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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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吉田神社にある道教施設。道教式の天皇陵。「大王は神」・「現人神」は「神道」由来ではない。「アイドルは処女」はマリア崇拝。性を管理する耶蘇教。契約神ミトラ=豊聡耳皇子(厩戸皇子)。神道のお札の元ネタは道教のお札。『混沌からの出発―道教に学ぶ人間学』五木寛之・福永光司 共著 

要約
・天皇という称号も皇位の象徴も道教由来であり日本神道とは無関係
・茅山道教を創始した陶弘景(とうこうけい)は皇帝のブレーンであり、「道教は神道」だと主張。
・「大王は神」・「現人神」は「神道」由来ではない。「神道」に体系だった思想は古代になく、アンチ仏教勢力が中世以降に作るまでない。
・天皇崇拝は星崇拝であり太陽崇拝ではない。天皇は天皇大帝の略称。天皇大帝は北極星の神格化であり剣と鏡の二種を象徴として持つ。日本の皇室でももともとは二種の神器。『日本書紀』、『養老令』、『古語拾遺』などによると神器は鏡と剣の二種(八咫の鏡は八角鏡らしい)。玉は後から。鏡と剣を聖なる権威の象徴とする思想は道教のもの。6世紀、梁の時代の、日本思想でも極めて重要な道教の天師である陶弘景が道教において鏡と剣が重要だと主張。

・少なくとも七世紀の後半、斉明・天智・天武(初代天皇)・持統の時代は道教の時代。皇統は斉明→天智→天武→持統→文武と続いていてこの五代の天皇が八角形の墳墓に葬られている。七世紀後半から八世紀初頭の天皇陵墓に八角形が採用されたのは、道教では宇宙の形を八角形で表現するから。

・吉田神社の大元宮の「本殿」は八角形で元は道観(道教施設)(「神道」自体が道教用語なのであってもおかしくない)。

・天武天皇が定めた八色の姓の最高位は「真人」=道教の真理の体得者。「真人」は中国では後漢の時代に皇帝を指す意味でも使われていた。『日本書紀』では天皇と同義語で使われている。真人の姓は天皇と皇族にのみ許された。

・『古事記』に道教の影響があることを主張した福永氏は、日本神道のある高名な研究者から罵倒されたことがある。あらゆる思想に元ネタがあることは常識。

・処女が良いという思想はキリスト教のマリア崇拝から来ている。「アイドルは処女神話」はキリスト教が作った。夜這い制度があった日本には本来なかったもの。夜這い制度を破壊して大衆が性によるパワーを得られなくしたのがキリスト教。

・神道のお札の元ネタは道教のお札。神道ってお札すら道教のマネ。
(神道という名称すら道教用語。というかまず神道という名前をやめないとね。GODを「神」と訳したキリスト教勢力がさせないけどね)

本記事の道教資料と共に、
陶弘景が道教の一派としての神道を作った(神道はmade in china)~福永光司『道教思想史研究』 (岩波書店 1987年)~http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-3.html
も合わせてご覧くださいお願いします。

『混沌からの出発 道教に学ぶ人間学』道教学者の福永光司と五木寛之の共著(致知出版社 1997年、中公文庫 1999年)

”「読売の黒子役」竹井博友が徳間書店(陰謀モノ)と致知出版社を事実上創業。(格物)致知出版社は「昭和最大の黒幕」安岡正篤、五木寛之、稲盛和夫の本がベストセラー(笑)。”私のツイートより

・アジア文化の特徴はミックスとコンビネーション。混ぜて組み合わせる。他の影響をおおらかに受けとめ、異なる要素を大胆に採り入れていくのです。道教はまさに混ぜて組み合わせて展開してきました。一方、西方と中東の文化の柱となっている宗教は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教なのですが。この三つの宗教は同じ根っこから出た兄弟なのですが、互いに交わろうとせず、対立し、他を異端と見なしそれぞれの純粋性を強調し、純粋さと統一と拡大を旨とします。
多と一の文化が対照的です。
(キリスト教はミトラとゾロアスター派生です。ユダヤ教派生ではありません。「救世主」の概念があまりにも違いすぎますから連続性がありません。
ユダヤ教の救世主〔メシア〕=現世あるいは俗世での有能な指導者。
キリスト教の救世主〔クリスタス〕=超常の存在。
油を注がれたユダヤの王という政治的指導者がユダヤ教のメシアです。
超常の救い主という意味なら正にミトラ教のミトラです。最後の晩餐、最後の審判、最終戦争などなど皆ミトラ教が先です。黙示録はもろにゾロアスター教の教典『アベスター』が元ネタ です.
神との契約はミトラが最初です。ユダヤ教をオリジナルだと嘘流しまくっているのはキリスト教が自分がミトラのパクリだと知られたくないからです。イランのミトラ神は契約の神です)

