秋も深まってきましたね。落ち込みますよね。落ち込まない?そうですか。いやいやむしろ落ち込んでいきましょうよ。FALLしましょうよフォーリンしましょうよ。秋はとことん。
というわけで、今回は芸術の秋にひとを落ち込ませるダウン系映画として、8編ほどご紹介して、可憐に去って行こうとおもいます。
♯1
ジェリー
ガスヴァンサント監督作品。ダウン系映画を考えるとまず思い浮かべるのがこの作品。わたしのなかでは落ち込みマキシマム映画。救いがないというかむしろストーリーも何も無い。なにせ、ただ歩くだけ。
内容を少し話すと、二人の友だち同士の若者(男)が、なんだろうあそこは観光地なのかなたぶん。荒野的なグランドキャニオン的な、だだ広い赤土の乾いた場所に遊びに行って、気付かないうちに迷子になって、結局ひとりが亡くなってしまうという話。
実話を元にしているからネタバレとかでもないのだろうけれど、ストーリーといえば上述した内容で全てでもある。あとはひたすら歩く。歩く、歩く。へとへとになって歩くだけ。
この作品、ほかにも「エレファント」と「ラストデイズ」と並べて三部作とされていて、どれもストーリーと呼べそうな派手な展開は一切なく、たいがいがブツブツ言いながら歩いたり彷徨ったりするだけの作品。
どれも若者の破滅的な生活を描いてはいるのだけれど、それぞれ動機も法則性もなく、若者が彷徨うだけの内容となっている。
とはいえ、その動機も法則性もない若者の言動、必ずしも信念で動いているわけでもない若い頃の、まったく整合性も合理性もない行動を、あくまで第三者の目線で、それも事の真相を決して追いかけようともしない乾いたフィルムワークは、むしろ妙なリアリティを持って、若者の全てに迫っているような気持ちになる。
もちろん全編を通じて歩くだけの映画なので、世間の評価は低い。わたしだってなんならマッドデイモンとケイシーアフレックでなければ見られたものでもなかったかもしれない。それでも何年たってもわたしの頭の中でビジョンのようにとぼとぼと歩く二人の残像が浮かんでくることがある。何よりも映像が美しい。内容なんていらないんだ。若者を描くということに。
三部作はどれも落ち込む系の作品になっているのだけれど、終わったころには不思議と、ダウンの向こう側にドーンがみえるような気持ちになる作品。夜明けなんてないのだけれど。
サント監督の作品はクセが強いので好きずきはあるだろうけれど、わたしとしては落ち込むと同時に最高に美しい青春映画でもある。
♯2
ピアニスト
ミヒャエル・ハネケ監督作品。おそらくいわずと知れた「後味の悪い映画」の名手。ハネケ作品のダウン系といえば「ファニーゲーム」がもっとも有名なのだろうけれど、これはネットで散々こすられているのでここでは語らない。それでも、わたしにとっては「ピアニスト」のほうがファニーゲームを三週くらい陵駕するほどのダウナー映画。
これは恋愛映画なのかな。怖い部分もあるし切ない部分もある。が、なによりも人間を描ききっているところが怖い。
わたしはピアノが弾けないし、そういうことを学ぶようなアッパーな環境にはなかったので、ピアニストに対するイメージといえば、清廉で教養があって心穏やかな、自分とは別の次元で生きているようなひとしかいないイメージだったのだけれど、この映画を観てからは、そういう幻想みたいなものは妙な方向から払拭された。必ずしも悪い意味で、というわけでもなくて、なんなら転じていい意味で払拭された。なんだ、みんな同じ人間なんだ。みたいな感じで。
とはいえ、この映画はほんとうに怖い。ファニーゲームみたいに反則技を使わなくても怪物や殺人鬼を登場させなくても、人間の怖さをこれほどに表現できるというのは、ハネケ監督はやっぱりものすごい才能があるのだとおもう。端的にいえば陰湿、執着、妄執、妄想、妬み。人間がもつマイナスの要素をあぶり出した傑作です。
♯3
オープンウォーター
ダウン系、といえばそうだけれど、できればダウン系に入れたくはなかった。入れちゃったけど。うーん、これはどうなの?系映画、というぼんやりとしたカテゴリがあるならそこのトップにそっと置いていきたい。
ホラー映画とか小説なんかでもそうなのだけれど、最終的にみんな死んじゃうような作品って、たまにある。あれっていつもおもうのだけれど、え、じゃあ誰目線だったのその映像、みたいな奇妙に合点がいかないときがある。うまくいえないけれど。いやいや、第三者目線としての映像ないし文章であることはわかりますよ、みんないなくなった後の余韻みたいなものもわかりますけど。ねえ、って感じ。はぁ、って感じ。
