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一般には米MITS社のAltair 8800(1975年)が最初のパソコンだとされている。同時代にも類似製品は存在しており、「最初のパソコン」についは諸説あるが、本機が広く知られたようになったこと、「Popular Electronics」誌の表紙に写真が掲げられ「最初のパソコン」と紹介されたのが理由であろう。
Altair 8800は、正確にはパソコンキットである。組み立て部品だけのものとと組立済みのものがあるが、ディスプレイ、キーボード、記憶装置などはなく、このキットだけでは、パネルのスイッチにより直接にメモリを操作して実行できるだけである。テレタイプ装置や表示装置との接続は、利用者が工夫する必要があった。
このような不十分なものであったが、マニアの間で評判になり爆発的なヒット商品になった。
Altair-8800(1975年) (拡大図) 出典: Smithsonian National Museum「Computer History Collection:Altair Computer」 |
主な仕様: |
Altair 8800の成功により、多くの類似製品が発表された。国産では、
発表年 メーカー 機種名 CPU(互換)
・1976年 NEC TK-82 μPD8080(i8080)
・1976年 シャープ MZ-40K Z80
・1976年 富士通 Lkit-8 MB8861N(MC6800)
・1977年 日立 H68/TR (電卓型)
などがある。
TK-80を例にすると、NECは、i8080互換のCPU μPD8080を開発した。そのトレーニングを目的としたマイコンキットである。入力キーパッドと8桁のLEDを基板上に備えており、端末装置なしでシステムを使うことができた(価格88,500円)。
入出力装置や記憶装置が付いたオールインワンのパソコンは、1977年に出現した。
・1977年 コモドール PET 2001
・1977年 アップル Apple II
・1977年 精工舎 SEIKO-5700
・1977年 ソード(現 東芝) M200
コモドールは電卓メーカーであったが、CPU供給を探してモステクノロジーと出会い、MOS6502を使ったパソコンキットKIM-1を見て、オールインワンのパソコンPET 2001を組み立てた。
CPU:MOS6502
メモリ:4/8KB
キーボード
内蔵モノクロディスプレイ(40×25文字表示)
カセットテープレコーダー
初期のパソコンとして最も完成度が高く、有名なのが1977年に発売されたApple IIである。先に発売したApple Iはパソコンキットであるが、家庭用テレビへモノクロテキストを出力できたり、BASICがテープで提供されるなど優れたものであったが、資金的理由により170台しか販売されなかったという。
Apple IIは、マニアではなく、一般個人を対象にした「ホームコンピュータ」であることを宣伝した。
・CPU:MOS6502(8bits)、1MHz |
Apple IIは、1978年だけで7,600台販売した。それを激増させたのが1979年に発表された世界初の表計算ソフトVisiCalcである。米国では個人が確定申告をするので、そのためにVisiCalcが使えるApple IIが人気を高め、1980年では18万台を販売したという。そして、この成功がアップル発展の基盤になった。
日本初のオールインワンのパソコンは、精工舎(現セイコー)が1977年に発売したSEIKO-5700である。しかし、パソコンというよりも高級電卓のような性格である。本体と一体になっているキーボードは、テンキ-や関数のキーが主であり、印刷装置は電卓のような幅の狭いロール紙である。プログラムはBASICではなくFORTRANである。このように、一般向けではなく科学技術研究向けのパソコンである。CPUはi8080。
ソードは、1970年に設立されたベンチャーのパソコン、ソフトウェアメーカー。1974年に初のパソコンSMP80を発表したが販売にいたらず、1977年のM200が最初になる。CPUはi8080/Z80。独自のOSを構築する機能をもっていた。BASICでも入力時の構文解析、リストの自動インデント表示、多世代ソース管理など先駆的な機能をもっていた。 このようにソードは高い技術力をもっており、特に1980年に発表した表計算ソフトPIPSは注目された。しかし自社ハードのみの販売に固執したため経営不振になり、1985年に東芝に買収された。
1978年から1979年にかけて、国産各社が相次いで8ビットパソコンを発表した(富士通は、やや遅れて1981年になる)。
・1978年 日立 ベーシックマスター MB-6688
・1978年 キャノン AX-1
・1978年 シャープ MZ-80K(セミキット)
・1978年 松下 マイブレーン JD700/800
・1979年 NEC PC-8001
