仮面ライダー1号秘話(4) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その1]
《歩けない子供が歩いた》
世界的に見ても、一度事故で登場しなくなった主人公が再び現れるというのは珍しいという。子供達にしてみれば、1号ライダーが約束通り戻ってきてくれた、ライダーは約束を破らなかった、不死身だったんだと、喜んでくれたのだ。
視聴者と番組が信頼関係で結ばれて、その結果が高視聴率となって現れたと思っている。だから仮面ライダーを見つめる子供たちの目は、番組に本郷猛が復帰した辺りから、痛いほど真剣だった。撮影現場に来る子供達はもちろん、実演ショーを見に来てくれるたくさんの子供たちも、自分たちのヒーローとして仮面ライダーのことを真剣に応援してくれた。
ロケに出たり実演ショーで各地を回るようなとき、仮面ライダースタッフは時間があると、各地の施設や小児病棟を訪ねて、病気や障害を持った子供達を励まして歩いた。頼まれてやったわけでは無い。子供たちのヒーローとして、多くの子供たちに勇気を与えたいと思ったからだ。
特に病気や障害と闘っている子供達には、決してめげない様に、希望を持って歩いて行くようにと、できるだけのことはしたつもりである。
ライダー衣装のままで病院に入って行くと、子供たちの目の輝きが違ってくる。ライダーを見つけた子供たちはベッドを抜け出して、あるいは車いすを捨てて、ライダーに向かって走ってくる。中には、長い間自力で歩けないような子供もいた。
気が付くと、彼はライダーに触りたいがために、自分の足で前進している。それを見つけた看護婦さんの驚いた表情・・・。あとで『私たちが毎日面倒を診ていても歩けなかった子が、仮面ライダーが来たことで歩いちゃって悔しい』と涙していたという看護婦さん。
それは子供が歩いたことへの、うれし涙であるだろう。それほど復帰した仮面ライダーの印象は、子供達にとって強烈だったのだ。
そのイメージは、放送開始から40年近く経った今でも日本各地に、あるいは世界にも残っている。『仮面ライダー』は現地語に翻訳されて、世界で放送されているらしいのだ。ヒーローは、まさに不滅だ。言葉や文化の壁を超えて、人々の心の中に生き続けている。
『主人公の怪我は大きい方がいい。それを乗り越えたとき、もっと大きく成長できる』そんな意味のことを語っていたのは、故・平山プロデューサーだ。まさにその言葉通りの展開になった。
《画面でも現場でも助けてくれた立花藤兵衛》
『大丈夫、大丈夫、藤岡君。そこのセリフ回しは、すこしゆっくりしゃべるようにしてごらん。そうすれば、全体のリズムにメリハリがでるから。監督、もう一度お願いします』撮影現場で、立花藤兵衛役の小林昭二さんには、何度助けていただいたことだろう。
特にクランクインしたばかりの頃は、セリフとアクションの両立に苦しむ自分を、ずいぶん助けていただいた。NGが出るたびに、小林さんは自ら演技を中断して、具体的なアドバイスをくれた。現場の中で孤立させることの無いよう、繊細に気を遣って下さった。そのことがどんなにうれしかったことか。
『仮面ライダー』の撮影現場は、一瞬たりとも気を抜けない殺気に満ちた現場だった。でもそういう中でも先輩たちの暖かい視線があったから、現場は「学校」でもあった。
小林さんに教えられたことは、今思えばほんの些細なことだったが、でもそういうテクニックや経験を持っている先輩がいたからこそ、『仮面ライダー』の若い役者陣は、頑張ってこられたのだと思う。小林さんの訃報には大変ショックを受けたが、昔のご恩返しをするために、今度は若手を指導する立場になっていこうと思う。
★★★★★★★★★★★★
どんな世界にも、有望な後輩をつぶそうとする先輩はいるものである。芸能界にも、御多分に漏れず、そのような輩はいるようだ。そんな中で故・小林昭二氏は、新人だった藤岡弘氏を主役としてしっかり成長できるように、指導をされていたようだ。
