽世(死んだ人間が行く世界)に行き、死後の人間の審判を行う役割
3.審判の基準が問題…顕世において「産霊大神の命賜へる性」に背くか否か
=この世で天皇の支配への服従があるかどうかに帰着
4.男神アダムと女神エバの話…日本からの輸出としている
1.きわめて偏狭な皇国中心主義を露呈
1・平田篤胤の思想…神道を肉付けするためにキリスト教から盗みとりしたにすぎない
2.しかし、篤胤の死後…平田派復古神道の尊皇主義を信奉する者が多数
-諸藩の下級武士、神職、地主、在郷商人等、門人は千人以上
”
http://www.aguro.jp/d/file/r/reli42.htm平田神道と国家神道
男神アダムと女神エバの話が日本からの輸出としているって、これが大本教の日本雛型論の元ネタ?
”国学者平田篤胤は神国思想に基づく国体を論じた。篤胤は禁書であったキリスト教関係の書を参照して、
「アメノミナカヌシノカミ」(天御中主神)を創造神に位置づけ、世界を「幽冥界」と「顕明界」とに分け、
前者は「オオクニヌシノミコト」(大国主命)が、
後者は「天皇」が統治する世界であると考えた。
そして天皇を全世界(人類・生物・物質)の統治者として位置づけた(平田篤胤『霊能御柱』)。
こうした平田国学は豪商豪農層に広い支持を獲得し、一部の武士階級にも尊皇・攘夷の思想を育んだ。
この解釈は1880年(明治13年)に始まる神道事務局祭神論争での出雲派の敗北によって表面上は衰退したが、現在でも神道系の新興宗教の多くはこの解釈を奉じている。”
国体
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93
あまりにもスサマジイ空白。「ない」を「ある」にする嘘と、嘘をつく理由、嘘を維持するにはコストが必要を考えると、
「ない」ことが真実を示します。
本記事で紹介する『聖書アラビア起源説』の著者カマール・サリービー博士も、
既存の旧約の舞台となる地域が正しいとを裏付ける具体的証拠が「ない」ことと、
聖書の記述にある火山地帯が、パレスチナ地方に「ない」ことと、
子音表記の文献を余りにも恣意的に母音を補って都合よく読んでいて、
他の地域こそが正しい旧約の舞台ではないのかと「検討すらしない」ことと、
旧約聖書の地名の大部分がアラビア半島南西部で発見することができるのに、
「完全に存在しないものとして無視されている」こと
=異常なまでの「ない」
に注目し、
ユダヤ教の旧約聖書が生まれた故地はパレスチナではなく、
アラビア半島南西部のアシールであると突き止めました。
アシールは、サウジアラビアのアスィール州であり、サウジアラビアの南西部にあり、わずかながらイエメンと国境を接します。
セム語学および固有名詞学の一分野である地名学により、
旧約聖書の舞台は現在のイスラエルではなく、サウジアラビアとイエメンにまたがるアシール地方であり、今のイスラエル建国に正当性なしと証明したのです。
聖書の舞台を誤訳と勝手な解釈で本来とは違う場所にでっちあげたということです。
場所を誤認させる叙述トリックとも言えます。
ヘブライ語は子音文字なので都合よく読めるので、日ユ同祖論詐欺と同様の問題が生じます。
母音を自分で補って読むので、解釈の意図と前提となる事柄に、母音がある言語よりも、強く依存します。
聖書の舞台を初めから決めつけているから、それに合わせて都合よく読まれ解釈されてきたというのが博士の主張です。
日ユ同祖論と同じ矛盾が生じていますね。
以上の説が受け入れられてしまうと、
現在のイスラエルに旧約聖書を根拠に国家を建設した口実
(キリスト教による植民地化が目的。ユダヤじゃないよ)が成立しなくなるので、
WASP至上主義陣営(イングランド+アメリカ系メイソン)の支配層に無視されております。
よって、
英語で書いたのに、聖書絶対派(最初の人類は黒人だと認めない派)が強い国では最初に出版できませんでした。
最初にこの本を出せたのはドイツです。
百科全書派のグラントリアン(=フランス)系メーソンが強い国です。
スコットランド+フランス+ドイツは三位一体で大東社系
(グラントリアン)
=既存のキリスト教を破壊して、新たなキリスト教の改造版を新たな世界宗教にしようとしている派閥です。
具体的には、
「悪を創ったのに絶対善の聖書の神」
という明らかに矛盾した設定を持つ存在=弱点を消して、
霊や見えない神秘的なものや宇宙人に置き換えた、
スピリチュアル(神智学)、
ニューエイジ(アクエリアス、水がめ座の新時代)、
レプティリアン(北極星信仰)説を広めているわけです。
爬虫類人は竜座出身で、竜座が昔は北極星でした。
ヴァイキングは北極星で方角を確かめていました。
ヴァイキングの船は竜を模しています。
(宇宙人の実在は私は否定も肯定もしません。原始仏教的姿勢です。
完全否定しません。まれに本物っぽいのがありますから)
地図があるところを二つ紹介しておきます。
検証: 聖書アラビア起源説 その2 0
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30408045.html
サウジアラビアのアシール地方では雨が多く農業が盛ん
http://blog.kantanwc.com/e409370.html
以下の引用により、シドンとティルス(レバノンあたり)というフェニキア人の根拠地のすぐ近くに古代イスラエルがあったはずなのに、古代レバノンの歴史に出てこ「ない」ことが分かります。
省いただけだって?
でもそもそもヘロドトスはユダヤに一切言及してい「ない」し、
考古学的証拠も「ない」のですよ。
そもそも場所はアラビア半島の下らへんが正しいならそりゃあ出てきませんよね。
「ない」って意識しないと気付きにくいんですよね。
加えて、古ヘブライ文字は、フェニキア文字に新しく付け加えた名前。
フェニキアと古へブライ文字はまったく同じ文字。
高野山全体を金剛峯寺と呼ぶことで、あたかも金剛峯寺が明治以前から存在したかのように見せかける歴史の捏造です。
どちらもキリスト教勢力による、名づけの呪術、偽の歴史の概念を奴隷に植え付ける召喚術、
要は、名づけ歴史詐欺です。
“シドン
セム系フェニキア人の最古の都市の一つ。フェニキア都市の起源は、中王国時代のエジプトが、レバノン杉を求めてビブロスに交易基地を設けたことにさかのぼる。「海の民」の移動後は、地中海交易を独占的に支配し、シナイ文字を継承した表音文字であるフェニキア文字をギリシア人に伝えるという文化史上重要な役割を果たした。この時期、シドンは姉妹都市ティルスとフェニキアの覇権を競った。その後、諸国に征服され服属しながらも、交易の拠点としての重要性は十字軍時代まで続いた。現在はサイダと改名され、レバノンの港湾都市として存続している。”
http://www.koubourico.natsu.gs/_tFdcTgl.html
“シドン(Sidon)
古代フェニキアの都市国家。前13世紀ごろから地中海の海上権を握り、商工業が栄えたが、前1100年ごろのアッシリアによる破壊以後衰えた。現在のレバノンのサイダにあたる。
フェニキアの港市。現在名サイダー。ガラス工芸・染色業で栄え,前12世紀ごろより東部地中海を支配,しばしばテュロスと覇権を争った。東方貿易の重要地点を占めるためしばしば諸国に征服されたが,その繁栄は十字軍時代まで続いた。
テュロスと並ぶフェニキアの海港都市。現在名サイダーで,レバノン南西部にある。古来,商業都市として繁栄し,シリア,パレスティナの内陸部への植民も行った。考古遺跡は前4千年紀にさかのぼる。〈アレクサンドロス大王の石棺〉と呼ばれる出土物で有名。前351年に反乱を起こして鎮圧されたペルシア帝国時代を含めて王政下にあったが,前3世紀初頭以後は貴族たちの下に共和政。のちエラガバルス帝によって,ローマ植民市の資格を受けた。
…フェニキアでは土着カナン人の勢力が存続し,アラム人,ヘブライ人,ギリシア人の発展とともに,植民,交易,航海によって新たな発展期を迎えた。まず,前代に繁栄したビュブロスやウガリトに代わって,アラドゥスAradus(アルワドArwad),テュロス(聖書ではツロ),シドンなどの都市が現れた。ホメロスの作品には,シドンのみがみられるが,前750年ころまでのフェニキアの中心都市はテュロスであった。…
”
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%B3-74518
古代レバノンの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
”フェニキア時代
現在、レバノンと呼ばれている地域が初めて歴史の表舞台に登場したのは、紀元前3000年ごろである。そのころのレバノンは、内陸部には鬱蒼とした森が茂り、海岸線には、一連の都市群が成立していた。セム系の民族で「フェニキア人」とギリシャ人から呼ばれた人々がこの地に居住していた。フェニキアの由来は、彼らが売っていた紫色(purple=phoinikies)の染料である。彼らフェニキア人は、自らのことを「シドンの人」と呼び、自らの国を「レバノン」と呼んでいた。この地域の自然とその位置のために、フェニキア人は、貿易と交渉に従事する場所を海(地中海)に求めた。
沿岸部にあった都市群は、それぞれがその住民の特別な行動で有名な独立した王国であった。ティルスとシドンは、海事上・通商上重要な拠点であった。また、Gubla(後にビュブロス、現在のジュバイル)やBerytus(現在のベイルート)は、貿易、宗教の中心地でも会った。Gublaは、古代エジプト(紀元前2686-2181年)と最初に通商を行ったフェニキアの都市であり、杉材、オリーブオイル、ワインを輸出し、金やその他の生産物をナイル川渓谷(すなわち、エジプト)から輸入していた。
紀元前17世紀の終わり、レバノンとエジプトの通商関係は、北方のセム系民族であるヒクソスがエジプトを征服したことによって、中断した。ヒクソスによる30年間と統治の後に、アモス1世(紀元前1570年-45年)によってエジプトの解放戦争が展開された。ヒクソスの統治に対して反発が強まるにつれ、エジプトのトトメス3世(紀元前1490-36年)がシリアに侵攻を実施し、ヒクソスの統治が終わり、レバノンはエジプトに編入された。
紀元前14世紀、エジプトが弱体化する中で、レバノンは、紀元前12世紀初頭には、独立を回復することができた。それからの3世紀は、コミュニケーションや貿易で利用された古代フェニキア人によるアルファベットの発明がなされた時代であり、繁栄と外国からの自由の時代でもあった。フェニキア人は、織物の生産に秀でていただけではなく、象牙彫刻、金属加工、とりわけ、ガラス製品の製造にも秀でていた。彼らは、地中海(特にキプロス、ロドス島、クレタ島、カルタゴ)に跋扈し、植民都市を建設、ヨーロッパと西アジアの交易路を確立した。その上、彼らの船は、ポルトガルによる世界一周の2000年前に、アフリカを周回していた。これらの植民都市と交易路は、アッシリアによる地中海沿岸地域への侵攻まで繁栄を極めた。
アッシリア時代
アッシリア時代は、紀元前875年から608年まで続いた。アッシリアは、フェニキアの都市群から独立と繁栄を奪い、フェニキア人は、複数回にわたり反乱を起こした。紀元前8世紀半ば、ティルスとビュブロスが反乱を起こしたが、ティグラト・ピレセル3世は、反乱を鎮圧し、重税を課した。また、紀元前721年にティルスは反乱を起こしたが、サルゴン2世(紀元前722年から705年)は、ティルスを包囲し、ティルスの民に処罰を与えた。紀元前7世紀に入るとシドンが反乱を起こしたが、エサルハドン(紀元前681-668年)によって、徹底的に破壊され、シドンの民は、奴隷化された。また、彼は、シドンの廃墟の上に、新しい都市を建設した。紀元前7世紀末アッシリア帝国は連続する反乱のために弱体化し、メソポタミアで勃興した新バビロニア王国によって滅ぼされる。
バビロニア・アケメネス朝ペルシアの時代
フェニキア都市群の反乱は、バビロニア時代(紀元前685年から636年)でも頻繁に反乱を起こした。ティルスは、再度反乱を起こし、ネブカドネザル2世の軍隊による包囲に対して13年間、抵抗を試みた。この長い包囲の後に待っていた結末は、降伏である。ティルスの王は廃位され、ティルスの民は、奴隷となった。
アケメネス朝ペルシアを創立したキュロス2世によって、紀元前539年ごろ、バビロニアの時代は終了を迎える。そして、フェニキアは周辺諸国とともに、ペルシャの領土に組み入れられた。カンビュセス2世(在位紀元前529年から522年)は、父・キュロスの拡大政策を引き継ぎ、紀元前529年に、シリア、レバノン、エジプトを属国化に成功した。ペルシャ戦争の時代、フェニキア人は、ペルシャを海軍力で支えた。しかし、ダレイオス1世(在位紀元前521年から485年)がフェニキア人に重税を課したために、レバノンの沿岸部の都市では反乱が起きた。
アレクサンドロス大王の時代
アレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼした。その過程で、彼は小アジアでペルシャの軍隊を紀元前333年に撃破、その後、レバノン海岸に歩を進めた。はじめは、フェニキア人は、アレクサンドロスの属国化を認識していたために、抵抗を試みようとはしなかったが、彼が、ティルスの神に対して生贄を要求するとティルスは、アレクサンドロスに対して反乱を起こした。アレクサンドロスは、紀元前332年の早い段階でティルスを包囲し、その6カ月後、ティルスは陥落し、住民は奴隷として売られていった。彼の死が紀元前323年とあまりにも早かったにもかかわらず、アレクサンドロスの遠征は、東地中海地方にギリシャの色を大きく残した。
