1429年、オルレアン解放直後のパリ高等法院書記による素描
オルレアンが解放されて二日後の1429年5月10日、イングランド統治下のパリ高等法院書記クレマン・ド・フォーカンベルグは、ジャンヌ・ダルクの噂を耳にして、毎日の訴訟事件や判決ほか様々な出来事を記載する業務日報的な記録簿の欄外に、想像で剣を腰につるし旗を掲げたジャンヌ・ダルクの素描を落書きした。描かれたジャンヌ・ダルクとしてはこれが最初のものであるが、あくまでフォーカンベルグの想像上の姿であって、実際の姿ではない。ただ旗印のデザインや帯剣していることなど、少なからずジャンヌについての情報を持っていたと推定されている。フォーカンベルグは以下のように記録を残している。
「五月十日、火曜日。この日パリでは次の噂が語られている。去る日曜日、王太子の多数の軍勢は激しい攻撃を繰り返した末、イギリス国王の隊長や兵士らが守る砦に入り込み、ロワール川にかかるオルレアンの橋の対岸の塔も奪った、と。・・・・・・人の噂では、この敵軍は旗印を手にした一人の乙女を伴っていた、と。」(高山一彦著『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)』岩波書店、2005年、97頁)
フォーカンベルグは筆まめな人物だったようでシャルル7世のパリ攻囲の様子や、ジャンヌ処刑についても書き残しており、同時代のよき記録者として名を遺した。
中世のジャンヌ・ダルク肖像画
図2)はジャンヌ・ダルク死後十年ほどで描かれた、マルタン・ル・フラン作「女性の戦士」の挿絵。聖書の女傑ユーディトがアッシリアの将軍ホロフェルネスの首をはねたシーンの横に、槍と盾を持ち、女性服の上に鎧をまとった姿で描かれており、すでに伝説上の人物となっていることがわかる。
図3)は十五世紀に描かれた、ドンレミ村と思われる農村で暮らすジャンヌ・ダルクのミニアチュール。手に斧槍(ハルバード)を持っている点が特徴的である。
図4)はジャンヌ・ダルクの肖像画の中でも、おそらく最も有名な一枚。ただ原典不明の写本から切り離されて保存されたもので、裏面に詩人としても知られたオルレアン公シャルル(ジャンヌによるオルレアン解放戦時の当主。イングランドに捕虜となっていた)の詩が残され、ジャンヌの供述通りの模様の旗印と剣を持っている点でジャンヌ・ダルクの肖像と判断されて広まった。
近世のジャンヌ・ダルク肖像画
十六世紀に入るとフランスは宗教戦争の時代に突入、オルレアンも大聖堂が略奪され教会も多くが破壊された。その宗教戦争が終結して復興の時代になると、オルレアン市民の間で守り神としてジャンヌ・ダルクへの追慕の念が強まり、多くの肖像画が描かれるようになる。これらはオルレアンの市役人が画家に依頼して作成されたことから、役人を意味するエシェヴァンと言う語をとってエシェヴァン系と呼ばれる。そのエシェヴァン系ジャンヌ・ダルク像の最初期の例が1581年に描かれた図5である。この肖像画で特徴的なのが三つの羽飾りがついた帽子である。羽飾り帽子は勝利のしるしであり男性の服装とともに用いられるものであったが、女性であるジャンヌ・ダルクにかぶらせることで彼女を特徴づけることになり、以後十九世紀までジャンヌ・ダルクの肖像画で繰り返し描かれることになった。
図6は十七世紀バロック派の代表的な作家のひとり、クロード・ヴィニョンによるジャンヌ・ダルクの銅版画。元々、フランスの宰相リシュリューがフィリップ・ド・シャンパーニュに依頼したもので、これをクロード・ヴィニョンが銅版画に起こした。元絵は失われているが、以後十九世紀まで繰り返し壁掛けや本の挿絵等に使われたという。エシェヴァン系特有の羽飾り帽子がジャンヌ・ダルクを特徴づけるものとして引き継がれている。
図7はバロックの巨匠ルーベンスによるジャンヌ・ダルク像である。定番の羽飾り帽子はジャンヌの右後ろに置かれ、籠手を外して祈る姿として描かれた。ルーベンスはこの絵を気に入っていたらしく手元に置いて飾っていた。その死に際しても枕元にあったという。
近代のジャンヌ・ダルク肖像画
