ウェンブリー編
第5章:乖離(8)
四日振りの大学は、当たり前ではあるが、普段と何ら変わらない様相を呈していた。
早朝なので学生の数は疎らだが、朝っぱらから廊下で討論していたり、中庭で恋人同士と思しき男女が愛など語っていたり、男だけのむさい集団が学食で談笑していたり。
それぞれが、それぞれのやり方で、研究の最高機関に身を置く者としての生活を満喫している。
それは間違いなく、微笑ましい光景だった。
ふと――――アウロスは自分の学生時代を思い出した。
戦争が終わり、奴隷と言う身分から解放され、魔術の研究をやると決意してからの五年間。
アカデミーと大学での生活は、アウロスにとって不遇の時代と言える。
魔術士としての素養がまるでなく、素質も最低。
そんな人間に対して、手を差し伸べる教師はいなかった。
戦争に負け、多くの人材を失った魔術国家デ・ラ・ペーニャは、才能豊かな若い魔術士を育てる事を急務とし、教会は大学に多くの人材を受け入れるよう勧告した。
その一方で、大学内部では素質のある人間とそうでない人間の格差は更に広がり、後者はそれまで以上に淘汰されると言う流れになっていた。
時期が悪かったと言えば、そうなのかもしれない。
いずれにせよ、アウロスはいつも孤立していた。
しかし、それを寂しいと思う余裕すらなく、知識を得る事で毎日が忙殺された。
実戦で先に覚えた知識は進級の役には立たなかったし、率先して教えてくれる教師もいなかったのだから、全て自分で開拓して行くしかない。
その意識が、今のアウロスを形成ったと言っても過言ではなかった。
(学生時代か……殆ど覚えてないな、あの頃の事は)
過去を回想するなど、ずっとなかった事だ。
これもまた、乖離の影響と言える。
アウロスはかつて、自らに魔法をかけた。
それは魔術とは違い、まじないに近いもの。
技術の類ではない。
その魔法は、アウロスをある意味強くした。
常に客観的な視点で自分を捉えられるようになった。
何事に対しても余り感情的にならず、冷静な判断を信条とし、それを実践した。
それは極めて合理的な生き方だった。
防御壁のようなもの。
それを身にまとう事で、様々な外敵から身を守る事に成功し、ここまでの道を作れた。
そして、それと引き換えに、人としての大事なものを幾つも見送って来た。
それが今、アウロスを脅かしていた。
必死になって作って来た防壁が、崩れると言うよりは離れていくような感覚。
ラディがいなくなった際の感覚そのままだった。
まるで、一歩も動けない呪いにかけられ、大事なものが目の前で自らの意思で
背を向け、遠ざかっていくような――――
「……どうした?」
ミストの声に、アウロスの身体がピクリと動く。
それと同時に風景が戻った。
そこは――――ミスト教授の部屋。
たかが四日の空白にも拘らず、ますます新しい主の色に染まっていた。
「いえ。報告は以上です」
「宜しい。旅から帰っての翌日で疲れているだろうが、今日もキリキリ働いてくれたまえ」
ミストは受け取った報告書を机の脇に置いて、席を立ち、窓の傍に移動した。
その一つ一つの動作には、何一つ力みがない。
あたかも、武術の達人が自らを律しているかのように、徹底していた。
「一つ聞きたい事がある」
「はい」
そんなミストの声は、失敗作の果実の甘さくらいの微量ではあるが、僅かに違っていた。
強張りはない――――が、少しだけ張っている。
そんな声だった。
「お前、ここに地下水路がある事を知っているか?」
窓に薄く映るミストの顔は、アウロスからは見えない。
脈絡のないこの疑問に対し、取り敢えず素直に答える事にした。
「ええ。それがどうかしましたか?」
「先日、そこに捕虜として収容していた男が脱走した。お前が一度目の【パロップ】遠征の際に追い詰めたと言う剣士だ」
それはつまり、ラインハルトが脱走したと言う事だ。
(と言うか……まだいたのか、あいつ)
二重の意外な事実に、アウロスの顔が驚愕を映す。
ミストは窓に映るその様子をじっと眺めていた。
「心当たりは?」
「ないです。と言うか、ここ数日居なかった訳ですし」
「示し合わせていた、と言う事もあり得るからな」
直接的なカマ掛けだった。
「ま、その反応を見る限り、それはないみたいだな」
アウロスの微細な反応を観察しながら、判断する。
普段はアウロスも良くやっている行動だ。
当然それを防ぐ術にも長けているのだが、今回はまるで精彩なくミストに思考を読まれた。
「疲れているな。抑制が効かなくなっている。これでは余り面白くない」
「それは申し訳ないですね」
「仕事には支障がないように。以上だ」
アウロスは力なく一礼し、教授室を出た。
扉が閉じると同時に、大きく息を吐く。
そして改めて確認する。
現在の自分の立ち位置は、決して固まってはいない。
ミストが必要でないと判断すれば、いとも容易く崩れ落ちる。
ミストはそれを言いたかったのだろう。
その為に、敢えて自分は常に観察しているぞと遠回しに知らせて来たのだ。
望み通り20代で教授となったミストに、アウロスとその研究が必ずしも必要かどうかと言うと――――定かではない。