セレウコス朝シリア・ローマ帝国の時代
(バールベックのバッカス神殿 の画像)
アレクサンドロスの死後、アレクサンドロスの大帝国はディアドコイと呼ばれる後継者たちの間で分割された。フェニキア、小アジア、北シリア、メソポタミアを含む帝国東部は、セレウコス朝の統治下に置かれた。南シリアとエジプトはプトレマイオス朝の統治下に置かれ、マケドニアを含むヨーロッパは、アンティゴノス朝の統治下に置かれるようになった。とはいえ、この分割がすぐにこの地方に平和をもたらしたとはいえない。というのも、セレウコス朝とプトレマイオス朝の間で、40年間に及ぶ衝突(シリア戦争)が経済の中心として繁栄していたフェニキアを自らの併呑しようと抗争を展開していたからである。最終的には、セレウコス朝の領土となった。
セレウコス朝の最後の世紀は、無秩序と王朝内の闘争の時代であった。紀元前64年、共和政ローマによる侵攻を許す。その結果、レバノンはシリアとともにローマの領土(シリア属州)となる。パックス・ロマーナと呼ばれる時代、レバノンでは経済的・知的活動が花開いた。かつてのフェニキアの都市であったビュブロス、シドン、ティルスは、ローマの市民権を付与された。これらの都市群は、陶器・ガラス・紫の染料の生産の中心地であった。港は、シリア、イラン、インドからの物産の集積地となった。また、同時に、杉材、香水、宝石、ワイン、果物がローマに輸出された。経済的繁栄は、都市の再興と郊外の発展へとつながった。神殿や大邸宅がこの時代に多く建設されると同時に、都市間は舗装道路で結ばれた。
テオドシウス1世が395年に死去するとローマ帝国は、東西に分割された。東ローマ帝国の統治の下で、ベイルート、ティルス、シドンは、ローマ時代よりも経済的繁栄を謳歌した。しかしながら、6世紀、バールベックの神殿建築群とベイルートは、地震によって崩壊した。3万人近い住民が死亡したと推測されている。加えて、東ローマ帝国は、レバノン地域に重税を課した。また、レバノン地域は、宗教面で相違があった。5世紀から6世紀のレバノン地域の混乱は、帝国を弱体化させると同時に、アラビア半島から侵攻してきたイスラームへの統治と改宗を容易にしたのである。”
バールベック
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF
”バールベック (アラビア語: بعلبك; Ba‘albakk、バアルバック)とは、レバノンの東部、ベイルートの北東約85km、ベカー高原の中央にある古代遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
バールベックとは「ベカー高原の主神」を意味し、ここにフェニキアの神ハダド(バアル)が祀られていた事に由来するといわれ、本来はフェニキア系の神々の聖地だったと考えられる。しかし後にギリシア・ローマ系の神々と習合し、祭神はジュピター・ビーナス・バッカスと呼ばれるようになった。 遺跡はこれら三神をそれぞれ祀る三つの神殿から構成されている。世界でも有数のローマ神殿跡である。
1世紀頃、ローマ帝国の手により最初の神殿が築かれたと考えられている。2世紀から3世紀に入り、ジュピター神殿・バッカス神殿が建てられる。中庭や柱廊などの造成もこのころのことと考えられている。
コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教と定めた後は神殿の破壊が進んだ。バールベックの神殿も、キリスト教の教会へと役割が変わったと考えられている。
7世紀、アラブ人の手に落ちる。以後、要塞化が進んだ。
2004年現在、観光と高原農業を主体とする小さな町になっている。”
サイダ、サイダー(Saida)=シドン(Sidon)は、レバノン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%80
”サイダ、サイダー(Saida)=シドン(Sidon)は、レバノン第3の都市で、南レバノン県の県都である。シドンはアラビア語で「漁場」「漁師」を意味する。ギリシャ人は「花に富む街」と呼んだ[1]。
レバノン内戦時には、首都ベイルート同様、イスラエル軍による攻撃にさらされて、市街は荒廃した。内戦終結後は、急速に復興して、ベイルート、トリポリと共に国立サイダ競技場を会場に2000年のアジアカップを開催し、日本にもその名を広めた。首相を務めたラフィーク・ハリーリーの生地。
古くはフェニキアの主要都市国家シドンとして繁栄しており、遺跡も発掘されている。紀元前5世紀にフェニキア人が建てたエシュムーン神殿遺跡がある。この遺跡の帯状彫刻には、酔った男達の姿、薄着をまとった神々の様子が生き生きと描かれており、フェニキア時代の人々の生活を知ることができる。アレクサンドロス大王の石棺[2]や他の王の石棺[3]にある彫刻は、いずれもシドンで発見されたものである。[4]。
紀元前19、18世紀頃、古代エジプト王朝の支配下で最盛期を迎えた。
1110年12月4日、シドンは第1回十字軍に占領され、エルサレム王国の重要な領地であるシドン地方の支配の中心地となった。その後も十字軍により何度か占領され、1249年にサラセンによって街は破壊された。1260年にはモンゴル人によって再度破壊された。17世紀のオスマン帝国による支配を経て、商業的に重要な街となった。”
ティルス(Tyrus)(テュロス(Tyros))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%B9
”ティルス(Tyrus)(テュロス(Tyros))は、レバノンの南西部、地中海に面する都市遺跡。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された史跡でもある。ティルスの現在の名前はスール(アラビア語: صور)ないしはティール(アラビア語で岩という意味)といわれる[1]。
ティルスは、現在小さな漁村であるスールの位置にかつてあった都市である。都市の起こりは紀元前2500年ごろといわれている。ティルスは紀元前1000年頃、ティルス王ヒラムが陸地から1キロメートルほど離れた小島に移した。紀元前332年に半島となった。
以後、フェニキア人の造った都市国家でも最大級にまで発展し、紀元前1000年頃にはフェニキアの首都となった。また、アレクサンダー大王に対して唯一抵抗したフェニキア国家でもあった。
レバノン内戦ではイスラエルによって占領された。
歴史
紀元前2500年、ビブロスやベイルートと共に、フェニキア人の都市として成立。 紀元前11世紀から紀元前9世紀に最盛期。ティルスの植民都市としてカルタゴを建設。 紀元前9世紀から紀元前8世紀にアッシリアの強大化によって勢力を失い、他のフェニキア諸都市と同様にアッシリアに従属する。 紀元前701年、エジプトと同盟しアッシリアに反乱。アッシリア王センナケリブの遠征軍に包囲され5年間抵抗するが、服属。 紀元前669年、エジプトと同盟しアッシリアに反乱。アッシリア王エサルハドンの遠征軍の攻撃を受ける。 紀元前585年、新バビロニア王ネブカドネザル2世の遠征軍に包囲され13年間にわたり抵抗した後、服属。 紀元前332年、マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)の東征軍に対し、フェニキア人の中で唯一激しく抵抗したが、包囲され、要塞化されたティルスの島に立てこもった。しかし、アレクサンドロス3世は艦隊で海上を封鎖し、7ヶ月かけて島との間の約1キロメートルを埋め立て陸続きにしてしまう。その後の総攻撃によりティルスは陥落。この戦いによるティルス側の戦死者は8,000人、陥落後さらに2,000人が殺害され、3万人のティルス市民が奴隷として囚われたといわれる。後にアレクサンドロス3世の許しを得てティルスは再建されるが、政治的にも経済的にも弱体化し、かつての繁栄は失われた。
その後、セレウコス朝シリアやローマ帝国の支配下に置かれ、12世紀には十字軍の支配を受ける。その後、イスラム化が進行するにつれ、ティルスは縮小され、ついには放棄される。
現在は、ローマ帝国支配時代の遺跡があまり風化せず数多く残るが[2]、都市としての面影は無い。周辺地域にてスールやアナーといった小さな村が点在するだけである。”
J・ナナミ@pinkglalem
”これは(教会が流した)デタラメ。実は、ユダヤ人など存在していない。古代のヘブライ人に最も近いのはイエメンユダヤ人だけで、あとは、ただのアラブ人かゲルマン人(アシュケナージ)。ナチスの最大のサポーターは、バチカンでした。
...RT;「ナチス=ユダヤ」
カザール人の末裔はモンゴロイドのY染色体を持っているスラブ(ロシア)人。ロシア人はヨーロッパの優生学からは非白人(女系コーカシアン)。その為にロマノフ王朝はボルシェビキ革命で滅ぼされた。
古代のイスラエルは、イエメン近くのアシールにあった。現在のイスラエルは。欧米の中東植民地化の拠点として建てられたニセモノ。「嘆きの壁」はフェニキア人のバアル神殿跡。教会は聖書すら捏造している。キリスト教の正体はミトラ教由来の悪魔崇拝。
おそらく本当の古代ユダヤ人(ヘブライ)はアシールに定住していて何処にも行っていない。魔法の絨毯作戦で、移住させたイエメン人をモサドが虚勢していたと言う話もあります。証拠隠滅のためか...?
このアラム人やフェニキア人がヘブライ人と勘違いされて、ユダヤ人と呼ばれていました。ローマ人もギリシャ人もそー呼んでいた。これが、ユダヤ人の「バビロン捕囚」のデマの出所。ヘブライ人(ユダヤ人)はイエメンの近くのアシールに住んでいて、エジプトにもバビロニアにも行っていない。
「聖書アラビア起源説」は、地名の誤りを指摘しているンですが、ナゼ誤ったのか?それは、アラム人とフェニキア人をヘブライ(ユダヤ)人と勘違いしていたから...この誤りを利用したのがミトラ教の亜種 #キリスト教。たぶんバアルとミトラ信仰のハイブリットカルト。”
ジャムマン@pookoomoo555·2013年7月20日
「真のユダヤ教徒」イエメンのユダヤ人は古代のヘブル語を話す。本当の古代イスラエルはイエメンとメッカの間のアシールにあった
イスラエル建国の際に連れて来られたユダヤ人は白人のイディシュと言うドイツ語の方言を話す(アシュケナージ)
http://ameblo.jp/pinkglalem-kingfisher/entry-11412288155.html …
カマール・サリービー
Kamal Suleiman Salibi
كمال سليمان الصليبي
『聖書アラビア起源説』
広河隆一 矢島三枝子 訳、
草思社 1988-12
・パレスチナでは遺跡発掘が盛んに行われたが、旧約の舞台であることを示す確たる証拠は出土していない。
・ダビデとソロモンが現在のエルサレムにかつていたことを証明する碑文も発見されていない。
・ソドムとゴモラは火山によって消滅したとされているが、現在それだとされている地域に火山活動の形跡が全くない。
・旧約聖書は、本来ヘブライ語聖書であり、子音のみで綴られていた。それが数世紀後、すでに古代ヘブライ語は使用されておらず、アラム語、アラビア語など他のセム語にとってかわられていた時代に、ユダヤ教の学者たちによって聖書の子音原文に母音が付加された。ところが、解読にあたった学者たちが、かつて聖書のヘブライ語がどう発音されていたかを知らず、かつ既に聖地はパレスチナであるという先入観を持っていた為、誤った母音付加がなされた。以来、旧約はずっと間違った読み方をされたまま、今日に至る。
旧約の真の誕生の地はアラビア半島西部だというのが著者の結論。
・サリービー博士はベイルートのアメリカン大学歴史学教授で、中東史の世界的権威である。本書が最初に出版されたのは、ドイツのロヴォルト社発行のドイツ語版であり、これまでにアラビア語、オランダ語、フランス語、フィンランド語などに翻訳され、さらにスペイン語、インドネシア語版がまもなく出版されることになっている。
だが、もともとのオリジナル原稿は英語で書かれており、この日本語版もそれにもとづいている。
なお、英語版はロンドンのジョナサン・ケイプ社から発行されている。
・ヘブライ語聖書は、いくつかの書は明らかにそれ以前の原書を編集しなおしたもので、おそらく紀元前四世紀頃、つまり古代イスラエル崩壊の後にまとめられたと考えられる。ヘブライ語聖書の原典は紀元前五世紀以前に存在したものであろう。その紀元前五世紀を境に、古代イスラエルの歴史が衰微し、滅び去り、ヘブライ語をはじめとするカナン語の様々な形態の語が話し言葉として使われなくなったのだ。
ヘブライ語は紀元前五ないし六世紀頃に日常語として使われなくなった。
・ヘブライ語に密接な関係を持つ現存のセム語は、アラビア語とシリア語(現代シリア語。古代アラム語の名残がある)。
セム語は、大きく分ければアフロ・アジア語族に属する言語されており、その中には古代エジプト語や現代ベルベル語、ハウサ語も含まれる。この語族のセム語派には、他にアッカド語(古代バビロニアとアッシリアの言語)、カナン語(古代のフェニキア語とヘブライ語はこの異形)、アラム語(現在のシリア語にその形態を残している)、そしてアラビア語がある。
