【第24回】政治家に訊く:玉城デニー
2010月01月29日

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───────【基本情報】───────

名前:玉城デニー(たまき・でにー、本名:康裕[やすひろ])
政党:民主党衆議院議員
選挙区:沖縄3区
生年月日:1959年10月13日
血液型:O型
座右の銘:天は正論に信念と勇氣を与える、夢は必ず叶う
趣味:音楽、映画鑑賞、釣り、読書 etc...
好きな食べ物:沖縄そば、カレーライス、和食系
お気に入りの店・ショップ・ブランド・グッズ...など:居酒屋「庄や」、沖縄各地の県産品
ホームページ:http://www.d21tamaki.com/

───────【質問事項】───────

─生まれ育った環境は?

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米国人の父と結婚の約束をした母のお腹の中に私がいました。朝鮮戦争が一段落して米国軍が本国に帰るようになる1958年頃のことです。軍人である父はローテーションで本国の米国に戻ることになっていたようです。僕を宿した母はお腹も大きかったので私を生んでから米国に行く約束を父と交わし、父だけが先に発ちました。私は与那城村(よなぐすくそん)で生まれ生活をしました。母は私が2歳ぐらいになったら米国に行くと想定していたようです。

私が生まれてから、母は米国に行くことを周りに相談したそうです。「沖縄で育てた方がいいんじゃないか」「米国に行ったら言葉も違うし難儀するよ」と周囲から言われ、母は米国に行かないと決めてしまいます。沖縄で私を育てようと決心した母は父の写真やもらった手紙を全部焼きました。自分の記憶を焼却したようです。私が生まれてから戸籍をとるまでに2、3ヶ月時間が経っていたのでおそらくそれは「迷いの3ヶ月」だったのではないでしょうか。

母は辺野古(へのこ)のバーで、店の掃除やホステスさんたちの洗濯などをして住み込んで働いていました。子どもの私がいると仕事ができませんから、生まれてから小学校4年生まで母と別居して与那城村の別の家に預けられて育てられました。

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玉城氏は、ヤシナイングヮ(養い子)として、同じ町(与那城村西原)に住む「知花さん」という家で育てられた。写真は「おっかー」と呼んでいた育ての母との2ショット。

見た目はハーフですが、国籍も日本、出身校も沖縄です。英語を話せないのがものすごいコンプレックスでした。昔は「英語しゃべってみー」と言われてからかわれました。今でも閣僚の方々には「デニーさんはバイリンガルです」と紹介されます(笑)

─職歴の「タレント」とはどのような仕事をしていたのですか?

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私はずっと言葉の世界にいました。ラジオのディスクジョッキーをしていました。どんな言葉が人を傷つけ、どんな言葉が人を勇気づけるか、言葉を発し打ち返ってくる響きで初めてわかるものです。リスナーの方や局の方には教えていただきました。

例えば「"手短に"お話ししましょう」「(マラソンで)この区間で"足切り"です」など、言われてみればこの言葉を聞いて嫌な気分になる人がいることに気づきます。差別用語というよりも使っちゃいけない言葉です。推して知るべしということもありますし、きちんと知識としておさめておくべきことがあります。

辺野古市長選での平野官房長官の発言で私が直接言ったことは、「もっと明確に、きちんと伝えることが出来るような言葉でお話しをなさった方がよろしいかと存じます」ということでした。

つまりそれは平野官房長官がまず前段で、「選挙結果は民意で重たい。しっかり重視していく」と述べて句読点をつけて後の質問に答えるべきということです。

─議員になろうと思ったきっかけは?

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2002年から市議会議員になり、政治の世界に入りました。その頃私は自分の思っている憲法擁護の姿勢や国の教育について「どうも違うよな」と疑問を持つようになりました。何に対して違和感を感じたかというと、憲法や国家について議論をさせないことです。

国を考えることについて議論をしようとすると、「また右傾化するのか」という話がすぐわきます。いやいや、右傾化するも何もまず話し合い・議論がなければ方向性やストーリーが描けません。

何か物事を発想しようというときにタイトルを決めます。タイトルを決めるには端緒が必要です。憲法も教育もその端緒、スタート地点がありません。そこから幅広く勉強したいと思い、保守系の方々やいわゆる「右翼」と呼ばれる方とも話をしました。

シンボリックな日の丸や、口ずさむ国歌という話じゃなく、もう少し源流をたどっていくことの方が自分たちのナショナリズムにつながるんじゃないかと市議会議員の時に思いました。

市議会議員、県議会議員と経験を積んで段階的に国政に行くものですが、私がやろうと思うことは国政に行った方がもっと近いかもしれないと思っていきました。

ちょうどそのタイミングで喜納昌吉(きな・しょうきち)さんが参議院で当選して民主党に入っていき、衆議院議員選挙ではぜひ沖縄から出馬をしないかと私は言われました。自分がやってみたい、やってみる価値があるという気持ちと呼びかけのタイミングが合いました。

─沖縄と東京で「民意」に違いを感じることはありますか?

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全国どこでも民意の違いはあると思います。個別具体的になればなるほど顕著になるでしょう。ただ沖縄からはっきりと言えるのは、日本という国が、例えば安全保障について"国としてどうしたいのか"が見てこないことです。だから基地問題で新しい基地を押しつけられようとしている地域の住民が国策に揺さぶられるのです。誘致・容認派が民意なのか、反対派が民意なのか、沖縄の民意は形成できません。

日米で合意されたといっても、それが県庁の考えと乖離していたり、県庁そのものが地元の意見と乖離していたりします。

─沖縄の民意が二分されていることは日本のビジョン(将来の構想)に問題がある?

日本は基地を作って米国に提供します。では日本が国防や安全保障をどう考えているのでしょうか?その答えが返ってきません。これが沖縄県民が国策に翻弄されているということの背景にある大きな問題です。

─解決策は?

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憲法をきちんと教育の中で議論させる事から先の方向性が見えてくるのではないでしょうか。話もしませんし、紐解きもしません。そんな状況で憲法をどうするか、国のかたちをどうするかという議論は、ものすごくあやふやな状況で国が運営されているような気がします。

私は「進んでいる」と思っていた東京に来て、沖縄で考えていることがなぜ東京では進んでいないんだと思うことがあります。東京には全国の民意が集まっているので、東京で動かしにくいのだろうと思います。

では東京からどう考えたらいいのでしょうか。国境に沿っている地域、北海道・北方4島から尖閣・与那国・石垣の地域の人たちの「民意」と、情報が集まりそこで決定されていると思われる東京、永田町や霞ヶ関を中心とした「国政の民意」とがつながっているかを常に検証する必要があるでしょう。

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沖縄では毎日安保が見えますが、ここ(永田町)では「晴れときどき安保」です。国の形としてまとまってないのではないかと思います。

政権が替わったけれども、何か決まったものがあるのかといわれればまだ決まっていません。鳩山政権の方向性、米国との安全保障、中国、ASEANなど、とりあえず前政権下で行われていたことを継承しつつ、少しずつ塗り替えていっています。もっと国としてのあり方をみんなで議論していくところからやりたいと思います。

───────【アイテム】───────

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『ちょっとひといき』
玉城デニー著、琉球出版社

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著書にも載っている、1983年、ライブハウスで歌っていた頃の玉城氏

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2010年1月29日、衆議院第一議員会館:《THE JOURNAL》編集部取材&撮影


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