・最初期の道教はシャーマニズムとも呼べるものであり、「鬼道」でした。鬼道が一応のまとまりを見せたのは、紀元前七世紀の頃でしょう。
 「巫」は巫術であり、鬼道であり、シャーマニズムだ。いわゆる「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国の卑弥呼が「鬼道」を担当しています。
 鬼道の道教を整合性のある論理で教義の体系を整える動きが出てきたのは二世紀半ば、後漢の順帝の頃です。道教が実質的に成立するのはこの後漢の末期=三世紀頃です。「三張道教」(三張=五斗米道という教団をおこした張梁(チョウリョウ)・張衡(チョウコウ)・張魯(チョウロ))と呼ばれました。この頃、道教に大きな思想的影響を与えたのが、いわゆる三玄の哲学であり、老子、荘子の「道」の哲学と易経の「神」(「カミ」ではなく「シン」ですね)の哲学でした。道教が老荘哲学を大きくとり込んでできた道教を、「神道」の道教といいます。道教が鬼道から神道に変貌し、三張道教として教団の組織を整えていった頃、後漢に曹操という軍事の天才が出現し、三張道教の最後の統率者、張魯と戦って決定的な勝利を収めます。戦いに敗れた張魯は江西の龍虎山に逃げ込み、三張道教は外界の接触を絶たれて、山中の隠道宗教となります。この反体制的な三張道教に代って江南の茅山(ぼうざん)に新しく皇帝権力と妥協する体制内的な茅山道教が成立します。茅山道教を創始した陶弘景(とうこうけい)は皇帝のブレーンであり、「道教は神道」だと主張しました。茅山道教は仏教や儒教の影響を強く受け、そのエッセンスを採り入れたもので、鬼道から神道に展開した道教が更に新しく展開し「真道の道教」と言われるものになりました。
 そして教義の体系を整え、教団としてのまとまりも出てきたところで、主に仏教側からの厳しい攻撃に晒されます。それは道教が不老長寿とか羽化登仙(羽が生え仙人となり昇天すること。酒に酔って気分がよくなること)とか自利の個人的な救済だけを問題にして、仏教のように捨身捨命(しゃしんしゃみょう)の利他行を説かず、衆生済度(「衆生」は全ての生き物。「済度」は迷う衆生を悟りの境地に導くこと)の菩薩道を実践しようとしない、と。この批判に対して、道教の側は理論武装を展開し、衆生済度の考え方を採り入れました。衆生済度と同義の「度人(どじん)」や「救苦(きゅうく)」を教典名とする道教教典が大量につくられることになりました。これが「聖道」の道教です。これが七~八世紀、我国の古事記神話が成文化される頃までの道教の歴史であり、鬼道→神道→真道→聖道、この四段階の発展を経ているのが道教です。

・中国文化を大雑把に書き手の福永流に整理すると、北の馬の文化と、南の船の文化に大別できる。「南船北馬」とう言葉が元ネタの区分けであり、紀元前2世紀半ばの『淮南子』(えなんじ)に基づく。。中国大陸の南は川が多いので船が用いられ、北は山が多く、馬をよく用いたことから来ています。とはいえ、
北=馬=騎馬民族=儒教が強い傾向、
南=船=農耕や漁労民族=道教が強い傾向、
と綺麗に分かれることは勿論なく両者は重層的に混ざっていますのであくまで傾向が強いと捉えて下さい(単一民族なんてものは幻想ですよ。日本でも、鎖国=単なる外交政策)。

・いわゆる魏志倭人伝に鬼道(道教が混ざっているだろう)を行う卑弥呼が出て来るように、弥生時代から既に道教の影響がうかがわれます。『古事記』にも道教の影響が見られます。製作企画者が初代「天皇」天武という道教家ですから当然ですけどね。完成したのは天武天皇没後ですけど。
『古事記』に道教の影響があることを主張していたら、書き手の福永さんは、日本神道のある高名な研究者から大たわけと面罵されたことがあるそうです。道教の影響を認めなかったのです。思想にオリジナルは存在せず、必ず影響を受けた元ネタがあることは思想研究の常識なのですが、一体この神道研究者は何を研究していたのでしょうか。江戸末期以降の神道に偽装した和風キリスト教=国家神道=天皇一神教、の太鼓持ちになる研究? まあ、道教研究者は支配者層には都合が悪いですわな。
日ユ同祖論者(なんでキリスト教くさいの?←喧伝した酒井勝軍はクリスチャン)は神道に一番似ている道教を無視します。
道教の経典を正確に読める学者って少ないことも、支配者層には都合がいいですね。万世一系なんて嘘ですから。今は四代目ですね。

・天皇は道教の最高神にして、星信仰の最高神。天皇=北極星。
紀元前3世紀、戦国時代の終わりごろから「天皇大帝」というかたちで使われるようになり、それが日本に入ってきました。初代「天皇大帝」天武は道教家ですよ。

古事記の神話の部分は特に濃密に道教の言葉で書かれています。
・『老子』(第42章)には(要約すると)
道は一を生じ、(一元気)
一は二を生じ、(陰陽二気)
二は三を生じ、(和気)
三は万物を生ず。
とあります。
「一」=「元気」(大元の気)=「一元気」=一体になったもの、カオス状態のもの。