私が初めて自費で「コンピュータ」を入手したのがPC-8001でした。まず、ディスプレイにテレビを使ったが解像度が粗く実用に堪えず専用モニタを購入。しばらくはカセットテープを使っていたが、次第にまどろっこしくなり、外付けフロッピーを購入したのですが、これがかなり高価だったことを記憶しています。
私は、すでにTSS環境でBASICをマスタしていましたが、N-BASICの機能が優れていたのには驚ろきました。しかし、効率のために1行に多くの命令を記述したり、変数を最初に羅列するのがよいとのことで、公表されているソースコードがあまりにも読みにくく難儀したことを覚えています。
IT部門に在籍しており、1970年代末から汎用コンピュータでのTSSによるEUCサービスを進めていました。パソコンについては、「しょせんオモチャにすぎない」ので業務には使えないが「TSS端末のキーボード操作を興味をもって練習をさせるに適したオモチャだ」から「会社でもEUC教育のために数台購入しよう」という認識でした。
それが、OAブームになり「中間管理者はBASICが必須知識だ」という、かなりいかがわしい風潮が起こり、パソコン増設になったのには、ちょっと驚きました。
BASICはTSS環境でのプログラミング言語であったが、1975年にビル・ゲイツがパソコンに移植した(1975年、ポピュラー・エレクトロニクス誌にアルテア8800のデモが載っていたのを読んだゲイツは、アルテア8800を販売していたハードメーカーMITSに電話をかけ、実際には未だ何も作成していないBASICインタプリタについて「私は作成に成功した」といって受注したのだそうだ)。
これを拡張して、データ管理やプログラム起動などの機能を持たせることにより、利用者からみると、あたかもOSのような存在になる。パソコンを起動するとBASICが立ち上がった状態になり、利用者はBASICコマンドを入力する多様な処理をしたのである。また、多数の業務処理やゲームのソフトが提供されるようになったが、その多くがBASICと機械語の組合せで作成されていた。それで、8ビットパソコンのことを「BASICパソコン」ということもある。
1980年代に入ると、8ビットパソコンが高性能になり、新シリーズとして発売されるようになった。
・1981年 NEC PC-8800 シリーズ
・1981年 富士通 FM-8シリーズ
・1982年 富士通 FM-7シリーズ(FM-8の廉価版・音源搭載)
・1982年 シャープ X1シリーズ
・1982年 エプソン HCシリーズ
PC-8800シリーズの初期機種PC-8801を例に、当時の8ビットパソコンの仕様を示す(Wikipedia「PC-8800シリーズ」より)。
富士通は、早期からパソコンキットを発売していたが、本格的なパソコンは1981年のFM-8が最初である。機能はNECのPC-8801とほぼ同じであるが、MC6809をメインCPUとディスプレイ制御CPUの2つをもち、画面表示を高速化している。またZ80カードを搭載することでCP/Mの動作も可能にしている。
CPUの16ビット化は、1970年代後半から進んでいたが、1980年代になると、16ビットCPUを搭載したパソコンが出現した。
国内での最初の16ビット機は、1981に三菱電機が発売したNULTI-16である。CPUはi8088、OSは日本語CP/M-86(16ビット対応のCP/MをShift JISの日本語版にした)を採用した。ビジネス用。後述のMS-DOS機に押されて、あまり普及しなかったが、その後のパソコンに与えた影響は大きいといわれている。
16ビットパソコンの普及を促したのが、1981年のIBMがIBM-PCによるパソコン分野参入と、そのOSであるPC-DOS(MS-DOS)である。
1980年当時は、汎用コンピュータ全盛時代であり、IBMはトップメーカーでIT全般に関するオピニオンリーダーであった。そのIBMがパソコン分野に進出したことは、業界に大きなインパクトを与えるだけでなく、ビジネスにおいてパソコンが認知されたという意義をもつ。その代表的なパソコンが1981年に発表されたIBM5150であり、IBM-PCと呼ばれるようになった。
IBM5150(IBM-PC)1981 |
IBM-PCの主な仕様 |
当時は、パソコンは個人利用が主であった。ビジネスでも利用されているとはいえ、TSS端末や個人や部門内でのローカルな利用であり、IT部門が真剣に関与する対象とは認識されていなかった。それが大きく変化したのである。
また、この頃、オフィス業務の生産性向上に情報機器の活用が重要だというOA(オフィス・オートメーション)の概念が普及してきた(参照:「OA」)。
これらの相乗効果により、オフィスでのパソコンが急速に普及したのである。
IBMは、すべての分野でIBM技術を使う伝統があったが、パソコン分野では遅れをとっており、自社だけでなく他社の協力を得ることが自社パソコンの発展に必要だと認識した。当時、パソコンOSではCP/Mが大きなシェアをもっていたのであるが、やや偶然的な理由により、マイクロソフトに新しいOSの開発を依頼した(参照:「IBMのMS-DOS選択」)。これがPC-DOSであり、マイクロソフトが販売しているのがMS-DOSである。
