9月15日に75歳で永眠した
1943年、東京生まれの樹木は1961年に文学座に入団し、悠木千帆の名義で俳優活動をスタートした。テレビドラマ「時間ですよ」「七人の孫」などで活躍後、自身の芸名を売却し、1977年より現在の樹木希林の名義で活動を開始。1973年には本日の喪主を務めるミュージシャンの
近年では
樹木の遺志により通夜は近親者のみにて済ませており、本日の本葬儀は仏式にて内田家の墓がある光林寺で執り行われた。この春に余命宣告を受けていた樹木は生前から遺産や葬儀の場所に関する準備を始めており、光林寺も自ら選んだという。祭壇は菊、胡蝶蘭、かすみ草のおよそ1200本の花が波の形を描くように飾られ、遺影は雑誌の取材時に撮られた近影で娘の
死のひと月前に大腿骨骨折のため、緊急手術を受けていた樹木。入院することになり家族と過ごす時間が減る中で、樹木は毎晩「裕也さんに会いたい」と呟いていたと看護師が証言している。その後、24時間の介護が必要な容態だったが、樹木は退院し自宅へ。家族に看取られながら穏やかに過ごした最期の瞬間について、本木は「電話で繋がっていた裕也さんはとにかく『もしもし! しっかりしろ!』と。やはり聴こえているようで、手をギュッと握り、力が強まる場面もありました」と明かした。亡くなった樹木と対面した内田は「きれいだ。昔から美人だと思ってたんだ」と語りながら、ビールを片手に献杯したという。2人の関係性について、本木は「ダイヤモンドの原石のように計り知れない純粋さを持っていると同時に、2人にしかわからない独特の距離感、情の通い方、認め合い方がありました」と述懐。樹木の遺骨が骨壷に収められる場面で、内田は顎の部分の骨を拾い上げ、ハンカチで包み込み持ち帰ったという。
告別式では、出席の叶わなかった是枝による弔辞を、樹木とは文学座の同期であり50年以上の親交がある
そして是枝は「万引き家族」で樹木演じる初枝が死の間際に海辺で発したセリフを引用しながら「もう旅立った背中を追いかけるように、棺の中のあなたに向かって、最後に語りかけた言葉をもう一度だけ繰り返して、私のお別れの言葉を締めくくろうと思います。希林さん、私と出会ってくれてありがとうございました。さようなら」と弔辞を締めくくった。告別式には本作で初枝の家族を演じた
また安藤は
囲み取材にはリリーと橋爪のほか、
告別式には
樹木の戒名は「希鏡啓心大姉(ききょうけいしんだいし)」。「希」には樹木希林という芸名と、まれなという意味を含む。そして生前から役者は人の心を写し出す存在と語っていたことから「鏡」、本名である内田啓子から「啓」が選ばれた。
是枝裕和 弔辞書き起こし全文
まずは告別式の場で、直接、お別れの言葉を告げられない非礼をお詫び申し上げます。ご遺族の方々、ご列席の皆さん、申し訳ありません。そして何より希林さん、ごめんなさい。もしかすると、私がその場に現れて涙声でお別れを語ることなど希林さんはまったく望んでいないかもしれません。立ち尽くす私のシャツの肘のあたりをチョンっとつまんで、「ねえ、あなた身内でもないのにいつまでそんな悲しそうな顔してるのよ」といたずらっ子のような笑顔でいつものように私の顔をのぞき込む、そんなあなたの顔が目に浮かびます。
弔辞というのは人の死を哀しむ、悼むもので、告別式は文字通り別れを告げる場だと辞書には記されています。希林さんが重い病を抱えていた以上、いつかはこの日が来るのだと覚悟はしていましたが、それでもやはりこんなに急にお別れをしなければいけなくなるとは正直思っておらず途方に暮れています。もうずいぶん前に実の母は他界しておりますが、2度母を失ったような、今はそんな悲しみの沼の中にいて、なかなかそこから抜け出せそうにありません。それだけ私にとってあなたの存在は特別だったのだと思います。希林さんと私が最初にお会いしたのは、2007年のことですからまだ10年ちょっとの付き合いです。ですから私が語れるのはあなたの人生の、そして役者としての長いキャリアの最後の数ページにすぎません。そんな私が弔辞を読むなどという大役を担う資格があるのか、本当に心許ない限りです。それでも悩んだ末に、お引き受けすることにしました。
