2014年に見つかった中咽頭がんを克服した後、『レヴェナント:蘇えりし者』『母と暮せば』などの映画の音楽を担当し、17年は自らが出演したドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』が公開されるなど精力的な音楽活動に取り組んでいる坂本龍一さんが、ニューヨークの個人スタジオで日本経済新聞の単独インタビューに応じた。
がんが創造活動や死生観に与えた影響のほか、自らの半生の足跡、アジア映画の台頭、恩人、家族、友人を巡る思い出などについて語っている。インタビューの内容を3回に分けて掲載する。
◇ ◇ ◇
■コーヒー再開でがん抑制を期待、ガムで唾液腺を刺激
――仕事を再開して3年たちましたが、体調は完全に回復しましたか。
「完全に回復したというわけではないですが、気持ちのうえではかなり元の状態に戻ったという感じです。海外出張も病気になる前の7割くらいのペースに増えてきました。がんになる前よりも体重が一時期、15キロほど減りましたが、その後、3~4キロは増えたので、差し引きでまだ10キロ強ほど痩せている状態です。太り気味だったので、冗談半分で『がんのでおかげでいいダイエットになった』なんて話しています。まあ、誰も笑ってはくれませんが……」
「治療の影響で唾液の分泌も半分くらいになってしまったので、唾液腺に刺激を与えて分泌を良くするため、なるべくガムをかむようにしています。それから、気分転換としてコーヒーを飲むようになりました。コーヒーはもともと大好きだったんですが、健康に良くないと思って、ある時期からやめていたんです。でも適度な範囲内ならばがんの抑制効果が見込めるという研究もあることを知り、再開することにしました」
■日本の黒々とした土が好き、理想は土葬されたい
――がんになって死をより身近に感じたんじゃないですか。
「自分に残された時間が確実に減っているという意識はあります。当然のことですが、自分の体の老化もどんどん進んでいる。体の老いに初めて気付いたのは40歳を過ぎた頃でした。遠くが見えにくくなり始めたので目の老化を自覚したんですが、耳も、若い頃に比べると明らかに高い音が聞こえにくくなっています」
「ただ、音が聞こえにくいこと自体、音楽を作るうえではそれほど深刻な問題だとは思っていません。ベートーベンだって、耳が聞こえないのに作曲をしていたわけですから……」
――自分が死んだら日本に埋葬してほしいそうですね。
「病気になる前は特にそう感じていました。あの黒々として、しっとりと湿り気があって、ミミズや微生物がいっぱいいるような、日本の土がやっぱり僕は好きですね。米国や欧州の土はどうしても白茶けていて好きになれません。日本の土の方が落ち着きます。だから火葬ではなく、できれば土葬にされるのが理想です。自分の体の栄養分を微生物にしっかり食べてもらい、別な形で生かしてもらえたらうれしい。現実的に土葬は難しいでしょうが、気持ちとしてはそんな風に考えています」
■人生をリセットした巨匠ジョン・ケージの言葉
「今でも不思議に心に残っている言葉があります。それは10代のころからずっと憧れていた現代音楽の巨匠ジョン・ケージに聞いた話です。1984年にマンハッタンの家を訪ねて、3時間ほどインタビューする機会があったんですが、ジョン・ケージは旅行先で3回、荷物をなくした経験があるそうです。結局、3回ともに荷物は戻ってこなかったが、いずれも人生をリセットして再出発するのにとても良い転機になったというんですよ」
――災いを転じて福となすということでしょうか。
「人間はどうしても多くの荷物を抱えてしまいがちですよね。僕も荷物は多い方でなかなか減りません。でも、時には断捨離のように、思い切って荷物を捨て去る勇気が必要になる。それは今もよく考えさせられます。また、ものは考えようで、いろいろな意味で、がんになったことに感謝している。治療中はつらい思いもしましたが、病気を前向きにとらえています。ジョン・ケージとは最初で最後の対面になりましたが、交わした多くの会話の中で特にそんな言葉が印象に残っています」
■人生で最大の恩人は大島監督
――66歳になった今、人生を振り返ると最大の恩人は誰ですか。
「バッハ、ドビュッシー、武満徹、小泉文夫、ジョン・ケージ……。音楽で影響を受けた人はたくさんいます。でも、人間として交流を持ち、しかも重要な仕事を手がけるチャンスをもらったという意味では、やはり大島渚監督が最大の恩人かもしれません」
「今の僕があるのは大島監督のおかげです。葬儀で弔辞を読んだのも、親族やマネジャーなどの『身内』を除けば、大島監督だけ。役者として初めて映画に出演し、音楽も担当させてもらった『戦場のメリークリスマス』で僕の人生はすっかり変わりました」
――大島作品で特に好きなのは何ですか。
「どれも好きですが、1967年公開の『日本春歌考』は鮮烈でしたね。高校の時に映画館で見たのを覚えています。黒い日の丸が出てきたりして、衝撃を受けました。話の内容は難解でしたが、とにかく過激で面白かった。夢中になって何度も繰り返し見ました。それ以来、大島監督は僕にとってのヒーローになった。当時、大人はすべて敵だと思っていましたが、大島監督と評論家の吉本隆明さんだけは例外。この2人は僕が憧れる『格好いい大人』でした」
■『戦メリ』の配役、R・レッドフォードや緒形拳を予定
――『戦場のメリークリスマス』(1983年公開)はどういう経緯でオファーされたんですか。
「配役はもともとロバート・レッドフォードや緒形拳さんを考えていたようです。でも、実現できないので、何度も変更しているうちに僕の名前が浮上したらしい。僕のほかにも、デビッド・ボウイやビートたけしさんらも出演するとスポーツ新聞が報じていたので、『本当かな』と半信半疑でいたら、突然、大島監督から『会いたい』と連絡が入り、僕の事務所で会うことになったんです」
「大島監督は会うなり、単刀直入に『僕の映画に出てください』と切り出されました。僕にとっては憧れのヒーローですから、そのオファーを断るなんてこと、できるはずがありません。でも、せっかくの機会なので、得意分野の音楽で勝負したいと思い、不遜ですが『音楽を任せてもらえるなら出演します』と条件をつけたら、『はい、分かりました。音楽もお願いします』と即答されたのでビックリしました。その間、わずか2分ほどのやり取りですが、決して忘れられない思い出です」
■セリフを覚えることも知らず、曲作りは手探りで
――役作りや曲作りはどうしたんですか。
「役作りなんてまったく考えていませんでしたよ。何度かCMに出たくらいで、セリフを覚えなきゃいけないことさえ知らなかったので、本番ではかなり焦りました。カンペも出ませんでしたから……。英語の長いセリフがあるし、もう汗だくになって、セリフを必死で覚えました。たけしさんと『僕らは素人だから、演技について監督が怒ったら、すぐに帰らせてもらいます』と事前に伝えていたので、大島監督は僕らを怒ることができなかったようです。おかげで撮影はNGもなく、ほとんどワンテークで済みました」
「映画音楽作りについては、プロデューサーのジェレミー・トーマスに相談すると『市民ケーン』を参考にしなさいと言われました。でも、ビデオを見てもあまり好きになれず、自分なりに手探りで音楽を作りました。『戦メリ』は1983年のカンヌ国際映画祭にも出品され、その会場で大島監督からベルナルド・ベルトルッチ監督を紹介してもらいます。それが縁で『ラストエンペラー』に出演し、音楽も担当することになるのですが、そんな運命が待っているとは夢にも思っていませんでした」
(インタビューの続編を10月5日に掲載します)
本コンテンツの無断転載、配信、共有利用を禁止します。