これらのセム語に共通の特色は、三つの子音からなる語根から語が派生する、という規則を持っている点である。ふつうそれらの語根は、動詞とみなすことができる。その同士の語根から他の語が派生する際には、ある決まった型があり、その型に従って、他の動詞やさまざまな名詞、形容詞が形成されるのである。派生の型には、語根が母音を取り入れたり、一つあるいは複数の子音が語根の原形に加わったりする場合がある。だからセム語の辞書を引く時は、まずその語の語根を見つけ出し、その後に列記された多様な派生語をみることなる。セム語に属する諸言語のあいだでは、多くの語根が同じ意味、あるいはそれに近い意味で共有されているので、セム語派の言語を一つ習得すれば、他のセム語も比較的容易に修得できる。
子音表記の言語は話し言葉でなくなり、学問的言葉になると読みが失われ易くなります。読みを知っている人が減っていくのだから当然ですが。
・セム語が母音なしで子音のみで書き記されることが重要。
が、聖書の英訳版では聖書中の固有名詞は母音のついた形で記されている。これはマソラ学、つまり伝統的な聖書ヘブライ語の母音付加法に由来するものであり、この母音付加が誤っている可能性がある。マソラ学者たちは、もはやヘブライ語が日常語として使われていない時代に、ヘブライ語を再建しなければならなかったのである。
(音声記録装置もないからね。母音を補う為の昔の文化背景や前提の知識も失われていくからね)
・古代エジプトの記録に由来する言葉、とりわけ地名が、当時どのように発音されていたかは不明である。
・セム語派に属する諸言語は、同じ子音からなる語根とその派生語を、数多く共有している。派生語間に違いがあったとしても、それはごくわずかである。だからセム語派に属する諸言語を比較するには、その言葉を子音だけで綴らなければならない。
・筆者は実際にアラビア半島の西部を実際に旅行し、主要な遺跡を確かめ、さまざまな場所の位置関係を、地理学的、地形学的な観点から観察した。
・聖書の中の、考えうるほとんどすべての地名が、全長およそ600キロ、幅200キロの地域、つまり現在のアシール(アスィール)と、ヒジャーズ南部地方に集中していたのである。ヘブライ語聖書に記述されている地名に対応する地名がすべて、この地域内に見出せたのである。
これまで聖書の地とされてきた地域では、これら聖書の地名に対応する地名がひとつも見出せなかった点から見て、特筆すべきことである。
これほどまでに聖書の地名がヘブライ語の原形のままで集中的に見出せる場所は、他の中近東のどこにもないという点である。
ユダヤ教の起源はパレスチナではなくアラビア半島の西部であり、ヘブライ語聖書の舞台はこの地域である。無論、ユダヤ教徒がアラビア半島以外のパレスチナなどに住んでいなかったわけではない。筆者が言おうとしているのは、ヘブライ語聖書が、主にアラビア半島西部におけるユダヤ教徒の歴史的体験を記録したものだということである。残念ながら、ユダヤ教がどのようにして古代パレスチナに根を下ろしたのかについては、それを説明できる記録が残っていないので不明である。
・ユダヤ教の起源は、古代アシールの一神教の流れの中にあるとするの理にかなった見方である。古代アシールでは、ヤハウェ、エル・サバオス、エル・シャロム、エル・シャダイ、エル・エルヨンといった多数の山岳神たちが同一視されるようになり、最後にそれが唯一神とされるようになったのである。その経緯は不明であるが、恐らくは複数の地域部族の融合に関係があるのだろう。
・アラビア半島西部のカナン人は、ギリシャ人がフェニキア(アシールのファーニカー、つまり、フェニキア)と呼んだパレスチナ北部のシリア海岸沿いの土地に、自分達の名であるカナンを与えたと考えられる。フェニキアを、そこの住民自身がカナンと呼んでいたことは、ベイルートで発掘されたヘレニズム期の硬貨に示されている。そこにはフェニキア文字で、この町が「カナンの」町であると書かれ、またギリシャ語では「フェニキアの」町だと記されているのである。
ギリシャの歴史家ヘロドトスは、紀元前五世紀の「フェニキア人」と「パレスチナのシリア人」についての著述の中で、なんのためらいもなく、彼らの起源をアラビア半島西部としている。ヘロドトスはこの両者について、以下にように記している。
“「このフェニキア人は、彼ら自ら伝えるところによれば、古くは「紅海」辺に住んでいたが、その地からシリアに移り、シリアの海岸地帯に住むようになったという」(『歴史』7巻89節。同書1巻1節も見よ)。”p.32
・ユダヤ教徒のアラビア半島西部での記憶を消してしまうのに一役買ったのは
言語の変化だろう。この変化は紀元前六世紀までにアラビア、シリア、メソポタミアで起こっていた。
聖書のヘブライ語のようなカナン語の方言は、アラム語の方言とともに、アラビア半島西部とシリアで聖書の時代に一般に話されていた。ユダヤ教の経典は、後世の予言者による書の中のいくつかのアラム語の節を除いて、全てヘブライ語で書かれている。
しかし、紀元前五百年ごろになると、シリアのみならずアラビア半島でも、カナン語は、死語とまではならなくても、既に命脈を断ちそうになっていたのである。
一方のアラム語は、メソポタミア地方を含む全地域を広まっていた。アケメネス朝ペルシアのもとでは、アラム語は、ペルシャ帝国の公用語となり、そして中近東全域の混成共通語(リンガ・フランカ)となった。この地域の言語の変遷は、その後も数世紀にわたって続く。セム語の方言ではあるが、アラム語とは別の言語であるアラビア語が、中近東のさまざまな地方でアラム語にかわって勢力を伸ばしていった。この元来シリア-アラビア砂漠の遊牧民族のものであったアラビア語は、紀元後数百年にもなると、アラビア半島の大部分、そしてシリアやメソポタミアの各地でアラム語にとってかわっていったので、七、八世紀頃にはアラム語が話される地域はシリアとメソポタミアのほんの一部だけとなってしまった。
・聖書のヘブライ語が話されなくなったのに伴って、ユダヤ教の経典の読み方が不確実になった。ヘブライ語は、他のセム語派と同じく子音文字で書かれており、母音を自分で補わないといけない。
セム語派の例外には古代メソポタミアの言語、アッカド語がある。その楔形文字による記述は、アルファベット式ではなく音節文字(シラブル)式である。古代ヘブライ語は、今日のように母音を加えたり子音を二重子音化したりすることなく、その意味を理解しなければならなかったことを忘れてはならない。
アケメネス朝ペルシャ時代からパレスチナやバビロンに居住したユダヤ教徒は経典に記されたヘブライ語が元来どのように発音されていたかについて知らないまま、当時の話し言葉であったアラム語をモデルにして、その経典の母音付加を工夫していったのである。
・アラビア半島西部のユダヤ教徒はアラビア語を話すようになった。
・パレスチナとバビロニアのユダヤ教徒が、母音記号を使ってヘブライ語聖書の読み方が標準化するにいたったのは、およそ六世紀に入ってからで、そのときには既にヘブライ語や他のカナン語の方言がその一帯で話されていた時期から何百年もたっており、ユダヤ教がアラビア半島西部で誕生したことなど忘却の彼方にあった。
・ハスモーン家の時代に、アラビア半島にユダヤ教徒の王国がまだ残っていた可能性がある。それは、紀元前115年から紀元後6世紀まで栄えた、イエメンのヒムヤル王国である。ヒムヤルの最後の二人の国王は、敬虔なユダヤ教徒として知られているが、彼らが信奉したユダヤ教がどのようなものであったのかは定かには伝えられていない。
アラブの歴史的伝統から見て、彼らが故人の意志でユダヤ教に改宗したと考えるべき根拠はない。そしてヒムヤル王国の初代の王たちもユダヤ教徒であった可能性がないとは言い切れない。
歴史家のフラヴィウス・ヨセフスは、アラビア半島に古代ユダヤ教徒が住んでいたことを知っていたが、それ以上のことは何も言っていない。
このアラビア半島のヒムヤル王国のユダヤ教徒の王の存在は、ハスモーン家のユダヤ教の正当性を脅かした可能性もあるので、ハスモーン家が、故意に聖書中の地理をアラビア半島ではなくパレスチナの観点から再解釈しようと工夫したとも考えられる。
ヨセフスは紀元後70年に、『ユダヤ古代史』を著し、ユダヤ教徒の故国はパレスチナにあったとみなしている。それ以来、誰一人としてこのまことしやかな説を疑わずにきている。
中近東北部地域を永年調査、発掘したのにかかわらず、聖書の歴史に直接結び付くはっきりした証拠は何一つ発見されていないのである。
更に、ヘブライ語聖書の中にある幾千もの地名のうち、言語学的にパレスチナの地名の大部分が、シリア全域の地名と同様にはるか古代からのものであり、言語構造的に見ても圧倒的にカナン語やアラム語の名であって、アラビア語のものではないことを思い起こすと、特筆すべきことである。
聖書と同じ名を持つ場所がパレスチナにある場合ですら、その位置や距離の絶対的もしくは相対的関係を見ると、それらは聖書の文章と上手く対応させることができないのである。
ヨセフスの「キリスト証言」は後世の捏造
http://web.sfc.keio.ac.jp/~gaou/cgi-bin/mondou/html/022252.html
イエスは実在したか?-非信徒の聖書学 (新約聖書の福音書はまったくの作り話ではないのだろうか)
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/890.html
・ヘレニズム時代とローマ初期に編纂されたユダヤ教経典のギリシア語訳、いわゆる七十人訳聖書によれば、ハスモーン家の時代には、イエメンにユダヤ教徒の王国が本当に存在したか否かに関わらず、ヘブライ語聖書にある地がアラビア半島西部だとはもはやみなされていなかった。
また、死海写本では聖書中の創世記14章をアラム語で推敲したものがあるが、そこでは聖書中の多くの地名が、中近東東北部の各地と同一視されている。
・聖書のペリシテ人は謎の非セム系の海洋民族だとされているが、聖書中ではペリシテ人の主張のみならず彼らの神ダゴン(穀物の意)にも明らかにセム語的(事実、ヘブライ語である)な名が与えられている。
・メソポタミアにおけるヘブライ人の起源を示す跡、および彼らがそこから北シリア経由でパレスチナに向かったと考えられる跡が、一世紀以上に渡り念入りに探索されてきたにもかかわらず、いまだにそこには見当たらない。
・エジプトにイスラエル人の捕囚がいたこと、すなわち古代のいつの時代かにイスラエル人による出エジプトがあったという明白な証拠になるものが、いまだに発見されていないということである。
見当違いの場所を探しているのだから証拠がないのは当然。前提となる地理を問題とすべき。
msrymがエジプトのこととは限らない。ときとしてエジプトを意味する場合はあるが、それ以上にアラビア半島西部のアシール内陸部の町や地方を意味する場合が多い。
(sの下に点があるが表示できません。表示できない記号が普通に出て来るので読書メモではなるべく避けることにします)
・シリア沿岸部に住むフェニキア人が実際自らをカナン人と名乗っていた。
・古代の中近東史についてのヘロドトスの記述は、通常、歴史家や考古学者からその真価を認められることはない。聖書の舞台となる場所を間違えていたから合致しなくて当然である。ヘロドトスの述べている紅海とはペルシャ湾のことだという主張は信憑性がなく、とても支持できない。
・エジプト人は建築材や造船用として、(レバンノスギ、香柏よりも)アシールのセイヨウネズを確保することに関心があった。スギは建築や船の建造にはほとんど役に立たなかったからである。
・アラビア半島西部の多くの部族は、今日ではユダヤ教徒ではないが、自分達の遠い祖先はユダヤ教徒であったと主張している。また、その地方では聖書の預言者たちの土地はここであったと信じられている。アラビアの部族伝承には、アラブ人がまだ砂漠にいた頃、ユダヤ教徒がヒジャーズの山々(ママ)に住んでいたことや、ラクダを最初に家畜化したのはユダヤ教徒であったことが回顧的に述べられている。
・マソラ、つまり正統ユダヤ教学の完璧なまでの学問的誠実さのおかげで、ヘブライ語聖書正典の子音表記の原文は、古代から今日までほとんどそのままの形で伝えられている。
が、今日の聖書学者は、場所を間違えているのが真の原因なのに原文自体に非があるとしてしまう。腕の悪い職人が道具をけなすように。
遅くとも紀元前五世紀から四世紀までに現在の形をとったのが今の正典である。それはアケメネス朝時代に全巻がアラム語に翻訳され(タルグム聖書)、更にヘレニズム期にはギリシア語の七十人訳聖書ができたことからも推定される。
死海写本はこれらの翻訳版聖書よりも更に時代が下ってから編纂されたものである。
子音文字のヘブライ語聖書は、紀元前“後”六世紀から九世紀もしくは十世紀にかけて、当時のパレスチナやバビロニアのマソラ学者が考案した独特の母音記号によって音読できるものとなった。母音付加を行なったマソラ学者たちが千年以上にわたり話されてこなかった言語を再建した。
(どの程度再建できたのやら)
・聖書のソドムとゴモラが死海の近くにはなかったし、かつてこの二つの町を壊滅させたほどの活火山がその近辺にない。