今この弔辞を読んでいただいている橋爪功さんは、希林さんとは文学座の研究所の同期でお互いを橋爪くん、ちゃきと呼び合う旧知の間柄です。一度お二人に夫婦を演じていただいたのですが、撮影の合間に鹿児島で夕食をご一緒したときの掛け合い漫才のような言葉の応酬。カウンターに並んで座って天ぷらを食べながら、希林さんの大好きな慰謝料や整形の話に笑い、その合間に演劇論が、そこだけは鋭く語られ、そこには50年を超える歳月をかけて培われたお互いの人間性や芝居に対する尊敬がにじみ出ていて、心の底から羨ましかった。いつか自分も2人とこんなやり取りが対等にできる関係になりたいとそう思いました。その願いはとうとう叶えられずじまいでしたが、それでもこうして私の書いた弔辞を橋爪さんに代読していただくことで、少しだけ2人の間に割り込ませていただいたようなそんなうれしい錯覚を覚えています。
希林さんと私とはおよそ20歳の年齢差がありますが、2人の関係は失礼を承知で言うと、馬が合ったということに尽きるのではないかと思います。そして何より、出会いのタイミングにご縁があった。2007年というのは、私が「歩いても 歩いても」という母をモデルにした映画の準備に入った年であり、希林さんはその前年に、盟友であった久世光彦さんを亡くされていました。もし久世さんがご存命だったら、希林さんは果たして、ともに作品を作る演出家として、私を選び導いてくれただろうかと、時折そんな考えが頭をよぎりました。久世さんがドラマ化しようとして実現できなかった、「東京タワー」のおかんの役をあなたが映画で演じられたという経緯を考えると、そこにはやはり果たせなかった思いのようなものを感じずにはいられないからです。もちろん、希林さんが私の背後に久世さんの姿を重ねるようなことはただの一度もありませんでしたが、私はあなたと久世さんの間に確かに存在し、一度は断ち切られた縁の一部を受け継いだようなそんな気持ちでいたのです。
なぜ、希林さんが私のことを贔屓にしてくれたのかよくわかりませんでしたが、もしかすると私がテレビ出身で、映画の世界になんら師匠や頼れる先輩を持っていなかったことがその理由の1つだったのかもしれません。そんな孤児のような私を不憫に思い、気にかけてくれた。だから映画が公開されるたびに、私本人ではなく、プロデューサーに電話をして、客の入り具合を確認し、「いや、次も撮れるわね。よかった。よかった」と心配してくれた。出来の悪い息子を案ずる母からのこの電話は最新作までずっと続きました。希林さんにはずいぶん、いろんなものをごちそうになりました。あなたはお店に入ると、「コースを全部食べたいんだけど、量を半分にして」と指示されたり、お寿司屋で「どうでもいいつなぎみたいなの要らないから、美味しい順に半分だけ出して」と無理な注文をされました。そして森繁久彌さんや渥美清さん、久世光彦さんの思い出話を、その人たちの仕草や言い回しを上手にまねながら私に語って聞かせてくれました。独り占めにするのはもったいないくらいのその貴重な話に耳を傾け、私はただただ相づちを打つだけでした。あなたはお店を出ると、「いくらだったと思う?」とまたいたずらっ子のような言い方で笑いかけ、「安いでしょ。だから昼に行くのよ。夜だと高くって」とそんなときに見せる庶民的な顔もまたとても魅力的でした。
