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ゲームと政治。
ビデオゲームが経済的・文化的に成熟する現代において、一見して無関係なこの2つのワードは急速に接近しつつある。
当紙の連載「ゲームと政治」。前編では現代そして未来におけるタイトルと、コミュニティ、そして別のステージから見た、両者の動きを注目してきた。
そして後編となる本稿では、実際にビデオゲームの中にどのような形・力・頻度・影響でもって「政治」が根付いているのか、或いは根ざしたのか。筆者が重要と考えられる作品を全く異なるベクトルから10本選出し、それぞれ自分の評を書くことにした。
因みにタイトルは時系列順である。
これは同時に、ビデオゲームにおける文脈に迫る、あまり例のない考察でもある。スペインの栄光と挫折がセルバンデスに『ドン・キホーテ』を書かせたように、ビデオゲームにおいても時代や歴史の背景、そこから伸びる「文脈」が強く影響を残しているはずが、そこへの批評や分析は未だ少ない。*1
そうした研究を含めたテクスト故に、純粋な情報だけでなく、自己による分析を通した面も多分にあるため、その点を踏まえて読んで頂けると一層楽しめるかと存じ上げる。*2
因みに前編はこちら。
- ゴルビーのパイプライン大作戦(1991) 「東西冷戦」のブランド力
- メタルギアソリッド2(2001) 反戦反核に次ぐ「情報リテラシー」
- American's Army(2002) 「権力」が産んだ本格ミリタリーFPS
- S.T.A.L.K.E.R. SHADOW OF CHERNOBYL(2006) ウクライナの「民族主義」とソビエトの大地
- Six Days in Fallujah(2009?) 市場から疎外された「民族」と「信仰」
- Analogue: A Hate Story(2012) 「フェミニズム」とAI
- Bioshock: Infinite(2013) 一人称視点の偽史が翻す「アパシー」
- Papers, Please(2013) ゲームシステムが風刺する「ビューロクラシー」
- Watch Dogs 2(2016) 現実の箱庭と空想の「SNS」
- FAR CRY 5(2018) 空想次元の「我々 vs 彼ら」のモンタナ
- Detroit: Become Human(2018) 選択肢で導く「投票行動」
- ゲームの背景にある政治的意図を通して
ゴルビーのパイプライン大作戦(1991) 「東西冷戦」のブランド力
1991年に徳間書店よりMSXやFC向けに発売されたパズルゲーム。
所謂『テトリス』『ぷよぷよ』等と同じ「落ち物」ゲームで、上から水道管を模したピースを繋げてなるべく長い距離を維持する、というシンプルなゲーム。特にストーリー等もない。
が、タイトル、そしてパッケージにあらわれているのは当時まだ存在したソビエト連邦、その最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ書記長その人であり、ゴルビーも彼の愛称である。
1985年、ソビエト連邦共産党書記長に就任した彼は、ペレストロイカと呼ばれる改革を断行し、更に新思考外交に基づき東欧各国の民主化を支援。
当時ソビエトと対立していた、西側諸国、中でもアメリカ・日本からは「聡明な指導者」と持て囃され、ゴルビーブームが形成された。その真っ只中に生まれたのが、本作『ゴルビーのパイプライン大作戦』だったのだ。
当時「悪の巨大帝国」でしかなかったソビエト。彼の国が弱体化し、自分たち西側に迎合する姿を見て、西方諸国はそこに希望を見出した。「パイプライン」というのは、鉄のカーテンを通して決して交わることのなかった日本とソ連が結ぶ友好のメタファーだ。
本作のBGMにはチャイコフスキーやコルサコフ等の名だたるロシアのクラシック音楽が使用され、パッケージのゴルビーはソ連大使館による公認を得たもの。本作は正に、冷戦終結の象徴的作品だった。
だが現代のロシアにおいて、このゲームはどう映るだろうか。プーチン政権のロシアはクリミア半島の編入等、欧米との対立が深刻化。同時にロシア国内でもソ連時代への郷愁が増え、従ってロシア人の中では、ゴルバチョフという指導者の評価は就任直後から更に低下している。
日本という国から英雄として映し出された「ゴルビー」は、一方でロシア国内では「売国奴」と蔑まれた男でもある。