※元気=すべてのものの生成の根源。今でもいい意味で使われます。

万物の生成の根源たるカオスの「(一)元気」から、男性原理の「陽の気」と女性原理の「陰の気」の二つが分かれます。これが「陰陽二気」で「二」によって象徴されます。次に陰陽二気が交わって陰気でも陽気でもなく陽気でも陰気でもある第三の「和気」を生じます。この「和気」を示すのが「三」です。この「三」=「和気」か万物が生じるというのです。これが老荘思想、そして万物生成の根本的な考え方です。儒教や仏教はすべての現象を形而上の(≒抽象的な)「理」で捉え説明しますから「理の哲学」と言えます。対して道教は「気の哲学」と言えるでしょう。宇宙空間を満たしている大気の流れと人間の生命の営みである呼吸、気息を同じものと捉え、この気の流れによってすべての現象を説明するのです。
そこから一元気から陰陽二気が生じ、陰陽二気が交わって和気となり、その和気から万物が生成するという考え方が出て来るわけです。
これら陰気と陽気と和気の三気を神格化して道教では「三気の尊神」と言い、世界はその「三気の尊神」から始まるとしています。五世紀頃に成立した道教の経典『九天生神経』にそう書かれています。
『古事記』冒頭あたりでは、天地開闢の際に「高天原」に最初に出現した神が天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)であるとしています。その後、高御産巣日神、神産巣日神が現れ、すぐに姿を隠したとしています。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)といいます。実は、道教経典の記録には、「高天、天原もしくは皇天原に神がいます」という趣旨のことが書いていて、これが古事記の「高天原」の元ネタであり、この三柱の神々は道教での「三気の尊神」が元ネタでしょう。
古事記はその後、次々と生まれて来る神々の名をあげるわけですが、そのときの国の状態を「国稚(わか)く浮かべる脂(あぶら)の如くして、くらげなすただよえる時」と描写している。そこにイザナキとイザナギが天の沼矛を突き立てて、矛からしたたり落ちたしずくがオノゴロジマになったと古事記は続けます。この「浮かべる脂の如くして、くらげなすただよえる」という描写は、道教の錬金術(錬丹術。科学の源流)の経典『周易参同契(しゅうえきさんどうけい)』にある表現とそっくりなのです。
 冒頭だけでも類似点が見られること、天武天皇が道教家であることを考えると間違いなく元祖日本思想とされる古事記ですら道教思想が色濃いことがわかります。「元祖」なんて思想は厳密には存在しないんですけどね。
陰気と陽気と和気の三つの気だろうがなんだろうが擬人化(擬神化)してしまうのが人の性なのです。

・死んだイザナミに会いにイザナギが黄泉の国に行く神話で、イザナギはイザナミに驚き(見るな→絶対に見る はお約束)、桃子三箇(もものみみつ)を投げつけて鬼の追跡を振り切り、黄泉の国から逃げ切ります。この鬼を撃退するために桃子三箇を投げつけるというのも、道教の文献『漢武帝内伝』の辟邪(へきじゃ)に桃実三箇を用いた西王母(せいおうぼ)の故事に基づきます。
実は桃太郎も道教の桃で魔よけすることと、日本版道教の陰陽道の方角思想に基づきます。陰陽道では東北=丑寅の方角は鬼門で不吉です(中国では東北は別に不吉ではありませんので陰陽道特有です)。
牛の角+虎皮の腰巻の鬼(東北)
VS
厄除けの桃+東北と或る程度反対側の申・酉・戌。

道教における桃で魔を払う思想を反映したイザナギの桃投げの後、イザナギは川の水で穢れを払うために目を洗います。すると、洗った目から天照と月読命、鼻から(なんか嫌ですね)スサノオが生まれます(それって単なる汚れ以下略)。それは道教のしきたりそのままです。道教の経典『黄素四十四方経』に死体を見たら目を洗ってみそぎをすることが書かれています。更に同じ経典『業報因縁経』(ごうほういんねんきょう)(生神品。せいしんぼん)に左右の目が日月となるというふうに書かれています。月との対比や文字遣いから天照は太陽神でしょう。
日本書紀ではアマテラスを「阿姉(あねのみこと)」と呼んで明確に女性神にしていますが、古事記にはそのような女性と明確に規定する描写はなく、機織りは女性の特権であり男性は手を出さない(出せない)ものでしたから女性としています。
(疑問。アマテラスは天岩戸神話で、女の裸踊りでおびき出されたけど、女相手にやるのかなあ)

太陽は女性であるとするのは船の文化であり、道教の考え方です。『老子』の「天道」(お天道さん)を万物の母とする思想に基づきます。紅一点や紅白では紅が女性あるいは女性のイメージです。
逆に、馬の文化では太陽は男性です。日本では太陽は赤のイメージですよね。船の文化では赤は女性を象徴します。
なお、英語sunは代名詞にはheとitを使うので男性で、日の出と日没はredですが、日中は通例yellowかgoldenです。moonは代名詞にsheとitを使うので女性で、日本では黄色ですが、西洋ではsilverです。
英語では太陽は日中は黄色か金色で男性。月は黄色で女性。

・『楚辞』に代表される古代楚の国の船の文化では紫は最も神聖な色、高貴な色とされています。それを踏まえ、道教の経典にもそう記述されていてそれが皇室に入っています。604年に聖徳太子(便宜的にそう呼んでおきます。厩と耳が良いよりミトラでしょうけど※)が制定したとされる六色十二階の冠位や孝徳天皇のときに制定された七色十三階の冠位では紫色の服を着るのは最上位の官吏だけとされています。ウィキでは色つきの表があってわかりやすいです。
これは直接的には隋の時代に「五品以上は通じて紫袍(ほう)を着けしめた」(『隋書』礼儀志)に基づくのですが、更に遡ると、春秋時代の斉の桓(かん)公が「好んで紫衣を服し、その値段が白絹の五倍になった」(『韓非子』外儲説(がいちょせつ))に基づくとわかります。日本では紫の袈裟が高級とされているのは道教の影響ですよ。
しかし儒教の祖とされる孔子では逆に紫は良くない色です。「紫の朱を奪うを悪(にく)む」(『論語』陽貨篇)より紫は儒教では卑しい色とされています。