MS-DOSは、新OSであったが、IBMが採用したことが大きな助けになり、多くの16ビットパソコンがそれを採用するようになった。それで、MS-DOSをOSとするパソコンを「MS-DOSパソコン」ともいう。
しかし、8ビットパソコンの大部分はCP/MをベースにしたOSを利用しており、CP/Mも16ビット対応のCP/M-86が開発されていた。資産の連続性を考慮すれば、CP/Mのほうが都合がよい。そこで、CP/M対MS-DOS論争が発生した。
国産メーカーの多くがMS-DOSを選択したが富士通と三菱電機はCP/Mを選択した。しかし、全体の流れはMS-DOSが優勢になり、後に両社もMS-DOSを採用するようになる。
いずれにせよ、16ビットOSにより、BASIC立ち上げの環境から、OSがファイルの管理や処理実行を行うようになり、使いやすくなった。多様なプログラミング言語が使えるようになり、豊富なソフトウェアが提供されるようになった。16ビットOSを利用するには、16ビットCPUを用いる必要がある。1980年代初期に国産各社が16ビットパソコンを発表した。
・1981年 三菱電機 MULTI16 CP/M-86
・1982年 NEC PC-9801 MS-DOS
・1982年 東芝 PASOPIA16 MS-DOS
・1982年 エプソン HCシリーズ MS-DOS(PC-9801互換機)
・1982年 富士通 FM-11 CP/M-86
・1982年 キヤノン AS-100 CP/M-86,MS-DOS
・1982年 日立 MB-16001 MS-DOS
この動きに対して8ビットパソコンは、家庭用入門機、特定用途機へと変化したが、次第に16ビットに移行する。1985年には、16ビットパソコンの出荷台数が8ビットパソコンを追い越した。
また、16ビットMS-DOS機として、PC-9800シリーズは、機能・性能をアップしつつベストセラーになり、「国民機」といわれ国内パソコンの業界標準になった。
1984年に日本IBMは、「IBM マルチステーション5550」を発表した。IBM PCは日本語対応が不十分だったので、日本IBMが独自に5550を開発したのである。CPUはi8086(16ビット)、OSはPC DOS(MS-DOS)を日本語対応に強化した日本語DOSとOS/2である。PC/AT(後述)そのものではないが、その技術や規格をかなり取り入れている。1980年代前半から後半への移行の橋渡し的な機種である。
当時は文書作成には、未だパソコンが非力でワープロ専用機が広く使われていた(参照:「ワープロの歴史:1980年代前半」)。汎用コンピュータでのTSS利用(参照:「TSS」)が普及されてきて、専用端末からパソコンへ移行しつつある段階であった。「マルチステーション」とは、パソコン、ワープロ、TSS端末の3役を1台でカバーするという意味である。5550は、ビジネスでのこのような動きに拍車をかけた。
私も、IBM5550を使ってみてビジネス用途での利用に関心をもつようになりました。この頃、富士通(パナファコムと共同で)は、FACOM9450というIBM5550に似た概念のパソコンを発売しました。富士通ユーザでしたので(当時は未だオープン化が不徹底で、同一メーカーのものでないと汎用コンピュータとパソコンの接続が困難だったのです)、本機を採用しました。
しかし、私は、当時は本機を「お利口なTSS端末」と認識していたのです。標準装備だったかサードパーティ製品だったか忘れましたが、汎用コンピュータのデータをダウンロードする機能がありました。TSS端末として汎用コンピュータ上で必要なデータを加工抽出して本機に取り出し、それを表計算ソフトEPOCALCでグラフ化などの二次加工をするような用途です。
しかし、TSS端末として使うときとパソコンとして使うときにはログオンから切り替える必要があるし、漢字の入力方式も異なる(記憶違いかもしれません)など、操作が面倒だったと記憶しています。
1980年代中頃になると、本体が小型化し、特にディスプレイに液晶が用いられるようになった。ディスプレイ部分を折りたたむことにとり、持ち運びができるサイズになった。その後ノートパソコンへと発展するが、この時代では未だ重く、ラップトップ(膝上)といわれる状態だった。
参照:「ノートパソコンの歴史 ラップトップパソコン」
1984年にIBMはIBM-PCの拡張版であるIBM-PC/ATを発表した。CPU:i80286(16ビット)
IBMは、OSのPC-DOSを開発委託先であるマイクロソフトにMS-DOSの名称で販売するのを認めただけでなく、周辺機器の普及のために、ハードウェアの仕様(回路図など)も公開していた。それにより、多くのメーカーが合法的にIBM-PC/ATと同じ動作をするパソコンを開発するようになった。そのようなパソコンをAT互換機という。
アップルなど一部を除き、ほとんどのメーカーがAT互換機を生産するようになり、PC/ATあるいは互換機での仕様が業界標準となり、現在のパソコンの標準となる規格のベースがこの時代に確立した。
