『新潮45』10月号に「もはやブロッキングしかないネット界の現状」と題して寄稿した記事の生原稿です。期せずして『新潮45』最終号に載ることになりました。
ネットの普及による「内」「外」の浸潤を指摘していますが、それはネットを越えて社会にも及んでいたのではないか。言論とと言論以前のもの、接続合理性による動機づけなど、ネットだけでなく、現実社会を説明することも出来る内容だったのかなと今回の騒動を前にして思っています。
同誌に関しては問題の特集を断片的に読んでいる人が圧倒的に多く、特集以外の論文など殆ど誰も読んでいないのだろう。既に書店では入手困難のようですので、ここにサルベージしてみました。
ぼくはブロッキングしかないなんてことはないだろうと思いつつ、ブロッキングなんかあってはならないと決めつけるのもどうかなと思っており、両端ではなく、その間にこそ言論の空間が用意されると思っている。
少し蛇足を。個人的に新潮ジャーナリズムには大いに支えてもらったと思っています。『暴力的風景論』が書けたのは当時の『新潮45』だったから。今回の記事はそのつもりで書いたものでは全くないですが、今の状況とどこか奇妙なあわせ鏡のような構図となっているこの論評が世間を騒然とさせたのと同じ号に載っていたという事実を示すことで、私なりに発表の場を与えてくれた雑誌を見送りたい。
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ゲオルク・ジンメルという社会学者がいる。ユダヤ人差別のせいだったと言われるが大学に正式のポストをなかなか得られず、長い間、在野で紙誌に寄稿して糊口を凌いでいた。本人にとっては不遇だったが、結果的にジンメルは読み易い、優れたエッセーを多く残した。『橋と扉』もそのひとつだ。
外界の事物の形象は、私たちには両義性を帯びて見える。つまり自然界では、すべてのものがたがいに結合しているとも、また分離しているとも見なしうるということだ。(中略)しかし、自然と違って人間にだけは、結びつけたり切り離したりする能力が与えられている。しかも一方が常に他方の前提をなしているという独特の方法で、私たちはそれを行う。
結びつけたり、切り離したりするものとして「橋」や「扉」を論じる。そんなジンメルのエッセーを引いたのは、「結合」と「切断」のあり方に戸惑う現代社会をこれから描こうとしているからだ。
今年の4月23日、許諾なしにマンガを複製して無料で公開している「漫画村」などのサイトに向かうインターネット・アクセスを断つ「ブロッキング」を実施するとNTTグループが表明した。
これについて激しい賛否の応酬が起きた。
ブロッキングはユーザーがどのサイトに接続しようとしているかチェックしてから実施するので、日本国憲法第21条2項 「通信の秘密はこれを侵してはならない」、電気通信事業法第4条1項 「電気通信事業者の取扱中に係る通信の秘密は、侵してはならない」にも抵触すると考えられてきた。にもかかわらず日本でブロッキングが実施された前例がある。その時は児童ポルノを流布させるサイトが社会問題化しており、サイトに削除を要請しても効果がない中で、児童の人権が著しく侵害されている状況を改善するためにブロッキング以外の手段がないと考えられた。そこで違法性を免除される「緊急避難」扱いで、インターネット接続業者などで作るインターネットコンテンツセーフティ協会がまとめ役となってブロッキングが実施された。
今回問われたのは、海賊版のブロッキングに対しても、同じロジックが成り立つのかということだ。政府の知的財産戦略本部が「緊急避難」としてブロッキングの実施をプロバイダに要請すると述べた時点で、日本インターネットプロバイダー協会(JAIPA)は即刻、反対を表明。「理論的にはあらゆる種類の権利侵害が政府の要請によってブロッキングの対象になる可能性」があることに懸念を示した。