ある国から見た英雄が、またある国では売国奴の誹りを受ける。現代においても「パイプライン」は健在だろうか。
メタルギアソリッド2(2001) 反戦反核に次ぐ「情報リテラシー」
コナミから発売され、世界中で知らぬ者はいないステルスゲーム『メタルギア』。
同時にこの作品を生み出した小島監督は、ビデオゲーム黎明期から常にゲームを単なる娯楽と捉えず、メディアとして捉え続けてきた。自身のインタビューでもこう答えている。
ハードウェアの制約から生まれた『メタルギア』は、ステルス・ゲームというジャンルをつくったが、そこには一貫して「反戦・反核」というメッセージがある。私の親の世代は、第2次世界大戦中に生まれている。私たちの世代は子供のころから直に戦争体験を聞いて育った。身の回りの映画や小説などからも、戦争や核兵器の悲惨さや不条理を学んだ。ゲームというメディアが本来的に「戦い」や「競争」と相性がいいのだとしても、いやだからこそ、「反戦・反核」を訴えることはできるし、伝えることが必要だと思っていた。その思いがステルス・ゲームを産んだのだ。
彼は最早「使命感」にも近い意志を持って、ビデオゲームにメッセージを組み込んできた。とりわけゲームを遊ぶ若い世代は、歴史も政治も知らない。故に伝えなければならないのだと。
中でも、個人的に今こそ評価すべきだと考えているのは、ミームをテーマとした『MGS2』だ。
『MGS2』の終盤、「大佐」の皮を被った黒幕は自分たちの動機について、「情報の淘汰がされず、蓄積され続けた真実が世界を飽和する」と語り、そのために情報社会を管理する存在が必要だから、自分たちが合衆国を統制するのだと主張する。
特に本連載の前編で語った「政治的正しさ」を巡る議論にあるように、インターネット社会の現代では「真実で飽和」し、何が正しいかもわからず、判断さえままならなくなっている。
スマートフォンもSNSも、ネット利用者すら少なかった2001年で、正に今現代が直面している問題を予言し、それを作品の中核に根ざしているのは、圧巻と言う他ない。
やがて日本にも浸透しつつある、無数の正義と無数の真実による闘争は、どのような形で決着を迎えるのか。
American's Army(2002) 「権力」が産んだ本格ミリタリーFPS
政治的なゲームを語る上で、本作『Americans Army』を外すことは出来ないだろう。
この一見して、『Operation Flashpoint』を思わせる古風なリアル系軍事FPSは、作品そのものは至って普通だ。だが出自と価格が常軌を逸したものだった。
この作品は、アメリカ国防総省による予算により制作された、「新兵リクルート用ゲーム」なのである。よってユーザー登録からダウンロードまで完全無料である。
本作がリリースされた2002年、コソボ紛争で少なからず痛手を負った米軍は、新兵不足に悩まされていた。そこで注目したのが、新たに普及し始めたゲームとネットだった。
開発に22億円投じられ、2002年E3には米陸軍のIFV(歩兵戦闘車)を導入したプロモーションが行われた。そして独立記念日、つまり7月4日にリリースされた本作は300万人以上のユーザーを獲得。
当初は米国内でも「税金の無駄遣い」と批判された本作だが、この後何作も続編が作られたのを見る限り、アメリカ陸軍の広報としては大成功したと言って良いだろう。
また本作は、新兵訓練カリキュラムとしても設計されていた。特に銃槍の治療等は我々市民が現代の戦争を知る上でも貴重な資料である。
他にも、当時軍隊によって利用されたゲーム/シミュレーションとして『Full Spectrum Warrior』や『Shields of Freedom』が挙げられる。
www.youtube.comE3 2002年における『AA』のプロモーション
S.T.A.L.K.E.R. SHADOW OF CHERNOBYL(2006) ウクライナの「民族主義」とソビエトの大地
ウクライナのGSC Game Worldが開発したFPSであり、巨大オープンワールドにAIたちが息づく「A-Life」の構築を目指し、約7年に及ぶ難産の末に発売された。
本作が舞台とするのはウクライナのプリピャチ。かのチェルノブイリ原子力発電所の事故があった大地であり、辺り一帯は政府により封鎖された設定になっている。
この大地をウクライナのゲーム企業が選んだこと、それ自体にとてつもない意味があることは言うまでもない。
元々、ウクライナと、ロシアそしてソビエトとの間に残る遺恨は、我々には想像も出来ない溝が広がっている。