十七世紀以降、フランス史上ジャンヌ・ダルクはオルレアンで細々と語り継がれる以外は忘れ去られた存在となり、十八世紀、啓蒙主義が隆盛を迎えると啓蒙主義者ヴォルテールが彼女を愚かな女性として描き、カトリック攻撃の題材として使ったことで、良くも悪くも再注目されるきっかけとなった。シラーの戯曲「オルレアンの少女」が上演(1801)され、対英戦争を控えたナポレオン1世がジャンヌ・ダルクを称揚。以後、王政復古、七月革命、第二共和政、第二帝政、普仏戦争の敗北に続く第三共和政の成立と激動の中でまずロマン主義的な文脈で英雄化され、ジュール・キシュラがジャンヌ・ダルク関連史料をまとめて「ジャンヌ・ダルク史料集」を刊行(1841~49)したことでジャンヌ・ダルクの研究と理解が進み、ナショナリズムの英雄としてフランス統合の象徴へと押し上げられていく。
戦うジャンヌ・ダルク像
ロマン主義、ナショナリズム的なジャンヌ・ダルク像として戦場を駆ける様子が多く描かれたが、中でも図11のルーヴル美術館収蔵ドミニク・アングルによる戴冠式のジャンヌ・ダルク像は「近代的な画像の先駆」(高山一彦著「ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)」岩波書店、2005年、107頁)と位置付けられている。一方、近世ジャンヌ・ダルク像に特徴的な羽飾り帽子はこの時期までに姿を消した。
民衆としてのジャンヌ・ダルク像
ナショナリズムの高揚とともに、ジャンヌ・ダルクを民衆の代表とみなす潮流が芽生えてきた。農民の娘であるジャンヌが教会や貴族といった特権階級に裏切られたとみなして、彼女を共和主義の象徴と考えたのである。農村性を強調することでジャンヌ・ダルクを民衆のアイコンとするモデルの登場を背景として、農村の中のジャンヌ・ダルク像が多く描かれた。
カトリシズム、殉教者としてのジャンヌ・ダルク像
フランス革命以降、カトリックと反教権主義との対立が激化する中で、フランスでは両者がジャンヌ・ダルクを自らの陣営の象徴として主張するようになった。カトリックにとってはジャンヌ・ダルクは神の声に従う敬虔なカトリックの少女であり、啓蒙主義の流れをくむ反教権主義者にとっては、教会の狂信によって殺された犠牲者である。十九世紀後半から両者の対立は激しくなり、教皇庁もこれを鎮めるべくジャンヌ・ダルクの列聖を検討するようになる。そのような背景で肖像画としてはジャンヌ・ダルクは敬虔なカトリックとしての描かれ方と、哀れな殉教者としての描かれ方をした作品が多数登場した。
その後、教皇庁は第一次世界大戦後のフランス主導の欧州国際政治を見据えて、長く対立してきたフランスとの和解やフランス国内の宗教対立の融和のためジャンヌ・ダルクの列聖を決定し、第一次大戦終結直後の1920年に聖人と認定した。
十九世紀、愛国主義的英雄としてのジャンヌ・ダルク、民衆の代表としてのジャンヌ・ダルク、カトリシズム信仰の擁護者としてのジャンヌ・ダルクという三つの顔が生まれたことで、ジャンヌ・ダルクはフランスそのものを象徴する存在へと変貌を遂げる。そのジャンヌ・ダルク像の変化の過程が、彼女の肖像画・絵画から見えてくるのではないだろうか。
ちなみに個人的な好みで史上最高にかわいいジャンヌ・ダルクの肖像画はこれだと思います。
参考書籍
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年
・高山一彦著『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)』岩波書店、2005年
・レジーヌ・ペルヌー著(塚本哲也監修、遠藤ゆかり訳『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク (「知の再発見」双書)』創元社、2002年
・上田耕造 著「図説 ジャンヌ・ダルク(ふくろうの本」河出書房新社、2016年
・ミシェル・ヴィノック「ジャンヌ・ダルク」(ピエール・ノラ編『記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史<第3巻>模索』岩波書店、2003年)
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