自分の持っているものを披露して、後輩に教え込むということは、なかなか出来ないことだ。だが、共演した新人たちがいつか俳優として立派に成長した姿を見るのが、小林氏の夢であったのだろう。そういう度量の大きな先輩に出会える幸運に、ぜひとも恵まれたいものである。
世界的に見ても、一度事故で登場しなくなった主人公が再び現れるというのは珍しいという。子供達にしてみれば、1号ライダーが約束通り戻ってきてくれた、ライダーは約束を破らなかった、不死身だったんだと、喜んでくれたのだ。
視聴者と番組が信頼関係で結ばれて、その結果が高視聴率となって現れたと思っている。だから仮面ライダーを見つめる子供たちの目は、番組に本郷猛が復帰した辺りから、痛いほど真剣だった。撮影現場に来る子供達はもちろん、実演ショーを見に来てくれるたくさんの子供たちも、自分たちのヒーローとして仮面ライダーのことを真剣に応援してくれた。
ロケに出たり実演ショーで各地を回るようなとき、仮面ライダースタッフは時間があると、各地の施設や小児病棟を訪ねて、病気や障害を持った子供達を励まして歩いた。頼まれてやったわけでは無い。子供たちのヒーローとして、多くの子供たちに勇気を与えたいと思ったからだ。
特に病気や障害と闘っている子供達には、決してめげない様に、希望を持って歩いて行くようにと、できるだけのことはしたつもりである。
ライダー衣装のままで病院に入って行くと、子供たちの目の輝きが違ってくる。ライダーを見つけた子供たちはベッドを抜け出して、あるいは車いすを捨てて、ライダーに向かって走ってくる。中には、長い間自力で歩けないような子供もいた。
気が付くと、彼はライダーに触りたいがために、自分の足で前進している。それを見つけた看護婦さんの驚いた表情・・・。あとで『私たちが毎日面倒を診ていても歩けなかった子が、仮面ライダーが来たことで歩いちゃって悔しい』と涙していたという看護婦さん。
それは子供が歩いたことへの、うれし涙であるだろう。それほど復帰した仮面ライダーの印象は、子供達にとって強烈だったのだ。
そのイメージは、放送開始から40年近く経った今でも日本各地に、あるいは世界にも残っている。『仮面ライダー』は現地語に翻訳されて、世界で放送されているらしいのだ。ヒーローは、まさに不滅だ。言葉や文化の壁を超えて、人々の心の中に生き続けている。
『主人公の怪我は大きい方がいい。それを乗り越えたとき、もっと大きく成長できる』そんな意味のことを語っていたのは、故・平山プロデューサーだ。まさにその言葉通りの展開になった。
《画面でも現場でも助けてくれた立花藤兵衛》
『大丈夫、大丈夫、藤岡君。そこのセリフ回しは、すこしゆっくりしゃべるようにしてごらん。そうすれば、全体のリズムにメリハリがでるから。監督、もう一度お願いします』撮影現場で、立花藤兵衛役の小林昭二さんには、何度助けていただいたことだろう。
特にクランクインしたばかりの頃は、セリフとアクションの両立に苦しむ自分を、ずいぶん助けていただいた。NGが出るたびに、小林さんは自ら演技を中断して、具体的なアドバイスをくれた。現場の中で孤立させることの無いよう、繊細に気を遣って下さった。そのことがどんなにうれしかったことか。
『仮面ライダー』の撮影現場は、一瞬たりとも気を抜けない殺気に満ちた現場だった。でもそういう中でも先輩たちの暖かい視線があったから、現場は「学校」でもあった。
小林さんに教えられたことは、今思えばほんの些細なことだったが、でもそういうテクニックや経験を持っている先輩がいたからこそ、『仮面ライダー』の若い役者陣は、頑張ってこられたのだと思う。小林さんの訃報には大変ショックを受けたが、昔のご恩返しをするために、今度は若手を指導する立場になっていこうと思う。
★★★★★★★★★★★★