かつてソビエトに支配された時代のウクライナでは、ホロモドールと呼ばれる過酷な収奪により作物を奪われ、推定1000万近くのウクライナ人が餓死したと言われる。そしてチェルノブイリ原発は、更にその後に残されたソ連による大きな「負債」だ。
その負債が残る場所に、一体何があるのか。石棺と呼ばれる分厚いコンクリートの壁で四方を覆われた原発跡を目指した冒険が、本作では描かれる。
本作は多分な影響をストルガツキー兄弟の作品から影響を受けているとされる。そこで描かれているものは、単なる一国、一民族レベルの問題ではなく、ウクライナという大地のレベルの問題だ。
本作は同時にSF、そして正教会のモチーフと思われるシーンが多分に存在する。
原子力という夢の力を追い求め頓挫したにも関わらず、また新たな「夢」に縋る権力者と、未曾有の人災により荒廃した大地にも関わらず、そこで尚も殺し合い続ける戦士たち。
異常なまでなリアリティで描かれた世界は、こうした政治レベルの視座から宗教的なモチーフまで網羅しつつ、プレイヤーの眼前に迫る。
この辺の作品背景は、徳岡正肇氏が極めて微細に考察されているので、そちらも参照頂きたい。
不定期連載「徳岡正肇の これをやるしかない!」は,ウクライナの現代史をなぞる「S.T.A.L.K.E.R.」をあらゆる角度から吟味するしかない - 4Gamer.net
Six Days in Fallujah(2009?) 市場から疎外された「民族」と「信仰」
「ゲームと政治」前編において、私は今までビデオゲームから疎外されてきた女性やLGBTが注目され、作品の中で活躍するなどして、彼らも「包摂されるようになった」と説明した。
しかしながら、そこで「包摂」されたのは、性的少数派だろうと黒人だろうと、結局の所「アメリカ人やヨーロッパ人」「キリスト教徒」でしかない。
国家、民族、宗教レベルでは、依然としてマイノリティは疎外され、描かれなかった実情がある。
とりわけ、中東におけるアラブ人は典型的な「悪役」として欧米のビデオゲーム、特に戦争を取り扱うゲームでは重用された。
頭部にターバンを巻き、AK自動小銃で武装し、片言で信仰心を訴える浅黒い肌の戦士は、常に主人公とプレイヤーに仇なす敵であり、射殺すべき対象であったのだ。
こうした民族への軽視はアラブ人のみならず、『Battlefield 4』では現代の中国兵を、『Call of Duty』シリーズでは極右のロシア人を、『Homefront』は北朝鮮人を、現代のアメリカと相容れない外国人が、射殺対象として登場した。
露骨にリビアのカダフィ大佐を模した『COD4』の登場人物、Al-Asadは典型的な独裁者として描かれる
だがそんな中、真剣に紛争や民族と向き合おうとする、ある作品が発表される。
米Atomic Gamesが開発していた『Six Days in Fallujah』は、米兵が主人公側であるものの、イラク戦争において米軍も多くの死者を出したファルージャの戦闘を、なるべく史実通りにドキュメンタリー調で描こうと試みようとする、実に意欲的な作品だった。
しかしながら、開発が進行する中で、アメリカ国内ではセンセーショナルな報道と、戦死した兵士遺族らによる抗議により、パブリッシャーのコナミは開発を断念。結果的にこの作品は、市場に出回ることすらなく潰えてしまう。
現代の欧米のゲーム市場では、外交上の敵国をゲームという架空の空間で殺すことがエンターテインメントとなっているが、その逆は受け入れていない。Imad Khan氏がGDCで指摘した矛盾に対し、未だ答えは出ていない。
ビデオゲームにおいて、こうした民族・信仰・国家レベルでの多様性は今でも尚希薄だ。
だが根本的な問題は、ビデオゲームを消費社会で捉える上で、こうしたイデオロギーの対立に囚われず多様な表現を認める社会ではないだろうか。
ガザ地区における「インティファーダ(パレスチナ人による抵抗運動)」を描いたシリアの作品『Under Siege』。
www.youtube.comベトナム側の視点で描かれる『COD』的なヒロイックなストーリードリブンのFPS『7554』
Analogue: A Hate Story(2012) 「フェミニズム」とAI
カナダのChristine Loveが制作したテキストアドベンチャー。
現代よりはるか先の未来、放棄された宇宙船ムグンファを調べるため、プレイヤーは宇宙船の2人のAIと共に、そこで何が起きたのか調べる、という物語。
