ウェンブリー編
第6章:少年は斯く綴れり(5)
数多くの人間は、他人の死を『意識がない状態になる』、『目を覚まさなくなる』と言った認識で見つめる。
実際、老衰や病死と言った死因であれば、そう言った感覚で見られる事は極めて自然であって、そこに疑問の余地はない。
元々、人間は想像で視界を補うと言う特性を持つ。
例えば、遠くの戦地で父親が亡くなった――――そんな報せを受けた子供は、父親がどのように絶命したかと言う事は、わからない。
その場合、過去の記憶から、動いていた父親が動かなくなると言うイメージを頭の中で回想し、それを死と重ね合わせる。
殆どのケースでは、眠っている父親を回想し、それを持って死の姿と見做すのだろう。
が――――死はそう言った、日常の中の延長線上にあるものばかりではない。
そしてそれは、戦場ではより顕著となる。
死とは、意識がない人間ではない。
壊れた人間だ。
それは度々形容として使用される、精神に疾患を持った状態を指す訳ではない。
文字通り、壊れている。
本来の形から逸脱した損傷をしている人間。
本来あるべき場所に、あるべき部位がない人間。
本来見える事はない部分が露見している人間。
戦場における死は、決して美しくはない。
涙を流す事はあっても、それは決して感動を生むようなものではない。
あるのは、嘔吐感や生理的嫌悪を呼び込む、耐え難い映像と悪臭。
そこに足を踏み入れると言う事は、ある意味別の世界に足を踏み言えるのと同義。
誰もが、今まで積み上げてきた価値基準を崩壊させる。
人を殺すと言う事は、そう言う事なのだと。
そして、それが必然のものとして突きつけられ続ける中で、順応していく。
それはつまり――――新たな日常の始まりだ。
未来が沈む。
暗い海の中に。
その先にあるのは、最早特別ではなくなった、瓦礫の明日だった。
その筈だった。
――――君を魔術士にできるのは私だけだ
光景が、凄まじい速度で移り変わる。
そこは、かつて長期に渡って住んでいた場所。
思いの他、光に照らされた空間。
お世辞にも綺麗な建物ではなかったが、確かに温度があった。
その場所で、妙に強面の男から同じようにスカウトされた。
その結果、現在がある。
アウロスは、率直に苦しんでいた。
ミストに切られた事を恨むと言う感情も、全くないとは言い切れない。
ようやく辿り着けると思ったところで、突然襟首を掴まれ、何もない荒野に放り出されたようなものだ。
が、そのリスクは百も承知だった筈。
アウロスはいつの間にか、それを忘れていた。
つい少し前までは、確実に覚えていた筈なのに。
それをミストが見抜いていたとしたら――――アウロスは、不覚を取った事になる。
このタイミングでの解雇は、最も警戒すべき事だった。
制御出来る可能性はあった。
解雇を言い渡されてからずっと、アウロスはその後悔に苛まれていた。
その感情を抱いたまま、ただ歩いた。
歩いて、歩いて、歩いて。
それでも尚、燻り続ける悔恨の念が――――
「答えは?」
ギスノーボの問いかけと共に、今、ようやく消えた。
「……とても興味深い話だった」
アウロスは、決して弛緩とは違う破顔をギスノーボに向けた。
それを肯定と取るほど底は浅くないようで、ギスノーボの眉間が忙しくなる。
構わず、続けた。
「お陰で、すべき事が見つかった。礼は言わないけどな」
「それは人殺しではない。そうだね?」
「ああ。元々やる事は一つだ。だが、少しばかり見えなくなっていて、正直困っていた。
何でもそうだけど、一度見失うと探すのは大変だ」
アウロス=エルガーデンの名前を歴史に残す。
それは、現状では困難を極める。
長年温めていた物を取り上げられたのだから、当然だ。
だが、アウロスは思い出した。
そこにはかつて――――何もなかった。
そう。
本当に何もなかった。
空虚な生活だった。
それでも、自身の中には確かに目的への道が見えていた。
それを思い出した。
環境ではない。
施設ではない。
まして、研究ではない。
アウロスが見失っていたものは、何の事はない、原点の一つとも言える場所だった。
ありがちな話だ。
アウロスは、決して良い思い出のないその地から、ずっと目を逸らしていた。
【ヴィオロー魔術大学】
ここが何故、研究発表会の場に選ばれたのか。
理由は幾らでもある。
交通の便。
空間の広さ。
無駄に多い校舎など、おあつらえ向きだ。
しかし、そんなものはどんな場所であっても、何かしらでっち上げられる。
この大学でなくてはならない理由は、発表会で最大の利を得る者が握っている。
それは、発表者の中の誰かなのか。
論文発表会を取り仕切るのは、魔術学会の誰かなのか?