どんな世界にも、有望な後輩をつぶそうとする先輩はいるものである。芸能界にも、御多分に漏れず、そのような輩はいるようだ。そんな中で故・小林昭二氏は、新人だった藤岡弘氏を主役としてしっかり成長できるように、指導をされていたようだ。
自分の持っているものを披露して、後輩に教え込むということは、なかなか出来ないことだ。だが、共演した新人たちがいつか俳優として立派に成長した姿を見るのが、小林氏の夢であったのだろう。そういう度量の大きな先輩に出会える幸運に、ぜひとも恵まれたいものである。
仮面ライダー1号秘話(5) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その1]
《仮面ライダーはただのバッタ?!》
もともと仮面ライダーは、石ノ森章太郎先生が考え出した、ただのバッタだった。番組の原案を考える時に、先生はこのように言っていたという。
『バッタは自然の象徴だ。バッタの能力を持った主人公が、自然破壊に立ち向かうなんていうのはどうかな?そうだ、エネルギーは風だ。風力エネルギーが、彼の原動力なんだよ。腹のベルトのバックルに風車の機構があって、そこでエネルギーを獲得するんだ』
番組が企画された1971年当時、日本列島は公害問題で騒然としていた。熊本・新潟の水俣病、富山のイタイイタイ病、四日市ぜんそくが公害病として有名だが、そのほかにも大気汚染や騒音公害など、日本列島が重工業の急激な発展の反作用として、重く病んでいた時代だった。
政府は71年に「環境庁」を発足させ、この年に『仮面ライダー』は誕生した。当時、「公害」という言葉を知らない子供はいなかったはずだし、それと闘う仮面ライダーは、まさに時代が求めたヒーローだった。
もっとも番組が企画された当初は、石ノ森先生が描いたスケッチは骸骨の面を被った「スカルマン」だったという。平山プロデューサーが企画の相談に行くと、先生はその場でサラサラと絵を描いた。真っ黒なジャンプスーツを着て、なかなかカッコ良かったという。
しかも骸骨だから迫力がある。平山さんは「これだ!」とヒットを確信して、先生のスケッチを持ってテレビ局へ出かけていった。
ところが、局の幹部やスポンサーのところに相談に行くと、なかなか企画が通らない。カッコイイと言う人もいれば、気味が悪いという人もいた。石ノ森先生は、「スカルマンは気味が悪いからこそいいんだ、だから強烈なヒーローになるんだ」と主張していたようだ。
『カッコ良すぎてはいけない、なにかズキンと来るものが欲しい、何か変な感じが必要だ』それが先生の感覚だったそうだ。これは、今まであまた誕生した子供向けヒーローには共通した特徴だ。
ウルトラマンはあんなに強くても、地球には3分しかいられないから「物語」になる。星飛雄馬も貧乏のどん底からジャイアンツ入りを目指すから、見ている人の涙を誘う。
大人たちの常識の世界、テレビ局とスポンサーには、このスカルマンの持つ感覚が通じない。どうしても企画書にゴーサインが出なかったらしい。誰かが平山さんに耳打ちした。『局の幹部やスポンサーの幹部はもう高齢だから、墓場が近い人も多いんだ。骸骨は縁起が悪すぎる。なんとか変えてくれないかな』
こういう理由だったら、仕方がない。平山さんは再度、石ノ森先生の事務所を訪ねなければならなかった。そこで先生は再度アイデアをひねり、昆虫図鑑を眺めている時に閃いたのが、「バッタからできたサイボーグ」だったという。いいアイデアは一瞬のヒラメキから生まれる。
先生はその時すでに、『バッタの筋肉は、人間に換算すれば国会議事堂を楽に飛び越すパワーを持っている。その外骨格は、何万メートルの高さから落ちても壊れない強度を持っている』というようなことも、平山さんと話していたそうだ。話しながら、右手はサラサラと画用紙の上を滑って行く。
そこにはすでに、のちの仮面ライダーの原形となるモデルが描きこまれていた。つまり仮面ライダーは、その時代の空気を敏感に嗅ぎ取って、「環境破壊から地球を守る」というコンセプトで誕生し、バッタが本来持っているジャンプ力と体力をそのまま武器にすることにした。