IBMの意図に反して、AT互換機はIBMに打撃を与えた。互換機メーカーは、本家よりも性能の高い互換機を低価格で発売したため、これまでIBMは、米国では50%以上のシェアをもっていたのが、次第に互換機に押されて首位の座を失ってしまうのである。
日本では「AT互換機」を「DOS/V(後述)を採用した機種」だとすることが多い。PC/ATの技術や規格を取り入れた機種は多いが、漢字の取り扱いが重要であり各社独自の方法を用いていたため、この時代での「AT互換機」を特定するのは困難である。バージョンアップのたびに取り入れていったと解釈すべきであろう。
16ビットAT互換機が普及する一方、32ビットCPUを採用するハイエンド機が出現した。通常のパソコンでの最初の32ビット機は、コンパックが1986年に発表したDeskpro 386である。AT互換機でありながら、CPUにi80386を採用しPC/ATより高い性能をもつ本機は、大きな成功をおさめた。
国産機では、CPUにi80386を採用、グラフィック機能を強化している。業務用ではCADなど技術分野でのワークステーションとして、家庭用ではアニメーションゲームなどを含むマルチメディアパソコンとしての用途であった。
・1987年 NEC PC-98XL2
・1987年 富士通 FMR-70
・1988年 NEC PC-9801RA
・1989年 富士通 FM TOWNS
現在のパソコンは、画面のアイコンをマウスでクリックして操作できるGUI(Graphical User Interface)環境であるが、MS-DOSでは、基本的に文字列のコマンドを入力するCUI(Character-based User Interface)であった。アップルでは、既に1983年に発表したLisaのOSで初歩的なGUIをサポートしていた。マイクロソフトは、1985年のWindows 1.0でGUI化をしたが不評であり、(特に日本で)アップルに対抗できるGUI環境になったのは1992年のWindows 3.1からである(参照:「OSの歴史 Windowsの発展」)。
日本IBMは、1990年にDOS/Vを発表した。体系的にはPC-DOSのマイナーバージョンであるが、日本語表示に画期的な影響を与えた。
日本では、日本語表示が大きな問題になる。1990年までは、メーカーが個別に方式を開発し、その優劣が差別化の要素になっていた。多くの場合は、ファームウエア(RAMにソフトウェアを組み込む方式)を採用していたため、ある機種で作成した日本語のファイルを他の機種で表示することができなかった。ところが、DOS/Vでは、それをソフトウェア化したのである。PC-DOSを搭載したAT/PCおよびAT互換機ならば、特別のハードウェアを必要とせずに、互換性を実現できるようになったのである。
そして、マイクロソフトもDOS/Vをサポートするようになり、DOS/Vを主とする標準化や推進をするOADG(PCオープン・アーキテクチャー推進協議会)が設立され、DOS/Vは急速に普及した。NEC以外の国産メーカーは、こぞってDOS/V機へと移行した。
・1992年 東芝 DynaBook 486-XS(ノート)
・1992年 三菱電機 apricot NT386SL(ノート)
・1993年 富士通 FMV
・1993年 日立 FLORA1010NA
なお、日本では「DOS/V対応機」と「AT互換機」を同義語として混同することが多い(誤用だが)。
これまで国産パソコンは「日本語の壁」により海外メーカーの進出を拒んできた。世界的にはAT互換機同士の激しい競争が行われていたが、国内では比較的平穏だった。ところが、DOS/Vにより、その壁が崩れてしまい「パソコン開国」「パソコン自由化」の状態になった。
1992年に、コンパックは思い切った低価格競争を仕掛けた。当時、日本のパソコン本体価格は25~50万円であったが、それを12.8~19.8万円という半値価格にしたのである。それによりコンパックは躍進して1994年には販売台数で年間世界一になった。他のメーカーもそれに追従するしかなく、その後パソコン価格の安値競争が続くことになる。
1984年に東芝が発売したDynabook J-3100SSが世界で最初のノートパソコンである。すぐにNECが続き、1990年代になると、IBMとアップルが参入、東芝、アップル、IBMが次々に新機能を加え、1995年頃には、現在のノートパソコンの標準的な機能の原型が完成した。
1990年代中頃から、国産各社が参入、先行各社は新機種シリーズを展開した。また、インターネットが普及し、モバイルコンピューティングが盛んになった。それにより、ノートパソコンが急速に使われるようになり、2000年にはノートパソコンの出荷台数はデスクトップパソコンを追い越した。
2000年代を通して、小型化、軽量化、高機能化、省電力化が進んだ。2000年代末には、iPadで代表される新しい形態の携帯機器が出現し、ノートパソコンと競合するようになってきた。
参照:「ノートパソコンの歴史」
