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心に残る歌を、あともう一曲 2/3

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vol.2 もう俺には書けない


残間
私だけなのかもしれませんが、私たちが若い頃に流行っていたフォークやニューミュージックって、懐メロになってない気がするんですよね。それは南こうせつや吉田拓郎、ユーミンがまだ歌い続けていたり、歌い継がれていたりしてるからだと思います。まだ『リンゴの歌』『岸壁の母』にはなってないですよね。陽水のコンサートには若い世代も来ていますし。
私には嬉しいことなんですが、喜多條さんは同世代として、あの頃の歌をどう捉えていますか?

『聴かせ歌』と『歌い歌』

喜多條
フォークやニューミュージックと言っても、それぞれ違うからね………

歌っていうのは2種類あってさ、まず「聴かせ歌」。家なんかでじっくり聴いていいなって思えるもの。それから一人でも大勢でもパッと歌って楽しくなる「歌い歌」。
すると中島みゆきとか井上陽水は「聴き歌」なんだよね。詩がいいしメロディもよくて、じっくり聴いて何かを感じる。
南こうせつとかアリスは、どちらかというと「歌い歌」なんですよ。みんなで歌いたくなる。

残間
吉田拓郎も?

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喜多條
拓郎はね、岡本おさみさんが詩を書いたものは「聴かせ歌」だね。『落陽』と『襟裳岬』は素晴らしいですよ。あの2曲を書いたということだけで、岡本さんは作詩家として威張れます。
でも『結婚しようよ』とか、拓郎が自分で詩を書いたのは「歌い歌」ですよね。

この辺のことを一番上手にやっているのがサザン(オールスターズ)だと思います。あのバンドは途中でイメージチェンジしてるんです。最初は『勝手にシンドバッド』とかで、言葉を記号化してメロディやリズムに乗せる面白さでやってたんだけど、『いとしのエリー』からガラッと変わった。
記号化をやめて中味を聴かせる歌に方向転換した。あれが凄いよね。それで今は「聴かせ歌」と「歌い歌」の両方の良さを、ステージで表現している。
中島みゆきなんかは完全に「聴かせ歌」だよね。

残間
喜多條さんは現在、日本作詩家協会の会長ですが、やはり中島みゆきや井上陽水の歌詩はすごいと?

喜多條
そりゃすごいですよ。レベルが他の人と全然違う。いわゆる流行歌ではないですから。俺たち同世代の心情をえぐるのね。詩でえぐられてしまう。これは難しいことですよ。

中島みゆきが『わかれうた』(1978年)、阿木燿子が『思い出ボロボロ』とか『イミテーションゴールド』を出した時には、もう逆立ちしても勝てないと思った。もう作詩家をやめざるを得ないなと思ったね。

残間
ふーん………そうだったんですか。

喜多條
そんなこともあって、25年の全国放浪の旅に出ちゃった。まあ競艇場巡りですが(笑)。

10年目にして作詩家休業。25年におよぶ放浪生活へ

残間
みんなどうしちゃったんだろう? と思っていたんですよ。仕事をやめて競艇場通い、家にも帰らないって、典型的なパターンじゃないですか。

喜多條
もう歌の世界には帰って来なくていいと思ってたね。

残間
でも書けないという悩みはあったとしても、どうしようもない原因があったわけじゃないですよね。体を壊したとか。

喜多條
旅に出るまでがかなり忙しかったのね。それで、ある時期から歌が書けなくなった。それまで年間100曲以上書いてたんですよ。

シングル盤を1枚出すということは、作業として5種類ぐらいのことをしなくちゃいけない。打ち合わせがあって、書きがあって、直しがあって、レコーディングがあって、またそこで直しがある。
それで年間100曲ですから、3日に1曲のペース。そうすると作業が重なってくるから、ひどい時は一日に10種類ぐらいの作業をしてたのね。

もう仕事部屋から帰れなくなったし、自分でも何やってるのかよくわからなくなってきた。乾いたタオルを絞って、まだ水を出そうとしてる感じ。プレッシャーだったんだろうね。

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残間
それに加えて家庭的にも大変になってきたと。私も側でつぶさに見ていましたが………。

喜多條
そうそう。そういう時に重なるじゃない? 人生、重なるのよ。

家に帰ろうにも忙しくて帰りようがないし、帰っても女房とはギスギスしている。
俺にしてみればさ、夜も寝ないでこんなに仕事をして、お金も全部家に入れてるのに、どこに不満があるんだ! という封建的な考え方をしてたのね(笑)。

残間
まあ、あの頃の喜多條さんにはそういう傾向がありましたけどね。ああいうところは女の人の心をけっこう傷つけるんですよ。

喜多條
でも、たいしたことないと思ってたの。これだけ仕事してりゃ、いいだろうと。お目こぼししてくれるんじゃないかという思いが、どっかにあって………

残間
(笑)そうはいかなかったわけですよね。

でもみんな、喜多條さんに書いて欲しくて、依頼が来るわけでしょ? 全部断ってたんですか。「もうやりません」と。

喜多條
それは全然心配ないの。

残間
心配ないって?