・北極星の神格化である天皇大帝は剣と鏡の二種を象徴として持ちます。天皇崇拝は星崇拝であり太陽崇拝ではありません。日本の皇室でももともとは二種の神器でした。『日本書紀』、『養老令』、『古語拾遺』などによると神器は鏡と剣の二種になっています。玉は後に加えられたものなのです。鏡と剣を聖なる権威の象徴とする思想は道教のものです。6世紀、梁の時代の、日本思想でも極めて重要な道教の天師である陶弘景が道教において鏡と剣が重要だと記述しています。更に
7~8世紀の唐代の道教の天師、司馬承禎(しば・しょうてい、643- 735年※)が『含象剣鑑図(がんしょうけんかんず)』の中で鏡と剣の道教における重要性を詳細に論じています。道教において鏡と剣に二種の神器が玉を加えて三種の神器となるのは、初期の三張道教など国家権力との武力闘争をも辞さない反体制の宗教としての道教が、江南の上清派(じょうせいは)茅山道教のように皇帝権力と妥協し皇室における道教思想の影響を確立しようとする体制内宗教に転向して、道教の最高神(天皇大帝)が玉清天(ぎょくせいてん)に住む玉帝(ぎょくてい)と呼ばれるようになる5世紀ごろからのことです。
三種の神器のうち鏡は道教の「道」のシンボル、剣は破邪の霊威を表し、玉は円満の徳を表すとされますが、日本では多くの場合勾玉に替えられ、『日本書紀』仲哀紀(ちゅうあいき)の記述によれば、鏡は山川海原を分明(あきらか)に看行(みそなわ)す明智、剣は天下を平らげる勇武、勾玉は曲妙に宇内を統御する聖徳のシンボルとされています。なお、「曲妙」は、『老子』(第二十二章)の「曲なれば則(すなわ)ち全(まった)し」を踏まえています。

・日本の古典で「神道」が初出するのは『日本書紀』で第三十一代用明天皇について、「仏法を信じ、神道を尊ぶ」のくだりです。用明天皇は、仏教を高句麗僧の慧慈〔えじ〕から学び統治に採用した厩戸皇子の父ですから、仏教を信仰するのは当然だと言えます。この「神道」という言葉は、「神道の道教」としての「道教」かもしれません
(でもこの時点ではすでに「聖道」と名乗った仏教に対抗して道教側も「聖道」だと言ったりしています。道教が自身を呼ぶ名が「鬼道」・「神道」・「真道」・「聖道」と四つあるわけです。「鬼道」は卑弥呼の例でわかるように馬鹿にした表現ですから使えません。 道教が盛んな唐の王室も読むのだから、道教を格下扱いと捉えかねない表現は使わないはず。倭国時代からの土着の信仰=神道と当てたのでは? 「聖道」という言葉を使っても仏法と対比しているから明確に「仏教以外の宗教」の意味になります。そもそも道教と日本土着の素朴な信仰が混ざったものを「神道」と表現した?)。

※ネストリウス派キリスト教はペルシャ経由なのでミトラの影響があると考えます。
“八紘一宇=ワンワールドの和訳。
景教は波斯経由なので密特拉の影響があると考えます。千の耳を有するミトラ=豊聡耳皇子(厩戸皇子)。ミトラを隠す為にイエスキリスト=聖徳太子説を流布。ミトラなのにキリスト教が塗り替えた例が多そうです。”
私のツイッターより。

”『カミと青銅の迷路 清張通史3』 P.118-119  毘沙門は漢語に意訳されるときは多聞となるが、これはもし毘沙門がミトラならば容易に説明がつく。すなわちアベスターによればミトラは千の耳をもつ(多くを聞く)神だからである。さらに四天王の毘沙門以外の三天王も、それがミトラの分身であるならば、漢語の訳名はきわめて無雑作にその意義がわかる。すなわちミトラは万の眼をもつ神(広目天)であり、国家を護持する神(持国天)であり、生長を司る神(増長天)であって、三天王はそれぞれの徳をいいあらわしている。四天王像が多く光背をもち、ことに毘沙門が光塔をもつのも拝火教の遺物ではなかろうか。
 およそこうまでぴたりとあてはまるのは決して偶然ではない。西城から中国に輸入された毘沙門天信仰は、外形は仏教だが、その内容にはたぶんにイラン色がある

※この元ネタは、宮崎市定氏の説(『毘沙門天信仰の東漸に就て』『アジア史研究第二』所収)で、上記はあくまで、それを松本清張氏が要約したものの一部。
 つまり、毘沙門天を始めする四天王は、それぞれ以下の通り、ミトラの神徳を表わしたものだと言うものです。

    ○多聞天  ・・・ 千の耳を持つ(多くを聞く)神
    ○広目天  ・・・ 万の眼を持つ神
    
    ○持国天  ・・・ 国家を護持する神
    ○増長天  ・・・ 生長を司る神

 なお、ゾロアスター教においてミトラは、天光の神であり、正義、契約、盟約、真実を司るとされており、また、死者を裁く裁神や、戦いの神、そして、家畜や住居をはじめとする多くの富を与える神であるともされています。