答えは『いいえ』。
発表会の会場を取り決めているのは魔術学会だが、それはあくまで選択肢の中から選択するだけの事。
基本的には、会場は立候補のあった施設の中から決めている。
もしその立候補の時点で操作出来る存在ならば、選択肢を一択に出来るならば、事実上その存在が会場を決めている事になる。
つまり、利を得る者は、魔術学会に属している必要はない。
では、実際のどのような利を得る事が出来るか。
それは、大学の知名度を上げる事しかない。
発表会そのものの注目度や賞レースは、会場には左右されない。
論文を審査するのは、会場内で学に勤しむ者ではないのだから。
しかし、後に大きな反響を生む論文の発表があれば、その発表会場は自然と知名度を上げる。
立派な利益だ。
つまり、【ヴィオロー魔術大学】は、今回『後に大きな反響を生む論文』があると言う事を知っていると推測できる。
だからこそ会場に『選ばれた』。
そして、アウロスには、【ヴィオロー魔術大学】とその論文を結び付ける接点が、はっきりと見えていた。
視界は、一気に開けた。
「俺に人殺しの素養があると言ったな」
アウロスは、生気ある目でギスノーボを見据える。
「それは恐らく正解だ。実際俺は、一人の少年を殺そうとしている」
「……」
ギスノーボには、その言葉の意味がわからない。
怪訝な眼で決裂した交渉の残骸を眺めている。
「その少年の名前に死を刻む事。それが、俺の目的だ。俺は……もしかしたら、それを恐れていたのかもしれない」
名前を返還すると言う事は、友人の死を世界に告げる事。
死と言う記録を残す事。
それが、アウロスの目的であり、全てだ。
「意味のわからない事を言って、煙に巻く……と言う顔ではないみたいだね」
「そう言う手法も嫌いじゃないが、今回は違う」
アウロスは戦闘体制を取った。
オートルーリング仕様の魔具は、幸いな事に没収はされていない。
それもまたミストの狙いなのだとしたら――――アウロスは苦笑せずにはいられなかった。
これから、その思惑を叶えに行く準備をする事になるのだから。
「手に入らないのなら、いっそ壊す」
ギスノーボの身体がゆらりと揺れ――――
「……なんて言う奴の気が知れないよね」
伸ばした腕が、所定の位置に戻った。
殺気も敵意も、何もない。
そのまま――――ただ何もないそのままに、文字が綴られていた。
ルーンの数は実に18。
「……!」
アウロスは、決して遠くないその距離で、ギスノーボのルーリングを全く認知できなかった。
それは、オートルーリングと見紛う程の速度。
そして、余りに自然な動作。
例えるなら、首筋に違和感を感じた瞬間、その正体を判別する前に、既に身体がその正体を『羽虫』であると判断し、該当箇所を叩く、その呼吸そのもの。
つまりは、ルーリングを脳からの信号を待たずして可能としていると言う事だ。
瞬間的な戦闘に特化した、前衛魔術の究極形――――
アウロスがそれを認識したのは、文字が霧散して眼前に膨張するエネルギーが視認できる頃合だった。
常人なら、それが何なのかすらわからず、身体を潰乱させていただろう。
通常の魔術士なら、それを魔術と判断した瞬間、消し飛んでいただろう。
一流の魔術士なら、どうにかかわす手段がないかと模索した結果、適わずに崩れ落ちていただろう。
一流の臨戦魔術士なら、かわせない事を瞬時に判断し、防ぐ方法を検討した結果、及ばずに昏倒していただろう。
そして――――
衝撃波が生れそうなほどの破裂音が、【ネブル】郊外を襲い――――
「……」
暫時の後、歯を食いしばる微かな音が、自身の耳に届いた。
そこにあるのは、何一つ壊れていない、少年の身体。
アウロスは、いずれにも該当しなかった。
「クク……やはり」
放流する雷の群れが、辺り一面を焦がす。
遥か後方にあるパン工房の煉瓦が半円状に黒い線を描く中、アウロスは正面に向けて真っ直ぐ手を伸ばしていた。
人差し指を突き出したその第二関節部には、指輪が輝いている。
指の先を中心とした円錐状の薄い膜が、徐々にその色を消していった。