喜多條
放浪生活に入る前に、子供を残して女房がいなくなった。それで俺一人で育児を始めた時に、最初は時間がないんで依頼を断ってたんですよ。そうしたら半年経ったら、注文が全く来なくなった。
口コミで「あいつやめちゃった。頼んでも書けないよ」みたいに、すぐに伝わるんだね。

残間
喜多條さんみたいなヒットメーカーでも?

喜多條
それまで年間100曲書いてて、紅白に7曲も出してたけどね。
でも子供二人抱えて、朝5時に起きて米を炊いて弁当作って、幼稚園に送り届けてたら何にも書けない。もう最初は物理的に無理だったのね。それで半年で家の電話が鳴らなくなった。
これはこれでいいんだと思ったね。それで3年くらい過ごした。放浪生活はそれから。35歳くらいかな。25歳で作詩始めたから、10年目。

残間
本当に家を捨てたの? 

喜多條
家庭も東京も全部捨てました。

残間
もう再婚してましたけど、奥さんは?

喜多條
そのまま家にいましたよ。二人の子供を育ててもらって。

残間
しかも前妻の子供ですよね………ひどいなあ………

喜多條
いやあ、それほどひどかないですよ。印税があったんで生活には困らないようにしてたし。
それで競艇場は全国に24場あって、月のうち20日はどこかのボート場に行ってた。

残間
競艇との最初の接点は何だったんですか?

喜多條
砧に家を買って住み始めたんだけど、そこの向かいに住んでる人がものすごい競艇好きだったんです。それで毎日連れて行かれたの。
エンジンの音を聞き分けたり、風がこっちから吹けばこういう決まり手が出るとか。一から全部教えてくれた。

残間
競馬が好きなのは知っていましたけど、どうしてそこまでのめり込んだのかしら?

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喜多條
競馬はそんなに好きじゃなかったね。文化放送の先輩に無理やり連れて行かれてただけで、全然わからなかった。
でも競艇は好きになったんです。選手と知り合って、なんか自分とすごく似てるんだよね。結局、あの人たちは賞金稼ぎでしょ。

作詩家も同じようなものなんだよね。売り上げの総額、パイは決まってて、あの頃だと阿久悠さんが半分以上持って行って(笑)、今じゃ半分以上を秋元康が持っていくような。その残りを千人以上いる作詩家が奪い合ってる。歌の内容は別にして、お金のことで言えばそうなんだよ。

ボートの選手も同じ。年間の賞金額は決まってて、一番高いレースは年末の賞金王決定戦で優勝が1億円。1分46秒走って1億円。みんなそれを目指して頑張るんだけど、たくさん稼ぐ奴もいれば、全然稼げないのもいる。それは実力なんですよ。実力っていいうか度胸というか。
そこが俺たちとものすごく似てて、向こうもわかるらしいの。なんとなく胡散臭い勝負師的な(笑)雰囲気。

残間
一口に25年の放浪生活と言いますけど、どんな生活だったんですか?

喜多條
月のうち二十日は全国にあるボート場を旅してた。今じゃ25年の旅のネタで、全国どこでもその土地の演歌を書けるんだよね。わざわざ行かなくても情景から何から簡単に書ける。

残間
そういう時は宿に泊まってるんですよね。

喜多條
そう安い宿。ホテルは好きじゃないんであまり泊まらない。それで晩飯は一人で居酒屋。

残間
そういう時は女っ気はないんですか?

喜多條
ないね。酒場の女の人もいるけど、そういう雰囲気にならないんだ。翌日のレースのことで頭がいっぱいだから。こっちは真剣にやってたからね。

一時はボートの収入が印税収入を超える

残間
真剣にって、ボートで食べていこうというわけでもないんでしょ?

喜多條
そうなんだけど俺も凝り性だから、とことん研究したね。それにおじいさんが相場師だったせいか、勘がいいのよ。で、けっこう舟券を当ててた。もうボートのことで知らないことはないと思う。

それで長くやってると、ボート関係のトークショーとか、原稿依頼とかで仕事が入ってきて、バブルの頃、一時ボートの収入が歌の印税収入を超えた時があったね。

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残間
そうだったんですか!
そういえば25年の間、ただ競艇で遊んでたんじゃなく、競艇評論家になってるんですよね。人から言われましたもの。スポーツ新聞を見ると喜多條の名前が出てるよって。ボートの世界じゃ“喜多條忠”は有名なんですね。

喜多條
そうそう。レース場に行くと、ボート評論家の喜多條忠は知ってても、作詩家の喜多條のことを知ってる人間がいなかった。
このあいだも住之江競艇場(大阪)に行ったら、「最近、喜多條忠って同じ名前の人が歌書いてますよ」って言われたもの(笑)。そんなファンがいるぐらい。

残間
(笑)ホントに?