 この説に関して、実際にゾロアスター教の経典『アヴェスタ』を見てみましょう。

「『アヴェスタ』 ミフル・ヤシュト」 第2節7-8
 ミスラ、広き牧地の主を我らは祭る
 正しき言葉を語り、雄弁なる者、
 千の耳を有し、美事なる姿の者、
 万の眼を持つ、丈高き者、
 遥けく見晴らす、強気者、
 眠らざる者にして、常に目覚めたる彼を。

 彼を、戦場におもむく領主たちは祭る
 戦う両国の間にて陣を敷く、血に飢えたる敵に向かい。

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(注)「ミスラ」はミトラのこと。また、最初の7行は、ミトラについて歌われる際の常套句の一つ。


 多聞天が「千の耳を有し」で、広目天が「万の眼を持つ」。そして、持国天が、後半部分の「戦場におもむく領主たち」が祭り、戦勝を祈願する戦神の姿であると言えるでしょう。他国との戦いに勝つことは、国を維持することに繋がります。(※ミトラを戦いの神として讃える箇所は他にも多数有り)

 最後に、増長天です。上で引用した説では「成長を司る神」でしたが、それを明確に示唆する記載は『アヴェスタ』で見つけることができませんでした。
 あげるとしたら、次の記載でしょうか。

「『アヴェスタ』 ミフル・ヤシュト」 第1節4  
 彼の富と光輝により、我は彼を祭る
 聞き届けらるべき祭りをもって、
 ザオスラをもって、広き牧地の主ミスラを。
 ミスラ、広き牧地の主を我らは祭る。
 アーリアの民に平和なる快き住居を与える彼を。

--------------------------------------------------------------------------------
(注)「ザオスラ」とは、ゾロアスター教の教祖ザラスシュトラのこと。


 これも、ミトラを讃える時の常套句の一つですが、「広き牧地の主」とあります。これは、家畜を無事、成長させ、増やしてくれる神と捉えることができるでしょう。
 ちなみに、増長天の梵名は「ヴィルーダカ」で「成長・増大したもの」と言う意味です。


 さて、毘沙門天、及び、それを含む四天王の正体がミトラであるとするのなら、パルティア、アルメニアの両王国で信仰されていたゾロアスター教では、世界の終末にはミトラ神が到来して正義の復権を行うとされていました。

 また、未来に下生して人々を救済するとされる弥勒菩薩の梵名マイトレーヤは、ミトラと語源が同じで「契約」を意味し、弥勒信仰には、ミトラ崇拝が影響を与えたと言われています

七福神と『ヨハネの黙示録』(その4) - 全ては古事記の中に
http://kojiki.imawamukashi.com/j01kosatu/7hukujin04.html

※司馬承禎(しば・しょうてい、643- 735年)は、唐の玄宗の時の著名な道士。茅山派・第12代宗師で、天台山に住んでいた。
721年に玄宗皇帝から宮中に招待され、帝に親しく法籙(道士としての資格)を授けた。天台山に桐柏観と王屋山に陽台観を、そして五嶽に真君祠を建立したのは承禎の進言によるらしい。
737年に道士を諫議大夫という大役に任命し、741年には崇玄学という道教の学校を設置し、その卒業生が科挙の及第者と同等に官吏となれるようにするなど、玄宗に対する承禎の影響力から、いかに道教が唐の政治に影響したかが分かります。

・日本死――変換間違いです――、もとい日本史を学ぶと道教の「ど」の字も出てきません(どう考えても意図的)が、少なくとも七世紀の後半、斉明・天智・天武(初代天皇)・持統の時代の日本は道教の時代だったと言えるのではないかと福永さんは考えています。
斉明天皇は女帝であり、舒明天皇(641年没。彼含め、飛鳥時代の天皇稜が八角形なのは道教の影響だと指摘されています)の皇后でした。舒明天皇の死後に皇極天皇として皇位につき、同母弟の孝徳天皇に譲位するのですが、その孝徳天皇が亡くなられたので、再び斉明天皇として即位しました。
(孝徳天皇も道教色が強いそうです)
 六五四年に飛鳥板蓋宮で斉明天皇は重祚しました。その翌年、斉明天皇は一年間に三つも宮を建てています。後飛鳥岡本宮、吉野宮、そして「狂心の渠」(たぶれこころのみぞ)で知られる両槻宮(ふたつきのみや)を造営します。後飛鳥岡本宮の造営は、以前の飛鳥板蓋宮が前年火事にあったためだそうです。宮の造営のために必要な石材を運ぶために家具山と石上山の間に運河を掘りました。相当大掛かりだったらしく、この大工事に呆れて当時の人々は「狂心の渠」(たぶれこころのみぞ)と呼んだと日本書紀にあります。
岡本宮は政治の中心施設となります。既に政治の中心施設は造っているのに更に両槻宮(ふたつきのみや)を造ったのですが一体なんだろうというのが学界でも長い間問題でした。
日本書紀の「両槻樹の辺に於て観を起す」の「観」を道教の楼観だろうと考えているのは福永さんだけではなく、大正時代に既に歴史学者の黒板勝美(エスペラント語大好きな南朝崇拝者で、古代資料を南朝に都合よく改竄したかもしれない人。女のアマテラスが女の裸踊り見るのかな?)が指摘しています。作家の松本清張も論じています。道教を日本史から排除する支配者層の意向のせいで本来すぐ解決されるはずの問題が解決しなくなっています。斉明天皇も道教を熱心に信仰していたと考えられます。彼女は皇極天皇だった時代に南淵の河上で四方拝の儀式という、もともと道教の儀式を行っていることからも分ります。

