ウェンブリー編
第5章:乖離(10)
体調を崩して三日目。
朝から雨が激しく降りつける中、アウロスは研究室で目を覚ました。
気分が悪いから休む――――など、社会人の鋼鉄の掟に反する行為。
何より本人にその気が全くない。
未だに痛む右肩をそっと左手で抱え込むように、上体を起こす。
精神的な鬱屈から始まった不調は、いよいよ身体にまで及び、目的までの距離を遠くしていた。
(こんな人間が、他人の生き方にとやかく言ってるんだからな……笑い種だ)
大学に来て以来ずっと、アウロスは研究室外においては『情けない魔術士』を演じて来た。
身内のお情けで職を得たと言う『偽情報』と、元来持っている『不敵不敵しさ』が重なり、アウロスの外部の評判は、概ね意図した通りのものになっていた。
だが、現在はその必要もなくなり、素の自分を出す事も増えている。
それに呼応して、評価も少しずつ変わって来ていた。
その一方で、自身そのものはと言うと、作り上げた紛い物のイメージにどんどん近付いている。
皮肉な生き方だ――――そう自嘲気味に嘆きつつ、アウロスは実験棟の扉の前に立った。
ここ数日は、体調の問題もあって予定の計画より遅れており、それを取り戻す為、利用時間前の早朝にも実験を行っていた。
オートルーリングの理論については、ほぼ完成の域に達していた。
実際、記憶能力のある金属で作った魔具では、既に特定の魔術でオートルーリングを使用出来ている。
後は、それを今回の『生物兵器を利用した魔具』でも実践出来るかと言う点が課題。
生物兵器【ノクトーン】に、魔術のルーン配列情報を記憶する性質がある事は直ぐに証明出来た。
保存、再生に関しても同様の結果が得られた。
しかし、問題はまだ山積みだ。
――――この性質が、全ての魔術に対しても通じるのか?
――――金属と融合しても、その性質は残っているか?
――――それを魔具として形に出来るか?
――――ありふれた一般的な魔術士が使いこなすのに不自由はないか?
これら全てを、実験によって証明しなければならない。
しかも、これらをクリアしたとしても、大量生産出来なければ意味はない。
技術としては完成しても、極少数の富豪でなければ使えない、となれば、普及させるのは完全に不可能。
それでは技術の意味がない。
何より、名前が残せない。
だからこそ回り道を重ねているのだ。
「……?」
扉を僅かに開けると、そこから物を引きずるような音がした。
(不審者、か?)
アウロスは右手に嵌めてある魔具を左手の人差し指に嵌め直した。
左手でのルーリングは、右手のそれよりかなり遅れるが、今だ負傷が癒えない腕で長い文字列を綴るのは、かなり難しい。
こう言う時こそ、オートルーリングが使えれば。
自身の研究の需要を自身で噛み締めつつ、扉の隙間から中の様子を窺った。
そこには――――
「……あ」
一人で実験器具を用意するルインの姿があった。
肉体労働とは無縁な体型で、男がやっと持ち上げる事が出来るような重さの測定器を、倉庫から引きずるようにして出している。
息を切らしながら。
「お、おい」
「あら。早いのね」
汗をダラダラ流しながら、涼しげに言う。
雨の日は気温こそやや低めだが、湿気は通常より大幅に高く、実験棟のような閉鎖空間では不快感が大幅増となる。
そんな中を一人で黙々と作業していたその女性に、アウロスは言葉を失ってしまった。
「貴方の事だから、遅れた分を早朝に取り戻そうとする、と予想していたけれど、予想より到着が早かったようね」
「……」
「どうしたの?」
外壁を叩く雨音が室内に響く。
アウロスは、見えない力から責められている気分になり、心中を掻き毟った。
今口を開けば、ルインへの言葉であっても自身への苛立ちが含まれてしまう。
八つ当たりになってしまう。
しかし、アウロスはそれを制御する事が出来なかった。
「何故ここまでしてくれる? 責任はないって言ったろ?」
懇意の行動に対する侮辱――――とも言える発言だったが、ルインは表情一つ変えない。
「貴方も案外しつこいのね。同じ質問を何度も」
「それは……」
「良いでしょう。特別に答えて差し上げます」
アウロスの言葉を待たず、ルインはそう告げた。
平常ではない精神状態を見透かしたかのように、勤めて穏やかに。
「貴方は、私に生きて欲しいと願った」
そして、慈しむように。
「私も、貴方が生きる事を望むから。"アウロス=エルガーデン"ではなく、"貴方"に」
「!」
灰色の空が哭する。
悲鳴にも似たその音は、辛うじて繋がっていた二つの世界を完全に引き裂いた。
アウロスは。
少年は。
静かに、そして穏やかに乖離した――――