「試合の日程をメーリスで流しておいて」――。「らくらく連絡網」は大学生らが部活やサークル内の一斉連絡に使う最大級のメーリングリスト。運営するのは2017年12月に東証マザーズに上場したイオレだ。吉田直人社長(54)は数々の企業を創業した連続起業家。がんや自己破産を経験し、行き着いた境地は「社会に貢献する会社」だった。
■死を覚悟し、むちゃな経営
イオレの吉田直人社長は6件の企業を立ち上げた連続起業家だ
初めての起業は1989年、25歳の時だった。広告や編集業務を手掛けた。その後、職業紹介の会社を設立し、2つの会社が成長。余裕が出てきた頃、「子供の頃好きだったゲームやアニメの世界を作りたい」という思いが強くなった。
91年にパソコン用のゲームソフトを手掛けるグラムスを創業した。当時は、インターネットの黎明(れいめい)期。CD―ROMなどを活用してゲームを作るビジネスモデルは、当時のマルチメディアのブームに乗り、「CD―ROMの市場シェアの10%をグラムスの商品が占めた」という。
グラムス創業から4年間、がむしゃらに走り続けてきた吉田社長に95年、大きな転機が訪れる。咽頭がんを発症したのだ。放射線治療を続け、3カ月間はしゃべれず筆談。チューブを使って栄養を摂取した。80キロあった体重は60キロに減少。「死を覚悟した」という。
「死ぬまでにドラゴンクエストのような大ヒット作を作りたい」とますます事業にのめり込んだ。「投資を拡大しろ」と社内に号令し、複数の銀行から20数億円を借り入れた。咽頭がんのことは銀行にも社員にも言わなかった。莫大な借り入れや、むちゃな開発ペース。現場には明らかに困惑と疲弊が見えた。ある社員には「気が狂ったんですか」と言われた。
95年にゲームソフト「クォヴァディス」がヒット。アニメを駆使したRPGとして注目を集めた。だが、終わりは突然訪れた。
97年の金融危機で、銀行が一斉に融資の返済を求めてきた。5月に定期預金を、6月に普通預金を凍結された。自動車や時計まで売って6月分の給料は何とか出したが、「売る物がなくなり、もう無理だと判断した」。7月に倒産した。
吉田社長自身も自己破産。債権者に頭を下げる日々が続いた。銀行への恨みや後悔を酒で紛らわした。98年に免責を受け、むちゃをした自分を反省した。その後、過去の社員や弁護士、債権者などの後押しもあり、再チャレンジを決めた。
■「便利だよ」の言葉に救われ
98年に日本初となるタイ古式マッサージを創業した。さらにNTTドコモのiモードの波に乗り、携帯コンテンツを開発するサイバービズ(現ザッパラス)を創業して、初年度で1億円以上の利益をたたき出した。
サイバービズの役員の大半はグラムス時代の役員。再び一緒に戦ってくれる仲間や債権者への感謝は「もうからなくてもいいから、世の中に貢献する会社を作りたい」という気持ちに変わった。
そこで、01年にイオレを創業した。02年の日韓W杯に向けて、スポーツが日本中で盛り上がっていた。社名の由来は「オーレ!」というサッカーの応援の掛け声。ただ当初は「想像以上にもうからなかった」と笑う。
始めたのはサッカーの試合結果を配信するサイトだ。プロだけでなく、女子サッカーや中学、大学のサッカーの試合まで配信した。チームに直接赴いて、取材をして特集記事も載せた。
転機は小学校のサッカーチームの監督の一言。「雨の日の対応などを電話の連絡網でするのに時間がかかる」。ボランティアで、メーリングリストを作ることにした。運営するうちに、既読や出欠の確認ができるようにするなど改良を加えた。
一つのチームからその対戦相手に、友達に。サービスは口コミで広がり、気がつけば利用者は3千人を超えていた。そこで05年に「らくらく連絡網」としてホームページも作り、本格的に事業化。広告収入を得るビジネスモデルだったが、広告は付かず赤字が続いた。
だが、利用者からの「便利だよ」という言葉に感動した。「社会の役に立つ仕事ができて、とても満たされていた」
07年にはらくらく連絡網の会員は100万人を突破。11年ごろからようやく事業が黒字化。10年からは、会員データを活用して学生などにアルバイトを紹介する事業も始めた。
現在、らくらく連絡網の会員は38万団体、670万人にまで成長。赤字続きだったイオレは、17年3月期の売上高が11億円、経常利益1億円にまで成長。17年12月にマザーズの上場を果たした。
「会員データベースを生かして成長したい」と語る吉田社長。6件の企業を立ち上げた連続起業家だが、上場に直接関わったのは初めてだった。
(企業報道部 毛芝雄己)
[日経産業新聞 2018年1月19日付]
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