・道教は仏教のように死後のこと、あの世のことをうるさくいいません。不老長生を願い目標とするのは現世を長く生きるためであり、人間も現世も肯定するのが道教です。

・道教には錬金術(錬丹術。当時の科学あるいは魔法・魔術)と健康法や医術の経典が沢山あります。西洋の錬金術(当時の科学。キリスト教にとっては科学=悪魔。あるいは魔法・魔術。魔法や魔術もキリスト教にとっては悪魔)は金を得るためです。金自体は創れなくても、金メッキ=外から見れば金になったように見える、の技術は発達したはずです。対して、道教の練丹術(錬金術)は不老長寿のために医薬品を作り出すのが目的です。とはいえ、東西問わず、不老不死の薬の研究はしているますけどね。
不老不死を馬鹿にしてはいけません。当時の技術力はあなたが思っている以上ですよ。例えば、始皇帝の墓からクロムメッキされた形状記憶合金が見つかっています。古代史って古代史(笑)なのでしょう。

・称徳天皇(女帝)は弓削の道鏡(坊さん)に病気を治してもらうなどしてこの坊さんに傾倒します。仏教にも道教が混ざっていますから坊さんの道鏡も道教思想の影響があります。それどころか道教は医学も研究していますから道鏡がその技術を持っていてもおかしくありません。坊さんは当時のインテリですからね。鏡は道鏡のシンボルです。そして「道鏡」という二字の漢語もまた、道教の盛行した北魏王朝の皇帝を讃える言葉としてすでに五世紀の後半ころから用いられています(『北斉書』)から、道鏡とはすごく道教的な名前なのです。西洋のキリスト教のように他の宗教を悪魔と呼んで攻撃するのとは違い、用明天皇が仏法と「神道」(道教と土着の信仰の混ざったものでしょう)をあわせて信仰していたことからわかるように、日本でも中国でも複数の宗教を信仰するのは不思議でもなんでもありません。アジア文化の本質はミックスとコンビネーションだからです。朝廷の姿勢的には仏教優位ですけど。神仏習合するけど仏が上。
道鏡が皇位につくのを阻止したのが和気清麻呂です。この「和気」は道教由来でしょう。「一元気」から「陰陽の二気」を生じ、この二気が交わって「和気」となり、その「和気」から万物が生じるという道教の言葉です。

天武天皇が定めた八色の姓の最高位は「真人」=道教の真理の体得者、であり、後漢の時代には皇帝を指す意味でも使われていました。『日本書紀』では天皇と同義語で使われていますし、事実、真人の姓は皇族にしか与えられていません。天武天皇の和風(国風)諡号は天渟中原真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱、方丈)のことです。
八色の姓(やくさのかばね。天武天皇が684年(天武13)制定)
①真人(まひと)←皇族用。道教家が目指す目標にして、道(タオ)の体現者。

②朝臣(あそみ・あそん)③宿禰(すくね)④忌寸(いみき)
⑤道師(みちのし)←道師は道教の集団の指導者のこと。

⑥臣(おみ)⑦連(むらじ)⑧稲置(いなぎ)

・古墳の形には前方後円墳、円墳、方墳がありますが八角形の古墳もあり、八角形は道教の影響です。この八角形の古墳は
七世紀後半から八世紀初頭にかけて飛鳥の地に集中的に現われ、すぐに消えてしまいます。いずれも天皇陵だろうとされています。
実は、天皇陵は蒲生君平の『山陵志』などを参考にして明治になってから比定(同質のものがないとき他に類似のものと比較してそれがどういうものであるかを推定すること)もので、学問的には不正確なものがほとんどのようです。
しかし確実だという天皇陵が、天武・持統天皇合葬陵です。記録と考古学的所見が合致するのです。また、天智天皇陵もほぼ間違いないでしょう。これらの陵墓が八角形なのです。
中尾山古墳と牽牛子(けんごし)塚古墳も八角形です。中尾山古墳は文武天皇陵、牽牛子(けんごし)塚古墳は斉明天皇陵だとする説が有力です。そしてこれ以前にも以後にも、つまりは空前絶後、八角形の天皇陵はないといわれています。皇統は斉明→天智→天武→持統→文武と続いていてこの五代の天皇が八角形の墳墓に葬られているのです。道教では宇宙の形を八角形で表現します。八角形は宇宙の象徴です。七世紀後半から八世紀初頭の天皇陵墓に八角形が採用されたのは、これらの天皇の事跡と考えると道教が強く影響しています。
 古代史が大揺れに揺れた壬申の乱前後の日本は道教(仏教混じり)の時代だったのですよ。
ヤタノカガミについてですが、鎌倉時代の文献『神道五部書』によれば八角形だと考えられますからやはり道教からきたものでしょう。鏡は道教で大変重視しますからね(ヘブライ語なんで書いていませんよ。漢字ならあり得ますけど)。八角形の鏡の系譜をたどると朝鮮半島の楽浪古墳からも出土しています。これは一世紀にできたもので、道教思想から作られたものでしょう。
天皇という称号も皇位の象徴も道教由来であり日本神道なんて無関係ですよ!