一方でブロッキングやむなしとする論者もいた。カドカワ社長で、政府の知財本部員も務めていた川上量生は「川上量生 公式ブログ」(4月24日付)に「ブロッキングについて」を掲載。「日本人向けの違法サイトをわざわざ海外のサーバーにおく業者は、日本人が裁判をおこすのが難しい、あるいは現地政府の強制執行力もあまり期待できない国をわざわざ選びますから、非常にやっかいです」。「海外に置かれているサーバーに対して、日本の公権力を具体的に行使する手段がない」。「ブロッキングしか対抗手段が原理的にありえないということは強調したい」と書いている。
実際にはNTTグループがブロッキングの実施を表明した時点で対象となった漫画村、Miomio、AniTubeの3サイトはいずれも自ら沈黙し、アクセス不能となっていたので、ブロッキングは実施されなかった。だが、それ以後も知財本部の「インターネット上の海賊版対策に関する検討会議」は引き続きブロッキング法制化の是非を巡る議論を続けており、9月中旬には中間案をまとめてパブリックコメントを求める手続きに移るとされている。憲法違反かどうかの議論はその時に再燃するだろう。
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ジンメルに倣えば、インターネットはそれまでバラバラに存在していた世界中の個人と組織を縦横に繋ぐ「橋」だ。前代未聞の広がりで世界を繋ぐメディアとなったその可能性については大きな期待が寄せられてきた。しかし、インターネットはパンドラの箱を開けてしまったかのように災厄を拡散させてもいる。その一例である違法コピーの蔓延問題の解決のために、どのように「扉」を閉めればいいのか。
同じ構造を持つ問題をもうひとつ挙げよう。
今年の5月15日、インターネットの掲示板サイト「5ちゃんねる」の中の「なんでも実況J」に「YouTubeのネトウヨ動画を報告しまくって潰そうぜ」というスレッドが立てられた。これが「なんでも実況J」利用者(「なんJ民」と略す)によるいわゆるネット右翼=「ネトウヨ」への宣戦布告だった。
戦果はすぐに現れる。18日に「新潟女児殺害事件の犯人は在日だった」というデマ動画がYouTubeから削除され、翌19日には、チャンネル登録者5万人以上、投稿動画数900本超を擁するアカウントが凍結されたという(安達夕「ヘイト動画を消滅させた『ネトウヨ春のBAN祭り』はネット上の革命だったのか?」ハーバービジネスオンライン2018年5月31日による)。
どうして削除や凍結に至ったのか。YouTubeの「コミュニティガイドライン」には「個人や集団に対する暴力を助長したり差別を扇動したりする」コンテンツを「悪意ある表現」とみなす規定がある。ユーザーから、この種の「悪意ある」動画が投稿されているという通報が寄せられるとYouTubeの運営サイドが確認のうえ該当作品を削除する。同一アカウントで繰り返し規定違反がなされたと判断された場合は、アカウント自体が停止される。「なんJ民」はこのルールを用いて通報によって削除と凍結を実現させたのだ。
戦果が上がり始めると通報の動きは拡大した。結果的に8月31日までに1319チャンネルのアカウントが凍結され、512216本以上の動画が削除されたという(「【YouTube】BAN済チャンネル・通報対象一覧」ウェブの集計による)。
この件についても評価は割れる。
ネットメディアiRONNAでは「ユーチューブ『ネトウヨ動画削除』の波紋」と題して関係者、有識者の寄稿を特集。その中で実際に動画が通報によって削除され、アカウント凍結も経験した作家の竹田恒泰は「多くのユーザーが一斉に特定の投稿動画を『差別的』などと通報する活動は極めて攻撃的な『政治キャンペーン』」だとし、「個人が投稿した動画で気に入らないものがあれば、見なければよい。もし虚偽や不当な表現があれば、反論すればよい。言論に対しては言論で挑むのが正道ではなかろうか。気に入らない主張をするチャンネルを、チャンネルごと潰すというのは『言論人の暗殺』にほかならず、邪道の極みといわねばならない」と書いている。