・ヘブライ語聖書には多くの種類の鳥が登場するが、ガチョウやニワトリはその中に入っていない。古代の地理学者ストラボンによると、エチオピアから紅海にかけたアラビア地方の一帯は「ガチョウとキジ目の鳥を除く他のあらゆる種類の鳥が生息していた」p.68
点に特色があるという。
・ヘロドトスの著書から、フェニキア人とカナン人がアラビア半島西部からシリア沿岸部への移住を証拠だてた。
・コーラン(クルアーン)の本文は、マソラ学者たちがヘブライ語聖書正典の原文に母音付加し、校合(写本などを比べて、本文の異同を確かめたり誤りを正したりすること)しはじめたのとほぼ同じ時期に編纂された。
伝統的にイスラム教徒が最も信頼をおいている決定版のコーラン経典は、カリフ・ウスマーンの治世期、すなわち紀元後644年から656年のあいだに編纂されたとされている。そしてその経典中の、イスラエルのヘブライ人の族長やユダヤ教預言者たちについて触れた箇所には、明らかにアラビア半島西部の地名がいくつも引用されているのである。
(同時期ってとんでもなく怪しいな)
・モーセはホレブ山の炎の柴から出てきたヤハウェの天使によって呼びかけられたとある。
コーランでは神のモーセへの呼びかけはトゥワーの聖谷で起こったとされている。
これまで聖書のホレブ山はシナイにあるとされてきたが、そこにはそれに相当する地名は存在しない。柴は火に「燃えているのに、その柴はなくならなかった」とあることから、これは火山のことだと解釈している。が、シナイ地方には火山活動の跡はどこにもない。
一方、アシール地方では対応する山と地名が見つかる。
ヘブライ語聖書に対応するコーランの箇所はアラビア半島西部の歴史的過去についての記述であると考えるべき。
・レビ記では「大とかげ」(sb。sの下に点)が食物として忌み嫌われる爬虫類に一つとしてあげられている。
「大とかげ」、すなわち南パレスチナとシナイに生息するオオトカゲは、ワラル(wrl)もしくはワラン(wrn)と呼ばれている。聖書にあるsb(sの下に点)は明らかにアラビア砂漠のトカゲ、すなわちdabb(db。両者ともdの下に点)のことである。
イスラムの伝承では、ムハンマドは自らはdabb(db。両者ともdの下に点)を食べなかったが、教徒がそれを食べることは禁じなかったという。
今日のアラビア半島のシーア派はそれを禁止しているが、スンニ派では食べる人もいる。
dabb(db。両者ともdの下に点)は中近東の北部地方にはみられない。
(シーア派はゾロアスター教・マニ教・ミトラ教が混じっているから、爬虫類=悪なんでしょう)
・アシールには蝗の繁殖地があり、聖書にある「国の飢饉」を説明できる。
・イスラム時代に入ると、アシールの全域は、その肥沃な土壌と恵まれた鉱物資源にもかかわらず、アラビアの歴史では周辺的な役割しか果たさなくなる。
古代のアシール地方は、古代世界貿易の主要路が合流する場所として、当時の最重要地だった。また、海路においても、商船が紅海を往復しつつ、アシールのいくつもの港とアビシニア、ヌビア、エジプトの港を結んでいたと考えられる。
・ユダの地は、アシールのサラート山脈とその西にかけて緩やかに傾斜した地域。
・考古学的に見て決定的な証拠がないのに歴史的な結論を引き出すことは誤りだ。
ベエルシェバというパレスチナの町の近郊に、昔の要塞の遺跡らしいものを発見すると、聖書考古学者は他の可能性があることを考慮せず、イスラエル人の要塞を発見したと言明する。
子音表記の文章なので他の読みの可能性を検討しないといけない。
パレスチナで発見されたすべてのいわゆるヘブライ語--より正確にはカナン語—の碑文の類は、現代聖書学の圧力によって、それらが実際に持っている内容を越えたものとして解読されてきた。
その好例として、1910年にナブルス近郊で発見された、文字がいくつかの陶片をあげておく。それらはそのどこにもサマリアと述べられていないのに、サマリアの陶片と名付けられた。年代は紀元前778~770年のものとみなされているが、(その厳密な年代づけからしてかなり疑わしい)、そこには個人間の商取引の記録が刻まれていて、列記された人名を見ると、その幾人かはユダヤ教徒だったとわかる。その陶片には地名が一つもあげられていないし、また聖書中の人物や出来事について述べている箇所も見当たらない。
仮に年代が正しいとしても、読み取れることは、紀元前八世紀のパレスチナのナブルス地方にはユダヤ教徒が住んでいたらしいということだけだ。
訳者による補正を明記しない翻訳は、学問的誠実さが求められる分野では許されない。
これまでパレスチナ地方で発見されたヘブライ語の刻文の中には、エルサレムやその他の聖書の地名や人物について言及したものはほとんど見当たらない。
古代の文書や記録は、そこに聖書の地名の引用があるだけですべてパレスチナに関するものだとみなされてきた。が、必ずしもパレスチナに関するものである必要はない。
史料の不適切な名づけも行われている。
(名づけの呪術による、脳内への概念召喚)
(別の場所で刻まれたものを持ってきただけかもしれないし。子音文字なので、日ユ同祖論と同様に都合よく読むことが行われている例が他にも取り上げられている。場所という母音を補う大前提が間違っているのだから当然。聖書が正しいというのも間違い)
・“聖書の伝統的な読み方で、最もよくある間違いのひとつが、「彼は在る」または「彼は在るはずだ」(あるいは「それは在る」「それは在るはずだ」)という意味のyhwhを、イスラエルの神ヤハウェの名のyhwhと混同することである。”p.138
・ヨルダンは川ではない。聖書学者にはすでに周知であるが、実際にそれが川である指摘は聖書中のどこにもない。伝統的にパレスチナにある特定の川の名であるとされてきたが、それは常に川を意味するのではなく、アラビア語と同じく、その場所が「断崖」や「峰」であることを示す地形学用語でもある。
聖書のヨルダンは川ではなく南ヒジャースやアシールにある山脈の断崖や峰を意味する地形学用語である。
・聖書考古学者たちは今もパレスチナの死海周辺にソドム(またはゴモラ)の遺跡を探索し続けているが、その地域には古代の火山活動を示す形跡は何一つ発見されていない。
・msrym(sの下に点)は通常エジプトを意味すると考えられているが、それがエジプトを意味する語としてヘブライ語聖書にあらわれるのはごく限られた場合だけである。
聖書中の「パロ」もエジプトの支配者を意味するのではなく、アラビア半島西部のミスラーマやマスルといった土地にまつわる神を特に指す語だといえる。また同時にそれはその地域に住む部族の首長の称号でもあったようである。
・聖書のヨルダンはアラビア半島西部にある山脈の断崖のことである。
ユダ王国はアシール地方の沿岸丘陵地にあった。
ユダヤ人という名前はユダに由来する。ヘブライ語聖書はユダ王国で生まれた。
・エズラ記、ネヘミヤ記で確認できる総計130の地名と、アラビア半島西部一帯の村落との関係を見ると、所在をつきとめられなかったのはごく2、3のものだけである。
しかしもっと重要なのは、これらの地名のうち、パレスチナ地方で確定できる名はほんの一握りしかないことである(サイモンズによればわずか10箇所のみ)。しかもそのなかでも疑問の余地なく聖書にある語と一致するパレスチナ所在の名は更に限られる(ベツレヘム、ロド、ネボ、エリコ)。
よって聖書のユダの国とは、ローマ時代のパレスチナのユダエア(ユダヤ人の国)ではなく、かつてアラビア半島西部にあった国のことである。
ユダが南ヒジャーズとアシール沿岸の起伏に富んだ丘陵地帯にあったとすると、イスラエルももとは同じ高地にあったと考えられる。「神と争う」でも「神は争う」でもなく、「神の高み」であり直接にはアラビア半島西部の山岳地帯、中でも今日のアシール地方にその名が残っているサラート山脈に関係するものである。
・古代エジプト語とセム語がいとこ同士といえるぐらい近い関係にあるので、エジプトの書記が報告された地名を翻訳する際に間違えたことを指摘する聖書学者はおかしい。
・ヘブライ語で唯一神を意味するエロヒムは、エローア(一柱の神)の男性複数形。充分に考えられることは、かつてアラビア半島西部の各地や部族の神々の集合体(パンテオン)であったものが、ある時点で唯一神とみなされるようになったのだろうということである。
アラビア半島西部のアール(’l=ヘブライ語の’lすなわち「神」と比較せよ)ではじまる地名を数えあげて、その中からヘブライ語の’lの名残であると思われる、アラビア語の諦観しalのついた無数の地名をあげてみると、古代のアラビア半島西部の万神殿(パンテオン)には、もともとは何百という数の神々が祀られており、その中には様々な名で呼ばれていた神も含まれていたことがわかるだろう。
アール・サラーマ、
アール・アルヤーン、
アール・アルアッラムもしくは
アール・アルヤーン、
アール・アルアッラムもしくは
アール・アルアラム、
そしてシドゥク
(sdq。アラビア語の記録ではsdqまたはsdyq。
sの下に点)
などがある。
そしてヘブライ語聖書中では、
アール・サラーマ、
アール・アルヤーン、
アール・アルアッラム(またはアルアラム)などは、
明らかにイスラエルの神ヤハウェのこととされており、
シドゥク(sdq。sの下に点)はヤハウェの神殿としてあらわれている。
他にも数多くのアラビア半島西部の神々がヤハウェと同一視されており、それらの名がまたそれらの神々の故地に地名として残っている。
例えば、アール・サーディーは聖書ではエル・シャダイ(全能の神と訳されていることが多い)。
・ヤハウェは恐らく元々は山岳神だったのであろう。ヤハウェを単純に動詞hwh(これまでいばしば想定されてきたhyh=「在る」ではない)に由来する古い形の実詞であると考えれば、その意味もヘブライ語、アラビア語の「落ちる」ではなく、アラビア語の「そびえる」「高められる」であると説明できる(ヘブライ語にその意味はない)。うあはゑだけが超越的な至高の神とされたのは、山の神を示す名前によるのだろう。
ヤハウェがいつ他のアラビア半島西部の万神殿(パンテオン)の神々と同一視され、イスラエルのエロヒムとなったのかは不明。
選別が行われたことは指摘できる。バアル・ゼブブのようにバアルがつく神々はヤハウェと同一視されなかった。バアルは収穫の父または収穫する者の意味。
・アブラハムは「神々」に命じられて、イサクを生贄に捧げることになった。アブラハムは「神々」の命令に従い、生贄の祭壇の準備にとりかかった。そして息子がどこにいけにえの子羊はいるのかと尋ねたとき、それに答えてアブラハムは「単数形の神」が子羊を備えてくれるだろうと言った。これを聞いたヤハウェが姿を表して間に入り、イサクが生贄になるのをやめさせた。身代わりに一頭の雄羊をととのえた。アブラハムが「単数の神」を恐れたので、ヤハウェが満足したからだった。この部分は、一神教誕生の経緯を説明するためのものだと仮定するのは、あまりにも空想じみた考えだろうか?
(アブラハムがヤハウェを信仰したのはイサクを助けてくれたからかもね。
ヤハウェがエル=バアルの父、という説と合致しますね。バアルが多数派だっただろうから少数派だな。イサクが結局人身御供にならなかったのは、人間が生贄になることの否定かな。ノアの洪水神話を見ると生贄自体は捧げているからすべての生贄否定ではない。単数表現と複数表現を反映して訳すと嘘がばれるからやらないのね。
J・ナナミ@pinkglalem • 2013年12月6日
アブラハムは、なぜイサクを殺さなかったのか?人身御供と言うのはバアルの慣習で、この話は、ヘブライ人のバアルへの決別宣言ではないか?彼らはオリエントの超多数派とは違う信仰を持ったために、メインストリームから追われた少数派になった。アシールに聖書の記述と同じ地名が残るのは、そのため.
)
・アシールの沿岸側の渓谷地帯はイナゴの大群の発生で被害を被ってきた。飢饉があったという聖書の記述があるが、イナゴのせいかも。
・紀元前五世紀にヘロドトスは著書で、フェニキア人(シリア沿岸地方に住んでいた人々。フェニキア人の言語は、子音的には聖書のヘブライ語とほぼ一致する)は、かつては紅海沿岸地方に住んでいたが、後に地中海地方に移住し、「現在も彼らの住んでいる場所に定住する」と述べているが、その文中で彼はそれとは知らずに創世記10章18節にあるカナン人の「氏族がひろがった」という記述を認めていたことになる。アラビア半島西部にはファニーカーという村がある。
・割礼を受けないペリシテ人が信仰した神々の一つがダゴン(穀物、穀粒の意味)。
新しい宗教=執着の塊を探しているだけ。
真実は、信じる(検証しない)ことをやめて
疑って確かめる(理詰めで検証する)ことで近づける。
何が真実かはわからないが、
何が真実では「ない」かはわかる。
スピリチュアルをセットにして検証を妨害する新✝。 "
何が真実かはわからないが
何が真実では「ない」かはわかる。
嘘
嘘をつく理由
嘘のコストは三位一体。
嘘自体を作るのにかかるコスト。
嘘を維持するのにかかるコスト。
嘘と同様に、重要事項の欠落、空白、「ない」こそが
真実を指し示す。
世界史最大級の嘘は、聖書の神とイエスと聖書のユダヤ人の実在です。
聖書の神もイエスもユダヤ人も実在しません。
当然、彼らの子孫も遺伝子なんて存在しません。
自称と、ユダヤ教徒ならいますが、宗教名が民族名なんておかしいでしょう?
キリスト教はミトラ教の一派
だからクリスチャンはキリスト人?
ミトラ人?