一見してありふれたADVだが、その本質は李氏朝鮮の時代における強烈な封建社会と、女性が迫害される男尊女卑の歴史に基いた世界観にあり、かつそこへフェミニズム的な目線による批判を加える、政治的なメッセージ性の強い脚本が話題を呼んだ。
とは言え、本作は一方的に特定の価値観を非難・称揚する物語でもない。
面白いのが登場する2人のAIが、リベラル的かつ西欧寄りの*ヒュネ、保守的かつアジア寄りの*ミュートという形で分かれており、各時代各価値観の意見を代弁し、対立させている、一種の弁証法だ。
だがもう一つ興味深いのは、本作はただ朝鮮の歴史や美少女カルチャーに対して「性的消費(と批判される)」なだけでなく、それと同時にそれらを尊重し、作品の中に取り込んでいる点である。
作者Christine Loveはフェミニストでありながら、同時に日本のオタク文化に対しても深い造詣がある。だから*ヒュネや*ミュートも、単なる政治的メッセージの拡声器としてでなく、純粋なキャラクターとして躍動感がある。
前編で寄稿した「ゲームと政治」においてもフェミニズムは最もゲーム業界における政治的な焦点になりつつあり、本作もそれに伴ってますます注目されるのではなかろうか。
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Bioshock: Infinite(2013) 一人称視点の偽史が翻す「アパシー」
20年代初頭のアメリカの空に浮かぶ、天空都市コロンビア。そこに「娘を連れて来れば借金は帳消しになる」と聞いて訪れた男ブッカー。一体娘とは誰か、借金とは何か、数々の謎に満ちたストーリーを味わえる、人気FPSシリーズの続編だ。
その舞台となるコロンビアは、一見して豪華絢爛、量子力学の超常的な発展により人々は無限の豊かさを手に入れた文字通りの桃源郷。
だがゲームを進めると、コロンビアは人種差別、労働問題、排外主義、かつてアメリカが抱きながらも時代を経て否定し克服した問題を良しとする、「あってはならない国」であることが明らかとなる。
平行世界を通して無限の可能性を辿るコロンビア。それは人間の歴史に目を背けようとする愚かさに成り立つ国であり、やがてはアメリカ全土を焼き滅ぼす帝国へと成長してしまう。
そこで、主人公ブッカーは、その誤った理念を否定し、国家を破壊しようと試みるのだが、コロンビアへの反乱はやがて自分自身のアイデンティティの否定へとすり替わっていく。
このように、人種差別などの政治的な議題を持ちかけ、その是非を問うのと同時に、そこに対して本来無関心(アパシー)であったはずの主人公とプレイヤーを、本作は個人的な体験へと自覚させることで、否が応でも直視させる。
本作には一定の、歴史修正主義におけるアイロニーを認める事が出来るが、その行き着く先はたった1人の男の人生であり、そして本来歴史とは、常にごく限られた人間が描くものであった。
現代において、アメリカ問わず、ドイツ、ロシア、日本においても「負い目」と捉えられてきた歴史を正当化し、むしろその時代を復活させようという気運が高まっている。
だが歴史とは、結局は個人による主観的な視野に収まるものであると、本作は訴えかけている。
Papers, Please(2013) ゲームシステムが風刺する「ビューロクラシー」
架空の東欧の小国「アルストツカ」で働く入国審査官として、雲霞の如く押し寄せる移民たちを手際よく処理しつつ、時折紛れ込む犯罪者やテロリストを排除し、日々の糧を得るゲーム。
一見すると、シンプルな間違い探しゲームなのだが、あくまで手動による操作に拘ったUI、ユニークなイベント、割と死にかける絶妙な難易度で高く評価された。
が、その側面として社会主義国家における絶対的な支配、物事をただ右から左へ流すだけの官僚主義、そういったものへの風刺的な視座があることは、作者の発言からも窺える。
例えば、ボロボロのフードを被り、明らかに経済的に困窮した女性が、ひと目で偽造とわかるパスポートを持って、「自分には家族もいる。何とか通して欲しい」と懇願する。
だが、このゲームで審査を間違えるとその分減俸される。減俸されれば主人公は家族を養うための資金を失い、ゲームオーバーとなる。自分が生きるためには容赦なく彼らを切り捨てねばならない。
それでも、良心を振り絞って、或いは経済的な余裕故に、彼女の偽造パスポートを見逃したとする。すると数秒後に、検問所は爆破され、無辜の兵士が犠牲となるのだ。