・平安時代の『延喜式』に載っている祝詞で、大祓で読まれたものがあり、「皇天上帝」「三極大君」「東王父」、「西王母」(不老長寿の薬を持っているそうです)という道教で重視される神々に向けてもいるのです。

・秋田の「なまはげ」行事は道教が色濃いです。仙台の七夕祭りは道教の星祭りがモチーフです。七夕には道教の星信仰と陰陽五行思想に基づきます。陰陽五行思想は道教がこの世界の構成を捉える基本的な考え方で、道教に限らず中国の哲学思想を理解するのに必須のものです。なお陰に悪い意味はありません。陰も陽もお互いを必要としているのです。陰陽二気の二と五行の五を足して七。七月七日は男性原理の陽気と女性原理の陰気がクロスする日だとしたのが七夕です。

・三十六歌仙に見られるように、「三十六」は道教で重要な数字です。道教は一年を三百六十日とします。陰陽二気の二で割って百八十。陰陽五行の五で割って三十六となるので、三十六が道教の基本数字となったのです。ある数字にこだわるのは宗教の特徴です。一年の最初の月である一月の真ん中、つまり陰暦の一月十五日を、道教では上元(じょうげん)といいます。日本では一月一日が重視されたので上元気を祝う祭りはあまり行われません。が、中国では今も一年の最初の祭りとして陰暦一月十五日に上元祭が盛大に行われます。そして、一年の半分が過ぎ、陽性原理が陰性原理に代わった最初の月である陰暦七月の真ん中、七月十五日が中元です。あの有名なお中元です。昔、京都の御所では中元祭が重要な行事でした。民間では仏教の盂蘭盆会(輪廻思想無視なので本来は仏教行事ではありません)と混同され、そのなかに収まっていったようです。中元に贈り物をする習慣は江戸時代から流行り出したものです。
秋の実りの月である陰暦十月の真ん中、十月十五日が下元です。昔は秋の村祭りが下元あたりに集中して全国で盛大に行われたものです。
陰暦十月を出雲の国だけが神在月と呼び、その他では神無月と呼ばれるのは道教(『黄庭経』第十四章「万神、下元<十月十五日>に<道君に>朝す」に基づきます。また、出雲大社の神在祭が陰暦十月十五日を含む前後一週間で行われるのも、このとき熊野大社の鑽火殿(さんかでん)で行われる「歯固め」の儀式なども道教(「叩歯」こうし の儀式)に基づきます。
(神無月の「神」は雷だと考えております。「神」の左側=祭壇、右側=雷、ですから。というか、神様が一カ月も不在ってまずいですよね)
(36=6の2乗=6×6=6+6+6+6+6+6。6が6つ)

・日本人は意識せずに独特のしゃがむ文化を継承しています。地面に座らずにしゃがむ姿勢がそうです。道端でしゃがんで世間話したりします。このしゃがむ姿勢は欧米人には大変奇異に映るそうです。
中国でも北部の馬の文化の方ではあまりしゃがむ姿勢はとらずに腰をぺたっと床や地面につけてしまう姿勢の方が多いです。しゃがむ姿勢は日本だけでなく、中国南部の船の文化の人も好んでこの姿勢をとりますし、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、タイといった東南アジアの人々をとります。これらは船の文化が広がっている地域であり、同時に道教の色彩が濃い地域でもあります。しゃがむ文化は船の文化であり道教に結びついています。
「倭人」とは背が低くて前かがみで数人が集まるとしゃがむ習慣を持っている人という意味です。

・『理趣経』(りしゅきょう)は、真言宗でも秘中の秘とされている経典で滅多に読経されません。読経するとしても一般衆生にわからぬように中国語、それも南方中国の呉音で読むのは、セックス賛美の箇所、セックスで味わうエクスタシーは菩薩の境地であると書いてあるからです。
実際、セックスは強烈なパワーを得られるからこそ、支配者が抑圧するのです。特に十代の女の子のセックスこそが超絶パワーを生むのですが、だからこそキリスト教などを利用して抑圧管理するのです。

『理趣経』(正式名称は『般若波羅蜜多理趣品』)を経典とする真言宗の超異端派が立川流(真言立川流)です。骸骨本尊とセックスを重視します。驚くべきことに南朝の後醍醐天皇が採用しました。

真言宗+陰陽道(日本版道教)+アンチ仏教=真言立川流

真言立川流は、真言宗の僧の最高位である阿闍梨(あじゃり)にまでなった仁寛が、武蔵国立川出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会ったことで生まれたそうです。
立川流の奥義を学んだ文観は後醍醐天皇の護持僧になります。北朝側の仏教への対抗のためですね。

(大衆のセックスを抑圧しているのが支配者。セックスで得られる力は強大過ぎるからです。キリスト教を利用して、特に女性のセックスを抑圧し管理しています。実際は、女性こそがセックスにより超常の力を得やすいのですよ。
処女最高ってキリスト教のマリア崇拝から来ているのですよ。「アイドルは処女神話」はキリスト教が作ったものです。夜這い制度を破壊して大衆が性によるパワーを得られなくしたのがキリスト教ですよ。
 英雄色を好むという言葉は、色により強烈なパワーを得られることを英雄が知っていて実践していたってことですよ。宗教と性の抑圧がセットなのは管理支配の為。セックスを管理される生き物とは家畜のことです。人口管理。更に詳しくは、
魔龍さんの『魔法入門カバラ~真を見抜く秘法』性愛カテゴリ
http://magicaldragon.blog.fc2.com/blog-category-4.html
をお読みくださいお願いします。
ちなみに、立川市が舞台で陰陽師が主人公の敵陣営として登場するアニメが、ズヴィズダーですね。全体的に女性優位で一つ目でロシアなお話。