私にとってあなたとの時間は、もちろんそれ自体とても楽しいものでしたが、やはりどこか人生の中で実の母と過ごせなかった息子としての時間とその後悔をなんとか取り戻したい、やり直したいという叶わぬ思いを希林さんと過ごすことで埋めようとしていたのかもしれません。口にはしませんでしたが、そんな私の気持ちなど観察眼の鋭い希林さんのことですから、端からお見通しだったのでしょうね。希林さんに、母を重ねて映画を作り、希林さんと食事に行き、話すことで私は私の母への喪の作業を少しずつ進めることができたのでしょう。今、その作業の途上で、私はもうひとりの母を失い、再び、喪の作業を始めることになってしまいました。
先ほど馬が合ったという生意気な言い方をさせていただきましたが、それでももちろんすべての価値観が一致したわけではありません。好きな脚本家として私が向田邦子さんの名前を真っ先に挙げたとき、あなたは珍しく顔をこわばらせ「へえ、どこが?」と私の顔を正面から覗き込みました。この希林さんの「へえ、どこが? へえ、なんで?」という攻撃に遭ったときに、どれだけ説得力のある切り返しができるかでその人の評価は決まります。冷や汗かきながら、向田脚本の魅力を語ったのですが、「ああ、私たちと仕事しなくなってからの作品ね」とあなたが発したその一言は、安堵と寂しさの同居した不思議な響きを持っていました。向田さんの気質に辟易としながらも、久世さんと一緒にテレビで思いきり遊んだという自負とその後、病を得た向田さんがシリアスなドラマや、そして文章の世界へ向かわれたことを、あなたがどう思われていたかは、私なりに想像できるつもりでいます。流れて消えてあとに残らない、テレビやコマーシャルの潔さはおそらく何者にも拘泥しないという、あなたの粋な哲学とそれこそとても馬が合ったのではないでしょうか。
2005年にあなたが向田さんと同じ病を得て以降、あとに残る映画に仕事の中心を移され、ちょい役で独特の印象を残すというスタンスから、主役も含め作品を背負うような役を引き受けるようになったこと、そこにどのような心境の変化があったのかを私は直接お聞きすることはできませんでしたが、私もあなたのその変化を追いかけるようにして、映画の仕事を依頼させていただきました。しかし、もしかすると私との出会いと作品作りがあなたの足取りや振る舞いから、その魅力である軽やかさを奪ってしまうのではないかと危惧したときもありました。でもそれは杞憂だったようです。「テレビの連続ドラマはもう体力が持たない」と言いながら、それでもワイドショーや花火大会の中継などに請われれば出続けた理由を尋ねたとき、「自分が芸能人として今の時代にどれだけ意味や価値があるのか試してんのよ」とあなたは答えられた。そんなフットワークの軽さと雑味を、あえて捨てようとしないあなたの姿勢は、テレビ出身の私にとって、もう1つの大きな魅力として映りました。だからこそ、あなたの訃報を伝えるニュースの中で、いろんな人があなたを「女優」「大女優」と呼ぶことに居心地の悪さをちょっとだけ感じているのです。そのくくり方は、実はあなたの存在をむしろ矮小化してしまうのでないかとさえ思います。きっと希林さんもそう感じているのではないですか? 「私は器用じゃないから」「私はそんなに引き出しが多くない」。これはあなたの役者としての自己評価で、仕事の依頼を断るときによく口にされました。「海よりもまだ深く」という映画のときも、一度受け取った脚本を持参して、事務所を訪れ、抵抗する私の前で何度もこの言葉を繰り返し、「無理」「ぜひ」「無理」と机の上を脚本と言葉が1時間も行き来したことがありました。しかしそんな逡巡はいざ撮影が始まってしまうと、微塵も感じさせず、役を必死で生きようとされる。控室で衣装に着替え、団地の窓辺に正座をして真剣にセリフを覚えようとしている新人女優のようなあなたの姿が今も目について離れません。