同時にライダーキックやライダー投げといった必殺技も、その能力から必然的に生まれてきた。そして、本郷猛の持つ「改造人間の哀しみ」は、演じる藤岡弘の心情に強くマッチするものであった。藤岡は、自分自身が本郷猛であると純粋に信じられた。
こういう虚構と現実が重なり合ったとき、良いものが生まれてくる。良い物語はドキュメンタリーの要素に満ちている。『仮面ライダー』は、時代が生み出したヒーローだったのだ。
『仮面ライダー』が今日でも根強い人気があるのは、どうしてだろうか。それは日本人の心の中に、当時と変わらない問題が巣食っているからに他ならないからだと思う。公害や環境問題は、あの頃とは形を変えて、今も根強く残っている。
人間が富を求め開発を続けていく限り、それは無くなることは無い宿命だ。経済的にもバブルが崩壊し、人の心も荒んで(すさんで)きた。オウム事件や和歌山毒入りカレー事件など、今まで考えられなかったような事件がおこり、人々は何かに救いを求めたいけれどもどこにもヒーローがおらず、混迷している状態ではないだろうか。
10代前半までに、善悪の基準をキチッと大人が教えないといけないのに、大人たちが陰でこそこそ悪さをしてしまっている。これでは礼節や善悪を子供達が学べるわけがない。
悪いことをしても最後がカッコ良ければいいとか、悪にもヒーローがいるとか、間違った認識を持ってしまっている。こういう時代だからこそ、「悪は最後には滅びる」という普遍の真理を体現するヒーローが必要だ。仮面ライダーのような存在が求められている、ということではないだろうか。
★★★★★★★★★★★★
最近のニュースを見ていると、人の手本になるべき立場の者や人をリードすべき立場の者が、事件を起こして誤ったり、悪事を働いて捕まったりしているケースをよく見かける。先生とか指導者とか言われるような立場の人がこれでは、幼い子供達は何を信じて生きていけばいいのか迷うだけである。
大人はもっと、社会での自分の立場をわきまえる必要がある。そして子供は年長者を敬い、年長者は子供を守り教え導く。親子なら、なおさらだ。この関係が、良い人間関係を作り育てる。すくなくとも、筆者はそのような環境下で育ってきて、そう感じる。
もともと仮面ライダーは、石ノ森章太郎先生が考え出した、ただのバッタだった。番組の原案を考える時に、先生はこのように言っていたという。
『バッタは自然の象徴だ。バッタの能力を持った主人公が、自然破壊に立ち向かうなんていうのはどうかな?そうだ、エネルギーは風だ。風力エネルギーが、彼の原動力なんだよ。腹のベルトのバックルに風車の機構があって、そこでエネルギーを獲得するんだ』
番組が企画された1971年当時、日本列島は公害問題で騒然としていた。熊本・新潟の水俣病、富山のイタイイタイ病、四日市ぜんそくが公害病として有名だが、そのほかにも大気汚染や騒音公害など、日本列島が重工業の急激な発展の反作用として、重く病んでいた時代だった。
政府は71年に「環境庁」を発足させ、この年に『仮面ライダー』は誕生した。当時、「公害」という言葉を知らない子供はいなかったはずだし、それと闘う仮面ライダーは、まさに時代が求めたヒーローだった。
もっとも番組が企画された当初は、石ノ森先生が描いたスケッチは骸骨の面を被った「スカルマン」だったという。平山プロデューサーが企画の相談に行くと、先生はその場でサラサラと絵を描いた。真っ黒なジャンプスーツを着て、なかなかカッコ良かったという。
しかも骸骨だから迫力がある。平山さんは「これだ!」とヒットを確信して、先生のスケッチを持ってテレビ局へ出かけていった。
ところが、局の幹部やスポンサーのところに相談に行くと、なかなか企画が通らない。カッコイイと言う人もいれば、気味が悪いという人もいた。石ノ森先生は、「スカルマンは気味が悪いからこそいいんだ、だから強烈なヒーローになるんだ」と主張していたようだ。
