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心に残る歌を、あともう一曲 1/3

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45年前、『神田川』(かぐや姫)で一躍脚光浴び、以来、作詩家として数多くの名曲を紡いできた喜多條忠(きたじょう・まこと)さん。昨年には『肱川あらし』(伍代夏子)で日本作詩大賞を受賞し、現在は日本作詩家協会の会長でもあります。一見、順風満帆なキャリアですが、途中には25年に及ぶ断筆期間もありました。山あり谷ありの、喜多條さんの作詩家人生を振り返ります。(残間)

喜多條 忠さんのプロフィールはこちら

vol.1 歌なんて簡単に書けた
vol.2 もう俺には書けない
vol.3 25年の沈黙を終えて
(聞き手/残間里江子 撮影/岡戸雅樹 構成/髙橋和昭)
vol.1 歌なんて簡単に書けた


残間
喜多條さんとは20代からのおつきあいになりますね。私は『女性自身』の記者で、喜多條さんは文化放送の構成作家だった時代。

喜多條
僕が文化放送にいたのが23歳だから、47年前からだね。

残間
というわけで、私は喜多條さんの“栄枯盛衰”を全部知ってるわけですよ。

喜多條
(笑)栄枯盛衰ねえ………でも自分じゃ“衰”だとは思ってないんだけど。

残間
喜多條さんの場合、たとえ貧乏だとしても、悲哀は感じさせないところがすごいところなんですが。

喜多條
貧乏は好きだね。貧乏って、結構やらなきゃいけないことが多くてさ、面白いよ。お金は稼がなきゃいけないし。

残間
というわけで、今日は喜多條さんの山あり谷ありの作詩家人生、歌作りへの思いなどをお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

喜多條
こちらこそ。

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『神田川』のヒットで人生が変わる


残間
では、『神田川』『赤ちょうちん』『妹』(かぐや姫)の頃から話を始めましょうか。四畳半三部作とも呼ばれていますが。
『神田川』は文化放送の構成作家時代に、以前から交流のあった南こうせつさんから依頼されたんですよね。この頃の作品は喜多條さんの実体験に基づいているそうですが。

喜多條
うん。そういう体験が学生時代にあった。『妹』(1974年)は本当に俺には六つ違いの妹がいるし。

残間
あの頃、夜中に喜多條さんが詩を書いてる途中で私に電話をかけてきて、『妹』の「襖一枚隔てて」というくだりの、「“襖一枚”ってどう思う?」って聞いてきたことがあったんですよ。「“ドア”じゃ変だし、“扉”でもないよね」って。
それから「あの味噌汁の作り方を書いてゆけ」のところ、「“書いてゆけ”というのは冷たすぎない?」とか。あの頃、迷うとよく私に電話を寄越していたんですよ。

喜多條
へえ、そうだった? 
そういえばあの歌で「お前は器量が悪いのだから」って書いて、後からえらく妹に怒られた(笑)。

『神田川』は俺の初めての印税契約だった。ところが最初は騙されて、レコード会社の上の人にこう言われたの。
「『神田川』売れて良かったね。だけどあれ、買取りだったんだってね。残念だったねぇ」
「えっ! 買取りだったんですか?」(喜多條)
「それで買取り金額が3万円って聞いたから、それは可哀想だから5万円にしてやれって言っといたよ」

それでガッカリして家に帰って当時の女房に伝えると、「いいじゃない。5万円あったら、けっこう助かるわよ」て言うの。それで5万円で買う物のリストをノートに書き出した。
まず、二人目の子供が生まれそうだったから二段ベッド。それから女房はヤカンを焦がしちゃったので、赤いホーローびきのヤカンが欲しいと。それで俺は知り合いから競馬に誘われてたから、1万円は軍資金として欲しいなと。

それで夫婦で5万円引き出しに銀行に行ったら、780万円振り込まれてた。間違いだと思って、窓口の人に「5万円のはずですけど」って言ったら「その金額で間違いありません」て言われて。
最初の印税だけで780万。当時の俺の年収が200万くらいだったから、びっくりしすぎて女房と二人で座り込んだね。

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残間
“買取り”って、かつがれたのね。

喜多條
子門真人の『泳げたいやきくん』も買取り。そういうことを知ってたから、この世界も甘くないなあって思ってたの。女房も5万円でいいって言うし、まあ5万円でいいかと思ってたんだけどね。

残間
人生変わりますよね。入って来るお金の桁が変わると。

喜多條
そこから現実感がなくなったよね。

で、どんどんお金は入って来るんだけど、最初は税金を払うことを知らなかったんだよね。
ある日マネージャーが、「先生、税務署から2千万来ました」って言うわけ。それで俺が「またお金が入ってきたの?」って聞いたら、いや払うんだと。でも去年のうちに入ったお金は使っちゃってたんだよね。「そんな金ないよ」って言うと。
「いえ、3月までに2千万円を払わないといけません」
「ふーん、それで誰が払うの?」
「先生が払うんです」
それから自転車操業ですよ。

残間
全部使っちゃったんだ。

喜多條
使っちゃったね。星野(哲郎)先生にも、「お金は使わないと、いいもの書けないよ」とか言われてさ(笑)。バカだから、銀座で大金使ったり。

残間
奥さんは何も言わなかったんですね。

喜多條
お金はいったん渡して、女房からもらって使ってたんだけどね。だいたい、俺は今までどれだけ稼いで、どれだけ使ったか、一切わかってないんだよ。
格好をつけるわけじゃないけど、本当にお金には興味がない。

残間
確かに。そこは昔からそうでしたね。

喜多條
ただ、女の子にはいっぱい使ったけどね。京都に行きたいと言われれば連れて行ったし、美味しいものが食べたいと言われればご馳走したし。

残間
それは側で見て知ってます。私は恩恵には預かりませんでしたけどね。

喜多條
そうだっけ?