官僚主義に基づく滑稽なまでに統制された手順、逼迫する国際社会において排除される移民。
世界においても日本においても、「移民」は大きな政治的議題となっている。特に、我が国ではユダヤ人にビザを発行した杉浦千畝が英雄として映画の題材になりながら、現代では最も難民認定率が低い国の一つという側面もある。
本作の素晴らしい点は、あくまで体験に留めるだけで、それに何か考えや意見を伝えない点である。同時に、ただ拒絶される移民たちの哀れさだけでなく、彼らを拒絶する側の人間の悲哀もまた、ゲームの体験を通して教えてくれる。
そのシニカルな目線は、フランツ・カフカの『城』に近しいものを感じる。
Watch Dogs 2(2016) 現実の箱庭と空想の「SNS」
舞台は架空の近未来アメリカ。サイバー攻撃に対抗するため、全米のインフラに都市管理システム「ctOS」が埋め込まれた時代。
主人公たちは、「ctOS」を利用して人々を監視し、企業や国会議員に市民の個人情報を売り渡すブルーム社やそれらの恩恵に預かる大手IT企業と、ハッカー集団「デッドセック」として反乱を起こす。
現代で既に現実化しつつある、民間企業による監視社会、また個人情報漏洩によるビジネスを取り扱うことで、現代における同様の問題をも示唆する本作は、ある程度の政治的な先鋭性を抱いていると考えて良いだろう。
とりわけ、若者が成り上がるサクセス部分のみ注目されてきたシリコンバレーの暗部に切り込み、そこを戦場とするのは非常に大胆な試みだ。無論、架空の会社という設定だが、例えば検索エンジン大手の名前が「noodle」だとか、申し訳程度のカモフラージュしかされていない。
また、もう少し掘り下げてみると、主人公が悪徳企業や腐敗議員と戦う手段が、ハッキングと「SNSのフォロワー数」というのも非常に面白い。
本作ではミッションをクリアする毎に、企業の不正を暴き、それを動画サイトにアップロードすることで、民衆の感情を煽り、SNSのフォロワー数を増やす、という手順で話が進む。
『GTA』や『Assasin's Creed』が自分たちが信頼できる実在の仲間を増やすのに対し、本作で増えるのは数字でしか表記されない不特定の「フォロワー」だ。これは非常に現代的な設定だと思う。
また本作は、ネットワークにおける仮想の人間関係と、西海岸のオープンワールドが上手くクロスしている。
例えば、ネットで調べた名所に、実際の箱庭を移動して訪れ、そこで自撮りをしてSNSにアップすればまたフォロワーが稼げる等、2つをうまく関連させて遊べるよう作られている。
現代では『GTAV』もSNS要素が絡んできたし、『ペルソナ5』や『The Crew 2』も近しい要素があった。
それほどSNSの潜在的な力は、今も現実を変革し続けている。
FAR CRY 5(2018) 空想次元の「我々 vs 彼ら」のモンタナ
元々、政治的正しさに対して強い関心を見せてきたフランスUBI。
中でも『FAR CRY』は毎度何かしら強いメッセージが込められているのだが、最新作『5』は中でも更に意味深な物語となっている。
舞台はアメリカ西部モンタナ州。物語は一見してカルト教団との戦いに思えるが、サイエントロジーと福音派を足して2で割ったような教団の正体は、およそ想像とかけ離れた、空虚で現実味のない組織だという事が、物語を進める上で明らかとなる。
そして、このカルト教団のような「よくわからないが、何か恐ろしい存在」を抹殺すべく、過剰なまでに暴力的に敵を射殺・絞殺・刺殺する主人公とその地元のレッドネックたち。
このように、理解できない集団同士がぶつかり合い、理解を進めないまま暴力にまで発展する。
その根底にあるのが「我々 vs 彼ら」という、言論が過激化する、特に現代の欧米社会で見られる構図だ。
「こんな表現をする人間がいる、気に入らないお前たちは排除されるべきだ」「いやお前たちこそ出て行け」「この売国奴が」「無知なレッドネックめ」「バカな女どもが」……
日本のSNSでもよく見る光景だが、本場アメリカの「対立」はその比ではない。日夜ワイドショーでは何が差別で何が問題か議論され、ネットでは芸能人、社長、政治家、誰彼構わず色々な立場から吊るし上げ、現に更迭させている。
つまり、本作で描かれる「市民が武装し、シェルターに篭り、お互いに殺し合う」という決してあり得ない「モンタナ」のオープンワールドは、正に現代アメリカにおける縮図なのである。