当時の歴史書にも記述がなく、考古学的証拠もありませんから捏造です。
無論、宗教書=聖書=小説は根拠にできません。
なお、「キリスト」という記述が歴史書に出てきても無効。
キリストは称号=複数いる、ですから。
キリスト教の盗作元であるミトラ教にも拝火教にも救世主=キリストはいますから。
Bell Boyd@Bell_Boyd
旧約聖書における歴史記述を概観したが、王国時代の歴史記述が最も詳しく、バビロン捕囚以後の歴史は断片的にしか語られていない。ヘロドトスの『歴史』で有名なペルシャ戦争も、ユダヤは軍隊の通行路に当たっていたと考えられるが、旧約聖書ではまったく言及されていない。:wiki
ヘロドトスが古代イスラエル王国やユダ王国、そしてユダヤ教について何ら語っていないのはやはりおかしいですね。
kibikibi20@kibikibi20 · 2011年10月13日
ヘロドトスがギリシャ語で『歴史』を書いた時、エルサレム神殿は既に再建されていたのに、エジプトの隣の、当事としては特異な(興味を引くはずであった)1神教のユダヤ人について、彼は全くふれていない(不愉快で書かなかったのかもしれぬが)。サリービーの『聖書アラビア起源説』を信じたくなる
日本史最大級の嘘は、神道という天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教の実在です。
神社に権力はなく、単なる土着の信仰を扱う祭壇であり、仏教徒の天皇と坊さんの側近と武士勢力に支配し管理されるだけの存在でした。
神仏習合とは、仏が圧倒的優位であり、神と仏は対等ではありませんでした。
仏教徒の支配層が採用した本地垂迹説は、神は仏が変装した姿=神は実在しないですから、
天皇が神道家で神道のトップだったことはありえません。
仏教徒が他の宗教を支配してしただけです。
さあ、あなたの明治以前の日本史を思い出して下さい。
仏教用語、仏教美術、仏教文化、仏教徒の皇室と側近の坊さん、徳川と皇室の菩提寺、門跡寺院……
仏教ばかりですね。
逆に、神道用語、神道美術、神道文化、神道家の皇室と側近の神主、徳川と皇室を弔う神社(菩提は仏教用語)、門跡神社……
一切出てきませんね。
なのに、天皇が神道家のトップなのが明治以前からの伝統という大ウソがまかり通っているのです。
明治に日本がキリスト教の植民地になるまでは、天皇は道教家か仏教徒でした。
道教の時代の後に仏教国教時代が来て、明治にキリスト教に見えないキリスト教=国家神道が実質的国教となるまでは天皇はずっと仏教であり、側近も坊さんばかりなのに、
それをなかったことにしたいのが神道=キリスト教勢力です。
仏教は創造神を否定しますから。
村手 さとし@mkmogura·1月3日
神社格付けランキング。
3 どう考えても寺である。日光東照宮、鶴岡天満宮、下鴨
2 実はキリスト教とやたら親しい。つまり、神神うるさい。亀岡の出雲など。
1 もともと仏教な天皇が参拝したことはないのに、なんか天皇の神社みたいになっている。伊勢、他官国幣社多数。
子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi
泉涌寺が天皇家の菩提寺 ×神社
神仏習合=仏教化による神社支配(寺>神社)
鰐淵寺(出雲大社を管理)
石清水八幡宮護国寺
祗園社(祗園は仏教用語)
伊勢大神宮寺
弥勒寺(八幡大菩薩宇佐宮の宮寺)
鶴岡八幡宮寺(八幡は菩薩=仏教)
愛染寺(伏見稲荷大社を管理)
天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教=神道は明治期の #キリスト教 の捏造。
輪王寺:日光東照宮=寺の一部。天台宗の門跡寺院
寛永寺:徳川家菩提寺。天台宗
増上寺:徳川家菩提寺。浄土宗
仏教用語と仏像だらけの歴史。
初詣はキリスト教製の偽伝統。初詣の初出は明治18年。
キリスト教のおかげで真言宗は再興できた。金剛峯寺の建立は明治以降。
神社(和風教会)は神道=和風キリスト教の施設。
✝の手先に金が集まるのが全国初詣客数ランキングでわかる。
平和を願い戦争屋に金を送る大衆。
琢@777Taku7 · 12月22日
”@mkmogura @kitsuchitsuchi 日光東照宮・世良田東照宮・仙波東照宮・上野東照宮は徳川家縁の寺の近くに在る事からも解かるように、東照宮は元々独立した神社ではなく、寺の境内社でした。”
1869年に、豊臣秀吉ゆかりの寺院・青巖寺と興山寺を合併し、金剛峯寺と改称しました。
明治以降は、総本山寺院=「金剛峯寺」と称していて、あたかも明治以前からずっと真言宗の山だったふりをしているのです。
みやびや@two_dimensionsZ · 7月19日
総本山金剛峯寺。金剛峯寺自体は後発で、もともとは豊臣秀吉の母の剃髪を収めた剃髪寺。それが青厳寺となり、明治に入り行政からの要請を受け金剛峯寺に改名して総本山となった。
無月庵(風月堂)@MoonCottage · 2月3日
恵方というと…鉄道が変えた社寺参詣/平山昇によると、恵方の向きの社寺に参る恵方参りの昔からの習俗があったのが、鉄道会社が恵方の向きに関わらず参詣客を呼ぶために「初詣」として広告したのが始まりという。元来歳時記に「初詣」の語はなく初出は明治18年の新聞。
高野山開創1200年 南山坊@nanzanbou · 2012年10月10日
金剛峯寺に宗紋と氏子中と書かれた提灯。
※五三桐 - 豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋。
y.tama@tama311 · 9月21日
川崎大師。真言宗智山派大本山。初詣参拝客全国3位。かっては日本に初詣の習慣はなかった。京浜急行が引き込み線を入れ初詣を誘導。それが日本の初詣の始まりとか。電鉄が日本の正月風景を変えた(笑)
詳しくは過去記事(タイトルだけでお腹いっぱい)
偽伝統一覧。『日本の伝統』の多くは明治期の『創られた伝統』。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-47.html
御嶽山、浅間山、富士山関連の団体の動向をウォッチして下さい情報求む
大本教系も御嶽山とゆかりあり。『密教の本』『真言密教の本』。
明治まで実在しなかった金剛峯寺。青厳寺。興山寺。
後醍醐天皇の南朝正統宗教は真言立川流=セックスカルト。
醍醐寺はカルトメーカー。
のりぴーの真如苑。卍教団(ナチスと紅卍字会=大本教系ですか)。
皇室と関係ありの解脱会。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-39.html
多くの陰謀論者が無視する点を盛り込んで陰謀論者チェックリストを作りました~はじめにお読みください①
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
をよかったらどうぞ。
「天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教」という意味での神道は明治期の捏造です。
仏教の神=“~天”
神=祭壇+雷(神秘的存在)
だったので”神”は大したものではありません。
明治維新で日本を植民地化した欧米が土着の信仰を乗っ取り、神道なる偽伝統が産まれました。
漢字文化を否定する為に神代文字を捏造し、
仏を否定するのが国学と神道=キリスト教の手先。
仏教国教時代の本地垂迹説では神は仏が変装したもの=神は実在しません。
国学者の平田篤胤 はクリスチャンで、
本教=神道=和風キリスト教を発明しました。
平田篤胤が捏造した神代文字はハングルそっくりです。
無論、ハングルが先です。
神道家の偽天皇はキリスト教の捏造。
真の天皇は仏教徒。
Hikaru151系(国鉄特急こだま)@hiruandon89 · 7月1日
>「平田篤胤の紹介した神代文字、殆んどハングルではないか。テレビの先生も言っているが、やはり後世の偽造だろうな」 和魂洋才という語の発明者ですよね。国学は、捏造の学者から始まっているのか。歴史修正主義、前近代オカルト国家神道。あーあ
”平田神道:平田篤胤
1.宣長の継承者:平田篤胤(1776-1843)の神道-キリスト教の強い影響
1.禁書のキリスト教書-中国からひそかに入手し、彼の思想に取り入れた
2.『本教外編』(上・下)←カトリック宣教師からの盗作
3.上巻:M.リッチ著『き人十篇』の意訳、G.アレニ著『三山論学紀』の改訳
4.下巻:D.パントーハ著『七克』の翻訳
5.全能の創造神、三位一体、原罪、死後審判等のキリスト教教理が紹介
1.世の悪…責任を人間に帰している
2.宣長…「禍津日神」というカミに帰している
3.比較すると、一歩前進
2.平田篤胤著『霊の真柱』、『古史伝』…キリスト教教理をさらに深く神道理論と関係づけ
1.主宰神としての天之御中主神の登場
2.死後審判の思想の出現
3.宇宙支配の構造
1.天之御中主神…宇宙すべてを支配する主宰神
2.『古事記』の冒頭部分-「高天原」→「天御虚空」と改ざん
3.天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神…三位一体になぞられている
1.創造神としての「アメノミナカヌシ」の登場…神道で不明確であった宇宙全体の支配構造の明確化
2.大国主神の地位の向上…天孫降臨以前は国土を支配、天皇の祖神に譲り、
幽世(死んだ人間が行く世界)に行き、死後の人間の審判を行う役割
3.審判の基準が問題…顕世において「産霊大神の命賜へる性」に背くか否か
=この世で天皇の支配への服従があるかどうかに帰着
4.男神アダムと女神エバの話…日本からの輸出としている
1.きわめて偏狭な皇国中心主義を露呈
1・平田篤胤の思想…神道を肉付けするためにキリスト教から盗みとりしたにすぎない
2.しかし、篤胤の死後…平田派復古神道の尊皇主義を信奉する者が多数
-諸藩の下級武士、神職、地主、在郷商人等、門人は千人以上
”
http://www.aguro.jp/d/file/r/reli42.htm平田神道と国家神道
男神アダムと女神エバの話が日本からの輸出としているって、これが大本教の日本雛型論の元ネタ?
”国学者平田篤胤は神国思想に基づく国体を論じた。篤胤は禁書であったキリスト教関係の書を参照して、
「アメノミナカヌシノカミ」(天御中主神)を創造神に位置づけ、世界を「幽冥界」と「顕明界」とに分け、
前者は「オオクニヌシノミコト」(大国主命)が、
後者は「天皇」が統治する世界であると考えた。
そして天皇を全世界(人類・生物・物質)の統治者として位置づけた(平田篤胤『霊能御柱』)。
こうした平田国学は豪商豪農層に広い支持を獲得し、一部の武士階級にも尊皇・攘夷の思想を育んだ。
この解釈は1880年(明治13年)に始まる神道事務局祭神論争での出雲派の敗北によって表面上は衰退したが、現在でも神道系の新興宗教の多くはこの解釈を奉じている。”
国体
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93
あまりにもスサマジイ空白。「ない」を「ある」にする嘘と、嘘をつく理由、嘘を維持するにはコストが必要を考えると、
「ない」ことが真実を示します。
本記事で紹介する『聖書アラビア起源説』の著者カマール・サリービー博士も、
既存の旧約の舞台となる地域が正しいとを裏付ける具体的証拠が「ない」ことと、
聖書の記述にある火山地帯が、パレスチナ地方に「ない」ことと、
子音表記の文献を余りにも恣意的に母音を補って都合よく読んでいて、
他の地域こそが正しい旧約の舞台ではないのかと「検討すらしない」ことと、
旧約聖書の地名の大部分がアラビア半島南西部で発見することができるのに、
「完全に存在しないものとして無視されている」こと
=異常なまでの「ない」
に注目し、
ユダヤ教の旧約聖書が生まれた故地はパレスチナではなく、
アラビア半島南西部のアシールであると突き止めました。
アシールは、サウジアラビアのアスィール州であり、サウジアラビアの南西部にあり、わずかながらイエメンと国境を接します。
セム語学および固有名詞学の一分野である地名学により、
旧約聖書の舞台は現在のイスラエルではなく、サウジアラビアとイエメンにまたがるアシール地方であり、今のイスラエル建国に正当性なしと証明したのです。
聖書の舞台を誤訳と勝手な解釈で本来とは違う場所にでっちあげたということです。
場所を誤認させる叙述トリックとも言えます。
ヘブライ語は子音文字なので都合よく読めるので、日ユ同祖論詐欺と同様の問題が生じます。
母音を自分で補って読むので、解釈の意図と前提となる事柄に、母音がある言語よりも、強く依存します。
聖書の舞台を初めから決めつけているから、それに合わせて都合よく読まれ解釈されてきたというのが博士の主張です。
日ユ同祖論と同じ矛盾が生じていますね。
以上の説が受け入れられてしまうと、
現在のイスラエルに旧約聖書を根拠に国家を建設した口実
(キリスト教による植民地化が目的。ユダヤじゃないよ)が成立しなくなるので、
WASP至上主義陣営(イングランド+アメリカ系メイソン)の支配層に無視されております。
よって、
英語で書いたのに、聖書絶対派(最初の人類は黒人だと認めない派)が強い国では最初に出版できませんでした。
最初にこの本を出せたのはドイツです。
百科全書派のグラントリアン(=フランス)系メーソンが強い国です。
スコットランド+フランス+ドイツは三位一体で大東社系
(グラントリアン)
=既存のキリスト教を破壊して、新たなキリスト教の改造版を新たな世界宗教にしようとしている派閥です。
具体的には、
「悪を創ったのに絶対善の聖書の神」
という明らかに矛盾した設定を持つ存在=弱点を消して、
霊や見えない神秘的なものや宇宙人に置き換えた、
スピリチュアル(神智学)、
ニューエイジ(アクエリアス、水がめ座の新時代)、
レプティリアン(北極星信仰)説を広めているわけです。
爬虫類人は竜座出身で、竜座が昔は北極星でした。
ヴァイキングは北極星で方角を確かめていました。
ヴァイキングの船は竜を模しています。
(宇宙人の実在は私は否定も肯定もしません。原始仏教的姿勢です。
完全否定しません。まれに本物っぽいのがありますから)
地図があるところを二つ紹介しておきます。
検証: 聖書アラビア起源説 その2 0
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30408045.html
サウジアラビアのアシール地方では雨が多く農業が盛ん
http://blog.kantanwc.com/e409370.html
以下の引用により、シドンとティルス(レバノンあたり)というフェニキア人の根拠地のすぐ近くに古代イスラエルがあったはずなのに、古代レバノンの歴史に出てこ「ない」ことが分かります。
省いただけだって?
