平成30年間のJ-POP

上手いやつが一番偉い」「26歳でフェラーリ」80年代末期の音楽業界

年号が平成になったのとほぼ同時期に、「歌謡曲」「ニューミュージック」から呼び名が入れ替わるように「J-POP」は誕生しました。90年代に入ると、バブル崩壊も関係ないかのようにミリオンセラー作品が多数生まれました。テクノロジーの進化で制作環境も視聴環境も変わった00年代、そして音楽不況と言われた10年代。この連載は、平成という時代とともに大きく変化してきたJ-POPを、現場で目の当たりにしてきたおふたりに振り返っていただく対談企画です。スタジオミュージシャンとして、奥田民生、椎名林檎、ゆずなどの楽曲に携わってきた斎藤有太さん。その16年ぶりのソロアルバム『The Band Goes On』のマスタリングを手がけたユニコーンのABEDONさん。最先端の現場で見てきたふたりだから話せる平成30年分のJ-POP狂詩曲です。(聞き手:柴那典


左:斎藤有太 右:ABEDON

ブームを作るのはスタジオの現場だった

— 平成元年、89年はユニコーンが『服部』をリリースした年です。お二人の音楽活動もその頃から始まっていると思うんですが、最初はどんな感じだったんでしょうか?

ABEDON 89年は23歳かな? ユニコーンに入ってすぐですね。

斎藤有太(以下、斎藤) 阿部くんは、ユニコーンの前からスタジオの仕事を始めてたんだよね。その前から音楽の現場にいた。

ABEDON 入ったのは18歳の時だね。当時はマニピュレーターというのが存在していなくて。ちょうど打ち込みやコンピューターを使うようになった時期で、若いから重宝がられてスタジオにいられたんです。

— お二人とも師匠筋の方がいらっしゃるんですよね。斎藤有太さんはゴダイゴのミッキー吉野さん、ABEDONさんは笹路正徳*さんという。
* 音楽プロデューサー、編曲家、鍵盤楽器奏者。ユニコーン、プリンセス・プリンセス、スピッツ、PUFFY、the brilliant green、THE YELLOW MONKEY、コブクロなど数多くのアーティストをプロデュースしたことで知られる。

斎藤 僕は86年に「パン・スクール・オブ・ミュージック」というミッキー吉野さんが始めた音楽学校の一期生だったんです。そこからミッキーさんのスタジオで仕事をするようになって、「お前、何曲か作ってみろ」みたいに劇伴の仕事もやらせてくれるようになった。キャリアのスタートはそこですね。

ABEDON 僕の場合は笹路さんにスタジオに連れて行ってもらって、とにかく毎日スタジオにいたのね。なんせ現場に入った方が一番いいと思って、終わった後にアシスタントがマルチテープを切る練習をしているんですよ。それを「俺にもやらせてくれ」て言って。そうやってプロの使っている機材を触って体験できた。

斎藤 現場にいるっていうことがすごく大事だったね。

— 当時はバンドブームの時代でしたけれど、お二人はそこに距離はありました?

ABEDON 意識していなかったというか、全く耳に入ってきていなかったですね。というのも、スタジオミュージシャンとライブミュージシャンって、壁があったんですよ。だから僕はとにかくスタジオのことをやってた。実際、ユニコーンのことも、プロデュースを笹路さんが担当するということで知ったわけなので。

斎藤 僕もスタジオの中で仕事を始めていたから、いわゆるバンドブームには反応しなかった。スタジオミュージシャンたちのセッションの世界がすごく盛んだったので。

— 当時の「イカ天」のようなバンドブームは、ある種のアマチュアリズムにスポットをあてるものだったわけですよね。一方、お二人はすでにプロフェッショナルだった。

ABEDON 僕は昔からテレビを見る習慣がないんですよね。当時、ブームを広げたのはテレビだと思うんですけど、そのブームを作るのはスタジオの現場だっていうプライドがすごくあったんです。こっちで常に新しいものが生まれて、それが流行を作るというか。だからもっと未来を見てないといけないと思ってました。

気に入らないやり方をしたらエアガンで撃たれた


斎藤有太 ニューアルバム「The Band Goes On」
(ダラシナレコード/Sony Music Artists)

— 日本のポピュラー音楽の歴史で言うと、80年代は歌謡曲やニューミュージックの時代で、90年代に入ってJ-POPという言葉が広まるようになっていきます。お二人はその違いはどのように感じてらっしゃいましたか?