1990年代後半を特徴づける変化は、インターネットの爆発的な普及である。インターネット利用を目的としたパソコンユーザが増大した。
1995年にマイクロソフトはWindows 95を販売した。GUIを大改良したこと、WebブラウザIE(Internet Explorer)を標準装備した。また、 Windows系のパソコンでは、それまでファイル名称は8バイトに制限されていた。それが、現在のように長いファイル名(最大255バイト)が利用可能になった。
日本語版Windows 95の推奨仕様を示す。当時のパソコンとしては、高機能を要求していた。
・CPU:i486SX以上(Pentium)
・メモリ:12MB以上
・ハードディスク:75MB以上の空き容量
・ディスプレイ:640x480以上
・光学ドライブ:CD-ROMあるいはFDDドライブ
CPUにインテルを指定しているのが特徴である。インテルはパソコンメーカーに「インテル入ってる」のロゴを貼ることを求めた(1991からであるが、Windows 95で目立つようになった)。このように、当時のパソコンでは「Windows 95、インテルCPU」が宣伝に広く用いられるようになった。また、その独占が確立して「Wintel帝国」(Windows+Intelの造語)といわれるようになった。
マイクロソフトは、事前にパソコンメーカーにWindows 95が円滑に動作するパソコンを作成させ、各メーカーはWindows 95発表以前に「Windows 95対応機」を無料アップデート保証をして販売したり、発売とあわせて新機種を販売したりした。
1995年 NEC PC-9821Xa10/9/7
1995年 富士通 FMV-DESKPOWER
1995年 シャープ Mebius
1995年 東芝 DynaBook GT-R590
1995年 日立 FLORA PX
1995年 IBM Aptiva
Windows 95は、マスコミが大きく取り上げたこと、利用者にβ版がリリースされたことなどにより、利用者への関心を高めた。このような手段は、その後のWindows発表の慣例になった。その後、パソコン向けのWindowsでは、Windows 98(1998年)、Windows Me(2000年)が出荷されるが、Windows 95の延長であるととらえてよい。
Windows 95は、米国では8月に発売されたが、日本版の発売は日本語対応が遅れて、11月23日(勤労感謝の日)になった。秋葉原などでは深夜11月23日になった瞬間に販売を始める店が多く、長い行列ができ、一種のお祭り騒ぎの様相を呈した。この様子はテレビなどで報道され売り上げに貢献した。初回出荷で50万本、1995年末までに90万本を販売したという。
また、これによりパソコンユーザ層を拡大した。なかには、パソコンをもたずにWindows 95を買い、インターネットが見えないと苦情をいうような初心者もいたとか。
Windows 95およびインターネットによるパソコン利用者の増大は、私が在籍していた会社の社員も同様で、IT部門にも本来とは異なる分野で大きな影響を及ぼしました。社員の個人パソコンに関するQ&Aが殺到し、EUCのサポートグループがそれに忙殺され、マイクロソフトのヘルプデスクのような状況になりました。上からは公私混同をするなといわれるし、担当者はEUC推進に役立つと思うし・・・作業日報に記入すべきかどうか・・・
2000年には、ノートパソコンの出荷台数がデスクトップを超え、パソコンへの関心もノートに向くようになった。ここからは「ノートパソコンの歴史」を参照されたい。
マイクロソフトは新しいWindowsを逐次開発してきた。そのうち2000年代で大きな影響を与えたのが、2001年のWindows XPと2009年のWindows 7である。
Windows XPから、32ビット版と64ビット版が提供されるようになった。64ビット版は、CPUの64ビット化やサーバの高性能化に対応するものであるが、一般用パソコンは32ビットが主流であった。それが、Windows 7の頃になると、多くのパソコンが64ビットCPUを搭載するようになり、どちらのOSを選ぶかは利用者のオプションとするようになった。
パソコン業界は企業の買収統合が激しい。それには、競争力を高めるために、コアコンピタンスをもつ企業を買収する場合と、パソコンの低価格化が進み経営を圧迫するので、その事業を売却する場合がある。
以前から、対価格化対策のために海外生産を進めてきた。2000年代になると、海外メーカーが成長し、単なる委託生産ではなくOEMにするようにり、さらには、パソコン事業を海外メーカーに売却するようにもなってきた。その結果、中国、台湾、韓国などの企業が、パソコン業界の主役になってきた。
逆に、海外メーカーが、日本市場独自のニーズに応えるために、日本メーカーとの提携を深めている。例えば、HPの日本向けパソコンでは、シャープがOEM供給や販売をしている機種が多くある。
・1998年 コンパックがDECを買収
・1999年 三菱電機、高価格サーバー以外のパソコンから次第に撤退、台湾からOEM供給
・2002年 HPがコンパックを買収