立場が変われば評価も変わる。同じ特集内の論考で篠田博之(月刊「創」編集長)は事実誤認や人権侵害、ヘイトスピーチ的な差別的な表現がユーザーによる通報を通じてネット上から削除されてゆくことで「なんJ民のヘイト告発は『ネット言論の革命』になるかもしれない」と期待する。
ただ、こうした賛否にはインターネット上のコミュニケーションのあり方や、そもそもインターネットそのものについて原理的に考える視点が欠けてはいないか。
たとえば「5ちゃんねる」と改名する遥か前の2ちゃんねるに特徴的なコミュニケーション・スタイルについて、社会学者の北田暁大は、公共的秩序の維持を追求するような「目的合理性」と対立させた「接続合理性」という概念で説明していた(「嗤う日本のナショナリズム」『世界』2003年11月号)。
2ちゃんねるでは書き込みの良し悪しは、その内容自体への評価よりも書き込みにレスがついて(=コミュニケーションが接続されて)スレッドが伸びてゆくかどうかで測られる。書き込みのテーマを選ぶのもそうした尺度の中で、だ。たとえばマスコミの特権的立場や偽善性がそこではまず揶揄の対象となり、やがて、いわゆる「在日特権」や第二次大戦での加害責任をいつまでも追求する東アジア国家への反感が2ちゃんねるを舞台に盛んに表明され、「若者の右傾化」と言われる所以となった。しかし、そうしたテーマ選択は実際には書き込んだユーザー自身の価値観を必ずしも反映しておらず、その「ネタ」であれば盛り上がり、レスがつきやすいという判断によって選ばれている。
こうして接続合理性を求めるスタイルが「祭り」と呼ばれる現象を育む。レスが大量につき、スレッドが一瞬にして書き込み数限界に達してしまう。それこそ接続合理性が最大限に満たされたケースなのであり、そんな「祭り」をリアルタイムで体験したい、自分も「祭り」を盛り上げる当事者になりたいという欲求が、スレッドの中で弄られている批判対象に直接、電話をかける「電凸」を実行、その反応を報告する「燃料投下」によって延焼を拡大させ、さらにレスを増やす行動様式も生まれた。
今回のネトウヨ撲滅運動も、Twitterに派生して「#ネトウヨ春のBAN祭り」というハッシュタグが用いられたことからもうかがえるように、かつての2ちゃんねるの「祭り」の文化との連続性がある。とすれば、左右の政治イデオロギーとの繋がりや、社会正義の追求といった目的合理性の観点だけでなく、接続合理性を求める新たな「電凸」として今回の「通報」運動を考える視点も必要だろう。
ただ、かつて「マスゴミ」に代わってネトウヨが「祭り」を生みやすい揶揄の対象として選ばれたことにはネトウヨ論壇側の変化がある。ネトウヨを登場人物として配した小説『愛国奴』を最近上梓した古谷経衡が安田峰俊との対談(「文春オンライン」7月12日公開)で述べている。
古谷 いまネット右翼になる人は、とにかく、長い活字を読むのが苦痛。情報源は動画チャンネル。その動画もできるだけ短い方がいい。チャンネル桜の動画(20分〜3時間)を見るのも苦痛で長尺に耐えられない……という中高年だったりするわけです。そしてそれを全部の思考のソース元として、世界観を培養させていく。
これって、日本人全体が知的に劣化したとか、日本の世論が右傾化したとかいう話で語られがちですが、僕はそうではないと思うんですよね。むしろ、どの時代やどの社会にも一定数は必ず存在する、知的に怠惰な層や『情報弱者』層が、ネット右翼の主張に取り込まれるようになっただけじゃないかと。
それもまたインターネットの普及が必然的に招いたものではなかったか。まず「知的に怠惰な層や「情報弱者」層が、ネット右翼の主張に取り込まれるようになった」のはインターネットが普及し、彼らを表現の世界と繋ぐ橋渡しをしたからだろう。
そして、ただ接続の範囲が広がっただけでない。質を変化させるネットの機能について考える時、参照すべきはメディア論の第一人者であるマクルーハンだ。