『カッコ良すぎてはいけない、なにかズキンと来るものが欲しい、何か変な感じが必要だ』それが先生の感覚だったそうだ。これは、今まであまた誕生した子供向けヒーローには共通した特徴だ。
ウルトラマンはあんなに強くても、地球には3分しかいられないから「物語」になる。星飛雄馬も貧乏のどん底からジャイアンツ入りを目指すから、見ている人の涙を誘う。
大人たちの常識の世界、テレビ局とスポンサーには、このスカルマンの持つ感覚が通じない。どうしても企画書にゴーサインが出なかったらしい。誰かが平山さんに耳打ちした。『局の幹部やスポンサーの幹部はもう高齢だから、墓場が近い人も多いんだ。骸骨は縁起が悪すぎる。なんとか変えてくれないかな』
こういう理由だったら、仕方がない。平山さんは再度、石ノ森先生の事務所を訪ねなければならなかった。そこで先生は再度アイデアをひねり、昆虫図鑑を眺めている時に閃いたのが、「バッタからできたサイボーグ」だったという。いいアイデアは一瞬のヒラメキから生まれる。
先生はその時すでに、『バッタの筋肉は、人間に換算すれば国会議事堂を楽に飛び越すパワーを持っている。その外骨格は、何万メートルの高さから落ちても壊れない強度を持っている』というようなことも、平山さんと話していたそうだ。話しながら、右手はサラサラと画用紙の上を滑って行く。
そこにはすでに、のちの仮面ライダーの原形となるモデルが描きこまれていた。つまり仮面ライダーは、その時代の空気を敏感に嗅ぎ取って、「環境破壊から地球を守る」というコンセプトで誕生し、バッタが本来持っているジャンプ力と体力をそのまま武器にすることにした。
同時にライダーキックやライダー投げといった必殺技も、その能力から必然的に生まれてきた。そして、本郷猛の持つ「改造人間の哀しみ」は、演じる藤岡弘の心情に強くマッチするものであった。藤岡は、自分自身が本郷猛であると純粋に信じられた。
こういう虚構と現実が重なり合ったとき、良いものが生まれてくる。良い物語はドキュメンタリーの要素に満ちている。『仮面ライダー』は、時代が生み出したヒーローだったのだ。
『仮面ライダー』が今日でも根強い人気があるのは、どうしてだろうか。それは日本人の心の中に、当時と変わらない問題が巣食っているからに他ならないからだと思う。公害や環境問題は、あの頃とは形を変えて、今も根強く残っている。
人間が富を求め開発を続けていく限り、それは無くなることは無い宿命だ。経済的にもバブルが崩壊し、人の心も荒んで(すさんで)きた。オウム事件や和歌山毒入りカレー事件など、今まで考えられなかったような事件がおこり、人々は何かに救いを求めたいけれどもどこにもヒーローがおらず、混迷している状態ではないだろうか。
10代前半までに、善悪の基準をキチッと大人が教えないといけないのに、大人たちが陰でこそこそ悪さをしてしまっている。これでは礼節や善悪を子供達が学べるわけがない。
悪いことをしても最後がカッコ良ければいいとか、悪にもヒーローがいるとか、間違った認識を持ってしまっている。こういう時代だからこそ、「悪は最後には滅びる」という普遍の真理を体現するヒーローが必要だ。仮面ライダーのような存在が求められている、ということではないだろうか。
★★★★★★★★★★★★
最近のニュースを見ていると、人の手本になるべき立場の者や人をリードすべき立場の者が、事件を起こして誤ったり、悪事を働いて捕まったりしているケースをよく見かける。先生とか指導者とか言われるような立場の人がこれでは、幼い子供達は何を信じて生きていけばいいのか迷うだけである。
大人はもっと、社会での自分の立場をわきまえる必要がある。そして子供は年長者を敬い、年長者は子供を守り教え導く。親子なら、なおさらだ。この関係が、良い人間関係を作り育てる。すくなくとも、筆者はそのような環境下で育ってきて、そう感じる。