そんなあなたが昨年の春に「万引き家族」への出演を依頼したときは、まだ脚本もできあがっていなかったのにもかかわらず、あっさりと引き受けてくれました。半ば断られることを覚悟していた私は、あなたの態度に安堵と同時に不可解さを感じていたのです。撮影が終わり、3月30日に事務所を訪れたあなたから見せられたPETの画像は、ガンの転移を示す黒い小さな点が全身の骨に広がっていました。寿命は年内が目処だと告げられており、「だからやっぱりあなたの作品に出るのはこれでおしまい」と口にされた。そう遠くはないとわかってはいたその時が、あっという間にすぐそこに来てしまい、言葉を失いました。私は死ぬ役を演じさせてしまったことを後悔しました。でももしかしたらそのことはとっくにわかっていて、私はあなたと出会わせておきたい役者を共演者として選び、不謹慎にも映画の中で先にあなたへのお別れをしようとしたのかもしれません。希林さんもそのつもりでこの役を引き受けたのではないですか? 「是枝さんの映画はこれで最後」という宣言は昨年の12月、撮影が始まってすぐのときに、あなたが取材に来た記者たちにすでに語っていた言葉でしたから。
映画はできあがり、6月8日に公開されました。希林さんはそこで、私たち2人の関係をきっぱりと終わりにするつもりだったのでしょう。私の腕に掴まりながら杖をついて壇上に登ったその日、あなたは別れ際、私にこう言いました。「もうおばあさんのことは忘れて。あなたはあなたの時間を若い人のために使いなさい。私はもう会わないからね」。そして本当にその言葉通り、翌日からは私がいくらお茶にお誘いしても、頑なに断られました。私はうろたえました。私はあなたほど覚悟ができていなかったのです。骨折をされて入院をされたときも、会えないのを承知で、あなたの自宅のポストに手紙を投函しに行きました。手紙は直接伝えそこなった、あなたへの感謝の言葉を連ねた独りよがりで、とても恥ずかしいものでした。そしてあなたはあっという間に旅立たれてしまった。その訃報に触れ、駆けつけたお通夜の席で3カ月ぶりに会ったあなたは、凛とした穏やかな美しさに包まれていました。その姿を目にしたときにあなたが会おうとしなかったのは、私があなたを失うことを、そしてその悲しみを引きずりすぎないための優しさだったのだと、私はようやく気付いたのです。私は映画の中で血のつながらない孫娘にさせたように、あなたの髪とおでこに指先で触れました。そしてあなたが映画の中で最後に口にした言葉を棺の中のあなたにお返ししました。
人が死ぬとはその存在が普遍化することだと考えています。私は母を失ったあと、逆に母という存在をあらゆるものの中に、街ですれ違う赤の他人の中に発見できるようになりました。そう考えることで悲しみを乗り越えようとしました。今、妻であり、母であり、姉であり、祖母であるあなたを失ったご遺族の方々の悲しみはもちろん計り知れないものがあると思います。でも今回のお別れはあなたという存在が肉体を離れ、あなたが世界中に普遍化されたのだと。そう受け止められる日が、残された人々にいつか訪れること心から願っています。
個人的なことをもう1つだけ語ることをお許しください。希林さん、あなたが亡くなった9月15日は私の母の命日でもあります。母と別れた日に、こうしてまた母が出会わせてくれた、あなたとお別れすることの巡り合わせというものが、私の寂しさを一際耐え難いものにしています。母を失って、あなたと出会ったなどというこじつけは正しくないかもしれない。けれど母を失ったことをなんとか作品にしようとしたからこそ、希林さんと出会えたことは間違いないのです。だからあとに残された私は、あなたを失ったことをその悲しみを、今回もまた同様になんとかして別のものに昇華しなくてはいけない。それが人生のほんの一時、ともに走らせていただいた人間としての責任なんだろうと思います。そうすることが私のような孤児を拾い、そばに置いて愛情を注いでくれたあなたへのせめてもの恩返しだと思っています。もう旅立った背中を追いかけるように、棺の中のあなたに向かって、最後に語りかけた言葉をもう一度だけ繰り返して、私のお別れの言葉を締めくくろうと思います。希林さん、私と出会ってくれてありがとうございました。さようなら。
2018年9月30日 是枝裕和