残間
そうですよ。私はそんなものねだったりしませんもの。

喜多條
ねだらないからダメなんだよ。当時はねだられたら抵抗なく出してた。もう赤十字的にあげてたから(笑)。

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阿久悠、なかにし礼という偉大なる才能


喜多條
最初の頃は気楽に書けたんですよ。書けないと思ったことはなかった。
『神田川』にしても『妹』にしても、あの頃書いてたのは自分の私小説みたいなもんで、真実だからね。私小説を書いて、要するに日記をチラッと見せて歌が売れるんだから、こんな簡単なことはないなって思ってたの。

ところが歌謡曲の注文が来るようになると、今度はストーリーを一から作らないといけない。それまで歌謡曲の勉強をしてなかった分、ものすごく大変だった。
だから梓みちよさんに『メランコリー』(1976年/作曲・吉田拓郎)を書くまでの2〜3年は、勉強をいっぱいしましたよ。言葉の使い方とか。あれが俺の初めての歌謡曲。

残間
『メランコリー』、いい曲ですよね。

喜多條
あの時は梓みちよさんが、ディナーショーができる歌を作ってあげたいなあって思ったの。『こんにちは赤ちゃん』で、ディナーショーは難しいでしょ?
それで俺が書いた『メランコリー』と山上路夫さんが書いた『二人でお酒を』。これであの人はディナーショーができる歌手になったと思う。

残間
歌詩に出てくる乃木坂という地名が新鮮でした。
♪それでも 乃木坂 あたりでは〜♪
あの頃の乃木坂は今と大違いでしたけど。

喜多條
あの頃、乃木坂には猪俣公章さんのお兄さんがやってるサパークラブ一軒しかなかった。畑の真ん中でね。お店はその一軒だけ。でもあの歌は東京に新しい名所をひとつ作ったと言えるかもしれない。

そごうが有楽町にできる時に、CMソングを作ってくれというので生まれたのが、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』。『ちゃっきり節』だって静岡県のお茶の組合が、お茶の歌を作ってくれというのでできた歌。

残間
そうなんですか。

喜多條
『メランコリー』も、これから新しく発展しそうな盛り場を、先取りして探してくれないかって頼まれてた。俺はその一軒しかないサパークラブに、夜な夜な女の子と行ってたんだよね。
でも考えてみたら、あそこは赤坂と六本木の中間にある。だから絶対ここは将来、垢抜けした街になるんじゃないかって思ったの。たぶん歌謡曲の歌詩で“乃木坂”を使ったのは初めてだと思う。

残間
そうかもしれません。

喜多條
すると『メランコリー』が出てから、周辺に店がいっぱいでき始めて、乃木坂に土地を持ってたお百姓さんはすごく喜んだんだって。

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残間
(笑)銀座で使わないで、乃木坂の土地を買っておくべきだった。

歌謡曲の勉強をしたと言いましたが、歌謡界には阿久悠さんやなかにし礼さんという達人がいました。

喜多條
阿久さんのことは個人的にはよく知らないんだけど、あの人はやっぱり職人だよね。阿久さんは、最初の一行で上野から青森まで飛ばしちゃうような人だから(『津軽海峡冬景色』)。構成力がものすごい。
それでなかにし礼さんは職人じゃなくて、ほとんど才能だけで書いていた。感覚だけでね。だから『時には娼婦のように』(1978年)とかが書ける。

なかにし礼さんは『石狩挽歌』でもそうなんだけど、感性がすごいよね。石川さゆりの『風の盆恋唄』(1989年)でも、どうせ私を抱くのなら、若い日の美しい私を抱いて欲しかったみたいなことを、サラッと書いちゃう。

やっぱりなかにしさんは満州からの引き上げ体験があって、地獄を見てきた人でしょ? たぶん人間の最低の部分を見てきた人だから、怖いものがないんですよ。だからどんなことでも書ける。

俺がびっくりしたのは、いしだあゆみに書いた『あなたならどうする』(1970年)って歌。女が男にふられて街を歩いて行くんだけど、歌詩に「泣くの歩くの死んじゃうの」というのがある。
俺たちは「泣くの歩くの」までは女に問いかけられるの。でも、「死んじゃうの」までは書ききれない。そんな残酷なこと書けないじゃないですか。なかにしさんは地獄を見てきたから、平気でサラッと書く。

残間
気持ちの奥にあっても言葉に出せない思いですから。

喜多條
そこの部分が聴いてる人にグサッと来るんだろうね。
その辺のえぐり方というのが、地獄を見てきた人だよね。だから俺は好き。

残間
喜多條さんにも、「ただ貴方のやさしさが怖かった」(『神田川』)という決め台詞がありましたね。あれって、女はわかるんですよね。男のやさしさって、やさしいと出るときと、優柔不断、つまり決めないという形で出ることもありますからね。

喜多條
そこは半分、わかってくれる人はいないだろうなと思って書いたんだけどね。だって抽象的じゃない。



(つづく)

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