一方、ゲイの方から、私宛への応援メッセージも何通も寄せられ、公開されているネット上でも次のような議論を拾うことができる。
当事者ですが、鈴木先生の意見は全てのLGBTの意見ではないです。政治的イデオロギーをこの問題と結びつけないでほしい。杉田議員は差別してるのではなく、税金の使い方について政治家としての考えを述べてるだけ。
以上をもって世論の全てだと強弁するつもりはない。しかし、当事者を含め、これだけ穏当な支持の言説が多数ある拙文、拙論を理由に、たった1週間で伝統あるオピニオン誌を休刊にするのは、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた」出版社の自殺ではないか。新潮社もリベラル人士も、実は、個々のL(レズビアン)やG(ゲイ)やB(バイセクシャル)やT(トランスジェンダー)の人たちを全く素通りしている。恐ろしく傲慢な事ではあるまいか。
それにしても、なぜここまで事は急激に運ばれたのか。拙文が普及してからでは廃刊クーデターが展開しにくくなるからではないか。それは以上のネットの反応を見れば分かるであろう。さらに『新潮45』の特集全部を読む読者が増えると、拙文以外の6人の議論は穏当であり、なぜこのバランスの取れた特集を雑誌休刊の理由にするのか、到底社会の理解を得られなくなったに違いない。
健全な民主社会を維持する根本は、言論が①ファクトに基づくこと、②言論のプラットフォームであるマスコミや出版社は、公平な媒体であることに徹し、自由な空間を死守することである。ところが、この自由社会の基幹というべき2点が数年、日本ではなし崩しに突き崩されつつある。
あの森友・加計学園問題を報じた朝日新聞による倒閣運動を日本社会は放置した。保守政権叩きでさえあれば、ファクトなど今の日本の大手メディアはもはやどうでもいいとの不文律が、これで出来てしまったと言える。
その上、今回の『新潮45』休刊での不可解な動きだ。朝日新聞と新潮社の「あまりに常識を逸脱した」行動で、日本社会はファクトもオピニオンの公平な提供も、全く責務として引き受けようとしない大手メディアによって、完全に覆われることになった。
日本は平成30年9月25日をもって、「言論ファッショ社会」に突入したという事にならぬかどうか―。実に厳しい局面に日本の自由は立たされている。