カルト教団に占拠されたミサイルサイロ、バンカー化した教会、市民も教団もアサルトライフルで武装し撃ち合うという、明らかに現実離れしたアメリカの本質
現代におけるポリコレを巡る議論とバックラッシュの鬩ぎ合い、それをゲームの構造そのものを活かして再現したのが、『Far Cry 5』という作品である。
『ファークライ5』ストーリー考察 現代社会における「我々対彼ら」 - ゲーマー日日新聞
リンク先ネタバレ注意
政治指導者の演説―安倍、トランプ、オバマ、クリントン WEDGE Infinity(ウェッジ)
「我々 vs 彼ら」についてはこちらを参照
Detroit: Become Human(2018) 選択肢で導く「投票行動」
アンドロイドが普及した近未来のアメリカ。3人のアンドロイドを中心に、彼らが人間性に目覚めて行動を起こすADV。
割と「抑圧されてきたマイノリティが公民権を獲得するために戦う」というストレートな政治的メッセージを孕んだ作品であり、特に「マーカス編」はどう転んでもアンドロイドと革命を起こし人間から自由を勝ち取るために戦う話になっている。
実際、ディレクターのデヴィッド・ケイジは「そろそろ、深刻な問題を扱う作品を作ってよいのではないかと考えました。隔離や抑圧や市民権などを扱う作品です。」と語っており、政治的ニュアンスの導入に積極的な姿勢を見せている。
だが、同時に本作は無数の選択肢によって独自の物語がインタラクティブに構成される、という理念を原点に作られている。
私の考えでは、逆説的にそうした「無数の可能性を実現できるゲーム構造」に、後から政治的メッセージが積載されたのではないか、と考えている。
何故なら、政治的な考えは人間によって最も変化する価値観だからだ。時に相容れない政治思想の人間が殺し合うことさえあるように、プレイヤーの人生や環境が最も反映させるには、政治的な問いかけをするのが最も早いと思う。
つまるところ、プレイヤーに何度も選択肢を選ばせ、それでいて一つの解答に偏らせないゲームを作る上で、最も適切な題材が政治的なテーマだったのではないか、と考えられる。
ゲームの背景にある政治的意図を通して
いかがだっただろうか。正直かなりの難産となった記事だが、自分でも相応に納得のいく内容に仕上がったと思う。
前編でなるべく客観的事象を元に駆け足気味で並び立てたのに対し、後編は筆者個人の解釈を委ねつつ、実際にゲームの中に政治が介入するのであれば、どのような例が挙げられるのか説明しようと試みた。
普段ゲームを遊んでいるだけでは、中々意識しないゲームの側面について、本稿を通して少し気にかけて頂けたなら幸いだ。
さて、ビデオゲームと政治は着実に近しいものとなっている。それは良いことだろうか?
前編でも同じことを答えたが、私は良いことだと思っている。政治的なテーマは、時に不当な批判の根拠にされてしまう事もあるが、ビデオゲームの新たな魅力を発掘してくれるだろう。
今、ビデオゲームは単なる「遊び」から離れて、「表現」としての側面が再評価されている。だからこそ、女性が不当に扱われていると評価されればフェミニストから批判され、各国家や民族をテーマとして扱う場合には最大限の尊重を払おうと企業は努力している。
それと同時に、ビデオゲームを一過性の娯楽として消費するのでなく、作品で得た体験を通して人生を豊かにしようという考えも広まり、意欲的な作品が積極的にメディアに取り扱われるようになり、ゲーマーに評価されるようになったことは喜ばしい。
事実、ここで挙げた10本のタイトルの多くが、筆者自身にとっても強く印象に残った名作ばかりであり、遊んでいる人間に自身の価値観や判断を積極的に問いかけるような内容が多かった。
私は元々、自分の体験したことのないようなゲームに常に飢えているので、こうした作品は実に楽しめたわけだ。
ゲームが「ゲーム」だけでなく、「インタラクティブメディア(双方向的媒体)」とも呼ばれる現在。これから5年、10年の間に、一体どのような作品が飛び出すのか、一人のゲーマーとして楽しみでならない。
よかったらこの記事と一緒に、ご自身の意見や「政治的ゲーム」についてもTwitter等で議論してもらえたら幸いだ。
(なまじ「ゲームと政治」という広範かつ未開拓なテーマ故に、「あのタイトルがない」とか「このタイトルの解釈が異なる」という意見は多分に存在すると思う。その点に関しては申し訳ない。)
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