でもそもそもヘロドトスはユダヤに一切言及してい「ない」し、
考古学的証拠も「ない」のですよ。
そもそも場所はアラビア半島の下らへんが正しいならそりゃあ出てきませんよね。
「ない」って意識しないと気付きにくいんですよね。
加えて、古ヘブライ文字は、フェニキア文字に新しく付け加えた名前。
フェニキアと古へブライ文字はまったく同じ文字。
高野山全体を金剛峯寺と呼ぶことで、あたかも金剛峯寺が明治以前から存在したかのように見せかける歴史の捏造です。
どちらもキリスト教勢力による、名づけの呪術、偽の歴史の概念を奴隷に植え付ける召喚術、
要は、名づけ歴史詐欺です。
“シドン
セム系フェニキア人の最古の都市の一つ。フェニキア都市の起源は、中王国時代のエジプトが、レバノン杉を求めてビブロスに交易基地を設けたことにさかのぼる。「海の民」の移動後は、地中海交易を独占的に支配し、シナイ文字を継承した表音文字であるフェニキア文字をギリシア人に伝えるという文化史上重要な役割を果たした。この時期、シドンは姉妹都市ティルスとフェニキアの覇権を競った。その後、諸国に征服され服属しながらも、交易の拠点としての重要性は十字軍時代まで続いた。現在はサイダと改名され、レバノンの港湾都市として存続している。”
http://www.koubourico.natsu.gs/_tFdcTgl.html
“シドン(Sidon)
古代フェニキアの都市国家。前13世紀ごろから地中海の海上権を握り、商工業が栄えたが、前1100年ごろのアッシリアによる破壊以後衰えた。現在のレバノンのサイダにあたる。
フェニキアの港市。現在名サイダー。ガラス工芸・染色業で栄え,前12世紀ごろより東部地中海を支配,しばしばテュロスと覇権を争った。東方貿易の重要地点を占めるためしばしば諸国に征服されたが,その繁栄は十字軍時代まで続いた。
テュロスと並ぶフェニキアの海港都市。現在名サイダーで,レバノン南西部にある。古来,商業都市として繁栄し,シリア,パレスティナの内陸部への植民も行った。考古遺跡は前4千年紀にさかのぼる。〈アレクサンドロス大王の石棺〉と呼ばれる出土物で有名。前351年に反乱を起こして鎮圧されたペルシア帝国時代を含めて王政下にあったが,前3世紀初頭以後は貴族たちの下に共和政。のちエラガバルス帝によって,ローマ植民市の資格を受けた。
…フェニキアでは土着カナン人の勢力が存続し,アラム人,ヘブライ人,ギリシア人の発展とともに,植民,交易,航海によって新たな発展期を迎えた。まず,前代に繁栄したビュブロスやウガリトに代わって,アラドゥスAradus(アルワドArwad),テュロス(聖書ではツロ),シドンなどの都市が現れた。ホメロスの作品には,シドンのみがみられるが,前750年ころまでのフェニキアの中心都市はテュロスであった。…
”
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%B3-74518
古代レバノンの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
”フェニキア時代
現在、レバノンと呼ばれている地域が初めて歴史の表舞台に登場したのは、紀元前3000年ごろである。そのころのレバノンは、内陸部には鬱蒼とした森が茂り、海岸線には、一連の都市群が成立していた。セム系の民族で「フェニキア人」とギリシャ人から呼ばれた人々がこの地に居住していた。フェニキアの由来は、彼らが売っていた紫色(purple=phoinikies)の染料である。彼らフェニキア人は、自らのことを「シドンの人」と呼び、自らの国を「レバノン」と呼んでいた。この地域の自然とその位置のために、フェニキア人は、貿易と交渉に従事する場所を海(地中海)に求めた。
沿岸部にあった都市群は、それぞれがその住民の特別な行動で有名な独立した王国であった。ティルスとシドンは、海事上・通商上重要な拠点であった。また、Gubla(後にビュブロス、現在のジュバイル)やBerytus(現在のベイルート)は、貿易、宗教の中心地でも会った。Gublaは、古代エジプト(紀元前2686-2181年)と最初に通商を行ったフェニキアの都市であり、杉材、オリーブオイル、ワインを輸出し、金やその他の生産物をナイル川渓谷(すなわち、エジプト)から輸入していた。
紀元前17世紀の終わり、レバノンとエジプトの通商関係は、北方のセム系民族であるヒクソスがエジプトを征服したことによって、中断した。ヒクソスによる30年間と統治の後に、アモス1世(紀元前1570年-45年)によってエジプトの解放戦争が展開された。ヒクソスの統治に対して反発が強まるにつれ、エジプトのトトメス3世(紀元前1490-36年)がシリアに侵攻を実施し、ヒクソスの統治が終わり、レバノンはエジプトに編入された。
紀元前14世紀、エジプトが弱体化する中で、レバノンは、紀元前12世紀初頭には、独立を回復することができた。それからの3世紀は、コミュニケーションや貿易で利用された古代フェニキア人によるアルファベットの発明がなされた時代であり、繁栄と外国からの自由の時代でもあった。フェニキア人は、織物の生産に秀でていただけではなく、象牙彫刻、金属加工、とりわけ、ガラス製品の製造にも秀でていた。彼らは、地中海(特にキプロス、ロドス島、クレタ島、カルタゴ)に跋扈し、植民都市を建設、ヨーロッパと西アジアの交易路を確立した。その上、彼らの船は、ポルトガルによる世界一周の2000年前に、アフリカを周回していた。これらの植民都市と交易路は、アッシリアによる地中海沿岸地域への侵攻まで繁栄を極めた。
アッシリア時代
アッシリア時代は、紀元前875年から608年まで続いた。アッシリアは、フェニキアの都市群から独立と繁栄を奪い、フェニキア人は、複数回にわたり反乱を起こした。紀元前8世紀半ば、ティルスとビュブロスが反乱を起こしたが、ティグラト・ピレセル3世は、反乱を鎮圧し、重税を課した。また、紀元前721年にティルスは反乱を起こしたが、サルゴン2世(紀元前722年から705年)は、ティルスを包囲し、ティルスの民に処罰を与えた。紀元前7世紀に入るとシドンが反乱を起こしたが、エサルハドン(紀元前681-668年)によって、徹底的に破壊され、シドンの民は、奴隷化された。また、彼は、シドンの廃墟の上に、新しい都市を建設した。紀元前7世紀末アッシリア帝国は連続する反乱のために弱体化し、メソポタミアで勃興した新バビロニア王国によって滅ぼされる。
バビロニア・アケメネス朝ペルシアの時代
フェニキア都市群の反乱は、バビロニア時代(紀元前685年から636年)でも頻繁に反乱を起こした。ティルスは、再度反乱を起こし、ネブカドネザル2世の軍隊による包囲に対して13年間、抵抗を試みた。この長い包囲の後に待っていた結末は、降伏である。ティルスの王は廃位され、ティルスの民は、奴隷となった。
アケメネス朝ペルシアを創立したキュロス2世によって、紀元前539年ごろ、バビロニアの時代は終了を迎える。そして、フェニキアは周辺諸国とともに、ペルシャの領土に組み入れられた。カンビュセス2世(在位紀元前529年から522年)は、父・キュロスの拡大政策を引き継ぎ、紀元前529年に、シリア、レバノン、エジプトを属国化に成功した。ペルシャ戦争の時代、フェニキア人は、ペルシャを海軍力で支えた。しかし、ダレイオス1世(在位紀元前521年から485年)がフェニキア人に重税を課したために、レバノンの沿岸部の都市では反乱が起きた。
アレクサンドロス大王の時代
アレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼした。その過程で、彼は小アジアでペルシャの軍隊を紀元前333年に撃破、その後、レバノン海岸に歩を進めた。はじめは、フェニキア人は、アレクサンドロスの属国化を認識していたために、抵抗を試みようとはしなかったが、彼が、ティルスの神に対して生贄を要求するとティルスは、アレクサンドロスに対して反乱を起こした。アレクサンドロスは、紀元前332年の早い段階でティルスを包囲し、その6カ月後、ティルスは陥落し、住民は奴隷として売られていった。彼の死が紀元前323年とあまりにも早かったにもかかわらず、アレクサンドロスの遠征は、東地中海地方にギリシャの色を大きく残した。
セレウコス朝シリア・ローマ帝国の時代
(バールベックのバッカス神殿 の画像)
アレクサンドロスの死後、アレクサンドロスの大帝国はディアドコイと呼ばれる後継者たちの間で分割された。フェニキア、小アジア、北シリア、メソポタミアを含む帝国東部は、セレウコス朝の統治下に置かれた。南シリアとエジプトはプトレマイオス朝の統治下に置かれ、マケドニアを含むヨーロッパは、アンティゴノス朝の統治下に置かれるようになった。とはいえ、この分割がすぐにこの地方に平和をもたらしたとはいえない。というのも、セレウコス朝とプトレマイオス朝の間で、40年間に及ぶ衝突(シリア戦争)が経済の中心として繁栄していたフェニキアを自らの併呑しようと抗争を展開していたからである。最終的には、セレウコス朝の領土となった。
セレウコス朝の最後の世紀は、無秩序と王朝内の闘争の時代であった。紀元前64年、共和政ローマによる侵攻を許す。その結果、レバノンはシリアとともにローマの領土(シリア属州)となる。パックス・ロマーナと呼ばれる時代、レバノンでは経済的・知的活動が花開いた。かつてのフェニキアの都市であったビュブロス、シドン、ティルスは、ローマの市民権を付与された。これらの都市群は、陶器・ガラス・紫の染料の生産の中心地であった。港は、シリア、イラン、インドからの物産の集積地となった。また、同時に、杉材、香水、宝石、ワイン、果物がローマに輸出された。経済的繁栄は、都市の再興と郊外の発展へとつながった。神殿や大邸宅がこの時代に多く建設されると同時に、都市間は舗装道路で結ばれた。
テオドシウス1世が395年に死去するとローマ帝国は、東西に分割された。東ローマ帝国の統治の下で、ベイルート、ティルス、シドンは、ローマ時代よりも経済的繁栄を謳歌した。しかしながら、6世紀、バールベックの神殿建築群とベイルートは、地震によって崩壊した。3万人近い住民が死亡したと推測されている。加えて、東ローマ帝国は、レバノン地域に重税を課した。また、レバノン地域は、宗教面で相違があった。5世紀から6世紀のレバノン地域の混乱は、帝国を弱体化させると同時に、アラビア半島から侵攻してきたイスラームへの統治と改宗を容易にしたのである。”
バールベック
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF
”バールベック (アラビア語: بعلبك; Ba‘albakk、バアルバック)とは、レバノンの東部、ベイルートの北東約85km、ベカー高原の中央にある古代遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
バールベックとは「ベカー高原の主神」を意味し、ここにフェニキアの神ハダド(バアル)が祀られていた事に由来するといわれ、本来はフェニキア系の神々の聖地だったと考えられる。しかし後にギリシア・ローマ系の神々と習合し、祭神はジュピター・ビーナス・バッカスと呼ばれるようになった。 遺跡はこれら三神をそれぞれ祀る三つの神殿から構成されている。世界でも有数のローマ神殿跡である。
1世紀頃、ローマ帝国の手により最初の神殿が築かれたと考えられている。2世紀から3世紀に入り、ジュピター神殿・バッカス神殿が建てられる。中庭や柱廊などの造成もこのころのことと考えられている。
コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教と定めた後は神殿の破壊が進んだ。バールベックの神殿も、キリスト教の教会へと役割が変わったと考えられている。
7世紀、アラブ人の手に落ちる。以後、要塞化が進んだ。
2004年現在、観光と高原農業を主体とする小さな町になっている。”
サイダ、サイダー(Saida)=シドン(Sidon)は、レバノン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%80
”サイダ、サイダー(Saida)=シドン(Sidon)は、レバノン第3の都市で、南レバノン県の県都である。シドンはアラビア語で「漁場」「漁師」を意味する。ギリシャ人は「花に富む街」と呼んだ[1]。
レバノン内戦時には、首都ベイルート同様、イスラエル軍による攻撃にさらされて、市街は荒廃した。内戦終結後は、急速に復興して、ベイルート、トリポリと共に国立サイダ競技場を会場に2000年のアジアカップを開催し、日本にもその名を広めた。首相を務めたラフィーク・ハリーリーの生地。
古くはフェニキアの主要都市国家シドンとして繁栄しており、遺跡も発掘されている。紀元前5世紀にフェニキア人が建てたエシュムーン神殿遺跡がある。この遺跡の帯状彫刻には、酔った男達の姿、薄着をまとった神々の様子が生き生きと描かれており、フェニキア時代の人々の生活を知ることができる。アレクサンドロス大王の石棺[2]や他の王の石棺[3]にある彫刻は、いずれもシドンで発見されたものである。[4]。
紀元前19、18世紀頃、古代エジプト王朝の支配下で最盛期を迎えた。
1110年12月4日、シドンは第1回十字軍に占領され、エルサレム王国の重要な領地であるシドン地方の支配の中心地となった。その後も十字軍により何度か占領され、1249年にサラセンによって街は破壊された。1260年にはモンゴル人によって再度破壊された。17世紀のオスマン帝国による支配を経て、商業的に重要な街となった。”
ティルス(Tyrus)(テュロス(Tyros))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%B9
”ティルス(Tyrus)(テュロス(Tyros))は、レバノンの南西部、地中海に面する都市遺跡。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された史跡でもある。ティルスの現在の名前はスール(アラビア語: صور)ないしはティール(アラビア語で岩という意味)といわれる[1]。
ティルスは、現在小さな漁村であるスールの位置にかつてあった都市である。都市の起こりは紀元前2500年ごろといわれている。ティルスは紀元前1000年頃、ティルス王ヒラムが陸地から1キロメートルほど離れた小島に移した。紀元前332年に半島となった。
以後、フェニキア人の造った都市国家でも最大級にまで発展し、紀元前1000年頃にはフェニキアの首都となった。また、アレクサンダー大王に対して唯一抵抗したフェニキア国家でもあった。
レバノン内戦ではイスラエルによって占領された。
歴史
紀元前2500年、ビブロスやベイルートと共に、フェニキア人の都市として成立。 紀元前11世紀から紀元前9世紀に最盛期。ティルスの植民都市としてカルタゴを建設。 紀元前9世紀から紀元前8世紀にアッシリアの強大化によって勢力を失い、他のフェニキア諸都市と同様にアッシリアに従属する。 紀元前701年、エジプトと同盟しアッシリアに反乱。アッシリア王センナケリブの遠征軍に包囲され5年間抵抗するが、服属。 紀元前669年、エジプトと同盟しアッシリアに反乱。アッシリア王エサルハドンの遠征軍の攻撃を受ける。 紀元前585年、新バビロニア王ネブカドネザル2世の遠征軍に包囲され13年間にわたり抵抗した後、服属。 紀元前332年、マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)の東征軍に対し、フェニキア人の中で唯一激しく抵抗したが、包囲され、要塞化されたティルスの島に立てこもった。しかし、アレクサンドロス3世は艦隊で海上を封鎖し、7ヶ月かけて島との間の約1キロメートルを埋め立て陸続きにしてしまう。その後の総攻撃によりティルスは陥落。この戦いによるティルス側の戦死者は8,000人、陥落後さらに2,000人が殺害され、3万人のティルス市民が奴隷として囚われたといわれる。後にアレクサンドロス3世の許しを得てティルスは再建されるが、政治的にも経済的にも弱体化し、かつての繁栄は失われた。
その後、セレウコス朝シリアやローマ帝国の支配下に置かれ、12世紀には十字軍の支配を受ける。その後、イスラム化が進行するにつれ、ティルスは縮小され、ついには放棄される。
現在は、ローマ帝国支配時代の遺跡があまり風化せず数多く残るが[2]、都市としての面影は無い。周辺地域にてスールやアナーといった小さな村が点在するだけである。”
J・ナナミ@pinkglalem
”これは(教会が流した)デタラメ。実は、ユダヤ人など存在していない。古代のヘブライ人に最も近いのはイエメンユダヤ人だけで、あとは、ただのアラブ人かゲルマン人(アシュケナージ)。ナチスの最大のサポーターは、バチカンでした。
...RT;「ナチス=ユダヤ」
カザール人の末裔はモンゴロイドのY染色体を持っているスラブ(ロシア)人。ロシア人はヨーロッパの優生学からは非白人(女系コーカシアン)。その為にロマノフ王朝はボルシェビキ革命で滅ぼされた。
古代のイスラエルは、イエメン近くのアシールにあった。現在のイスラエルは。欧米の中東植民地化の拠点として建てられたニセモノ。「嘆きの壁」はフェニキア人のバアル神殿跡。教会は聖書すら捏造している。キリスト教の正体はミトラ教由来の悪魔崇拝。
おそらく本当の古代ユダヤ人(ヘブライ)はアシールに定住していて何処にも行っていない。魔法の絨毯作戦で、移住させたイエメン人をモサドが虚勢していたと言う話もあります。証拠隠滅のためか...?