なにかしら作品を観ているとしたら、登場人物に少なからず気持ちを同化させるような場面ってあるじゃないですか。破滅に至った経緯だとか、亡くなったひとの人間性が描かれていたり、なぜそうなってしまったのか、みたいな、メッセージ的なものや意匠が感じ取られる作品であるならば黙りますよわたしも。
けれどそこもたいして描かずに、破滅的なピンチに陥ったひとたちが、無理だろうね、という展開を覆せずに、やっぱり、無理だったね、という展開を見せつけられると、いったいこの映画はなにを描きたかったのだろう、なんておもっちゃったりしませんかね。
♯4
誰も知らない
これもたぶん「後味の悪い映画」系でネットで散々こすられているとおもうので、多くは語りません。
作品を見終わった後でわたしが感じた感想は、一言。誰でもいいから大人に相談しなさいよ。それだけだった。ほんとにそれだけ。
こんなことにならないように、地域が社会が見守っていかなければならない。みたいな教訓めいた感情は抱かなかった。ただひたすらに、無知で無邪気な子どもたちの破滅、というものを大人の立場に立って、見せつけられただけのような気分になってしまった。子どもだろうが大人だろうが、「助けて」といわないひとをどう救えばいいというのだろうか。そこに教訓や自省を持ち込んでも、結局は世間とは他人の集まりなのだから、どうしようもないのではないか。そんな諦念に近いすさんだ気分になった。そこが狙いなのだろうか。
是枝監督は評価されてますね。わたしはあまり好みの監督ではないかなぁ。それだったら黒沢清監督の作品を一万字くらいタイプしたいところだけれど、黒沢監督の作品はダウンしないんだよなぁ不思議と。
というかダウン系映画って難しいな。ひたすらに落ち込むだけの作品と、落ち込んだところから何かしらを掴み取れるような作品があるなぁ。そのあいだには決定的に別つものがあるのに、一緒くたにして紹介することになんとなく罪悪感を感じてきました。
♯5
風が吹くとき
わたし的、幼少期のトラウマ映画のナンバーワン。「裸足のゲン」を学校の図書館で読破していたわたしにとっては、放射能に対する無知と危機感のなさにひたすらに戦慄した。しかも主人公が老夫婦って、もう、やめてください。老人には弱いんですよ。穏やかな日常のまま、しあわせを感じたままに衰弱していく二人の様は、ある意味ホラーだと感じてしまった。戦争いくない。
- 作者: レイモンドブリッグズ,Raymond Briggs,さくまゆみこ
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♯6
ブラインドネス
世界中が盲目になってしまう未知のウィルス(?)が蔓延してしまった世界を描くパニック映画。
落としどころもあるし、作りもしっかりしているし、目が見えないということの恐怖も存分に伝わってはくるのだけれど、なんとも後味の悪さを感じてしまう作品ではある。
このてのパニック映画では月並みなのだけれど、暴走した側と良心を保とうとする主人公たちの軋轢が物語のメインとなっている。
パニックに陥ったときに垣間見る人間性というのがメインテーマなのだろうけれど、毎回感じてしまうことがひとつある、人間ってこんなに乱暴になるのだろうか?という疑問。
精神的にも肉体的にも“他人に負けない”ということはたしかに大切なのかもしれないし、パニック映画には付きものなのだろうけれど、人間の凶暴性を描くのではなくて、困難な状況に陥ったときに、それをどう打破するかというところをメインに置いてひとつの結論まで導いてくれるパニック映画、というものが、もっとあってもいいのではないかとはおもう。
♯7
マンダレイ
「ドッグウィル」 と連作。ドッグウィルはネットで繁く取り上げられるけれど、この「マンダレイ」はあまりみかけない気がする。もちろん、併用して観て欲しい作品ではある。同じく「負のアメリカ」をテーマとして描いている。
広い倉庫のようなところに不動産屋でよくみる部屋の間取りのようなマーカーがされていて、それだけでひとつの村を想定され、役者の演技力だけを頼りに観る側が想像していくような、舞台演劇のような変わった映画の作りになっている。