斎藤 当時は日本の音楽業界がどうなっているだとか、音楽シーンがどうのこうのとか、そういう余裕はあまりなくて。とにかくこなすので精一杯でしたね。スタジオミュージシャンとして呼ばれて行くと、すごい怖い先輩たちがいたので。

ABEDON たしかにおっかなかったね。いい意味でプライドを持っている意固地な人が多かったので。現場は本当に怖かった。

斎藤 まだスタジオミュージシャンたちが沢山いて、とにかくセッションの量も多かったんですよ。1日に何回もセッションやったり、スタジオを掛け持ちしたりしていた。ミュージシャン同士も何も喋らないしね。

— どんな怖い先輩がいたんですか?

ABEDON パンチインとパンチアウト(録音した部分を差し替えること)にしても、当時はアナログだから一発勝負なんですよ。そこで気に入らないやり方をしたらエアガンで撃たれたみたいな話があったりしてね(笑)。すごい緊張感ですよ。ただ、僕は譜面を読むのが面倒くさいし、譜面をもらってパッと弾くのが向いてないと思って、自分がクリエイトする方に回っていった。

— スタジオだけでなくライブの現場のお仕事もありましたか?

ABEDON そっちもあったね、バンドのサポートも当時は盛んで、いろんなバンドに誘ってもらっていた。特にロックバンドのキーボードは当時いなくて、重宝がられていろんなバンドに誘われてました。その中の一つにユニコーンがあるんですけど。

ユニコーンに何が必要で足りないか、客観的に見えていた


ABEDONさんがビルボードライブ東京で行った初のソリスト公演
Blu-ray「SOLOIST WITH NO LIST at Billboard Live TOKYO July 25, 2018」

— ユニコーンにはどんな風に加入したんでしょうか。

ABEDON 最初は他のバンドと同じような感じですね。キーボードが抜けたんで、入らないかと。笹路さんがプロデュースしているし、その前にやっていたM-BANDがちょうど活動をやめていて何もなかったので、いいよ、入るよ、と。で、入ったからにはバンドが変わらなきゃいけないなって思ったわけですよ。バンドのメンバーが1人変わるっていうことは、サウンドが変わらないといけないんじゃないかと。そういう若い頃の熱さがあったというかね。

斎藤 滾りとでもいうような、ね。

ABEDON 彼らのデビューから携わっているわけなので、何が必要で足りないかっていうのはある程度客観的に見えているんです。彼らがどこに進みたいかもなんとなく見ているので、そこを率先してやるしかないというか。そうして結果が出た、と。

— ABEDONさんがユニコーンに加入したのは、バンド自体を再構築するようなチャレンジだったと。となると、それ以前のスタジオミュージシャンとしての自分とはちょっと違ったあり方になってきたんでしょうか?

ABEDON そうだなあ、違う部分が半分、違わない部分が半分という感じですかね。変わったのは、やっぱりライブをするってことですね。同じ部分は、スタジオでクリエイトするっていうこと。ユニコーンに足りないのはやっぱり圧倒的にスタジオのノウハウだったし、そこに関して僕は同年代の中では当然自信があるわけで。クリエイトするっていうのが一番大事で、曲が全てだということでレコーディングに臨むっていう。一番年下のくせに生意気だよね。でも、当時は上手い奴が一番偉いみたいな空気はあったよね。

斎藤 あったあった。性格なんか悪かろうがなんだろうが上手けりゃいい。

ABEDON 作品がよくて、革新的なものであればいいわけだから。当時はバンドブームで同じようなものはいっぱいあったし、しかもユニコーンにはビート系の匂いがあった。でも、奥田くんはビートルズが好きで実験的なことを好んでいた。でもバンド内にそれを実現する人がいなかったんです。そこに僕が入ってきたわけだから、重宝がられるでしょう? それで一緒になってレコーディングをずっと夜中までやるようになって。当時はどうやって目立つかをいつも考えていましたね。