このアラム人やフェニキア人がヘブライ人と勘違いされて、ユダヤ人と呼ばれていました。ローマ人もギリシャ人もそー呼んでいた。これが、ユダヤ人の「バビロン捕囚」のデマの出所。ヘブライ人(ユダヤ人)はイエメンの近くのアシールに住んでいて、エジプトにもバビロニアにも行っていない。
「聖書アラビア起源説」は、地名の誤りを指摘しているンですが、ナゼ誤ったのか?それは、アラム人とフェニキア人をヘブライ(ユダヤ)人と勘違いしていたから...この誤りを利用したのがミトラ教の亜種 #キリスト教。たぶんバアルとミトラ信仰のハイブリットカルト。”
ジャムマン@pookoomoo555·2013年7月20日
「真のユダヤ教徒」イエメンのユダヤ人は古代のヘブル語を話す。本当の古代イスラエルはイエメンとメッカの間のアシールにあった
イスラエル建国の際に連れて来られたユダヤ人は白人のイディシュと言うドイツ語の方言を話す(アシュケナージ)
http://ameblo.jp/pinkglalem-kingfisher/entry-11412288155.html …
カマール・サリービー
Kamal Suleiman Salibi
كمال سليمان الصليبي
『聖書アラビア起源説』
広河隆一 矢島三枝子 訳、
草思社 1988-12
聖書アラビア起源説 (1988/12) カマール サリービー 商品詳細を見る |
・パレスチナでは遺跡発掘が盛んに行われたが、旧約の舞台であることを示す確たる証拠は出土していない。
・ダビデとソロモンが現在のエルサレムにかつていたことを証明する碑文も発見されていない。
・ソドムとゴモラは火山によって消滅したとされているが、現在それだとされている地域に火山活動の形跡が全くない。
・旧約聖書は、本来ヘブライ語聖書であり、子音のみで綴られていた。それが数世紀後、すでに古代ヘブライ語は使用されておらず、アラム語、アラビア語など他のセム語にとってかわられていた時代に、ユダヤ教の学者たちによって聖書の子音原文に母音が付加された。ところが、解読にあたった学者たちが、かつて聖書のヘブライ語がどう発音されていたかを知らず、かつ既に聖地はパレスチナであるという先入観を持っていた為、誤った母音付加がなされた。以来、旧約はずっと間違った読み方をされたまま、今日に至る。
旧約の真の誕生の地はアラビア半島西部だというのが著者の結論。
・サリービー博士はベイルートのアメリカン大学歴史学教授で、中東史の世界的権威である。本書が最初に出版されたのは、ドイツのロヴォルト社発行のドイツ語版であり、これまでにアラビア語、オランダ語、フランス語、フィンランド語などに翻訳され、さらにスペイン語、インドネシア語版がまもなく出版されることになっている。
だが、もともとのオリジナル原稿は英語で書かれており、この日本語版もそれにもとづいている。
なお、英語版はロンドンのジョナサン・ケイプ社から発行されている。
・ヘブライ語聖書は、いくつかの書は明らかにそれ以前の原書を編集しなおしたもので、おそらく紀元前四世紀頃、つまり古代イスラエル崩壊の後にまとめられたと考えられる。ヘブライ語聖書の原典は紀元前五世紀以前に存在したものであろう。その紀元前五世紀を境に、古代イスラエルの歴史が衰微し、滅び去り、ヘブライ語をはじめとするカナン語の様々な形態の語が話し言葉として使われなくなったのだ。
ヘブライ語は紀元前五ないし六世紀頃に日常語として使われなくなった。
・ヘブライ語に密接な関係を持つ現存のセム語は、アラビア語とシリア語(現代シリア語。古代アラム語の名残がある)。
セム語は、大きく分ければアフロ・アジア語族に属する言語されており、その中には古代エジプト語や現代ベルベル語、ハウサ語も含まれる。この語族のセム語派には、他にアッカド語(古代バビロニアとアッシリアの言語)、カナン語(古代のフェニキア語とヘブライ語はこの異形)、アラム語(現在のシリア語にその形態を残している)、そしてアラビア語がある。
これらのセム語に共通の特色は、三つの子音からなる語根から語が派生する、という規則を持っている点である。ふつうそれらの語根は、動詞とみなすことができる。その同士の語根から他の語が派生する際には、ある決まった型があり、その型に従って、他の動詞やさまざまな名詞、形容詞が形成されるのである。派生の型には、語根が母音を取り入れたり、一つあるいは複数の子音が語根の原形に加わったりする場合がある。だからセム語の辞書を引く時は、まずその語の語根を見つけ出し、その後に列記された多様な派生語をみることなる。セム語に属する諸言語のあいだでは、多くの語根が同じ意味、あるいはそれに近い意味で共有されているので、セム語派の言語を一つ習得すれば、他のセム語も比較的容易に修得できる。
子音表記の言語は話し言葉でなくなり、学問的言葉になると読みが失われ易くなります。読みを知っている人が減っていくのだから当然ですが。
・セム語が母音なしで子音のみで書き記されることが重要。
が、聖書の英訳版では聖書中の固有名詞は母音のついた形で記されている。これはマソラ学、つまり伝統的な聖書ヘブライ語の母音付加法に由来するものであり、この母音付加が誤っている可能性がある。マソラ学者たちは、もはやヘブライ語が日常語として使われていない時代に、ヘブライ語を再建しなければならなかったのである。
(音声記録装置もないからね。母音を補う為の昔の文化背景や前提の知識も失われていくからね)
・古代エジプトの記録に由来する言葉、とりわけ地名が、当時どのように発音されていたかは不明である。
・セム語派に属する諸言語は、同じ子音からなる語根とその派生語を、数多く共有している。派生語間に違いがあったとしても、それはごくわずかである。だからセム語派に属する諸言語を比較するには、その言葉を子音だけで綴らなければならない。
・筆者は実際にアラビア半島の西部を実際に旅行し、主要な遺跡を確かめ、さまざまな場所の位置関係を、地理学的、地形学的な観点から観察した。
・聖書の中の、考えうるほとんどすべての地名が、全長およそ600キロ、幅200キロの地域、つまり現在のアシール(アスィール)と、ヒジャーズ南部地方に集中していたのである。ヘブライ語聖書に記述されている地名に対応する地名がすべて、この地域内に見出せたのである。
これまで聖書の地とされてきた地域では、これら聖書の地名に対応する地名がひとつも見出せなかった点から見て、特筆すべきことである。
これほどまでに聖書の地名がヘブライ語の原形のままで集中的に見出せる場所は、他の中近東のどこにもないという点である。
ユダヤ教の起源はパレスチナではなくアラビア半島の西部であり、ヘブライ語聖書の舞台はこの地域である。無論、ユダヤ教徒がアラビア半島以外のパレスチナなどに住んでいなかったわけではない。筆者が言おうとしているのは、ヘブライ語聖書が、主にアラビア半島西部におけるユダヤ教徒の歴史的体験を記録したものだということである。残念ながら、ユダヤ教がどのようにして古代パレスチナに根を下ろしたのかについては、それを説明できる記録が残っていないので不明である。
・ユダヤ教の起源は、古代アシールの一神教の流れの中にあるとするの理にかなった見方である。古代アシールでは、ヤハウェ、エル・サバオス、エル・シャロム、エル・シャダイ、エル・エルヨンといった多数の山岳神たちが同一視されるようになり、最後にそれが唯一神とされるようになったのである。その経緯は不明であるが、恐らくは複数の地域部族の融合に関係があるのだろう。
・アラビア半島西部のカナン人は、ギリシャ人がフェニキア(アシールのファーニカー、つまり、フェニキア)と呼んだパレスチナ北部のシリア海岸沿いの土地に、自分達の名であるカナンを与えたと考えられる。フェニキアを、そこの住民自身がカナンと呼んでいたことは、ベイルートで発掘されたヘレニズム期の硬貨に示されている。そこにはフェニキア文字で、この町が「カナンの」町であると書かれ、またギリシャ語では「フェニキアの」町だと記されているのである。
ギリシャの歴史家ヘロドトスは、紀元前五世紀の「フェニキア人」と「パレスチナのシリア人」についての著述の中で、なんのためらいもなく、彼らの起源をアラビア半島西部としている。ヘロドトスはこの両者について、以下にように記している。
“「このフェニキア人は、彼ら自ら伝えるところによれば、古くは「紅海」辺に住んでいたが、その地からシリアに移り、シリアの海岸地帯に住むようになったという」(『歴史』7巻89節。同書1巻1節も見よ)。”p.32
・ユダヤ教徒のアラビア半島西部での記憶を消してしまうのに一役買ったのは
言語の変化だろう。この変化は紀元前六世紀までにアラビア、シリア、メソポタミアで起こっていた。
聖書のヘブライ語のようなカナン語の方言は、アラム語の方言とともに、アラビア半島西部とシリアで聖書の時代に一般に話されていた。ユダヤ教の経典は、後世の予言者による書の中のいくつかのアラム語の節を除いて、全てヘブライ語で書かれている。
しかし、紀元前五百年ごろになると、シリアのみならずアラビア半島でも、カナン語は、死語とまではならなくても、既に命脈を断ちそうになっていたのである。
一方のアラム語は、メソポタミア地方を含む全地域を広まっていた。アケメネス朝ペルシアのもとでは、アラム語は、ペルシャ帝国の公用語となり、そして中近東全域の混成共通語(リンガ・フランカ)となった。この地域の言語の変遷は、その後も数世紀にわたって続く。セム語の方言ではあるが、アラム語とは別の言語であるアラビア語が、中近東のさまざまな地方でアラム語にかわって勢力を伸ばしていった。この元来シリア-アラビア砂漠の遊牧民族のものであったアラビア語は、紀元後数百年にもなると、アラビア半島の大部分、そしてシリアやメソポタミアの各地でアラム語にとってかわっていったので、七、八世紀頃にはアラム語が話される地域はシリアとメソポタミアのほんの一部だけとなってしまった。
・聖書のヘブライ語が話されなくなったのに伴って、ユダヤ教の経典の読み方が不確実になった。ヘブライ語は、他のセム語派と同じく子音文字で書かれており、母音を自分で補わないといけない。
セム語派の例外には古代メソポタミアの言語、アッカド語がある。その楔形文字による記述は、アルファベット式ではなく音節文字(シラブル)式である。古代ヘブライ語は、今日のように母音を加えたり子音を二重子音化したりすることなく、その意味を理解しなければならなかったことを忘れてはならない。
アケメネス朝ペルシャ時代からパレスチナやバビロンに居住したユダヤ教徒は経典に記されたヘブライ語が元来どのように発音されていたかについて知らないまま、当時の話し言葉であったアラム語をモデルにして、その経典の母音付加を工夫していったのである。
・アラビア半島西部のユダヤ教徒はアラビア語を話すようになった。
・パレスチナとバビロニアのユダヤ教徒が、母音記号を使ってヘブライ語聖書の読み方が標準化するにいたったのは、およそ六世紀に入ってからで、そのときには既にヘブライ語や他のカナン語の方言がその一帯で話されていた時期から何百年もたっており、ユダヤ教がアラビア半島西部で誕生したことなど忘却の彼方にあった。
・ハスモーン家の時代に、アラビア半島にユダヤ教徒の王国がまだ残っていた可能性がある。それは、紀元前115年から紀元後6世紀まで栄えた、イエメンのヒムヤル王国である。ヒムヤルの最後の二人の国王は、敬虔なユダヤ教徒として知られているが、彼らが信奉したユダヤ教がどのようなものであったのかは定かには伝えられていない。
アラブの歴史的伝統から見て、彼らが故人の意志でユダヤ教に改宗したと考えるべき根拠はない。そしてヒムヤル王国の初代の王たちもユダヤ教徒であった可能性がないとは言い切れない。
歴史家のフラヴィウス・ヨセフスは、アラビア半島に古代ユダヤ教徒が住んでいたことを知っていたが、それ以上のことは何も言っていない。
このアラビア半島のヒムヤル王国のユダヤ教徒の王の存在は、ハスモーン家のユダヤ教の正当性を脅かした可能性もあるので、ハスモーン家が、故意に聖書中の地理をアラビア半島ではなくパレスチナの観点から再解釈しようと工夫したとも考えられる。
ヨセフスは紀元後70年に、『ユダヤ古代史』を著し、ユダヤ教徒の故国はパレスチナにあったとみなしている。それ以来、誰一人としてこのまことしやかな説を疑わずにきている。
中近東北部地域を永年調査、発掘したのにかかわらず、聖書の歴史に直接結び付くはっきりした証拠は何一つ発見されていないのである。
更に、ヘブライ語聖書の中にある幾千もの地名のうち、言語学的にパレスチナの地名の大部分が、シリア全域の地名と同様にはるか古代からのものであり、言語構造的に見ても圧倒的にカナン語やアラム語の名であって、アラビア語のものではないことを思い起こすと、特筆すべきことである。
聖書と同じ名を持つ場所がパレスチナにある場合ですら、その位置や距離の絶対的もしくは相対的関係を見ると、それらは聖書の文章と上手く対応させることができないのである。
ヨセフスの「キリスト証言」は後世の捏造
http://web.sfc.keio.ac.jp/~gaou/cgi-bin/mondou/html/022252.html
イエスは実在したか?-非信徒の聖書学 (新約聖書の福音書はまったくの作り話ではないのだろうか)
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/890.html
・ヘレニズム時代とローマ初期に編纂されたユダヤ教経典のギリシア語訳、いわゆる七十人訳聖書によれば、ハスモーン家の時代には、イエメンにユダヤ教徒の王国が本当に存在したか否かに関わらず、ヘブライ語聖書にある地がアラビア半島西部だとはもはやみなされていなかった。
また、死海写本では聖書中の創世記14章をアラム語で推敲したものがあるが、そこでは聖書中の多くの地名が、中近東東北部の各地と同一視されている。
・聖書のペリシテ人は謎の非セム系の海洋民族だとされているが、聖書中ではペリシテ人の主張のみならず彼らの神ダゴン(穀物の意)にも明らかにセム語的(事実、ヘブライ語である)な名が与えられている。
・メソポタミアにおけるヘブライ人の起源を示す跡、および彼らがそこから北シリア経由でパレスチナに向かったと考えられる跡が、一世紀以上に渡り念入りに探索されてきたにもかかわらず、いまだにそこには見当たらない。
・エジプトにイスラエル人の捕囚がいたこと、すなわち古代のいつの時代かにイスラエル人による出エジプトがあったという明白な証拠になるものが、いまだに発見されていないということである。
見当違いの場所を探しているのだから証拠がないのは当然。前提となる地理を問題とすべき。
msrymがエジプトのこととは限らない。ときとしてエジプトを意味する場合はあるが、それ以上にアラビア半島西部のアシール内陸部の町や地方を意味する場合が多い。
(sの下に点があるが表示できません。表示できない記号が普通に出て来るので読書メモではなるべく避けることにします)