・2004年 レボノ(中国・聯想)がIBMパソコン事業部を買収
・2006年 NEC、パッカードベルをゲートウェイに売却
・2007年 エイサー(台湾)、ゲートウェイを買収
・2007年 日立、ビジネス向けパソコンから撤退。HPからOEM供給
・2009年 オラクル、サン・マイクロシステムズ買収
・2011年 NECとレノボ、国内PC部門で合弁、事業一体化
2007年にAppleからiPhone、2008年にGoogleからスマートフォンOSであるAndroidが発表された。2009年~2010年には国産各社からスマートフォンが発表された。スマートフォンに関しては、「ノートパソコンの歴史」を参照されたい。
NECは、1980年代後半には、PC88/98が国民機と呼ばれるほどの成功をおさめ、国内パソコン市場での寡占体制を確立した。ところが、その過去の資産を維持するためには、1990年代前半に起こったDOS/VやAT互換機などの「国際業界標準」への追従を遅らせる必要があった。そのため、NECは現在でもトップメーカーではあるが、シェアはかなり低くなり、トップの座も安泰ではない。
ビジネスの世界では「成功は失敗のもと」「遺産は負債」といわれるが、NECのケースもこの例になるようである。その観点から検討する。
・1979年 PC-8001
・1981年 PC-8801
・1982年 PC-9801
・1984年 PC-9801F3 シェア40%
・1985年 PC-9801VF シェア90%
・1985年 ジャストシステム、一太郎発売
・1987年 エプソン、PC98互換機市場に参入
NECは、パソコンキットTK-80で先鞭をつけたが、PC-8001による本格的なパソコン市場への参入はやや遅れた。しかし、1881年のPC-8801、1982年のPC-9801シリーズは大ヒットし、瞬く間にトップメーカーになった。
NECが成功した理由には、次のことが考えられる。
国産メーカーに共通した事項であるが、日本語表示という特異性が、海外パソコンメーカー参入の防壁になり、国内市場は鎖国状況であった。国内だけで競争すればよかったのである。
NEC機は漢字処理、N-BASIC、グラフィックなどで優れてはいたが、他社機と比較して格段に性能や価格に違いがったとはいえない。むしろ、サードパーティの純正品互換周辺機器やソフトウェアの開発、販売を積極的に支援し接続も容易にしたことが、相乗効果をもたらしたといえよう。
PC-9801シリーズは、いくつかの名機を発表し、その都度シェアを拡大した。
PC-9801F3は、10MBのHDDを初めて内蔵し、FDDも装備、カラー640×400ドットのディスプレイは、当時ではかなり先進的であった。これにより、シェアは40%を超えた。
PC-9801VF/VMは、CPUを自社開発のi8086互換で高速なV30(10MHz)、メモリは標準は384KBだが、768KBにすればでMS-DOSアプリケーションが使用可能。FDDは2台、ディスプレイは16色表示、漢字ROMは第二水準を搭載するなど、かなり贅沢な仕様で、高価ではあったが大ヒットした。これにより、PC-9800シリーズによる寡占化が急速に進み、一時的ではあるが90%のシェアをもつようになった。
ジャストシステムの当初はPC-9801を対象にしたワープロソフト一太郎は、日本語WORDが普及するまで、業界標準といえるほどのシエアをもった。1980年代中頃まではワープロ専用機が使われていたが、1980年代後期からパソコンにより駆逐されるようになる。そのパソコンの主流が、一太郎を搭載したPC-9801である。
参照:「ワープロの歴史」
・1990年 DOS/V
・1991年 日本語版Windows 3.0
・1992年 PC-9821
・1992年 コンパックショック
・1993年 機種体系の二分化
・1995年 Windows 95
・1995年 PC-9801BX4 PC-9801シリーズのデスクトップ型最終モデル
・1996年 NECシェア32.0%(富士通21.9%)
1980年代は鎖国環境において「NEC幕府体制」が確立したのであるが、1990年代になると、DOS/VやAT互換機など黒船襲来が起こる。他の国産メーカーは新体制に移行したが、NECは過去の資産があまりにも大きく、旧体制を維持せざるを得ず、多大な努力をしたのであるが、幕府崩壊は免れなかった。
1990年のDOS/Vにより、漢字表示がソフトウェアで行えるようになると、各社独自の方法が無意味になった。また、1991年の日本語版Windows 3.0により、ソフトウェアの互換性、データファイルの互換性が進んだ。すなわち、個別アーキテクチャによる抱え込みができなくなったのである。この事態により、多くの国産メーカーはAT互換機へと移行した(富士通のFMRシリーズなど)。
NECも、新シリーズPC-9821により、Windows 3.0環境に合わせたハードウェアの拡張を行った。AT互換機を意識したのであるが、PC-9801との互換維持が求められたため、不十分な対応であり、同時期の同価格帯のAT互換機に比べると不十分な性能であった。特にDOS/Vに移行することができず、NEC独自方式を続けることになったのである。