作品と作者のパーソナリティ重ねてみるような見かたをわたしは極力避けていたりもするが、それでもラースフォントリアー監督というひとの、人となりがものすごく粘着質なのではないだろうかと、なんとなくいらぬ想像してしまったりする。
息が詰まるようにして終わるストーリーの最後に流れる、とびきりPOPなデビッドボウイの「ヤングアメリカ」の曲目が、どれほど救いになるかを、観ていただければ理解していただけるとおもう。
それでも二作目に観た「マンダレイ」では、かのデビッドボウイでさえもわたしを救い出すことは出来なかった。もし二作連続でみるならば「ヤングアメリカ」効果のほどを聞かせてもらいたい。
♯8
デッドマンウォーキング
この映画ははるか昔に一度観ただけなので、記憶はかなり霞んでいる。内容もあまり憶えてはいない。残っている記憶の残像といえば、観ているあいだじゅう感じた、苦しいし気持ちだけだ。
それでもこの映画はある一定の方向で、わたしにとって人生の指標となっていることは否定できない。
キリスト教的なことを語ることはできないけれど、むしろ宗教観を排除した、人間として理性や道徳観念としての「赦し」というもの、この、答えはそれぞれの心の中にあるものに対する畏怖みたいなものを、意識せざるを得ない作品ではないだろうか。
まだ若かったわたしは、死刑囚である主人公が、ひとに許される喜びや、芽生えたいたわりの心のままに、死に向かう姿が苦しくて仕方がなかった。
むしろ、来たる“死”を知りながらも、人間らしい(社会性のある)感情を植え付け、後悔の感情を芽生えさせて、それから主人公を死刑台に向かわせた、シスターの行為が、とてもグロテスクだとさえ感じた。
どうせなら、クズはクズのまま、人ではあるが人あらざるもののまま、終わってほしかった。けもののままに悔いることなく、嵐のような生涯を終えてほしかった。
シスターは長い時間をかけて怪物を人間にしていった。死すらも恐れなかったモンスターは、他人へのいたわりを知ることによって、後悔を覚え、自分が間違っていたということを懺悔する。
けれど、命に間違いなんてあるのだろうか。そうもおもう。それはわたしだって身近な人が殺されたりひどい目に遭わされたとしたら、加害者を殺してやりたいくらいに憎むだろう。なぜかといえば、それは社会に反した行動だからだ。
しかし社会に反した行動とはなんだ?自分がされたら嫌なことが規準なのか?いやいやまさか。では法律か?いや、法律だって間違いがある。たとえば死刑制度というのはどうなのだ。それは正しいことなのか?それとも悔いり反省するものを、許し受け入れることこそが理性なのか、人道的社会なのか?
獣がけもののまま、食い散らかしたり農家や国の財政に打撃を与えたりするからといって、駆除することが正しいことなのか。外来種が生態系を崩すからといって駆除する正統な理由にはならないのではないか。殺したからといって殺していいというルールとはなんなのだ。
もちろんそれらの答えは今でも見出せてはいない。それでもいまは、原住民に靴を与えたり、そちら都合の法律や規範を教えたりするような、押しつけがましいことだけがキリスト教の本懐でないことくらいは、今ではわかる。癒しや赦しをあらゆるものたちに掛け値なしで与えようと、努力しているひとたちが確かにいることだけはわかっている。
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最近ではあまり観ないけれど、若い頃はダウン系映画を好んで観ていた。今でも「後味悪い映画」みたいなものの特集をネットで見かけると、チェックしたりもする。若い時期には経験が足りないぶん、絶望というものを知りたがり、情報として収集したがるのではないだろうか。わたしがマゾヒスト気味なだけなのかもしれないけれど。
時として、絶望というものは違う種類の絶望を疑似体験することによって、緩和されたりもすることもわたしは知っている。ピカピカ輝いて眩しく希望に満ちたものや言葉では乗り越えられないこともある。
そういう時は、励まされたり鼓舞されたりするものを見たり聞いたりすることもいいけれど、ゆっくりと暗い部屋や劇場で映画でも観てみてたりして、時にはとことん落ちるところまで落ち込むに任せてみるのは、意外にも、自分の心に負担をかけない、けっこう正直なやり方だったりもするかもしれませんよ。
というわけで、みなさんそれぞれさまざまな秋を漫喫してください。それではまたー。