喜多條
40年も大阪のスポニチにコラムを連載してたからね。選手のひととなりや、ドラマを書いてたの。

残間
じゃあ選手ともつきあってたんですね。選手はやっぱり魅力的?

喜多條
いやあ魅力的だよ。さっきも言ったけど、みんな賞金稼ぎだから、男っぽいのよ。馬鹿な奴もずいぶんいるんだけど、人間性が立派な奴もいっぱいいる。

岡山に黒明良光という選手がいたんだけど、俺はあいつから“男”を教わったね。男というのはかくあるべきだと思った。親分肌でね、若い選手の面倒をよく見るわけ。それでレースも強いのよ。日本一に何回もなってる。

残間
ただ遊んでたんじゃないのね。

喜多條
みんな俺が遊んでると思ってたでしょ?

残間
そりゃそうですよ。博打に魅了されて向こうに行ってしまった人、というイメージが大半だったと思います。

喜多條
今思えば、俺はボートという場所で修行してたのよ。

たった一人で居酒屋に飯を食いにって、夜は煎餅布団しかないような安い宿に泊まる暮らしを25年してた。でも、それが歌を作る仕事にプラスになるなんて考えたことなかったね。もう歌には戻れないと思ってたし。

残間
戻りたいと思ったことは?

喜多條
ない。歌は十分やったと思ってたし。

残間
じゃあそのままボート暮らしでいいと思ってたの?

喜多條
そう。俺の理想は野垂れ死だから。

残間
(笑)昔から言ってましたね。そんな大きな図体して、野垂れ死なんて無理って応えた記憶があります。

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喜多條
(笑)そうだった。

残間
放浪中は世間の噂は聞こえてこなかった? 

喜多條
噂は気にしないタイプなんだよね。

残間
喜多條は終わりだなって、私の周りでは“敗残者”扱いしてる人も多かったですよ。

喜多條
それはいい評価だなあ。他人からは“敗残者”と思われてるのが一番いい。

一度ボートの帰りに、新幹線のグリーン車でたまたま昔の知り合いたちに会ったんだけど、「こっちに来なさい」って言われて、車内で5人から懇々と説教されたことがあるね。「あなたはね、いい歌書くんだから、どうしてボートで遊んでばっかりいるの!」って感じで。

星野(哲郎)先生からも呼び出しをくって、「戻って来い」と。でもその頃は全然、聞く耳を持たなかった。

残間
グリーン車で会って、向こうもびっくりしてたでしょうね。新幹線にも乗れないようなイメージが広まってたから。

喜多條
(笑)とにかく俺はのめりこむと、とことんやるのね。

「まだ賞味期限は来ていない」の一言で歌の世界に復帰

残間
では、25年にも及んだ放浪生活から、歌の世界に戻ったきっかけは?

喜多條
小西良太郎さん(音楽プロデューサー)から突然電話がかかってきて、五木ひろしのアルバムを出すことになったから、書いてくれと。
「僕、もう25年も歌を書いてないですよ」と言うと、「いいから書け」と。

「何で僕なんですか?」って聞いたのね。書けないかもしれないし。すると小西さんが言うことには、阿久悠の後で、今、五木ひろしの仕事ができる奴を探していると。それから「お前は25年書いてないから、まだ賞味期限が来てないんだよ」って言われた。「これからいっぱい書けるから」とも。

それで本当に書けるのかな? と思いつつ書いたのが五木ひろしの『橋場の渡し』(2008年)。次の作品が『凍て鶴』
それで突然復帰してきたんで、みんなビックリしちゃった。喜多條はもう作詩家やめたって思われてたから。それが10年ぐらい前。

残間
小西さんがいてよかったですね。あの方も新聞記者時代からずっと第一線で活躍しています。

喜多條
小西さんはすごいですよ。今、締めの挨拶をさせたら、右に出る人はいないね。

それでしばらくして日本作詩家協会の会長をやるようになって、あんまり忙しいから、去年の三月にボート関係のことは一切やめたの。40年ぐらいやってた大阪スポニチのコラムもやめて、東京中日スポーツの予想記事もやめた。

でもボート業界は俺を必要としてるのか、日本モーターボート競走会の評議員というのになりました。評議員というのは5人しかいなくて、笹川陽平さんとか、共同通信の社長とか。で、評議員というのは、競走会の役員を任命するんだよね。それは5〜6年やってるかな。
今はボートはこれだけ。ギャラは最初、無給だったんだけど、去年ぐらいから3万円ぐらい出るようになった。



(つづく)

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vol.1 歌なんて簡単に書けた

vol.2 もう俺には書けない

vol.3 25年の沈黙を終えて

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