それに追い打ちをかけたのがコンパックショックである。コンパックはAT互換機の価格を半値にしてしまった。これは国産AT互換機に大きな打撃を与えたが、それらが価格低下をしたため、今度はNECが打撃を受けることになる。そえでNECは、9821を98MATEとして従来の価格帯、旧PC-9801シリーズを98FELLOWとして低価格帯にしたり、98MATEをハイエンドA-MATEと低コストB-MATEに二分化したりして対抗した。
決定的な打撃はWindows 95である。これを機会に、NEC以外のメーカーはAT互換機一色になってしまった。それでNECは孤軍奮闘の状態になる。当然、NECもWindows 95をサポートしたが、サードパーティのハードウェアやソフトウェアはWindows 95/AT互換機を対象にしており、NEC機には対応できないケースも生じた。1980年代とは逆の状況になった。
このような状況では、従来の高シェアは維持きず、1990年代中頃にはシェアは40%を割込み、第2位の富士通の急迫を許すことになった。
・1997年 PC98-NXシリーズ PC/AT互換機
・1998年 98MATE VALUESTARの生産終了
・2003年 PC-9821シリーズの受注を終了
・2009年 NECシェア18.4%(富士通18.2%)
1997年に、NECもとうとう従来のPC-98シリーズと互換性がないDOS/V機PC-98NXシリーズを発表した(NECとしてはシャクだったのかDOS/V機やAT互換機といわず「世界標準機」といったが)。そして、2000年代になると、PC-9801シリーズ、PC-9821シリーズの生産を終了、NEC独自仕様を守ってきた幕府は崩壊したのである。
独自仕様パソコンは消滅したとはいえ、NECは現在でもパソコンの代表的メーカーである。2009年での国内シェアは(富士通が迫っているが)18.4%で、トップメーカーの座を保っている(参照:ITmedia「2009年PC出荷台数シェア、NECがトップ──エイサー、ASUSが順位上げ」図表も)。
2010年頃のNECパソコンの代表的機種
・VALUESTAR L:高機能デスクトップ
・VALUESTAR N:液晶一体型主力製品
・VALUESTAR W:高機能AV志向
・LaVie L:A4ノート
・LaVie S:コンパクトノート
・LaVie Light:ネットブック
2011年に、NECパーソナルプロダクツのパソコン部門とレノボの日本法人を統括する持ち株会社を設立した。これにより、国内PC事業が一体化するが、持株比率はレノボが51%で主導権を持つ。今後、NECのパソコン事業がどうなるのか注目されている。
アップルは、独創的な新製品を開発する能力をもち、常に話題となる先駆的な新製品を提供してきたのに、そのシェアは3%程度にとどまっている。
ビジネスで成功するためには、独創的な新製品開発と財務的な健全な経営戦略が必要である。アップルは、前者では類まれなコア・コンピタンスをもちながら、後者ではいつも問題を抱えている。この観点から、アップルの歴史を検討したい。
アップル社は、1976年にスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)とスティーブ・ウォズニアック(Stephen Gary Wozniak)により創立され、1977年に資産家のマイク・マークラ(Mike Markkula)が加わり法人化した。
アップルは、1997年にApple IIを発売してパソコンに先鞭をつけただけでなく、常に創造的・先駆的なパソコンを開発してきた。反面、世の中の主流と相容れることが少なく、独自の方針を続けており、シェアを拡大することはできなかった。しかし、2010年に発売したiPadは(パソコンの範疇とやや異なるかもしれないが)、タブレットパソコンとしても抜本的な製品であり、爆発的な売れ行きを示した。
このような伝統に影響を与えたのは、二人のスティーブ、特にジョブスの個性によることが大きい。ジョブスは、パソコンの天才といわれ、技術的にもデザイン的にも美しさが重要だとして、時代に先駆けた創造的なパソコンを開発してきた。しかし、対人関係が苦手なようで、経営陣とトラブルを起こすことが多く、自分自身が退社したり、舞い戻ったりしたりした。アップル全体がジョブスの個性と似たところがある。
Apple IIに関しては前述した。この爆発的な成功がアップルの経営基盤を確立した。この開発はウォズニアックが主体だったのだが、派手な騒ぎは嫌いな性格であったこと、ジョブズが株式公開により20代で長者番付に名を連ねたことなどから、むしろジョブスが天才児として名声を得たのだという。
Lisaは、ジョブスの性格が発揮されたパソコンである。
アップルとしては、当初は2000ドル程度の普及機を計画していた。ところがジョブスは、当時、ゼロックス社はワークステーション「Alto」を試作しており、ジョブスはそれに刺激されて、ゼロックスの技術者陣を引き抜いたり、設計に過剰に介入したりした。そのため、開発の遅れや資金のオーバーが発生し、しかも1万ドルに近い価格になってしまった。それで、ジョブスはプロジェクトを追放されたりした。