・シリア沿岸部に住むフェニキア人が実際自らをカナン人と名乗っていた。
・古代の中近東史についてのヘロドトスの記述は、通常、歴史家や考古学者からその真価を認められることはない。聖書の舞台となる場所を間違えていたから合致しなくて当然である。ヘロドトスの述べている紅海とはペルシャ湾のことだという主張は信憑性がなく、とても支持できない。
・エジプト人は建築材や造船用として、(レバンノスギ、香柏よりも)アシールのセイヨウネズを確保することに関心があった。スギは建築や船の建造にはほとんど役に立たなかったからである。
・アラビア半島西部の多くの部族は、今日ではユダヤ教徒ではないが、自分達の遠い祖先はユダヤ教徒であったと主張している。また、その地方では聖書の預言者たちの土地はここであったと信じられている。アラビアの部族伝承には、アラブ人がまだ砂漠にいた頃、ユダヤ教徒がヒジャーズの山々(ママ)に住んでいたことや、ラクダを最初に家畜化したのはユダヤ教徒であったことが回顧的に述べられている。
・マソラ、つまり正統ユダヤ教学の完璧なまでの学問的誠実さのおかげで、ヘブライ語聖書正典の子音表記の原文は、古代から今日までほとんどそのままの形で伝えられている。
が、今日の聖書学者は、場所を間違えているのが真の原因なのに原文自体に非があるとしてしまう。腕の悪い職人が道具をけなすように。
遅くとも紀元前五世紀から四世紀までに現在の形をとったのが今の正典である。それはアケメネス朝時代に全巻がアラム語に翻訳され(タルグム聖書)、更にヘレニズム期にはギリシア語の七十人訳聖書ができたことからも推定される。
死海写本はこれらの翻訳版聖書よりも更に時代が下ってから編纂されたものである。
子音文字のヘブライ語聖書は、紀元前“後”六世紀から九世紀もしくは十世紀にかけて、当時のパレスチナやバビロニアのマソラ学者が考案した独特の母音記号によって音読できるものとなった。母音付加を行なったマソラ学者たちが千年以上にわたり話されてこなかった言語を再建した。
(どの程度再建できたのやら)
・聖書のソドムとゴモラが死海の近くにはなかったし、かつてこの二つの町を壊滅させたほどの活火山がその近辺にない。
・ヘブライ語聖書には多くの種類の鳥が登場するが、ガチョウやニワトリはその中に入っていない。古代の地理学者ストラボンによると、エチオピアから紅海にかけたアラビア地方の一帯は「ガチョウとキジ目の鳥を除く他のあらゆる種類の鳥が生息していた」p.68
点に特色があるという。
・ヘロドトスの著書から、フェニキア人とカナン人がアラビア半島西部からシリア沿岸部への移住を証拠だてた。
・コーラン(クルアーン)の本文は、マソラ学者たちがヘブライ語聖書正典の原文に母音付加し、校合(写本などを比べて、本文の異同を確かめたり誤りを正したりすること)しはじめたのとほぼ同じ時期に編纂された。
伝統的にイスラム教徒が最も信頼をおいている決定版のコーラン経典は、カリフ・ウスマーンの治世期、すなわち紀元後644年から656年のあいだに編纂されたとされている。そしてその経典中の、イスラエルのヘブライ人の族長やユダヤ教預言者たちについて触れた箇所には、明らかにアラビア半島西部の地名がいくつも引用されているのである。
(同時期ってとんでもなく怪しいな)
・モーセはホレブ山の炎の柴から出てきたヤハウェの天使によって呼びかけられたとある。
コーランでは神のモーセへの呼びかけはトゥワーの聖谷で起こったとされている。
これまで聖書のホレブ山はシナイにあるとされてきたが、そこにはそれに相当する地名は存在しない。柴は火に「燃えているのに、その柴はなくならなかった」とあることから、これは火山のことだと解釈している。が、シナイ地方には火山活動の跡はどこにもない。
一方、アシール地方では対応する山と地名が見つかる。
ヘブライ語聖書に対応するコーランの箇所はアラビア半島西部の歴史的過去についての記述であると考えるべき。
・レビ記では「大とかげ」(sb。sの下に点)が食物として忌み嫌われる爬虫類に一つとしてあげられている。
「大とかげ」、すなわち南パレスチナとシナイに生息するオオトカゲは、ワラル(wrl)もしくはワラン(wrn)と呼ばれている。聖書にあるsb(sの下に点)は明らかにアラビア砂漠のトカゲ、すなわちdabb(db。両者ともdの下に点)のことである。
イスラムの伝承では、ムハンマドは自らはdabb(db。両者ともdの下に点)を食べなかったが、教徒がそれを食べることは禁じなかったという。
今日のアラビア半島のシーア派はそれを禁止しているが、スンニ派では食べる人もいる。
dabb(db。両者ともdの下に点)は中近東の北部地方にはみられない。
(シーア派はゾロアスター教・マニ教・ミトラ教が混じっているから、爬虫類=悪なんでしょう)
・アシールには蝗の繁殖地があり、聖書にある「国の飢饉」を説明できる。
・イスラム時代に入ると、アシールの全域は、その肥沃な土壌と恵まれた鉱物資源にもかかわらず、アラビアの歴史では周辺的な役割しか果たさなくなる。
古代のアシール地方は、古代世界貿易の主要路が合流する場所として、当時の最重要地だった。また、海路においても、商船が紅海を往復しつつ、アシールのいくつもの港とアビシニア、ヌビア、エジプトの港を結んでいたと考えられる。
・ユダの地は、アシールのサラート山脈とその西にかけて緩やかに傾斜した地域。
・考古学的に見て決定的な証拠がないのに歴史的な結論を引き出すことは誤りだ。
ベエルシェバというパレスチナの町の近郊に、昔の要塞の遺跡らしいものを発見すると、聖書考古学者は他の可能性があることを考慮せず、イスラエル人の要塞を発見したと言明する。
子音表記の文章なので他の読みの可能性を検討しないといけない。
パレスチナで発見されたすべてのいわゆるヘブライ語--より正確にはカナン語—の碑文の類は、現代聖書学の圧力によって、それらが実際に持っている内容を越えたものとして解読されてきた。
その好例として、1910年にナブルス近郊で発見された、文字がいくつかの陶片をあげておく。それらはそのどこにもサマリアと述べられていないのに、サマリアの陶片と名付けられた。年代は紀元前778~770年のものとみなされているが、(その厳密な年代づけからしてかなり疑わしい)、そこには個人間の商取引の記録が刻まれていて、列記された人名を見ると、その幾人かはユダヤ教徒だったとわかる。その陶片には地名が一つもあげられていないし、また聖書中の人物や出来事について述べている箇所も見当たらない。
仮に年代が正しいとしても、読み取れることは、紀元前八世紀のパレスチナのナブルス地方にはユダヤ教徒が住んでいたらしいということだけだ。
訳者による補正を明記しない翻訳は、学問的誠実さが求められる分野では許されない。
これまでパレスチナ地方で発見されたヘブライ語の刻文の中には、エルサレムやその他の聖書の地名や人物について言及したものはほとんど見当たらない。
古代の文書や記録は、そこに聖書の地名の引用があるだけですべてパレスチナに関するものだとみなされてきた。が、必ずしもパレスチナに関するものである必要はない。
史料の不適切な名づけも行われている。
(名づけの呪術による、脳内への概念召喚)
(別の場所で刻まれたものを持ってきただけかもしれないし。子音文字なので、日ユ同祖論と同様に都合よく読むことが行われている例が他にも取り上げられている。場所という母音を補う大前提が間違っているのだから当然。聖書が正しいというのも間違い)
・“聖書の伝統的な読み方で、最もよくある間違いのひとつが、「彼は在る」または「彼は在るはずだ」(あるいは「それは在る」「それは在るはずだ」)という意味のyhwhを、イスラエルの神ヤハウェの名のyhwhと混同することである。”p.138
・ヨルダンは川ではない。聖書学者にはすでに周知であるが、実際にそれが川である指摘は聖書中のどこにもない。伝統的にパレスチナにある特定の川の名であるとされてきたが、それは常に川を意味するのではなく、アラビア語と同じく、その場所が「断崖」や「峰」であることを示す地形学用語でもある。
聖書のヨルダンは川ではなく南ヒジャースやアシールにある山脈の断崖や峰を意味する地形学用語である。
・聖書考古学者たちは今もパレスチナの死海周辺にソドム(またはゴモラ)の遺跡を探索し続けているが、その地域には古代の火山活動を示す形跡は何一つ発見されていない。
・msrym(sの下に点)は通常エジプトを意味すると考えられているが、それがエジプトを意味する語としてヘブライ語聖書にあらわれるのはごく限られた場合だけである。
聖書中の「パロ」もエジプトの支配者を意味するのではなく、アラビア半島西部のミスラーマやマスルといった土地にまつわる神を特に指す語だといえる。また同時にそれはその地域に住む部族の首長の称号でもあったようである。
・聖書のヨルダンはアラビア半島西部にある山脈の断崖のことである。
ユダ王国はアシール地方の沿岸丘陵地にあった。
ユダヤ人という名前はユダに由来する。ヘブライ語聖書はユダ王国で生まれた。
・エズラ記、ネヘミヤ記で確認できる総計130の地名と、アラビア半島西部一帯の村落との関係を見ると、所在をつきとめられなかったのはごく2、3のものだけである。
しかしもっと重要なのは、これらの地名のうち、パレスチナ地方で確定できる名はほんの一握りしかないことである(サイモンズによればわずか10箇所のみ)。しかもそのなかでも疑問の余地なく聖書にある語と一致するパレスチナ所在の名は更に限られる(ベツレヘム、ロド、ネボ、エリコ)。
よって聖書のユダの国とは、ローマ時代のパレスチナのユダエア(ユダヤ人の国)ではなく、かつてアラビア半島西部にあった国のことである。
ユダが南ヒジャーズとアシール沿岸の起伏に富んだ丘陵地帯にあったとすると、イスラエルももとは同じ高地にあったと考えられる。「神と争う」でも「神は争う」でもなく、「神の高み」であり直接にはアラビア半島西部の山岳地帯、中でも今日のアシール地方にその名が残っているサラート山脈に関係するものである。
・古代エジプト語とセム語がいとこ同士といえるぐらい近い関係にあるので、エジプトの書記が報告された地名を翻訳する際に間違えたことを指摘する聖書学者はおかしい。
・ヘブライ語で唯一神を意味するエロヒムは、エローア(一柱の神)の男性複数形。充分に考えられることは、かつてアラビア半島西部の各地や部族の神々の集合体(パンテオン)であったものが、ある時点で唯一神とみなされるようになったのだろうということである。
アラビア半島西部のアール(’l=ヘブライ語の’lすなわち「神」と比較せよ)ではじまる地名を数えあげて、その中からヘブライ語の’lの名残であると思われる、アラビア語の諦観しalのついた無数の地名をあげてみると、古代のアラビア半島西部の万神殿(パンテオン)には、もともとは何百という数の神々が祀られており、その中には様々な名で呼ばれていた神も含まれていたことがわかるだろう。
アール・サラーマ、
アール・アルヤーン、
アール・アルアッラムもしくは
アール・アルヤーン、
アール・アルアッラムもしくは
アール・アルアラム、
そしてシドゥク
(sdq。アラビア語の記録ではsdqまたはsdyq。
sの下に点)
などがある。
そしてヘブライ語聖書中では、
アール・サラーマ、
アール・アルヤーン、
アール・アルアッラム(またはアルアラム)などは、
明らかにイスラエルの神ヤハウェのこととされており、
シドゥク(sdq。sの下に点)はヤハウェの神殿としてあらわれている。
他にも数多くのアラビア半島西部の神々がヤハウェと同一視されており、それらの名がまたそれらの神々の故地に地名として残っている。
例えば、アール・サーディーは聖書ではエル・シャダイ(全能の神と訳されていることが多い)。
・ヤハウェは恐らく元々は山岳神だったのであろう。ヤハウェを単純に動詞hwh(これまでいばしば想定されてきたhyh=「在る」ではない)に由来する古い形の実詞であると考えれば、その意味もヘブライ語、アラビア語の「落ちる」ではなく、アラビア語の「そびえる」「高められる」であると説明できる(ヘブライ語にその意味はない)。うあはゑだけが超越的な至高の神とされたのは、山の神を示す名前によるのだろう。
ヤハウェがいつ他のアラビア半島西部の万神殿(パンテオン)の神々と同一視され、イスラエルのエロヒムとなったのかは不明。
選別が行われたことは指摘できる。バアル・ゼブブのようにバアルがつく神々はヤハウェと同一視されなかった。バアルは収穫の父または収穫する者の意味。
・アブラハムは「神々」に命じられて、イサクを生贄に捧げることになった。アブラハムは「神々」の命令に従い、生贄の祭壇の準備にとりかかった。そして息子がどこにいけにえの子羊はいるのかと尋ねたとき、それに答えてアブラハムは「単数形の神」が子羊を備えてくれるだろうと言った。これを聞いたヤハウェが姿を表して間に入り、イサクが生贄になるのをやめさせた。身代わりに一頭の雄羊をととのえた。アブラハムが「単数の神」を恐れたので、ヤハウェが満足したからだった。この部分は、一神教誕生の経緯を説明するためのものだと仮定するのは、あまりにも空想じみた考えだろうか?
(アブラハムがヤハウェを信仰したのはイサクを助けてくれたからかもね。
ヤハウェがエル=バアルの父、という説と合致しますね。バアルが多数派だっただろうから少数派だな。イサクが結局人身御供にならなかったのは、人間が生贄になることの否定かな。ノアの洪水神話を見ると生贄自体は捧げているからすべての生贄否定ではない。単数表現と複数表現を反映して訳すと嘘がばれるからやらないのね。
J・ナナミ@pinkglalem • 2013年12月6日
アブラハムは、なぜイサクを殺さなかったのか?人身御供と言うのはバアルの慣習で、この話は、ヘブライ人のバアルへの決別宣言ではないか?彼らはオリエントの超多数派とは違う信仰を持ったために、メインストリームから追われた少数派になった。アシールに聖書の記述と同じ地名が残るのは、そのため.
)
・アシールの沿岸側の渓谷地帯はイナゴの大群の発生で被害を被ってきた。飢饉があったという聖書の記述があるが、イナゴのせいかも。
・紀元前五世紀にヘロドトスは著書で、フェニキア人(シリア沿岸地方に住んでいた人々。フェニキア人の言語は、子音的には聖書のヘブライ語とほぼ一致する)は、かつては紅海沿岸地方に住んでいたが、後に地中海地方に移住し、「現在も彼らの住んでいる場所に定住する」と述べているが、その文中で彼はそれとは知らずに創世記10章18節にあるカナン人の「氏族がひろがった」という記述を認めていたことになる。アラビア半島西部にはファニーカーという村がある。
・割礼を受けないペリシテ人が信仰した神々の一つがダゴン(穀物、穀粒の意味)。
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