かと言って、頓挫しているとは言え、論文の完成が現実味を帯びて来た今、それを他の権力者の手に渡す事も承知しないだろう。
環境は改善されたが、同時に次はなくなった。
一度破綻すれば全てが終わる――――そう言う状況だ。
合理性を貫いて辿り着いた状況とは言え、厳しい立場に立たされている。
(これまでは当然の事として受け入れていた筈なのにな)
アウロスは、弱っている自分を自覚せざるを得なかった。
研究室に戻ると、ペンを走らせる音が躍動感一杯に響いていた。
とても自然な光景。
しかし、どこか歪んでいる。
そう見えるのは誰の所為なのか――――そんな思考に囚われる脳を小さく揺すりながら、アウロスは室内に歩を進めた。
「あ、アウロスさん。おはようございます」
室内にはリジルとレヴィの二人がいた。
アウロスが加わった事で男の占拠率が変動する事はないが、むさ苦しさは膨れ上がった。
「本当に早いな。泊まってたとか?」
「いえ。ちょっと今日はやる事が多いので」
微妙に言葉を濁し、リジルは再び視線を落とす。
「……?」
ふと別の箇所からの視線に気付き、アウロスはその方に顔を向けた。
当然、そこにいるのはレヴィだ。
討論時以外滅多に視線が合う事はなく、合ったら合ったで露骨に顔をしかめていたのだが、今のレヴィの表情に不快感はない。
「お早う」
「!?」
それどころか、挨拶などされた。
これにはリジルも吃驚したらしく、おもむろに顔を上げて目を丸くしている。
「何だ? 挨拶くらいで過剰な反応をするな」
「あ、ああ……」
奇妙な程自然体のレヴィを怪訝の極致的な目で眺めつつ、自分の席に座る。
「な、何かあったんですか?」
リジルも同じ顔をしていた。
「全然わからん。と言うか、新手の嫌がらせとしか思えない」
「そこまで深読みしなくても」
「じゃあ素直に受け止めるか? そっちの方がある意味深読みだろう」
自分で言っていて、頭の痛くなるような発言だった。
「何かの罰ゲームとか」
「あの堅物が賭け事なんて……」
アウロスはそこで口を閉じる。
余りにこれまでと掛け離れた行動――――最近やたら心当たりがあった。
「もしかしたら、流行ってるのかもしれない」
「罰ゲームに流行とかあるんですか?」
「いや、罰ゲームじゃなくて。例えば、今までと全く違う行動をしたら願い事が叶うとか、思っている事と正反対の行動を取れば大金が手に入るとか」
或いは――――魔女の名を持つ女性がメイドになる、とか。
「……それこそ深読みの最上級ですよ」
「占いが流行ってるのかもしれない。『お前さん、これまでの性格をぶっ壊さないと大事な人が死ぬよ』的な」
「もう何が何やら」
リジルは冷や汗混じりにアウロスの話を聞いているが、ペンを走らせる手は全く止めていない。
器用な人間だった。
「と言うか、ミスト教授が教授になったから、アウロスさんを敵視しなくても良くなったんじゃないですか?」
「そんな単純なものでもないだろ」
自身の体験を踏まえ、アウロスは嘆息交じりに吐き棄てた。
ミストが教授になったからと言って、足を引っ張られて良いと言う訳でもない。
少なくとも、ここで和解する理由にはならない。
まして彼は、妬みによる嫌がらせを受けた過去がある――――と以前に熱弁している。
途中で去ったアウロスだが、ちょろっと聞こえてはいた。
「ま、事ある毎に噛み付かれるよりはよっぽど良いか。不気味だけど」
「早く帰れますしね」
結局明確な原因を思い付く事はなく、その話題は終わった。
「ところで、研究はどうなってます?」
リジルの声量が一気に落ちる。
ああ言うものを飼っている手前、生物兵器に関する話題をしている事は出来るだけ悟られたくない――――そんな心情が現われていた。
「最悪、国の流通を変える必要があるってのがわかった」
「……何かどんどんスケールが大きくなってますね」
「生物兵器の調達ルートもまだ白紙だしな」
リジルから借りた生物兵器の資料は既に目を通し、使えそうな類のものに目星は付けている。
しかし、それをどこから入手するかと言う問題は解決していない。
魔術士界の禁忌に挑戦するのだから、一筋縄で行く筈もなかった。
「大変ですね」
そんなアウロスの苦悩を察知し、リジルは苦笑する。
「実は僕、近い内にここを去ります」
そして、そのままの顔で、そのままの声量で静かにそう告げた。
「は?」
「少し事情が変わったので。アウロスさんには色々お世話になったし、これはそのお礼です」
事情が飲み込めないアウロスを置いてきぼりにし、リジルは羽ペンを別の紙に移動させ、走らせる。
「魔術士と言う身分でないのなら、そこにいる人が協力してくれると思います。まずは手紙でも出してみて下さい」
そこには、デ・ラ・ペーニャ国内の住所が書いてあった。
街の名前は【セラデス】。
アウロスの記憶には、辺境の地と記されていた。
「それはありがたいが……」
「では、お元気で」
ニコッと笑い、リジルは視線を下に落とした。
もう話す気はないと言う意思表示らしい。
アウロスもそれ以上は口を開かず、受け取った紙をじっと眺めていた。
――――1週間後。
ミスト研究室の新体制が発表された。
空いた助教授のポストには、別の大学から来た人間が就いた。
そして、本人の言葉通り、リジルの名前は消えていた。