Lisaは、経営的には失敗だったが、世界初のGUI環境(右図)、マウス採用、マルチタスクのパソコンであり、パソコン史上画期的な出来事であった(マイクロソフトがこれに対抗できるGUI環境OSを開発したのは、1991年のWindows 3.0である)。
アップルはパソコンシリーズ名Macintosh(略称Mac)は1984年から始まった。これも当時の社長マイケル・スコットは「安価でシンプルなマニュアルのいらないパソコン」として計画したのだが、ジョブスは「LISAに負けない最高のパソコン、美しいパソコン」を主張し、スコットは辞職してしまった。
この機種では、最高の技術が要求され、日本製品が採用された。
・SONY:フロッピー装置のオートイジェクト機能
・キャノン:レーザープリンタ
このプリンタとアルダス社(現アドビシステムズ)のPageMakerを組み合わせたDTP(Desktop publishing:当時は印刷の版下作成など)は美しく、これ以後DTP市場ではMacintoshの独占状態になった。
日本製品の採用に伴い、日本での販売を試みたが、当時は漢字が使えなかったので、あまり売れなかった。
前述のように、アップルは独創的な特徴があるが、この後も、AT互換機、CPU、OSなどでのいわゆる業界標準とは異なる独自性を発揮している。
IBMは1981年にIBM-PC、1984年にPC/ATを発売した。1980年代後半には米国のパソコンメーカーはほとんどがAT互換機になった。しかし、アップルは現在まで独自路線を維持している。
パソコンCPUでは、インテルがトップメーカーであり、互換CPUを含めて高いシェアをもっているが、アップルは一貫して、アンチインテル派であった。
パソコンCPUが量産されるようになった1970年代後半からインテル対モトローラの「86vs68戦争」が続くが、Apple II、Lisa、MacintoshのすべてがモトローラCPUあるいはその互換CPUであった。その後のMacも同様である。
1991年に、アップル、IBM、モトローラの3社は新CPUの開発で提携し(AIM連合という)、RISCベースの32ビットCPUであるPowerPCを開発した。この後は、PowerPCシリーズを採用する。
ところが、世の中の流れは、通常のパソコン用CPUではインテルとAMDがAIM連合を破る状況になってしまった。そして、2006年にはMachintoshCPUをPowerPCからインテル系へ移行することになった。
ほとんどのパソコンは、MS-DOSからWindowsまでマイクロソフトOSを搭載している(近年はLinuxなどオープンソースOSも増えてきたが)。それに対して、アップルは独自のOSであるMacOSを採用してきた。漢字の取り扱いでも、DOS/Vではなく、独自の「漢字Talk」を採用している。
そのため、原則的にはWindows系のソフトウェアは使えない。マイクロソフトのOfficeにはMac用があるが、それでも製品としてはWindows用と区別されている。これも、CPUをインテル系にするのに伴い、Windowsを使える環境になってきた。
このように、2000年代後半になると、アップルの独自性が業界標準に妥協してきたようにみえる。販売戦略や利用者ニーズの観点から仕方がないのかもしれないが、さびしい感じもする。
あらゆる製品に共通なことだが、スペックと価格の設定は難しい。高機能・高価格では販売対象が限定されるし、低価格にするときは他製品への影響を考慮する必要がある。アップルは伝統的に「製品はよいが経営が下手だ」といわれてきたが、それを裏付ける状況が続いた。
iMacの初代機が登場したときは、大きな話題になった。
ジョブスの「美しいパソコン」を発揮したデザインである。なめらかな曲線美、半透明で内部構造が見えたり鮮やかなボンダイブルーの筺体は、「裏から見ても美しい」デザインであり、パソコンはもはや機器ではなく装飾家具であると主張している。
設計面では、シリアルポート、フロッピーディスクなどの旧式デバイスを一掃してUSBを全面採用した。本機により、USBの普及が進んだといわれている。
しかも価格が17.8万円という低価格である。このため、本機は大ヒット商品になり、当時経営危機にあったアップルを救ったともいわれている。
当時、私は女子短大の教授をしていました。ちょうどパソコン更新時期であり、女子高校生へ本学の印象を高めるために、パソコン教室のパソコンをすべてiMacにしようとの意見もでるほどでした。結果として、教育や就職の観点から業界標準機を押す意見が多数を占め一部をiMacにしただけですが、それほどのインパクトがあったのです。
iPadに関しては「ノートパソコンの歴史 iPad」を参照。
タブレット型コンピュータであり、パソコンの範疇に入れるかどうかは意見が分かれるかもしれないが、斬新的な機能やデザインであり、今後のパソコンに大きな影響を与えると思われる。