小川榮太郎(文芸評論家)

 新潮社の月刊誌『新潮45』の休刊は、尋常ではない圧力を想定しない限り説明がつかない。早すぎ、一方的すぎ、臆面なさすぎる。

 私は『新潮45』8月号の「杉田水脈論文」への批判を受け、10月号で小論「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」を執筆した。だが、雑誌掲載内容が世に普及する暇(いとま)さえなく、したがって雑誌の内容が社会的糾弾に値するかどうかの世論の醸成が全くないまま、発売初日から、ツイッターの組織戦で小論の完全な誤読による悪罵(あくば)を大量に流布された。そして発行からたった3日で「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」を佐藤隆信社長が詫び、発行1週間で事実上の廃刊となる。全く異常な話ではないか。

 この社長声明そのものも尋常ではない。社内論議なしに、執筆者であるわれわれ7人に断りもなしに、著者全員を侮辱する一方的な断罪を掲載誌の社長が出している。発行からたった3日だ。そんな事があり得るのか。

 休刊が発表された9月25日夜、事務所を通じて毎日新聞からコメントを求められた。毎日側には字数、時間、掲載条件を確認、150字、つぎはぎ掲載はしないとの事で引き受けた。ところが、やっとの思いで原稿を完成させて提出したにもかかわらず、提出後になって「紙面の都合で出せない場合がある」と言ってきた。

 翌朝の毎日新聞に私のコメントは出なかった。紙面に余裕がなかったわけでは明らかにない。私のコメントは以下のようなものだ。紙幅以外の理由で出せなかったのであろう。

署名原稿に出版社が独断で陳謝コメントを出すなど言語道断。マイノリティーなるイデオロギー的立場に拝跪(はいき)するなど文学でも何でもない。イデオロギーや同調圧力に個の言葉で立ち向かい人間の悪、業を忌憚(きたん)なく検討する事も文学の機能だ。新潮社よ、『同調圧力に乾杯、全体主義よこんにちは』などという墓碑銘を自ら書くなかれ。

 その後、私とゲイをカミングアウトしているとされる明治大学の鈴木賢教授のネット番組「AbemaTV」での対論、私の解説動画などを通じ、ネットでは小論に対する当初のツイッターの罵詈雑言と全く逆に、理解者が多数現れ始めた。
インタビューに答える、文芸評論家の小川榮太郎氏=2017年11月24日、東京(酒巻俊介撮影)
文芸評論家の小川榮太郎氏=2017年11月、東京(酒巻俊介撮影)
 にもかかわらず、そうした世論と完全に無関係に突如の休刊である。しかも、小論への非難と想定される「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」を掲載した事が直接の休刊理由となっている。

 この異例づくめの実質廃刊につき、社長の記者会見もなく、論文執筆者、読者にも何も説明なく、次号発売もないという。特集の妥当性や私の文章の評価とは別に、この過程そのものが、事あるごとに政治、企業、著名人に説明責任を求め、声高に世に警鐘を鳴らしてきた新潮社のあまりにも恥ずかしい姿と言える。

 早急に必要なのは、この事実上廃刊に至る新潮社の不可解な動きの裏で、社内外で連携した何らかの組織動員的な圧力、スキャンダル圧力などが新潮社執行部にかけられていなかったどうかの真相究明だ。

 自由を守る上で最も必要なのは手続きである。一連の過程は手続きとして尋常ではない。裁判前に迅速に事を進めて既成事実をつくり、関係者を処刑する軍事独裁者の手法に近似(きんじ)する。