— 目立たなきゃいけない時代だった。

ABEDON そう。しかもそれが音楽に基づいてないと意味がないと思っていたんですよね。なんでもいいってわけじゃない。上手くないと嫌だし、音楽をベースにして誰もやってないような面白いことが行われないと成立しない。そうじゃないと許さないっていうバンドにちょっとずつ仕上げて行くんですよね。

斎藤 その時にもうそんなことを考えていたんだ。

ABEDON とにかくバンドが沢山いたからね。だから、いいボーカルが1人いて、もう1人キーマンがいなきゃいけないと成功しないと思っていて。おそらくユニコーンはそれを満たしていたと思うんですよね。

— 90年代前半はミリオンヒットも多くなり、スタジオミュージシャンの活躍の場もさらに増えていたんじゃないかと思います。斎藤さんはどんな感じでお仕事されていましたか?

斎藤 この頃は本当にセッションの仕事も増えてきたし、サポートも沢山やってましたね。その中で一番パーマネントに続いたのが渡辺美里だったんです。当時の美里ちゃんのバンドメンバーたちが、若手でみんな優秀な人たちで。そのときは、やっぱり自分も若かったし「俺たちが音楽を作ってる」って思ってました。あの時はバブルだったからリハーサルに1ヶ月くらいかけたり、その間でスタジオのレコーディングをしたりして、だんだん売れっ子感も出始めちゃってね。

26歳でフェラーリ買いました

— CD売上は90年代末まで右肩上がりですし、音楽業界はすごく景気がよかったと思います。

斎藤 そう。だから制作に関してもゆとりがあって。とにかく予算があったんですよね。デビューしたばかりの新人でも、アルバムのレコーディング予算が1000万円くらいあった。日本のスタジオは高いから「じゃあ、ロサンゼルスに行ってみよう」みたいなことだって普通にあったんです。

ABEDON バブルというか、景気は良かったと思いますよ。まず、ほっといても銀行口座の残高が増えてたんで。

斎藤 ははははは、ほんとそうだったよね。

ABEDON だから、どうしていいかわからなかった。忙しいから使う時間がないんです。だから、こういうときこそ思いっきり使っちゃおうと思って、26歳の時に「よし、フェラーリを買おう」と。

斎藤 26でフェラーリ乗ってたんだ! でも本当にそのときだけだったよね。

ABEDON そう。絶対あぶく銭だと思ってたんで。

斎藤 僕も心のどこかで「こんなのがずっと続くわけない」とはちょっと思ってたんですよ。というのも、あの頃はスタジオ行くと、昼も夜もオードブルみたいなすごい出前を頼むんですよ。毎日そうで、これがずっと続くのは変だなって思ってた。

ABEDON あったあった。でもね、そういう現場はむちゃくちゃなだけに面白いっていうところもあったんですよ。不合理なこと、無駄なことを延々やれて、それが実はすごく糧になったりする。遊びがあることが大事じゃないですか。ミュージシャンだけじゃなく、レコード会社のディレクターも音楽のことを知っていて、キャラクターも面白いし、一緒にクリエイティブなことをできる。変な人がゴロゴロいてさ。

斎藤 (笑)。そうだよね。みんな、一癖も二癖もあるような人ばっかりだった。

ABEDON そういう人が僕はすごく好きなんですよね。言っていることはむちゃくちゃなんだけど、面白いところが一つくらいはあって。そこを育てたらどことも違うものが生まれる芽がゴロゴロしてた。それを拾う作業をしていたんですよね。今は全部がきっちりしてるでしょ? そのぶん冒険する遊びの部分が少なくなってしまっているから、ちょっと可哀想って思うね。

次回は10月2日公開予定



斎藤有太 ニューアルバム「The Band Goes On」(ダラシナレコード/Sony Music Artists)


ABEDONさんがビルボードライブ東京で行った初のソリスト公演
Blu-ray「SOLOIST WITH NO LIST at Billboard Live TOKYO July 25, 2018」

この連載について

平成30年間のJ-POP

ABEDON /斎藤有太

年号が平成になったのとほぼ同時期に、「ニューミュージック」から呼び名が変わることで「J-POP」は誕生しました。90年代に入ると、バブル崩壊も関係ないかのようにミリオンセラー作品が多数生まれました。テクノロジーの進化で制作環境も視聴環...もっと読む

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