「これが【玻璃珠結界】か。噂には聞いた事があるけど……ククク」
使い手の殆ど居ないとされるその結界に、自身の得意魔術が封じられた事を気にするでもなく、ギスノーボが笑みを浮かべる。
この【玻璃珠結界】は、黄魔術対策に特化している故、使い所が難しい。
その癖に、結界の割に文字数を食うと言う事で、使い手が余り居なかった。
しかし、その不利を無効化させる二つのものを、アウロスは持っている。
一つは、指先に光る魔具。
ルーンの数の不利をほぼスポイルできる。
そしてもう一つは、判断力。
敵が必ず黄魔術を使うと言う状況下でのみ、この結界は生きる。
それをいち早く判断する力だ。
「さて、色々と確認が出来たし、納得も出来た。ここでお開きとしよっか」
「おい」
下らないフェイクまで入れて、【審判の終】と言う最高級攻撃魔術を綴って来た魔術士に、アウロスは白い視線を送る。
しかい、既に――――と言うより、元々戦意はないらしく、ギスノーボは背すら向けた。
「俺はお前に敗北したつもりはないからね。借りもなければ口封じの必要性もないって事。取り敢えず、接線はここまで」
延長された点は、随分と伸びた。
しかし、ここで途切れる。
「とは言え、わかり合えるかどうかが別にして、話のできる魔術士は一人でも多い方が良いよね。世の中、下らない魔術士が多過ぎる」
「それは、お前の見聞が狭いだけだろ」
持論をあっさり否定されたギスノーボだったが、感情の波は立たなかった。
「で、どうするんだい? 大学をクビになったんだろう? 研究、続けられないんじゃないのかな?」
「そんな新鮮な情報、一体どんな情報網を持っていたら得られるんだ」
「心臓2つ分くらい、かな。必要なコストは」
胸糞の悪い言葉に、アウロスは本気で嘆息を漏らした。
「……その『どうする』を今さっき思いついた。それを実行する」
「前向きだね。でも、それが上手く行く保障はないんだよね?」
「ああ。その時は別のアプローチを試す。それが研究者のあるべき姿だ。最終的には、【賢聖】になってでも目的を果たすさ」
民間人が手に入れられる最高の称号、【賢聖】。
もしその称号を得れば、ミストから奪われたオートルーリングの研究を取り戻す事は可能。
尤も、それ以前に、その称号を得た時点で研究とは関係なく、アウロス=エルガーデンの名は永遠に残る。
逆に言えば、それが最低最悪の選択肢。
そこまでしなくては、名前を残せないと言う状況なのだから。
それでも、不幸にも行き着く所まで行かなくてはならない場合、そう言う事になるのだろう――――と、アウロスは未来を少し憂いだ。
そんなアウロスの決意を、ギスノーボは微笑う。
とても嬉しそうに。
「お前がいずれ、俺の標的になる事を祈ってるよ。その時に、決着を付けよう。その素養を是非飲み込んでみたい」
「面倒臭い話だ」
そして、そんなアウロスの嘆息にえくぼを作り、踵を返す。
待っているのは、路地裏の闇。
ギスノーボは音もなく、その闇に溶け込んで行った。
また一人、魔道に堕ちる。
それを見届けたアウロスは、頭上から吹き出て来る汗を手で拭った。
これまで、幾度となく味わった死線。
その中にあっても、先程の一瞬は十分に色濃いものだった。
オートルーリングとて速度限界がある。
ギスノーボのルーリングは、その自動編綴の速度と比較し、それ程大きな差はなかった。
もし――――初めての接点で、あの男に足枷がなかったら。
もし――――今回の接点で、あの男の得意魔術を知らなかったら。
虚空の闇に、アウロスは大きく息を吐く事で、その感情を表した。
しかし、次の瞬間には思考から切り捨てる。
目的が明確となったアウロスは、それを容易に行えた。
やるべき事が急に増えた。
最後の悪あがきと行った方が良いのかもしれないが。
(一応、あの教授に直接会ってみるか。反応を見れば確信も持てる)
アウロスは歩を進める。
一刻前とは全く逆の方向へ。
路地裏の闇が遠ざかる。
もしかしたら、接合点となっていたその場所が。
同じような闇。
同じような色。
だが、まるで違う。
アウロスは、次の日も、また次の日も訪れるその闇を選んだ。