マクルーハンは人間が使う道具のすべてを、身体を拡張する「メディア」とみなした。彼のメディア論に従えばクルマは「足」の能力を拡張するメディアであり、双眼鏡は「目」の能力を拡張するメディアである。だが、そうした道具=メディアの歴史の中で一線を画して登場したのが電子メディアだとマクルーハンは考える。初期のエッセーである『外心の呵責』に印象的な文章がある。
電子メディアは、中枢神経系の拡張であって、これは包括的で同時的な領域にほかならない、電信の発明以来、私たちは人間の脳と神経を地球全体に拡張させてきた。その結果、電子時代は実に不安な時代となった。人間は頭蓋骨を内側に入れ、脳みそを外側に出して耐えている(邦訳は宮澤淳一『マクルーハンの光景 メディア論が見える』みすず書房より)。
電子の速度で伝播する情報が「包括的で同時的」に世界中に行き渡る状況は、電信の発明に始まり、テレビメディアの普及によって実現に向けて大きく踏み出したが、その本格的到来はやはりインターネットの網の目が地球を覆ってからだろう。マクルーハンはインターネットの普及を目撃する前に死んでいるが、頭蓋骨の外に脳が出てしまっているというグロテスクなイメージは、電子メディアのネットワークの中で私たちが生きているインターネット社会の姿を的確に予言していたことをうかがわせる。それまでの道具=メディアは能力を拡張するだけだったが、インターネットという電子メディアは「内」「外」の相互浸潤と混乱をもたらしたのだ。
活字媒体のみが言論の場であった時、言論は「外」にあった。人々は心の「内」で思いつき、感じたことを、まず自分自身で疑い、真実性を吟味し、口に出して恥ずかしくないレベルまで内容が到達すると、知人に披露して批評を仰ぎ、たとえば編集者の協力を受けつつ洗練させて印刷物として公共空間に送り出した。「外」の公共空間で披露するには社会的責任が生じるので真実性のチェックが必要だし、差別にならないか等々多方面への配慮を重ねてゆく必要がある。言論表現の自由とは、そうした必要条件を押さえたうえでの自由だった。
しかし神経系の外部化であるインターネットは、「内」にあった未熟な思考や感情をナマのまま露呈させてしまう。古谷の指摘するネトウヨ論壇の変質はその一例だったのではないか。インターネットによって「外」化されたナマの思い込みや感情は、もちろん従来の言論と同等ではないので、ネット動画の削除を「言論封殺」とみなしたり、「言論表現の自由」の理念をそこに無条件で適応することには困難が生じる。
一方で「内面の自由」にも修正が必要だろう。公開の場で表現される言論と異なり、他者に影響を与えない内面においては何を信じても、何を考えてもよい。それが個人を尊重する近代的な原理だ。しかし、今やマンガを複製してタダで読みたいという内面の欲望が、ネットを介して外部の海賊版サイトと直接繋がってしまう。個人的な作業なので私的複製を認めた日本の著作権法の想定しない事態がそこに発生しており、そんな海賊版サイトに向かってゆくアクセスまで、「内面の自由」の保護の延長上に位置づけられていた「通信の秘匿」の法理によって守られてしまうことにはやはり異和漢が残る。
インターネットによって「内」「外」の秩序が失われている構図の中では、改めて「内」と「外」、「私」と「公」の区画整理を行い、言論表現の自由が適用されるにふさわしい「言論」の場と、保護されるにふさわしい「内面」の場を確保する必要があるのではないか。YouTubeではなく舞台は「はてなダイアリー」だったがHagexのハンドルネームでブログを書いていた男性が、誹謗中傷を繰り返す人物を「低能先生」と呼んで罵倒し、妨害行為に対して運営者へ通報したことをほのめかしたところ、恨みを買って殺害されてしまう事件も6月24日に発生した。事態は相当に逼迫している。単なる弥縫策ではなく、より抜本的な対策、つまり、インターネットのメディア特性を踏まえた上で、いかに「接続」と「切断」を適切に再配置するか、いかに「橋」を架け、「扉」を開け閉めするかの議論が求められているのだと思う。