本書について最大の感想は、
「天皇という称号も皇位の象徴も道教由来であり日本神道なんて無関係ですよ!道教を無視した日本史なんて意味なさすぎ!」ですね。
フリーメーソン・銀行と明治維新、天皇すりかえ、国家神道は和風キリスト教等々は江戸末期あたりからですが、古代史で道教と高句麗を無視しちゃいけません。歴史の根幹がごっそり抜けているのが教科書であります。歴史書は勝者が作る
↑じゃあどこが捏造されたり、大したことしてないのに大人物のように書かれていたり、重要人物なのに書いてなかったり大したことしていないように書かれたりしているのか教えて下さいよ先生
↑それが指摘できる人はねそもそも教師にならないんだよ。

子子子子子「私に任せなさい」

【神道】 高橋俊隆
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index202.htm
“天皇と真人を中心とする天上の神仙世界を説く道教のことを、中国では古くから「神道」と呼んでいます。「神道」という言葉は『易経』や『太平経』『晋書』に見られ、中国の方がはるかに歴史をもっています。(福永光司稿「天皇と真人」『道教と古代の天皇制』所収二六頁)。この古い文献としては『易経』の「観」の卦の「彖伝」(たんでん)にあります。彖伝というのは、『易経』の六十四卦の意味を解説したもので、「観」の卦の彖伝には、「盥(てあら)いて薦(すす)めず、孚(まこと)有りて、顒若(うやうや)し。下観て化するなり。天の神道に観て四時忒(たが)わず、聖人は神道を以って教を設けて天下服す」とあります。天下の太平と天地の太和の実現を天上世界の皇帝である「天皇」と結びつけて、『易経』よりもさらに徹底して「神道」を強調したのは、二世紀の半ばに天神から神書として干吉に授与された『太平清領書』(『太平経』)一七〇巻です。ここに、「身神を染習して心意を正し、蔵匿すること無きを得れば・・神道来り・・清明見(あら)はる」とあります。また、「神道」という言葉は「神(あや)しき道」という意味で、日本の神道観念とは性質が異なるといいます。神道以前の神道を古神道といいますが、ほかに純神道・原始神道などと呼ばれるように、概念規定が明白ではありません。そこで、原神道という呼び方ができました。(三橋健著『神道』四六頁)。

日本の文献に神道の言葉がでてくるのは『日本書紀』です。第三一代用命天皇(橘豊日。在位五八五~五八七年)の即位前紀と、第三六代孝徳天皇(天萬豊日。在位六四五~六五四年)の即位前紀です。用明天皇即位前紀に、「天皇(すめらみこと)、仏法(ほとけのみのり)を信(う)けたまひ、神道(かみのみち)を尊びたまふ」(天皇は仏教を信仰され、神道を尊重された)。また、孝徳天皇即位前紀に、「天皇・・・仏法を尊び、神道を軽(あなずり)たまふ。生国魂社の樹を駒(き)りたまふ類、是なり。人と為(な)り、柔仁(めぐみ)ましまして儒(はかせ)を好みたまふ」(天皇は仏教を信仰され、神道を軽視した)とあります。ここにうかがえるのは、仏教への信仰が深まっていますが、神社の信仰が天皇統治に深く関わっていたことです。孝徳天皇は大化の改新のときの皇極天皇です。「惟神」も『後漢書』穏逸伝などに「惟神の常道」とでています。つまり、神道という言葉の由来は道教にあるということです。ただし、当時においての神道とは、固有の神々や神事のことであり、教えをふくむ神道となるのは一二世紀末のことです。推古天皇一〇(六〇二)年に百済僧の観勒らが、歴本・天文・遁甲方術の書を伝えます。第三四代舒明天皇(在位六二九~六四一年)の一四(六四〇)年ころに、南淵請安、高向玄理や留学生により、これらの学問が急速に浸透します。天智二(六六三)年に「白村江の戦い」により百済が滅亡し、九月に日本軍は百済の遺民とともに帰国します。そして、諡号を天渟中原瀛真人天皇とする天武天皇は、道教の知識をもって国家としての神道を整えます。すなわち、現在、呼称される神道が確立しました。”

皇統は斉明→天智→天武→持統→文武と続いていてこの五代の天皇が八角形(道教式)の墳墓に葬られています。
皇極天皇=斉明天皇。皇極天皇は645年に弟の孝徳天皇に譲位。655年に皇極天皇は斉明天皇と名を変えて再び皇位につきます。

斉明天皇と道教
http://www.asuka-tobira.com/saimei/doukyo.htm※画像が多いので直接読んで下さい。お願いします。


飛鳥時代の道教文化
http://www.ab.auone-net.jp/~koinyawa/taoism.html
“推古9年(601)、百済の僧観勒が暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上したと記録されています。これが本格的な道教文化伝来だったようです。
日本に宗教としての道教は定着しませんでしたが、道教の背景にある天文学や歴法、占いなどの当時の最新の学問や手法、そして仙人を理想とする神仙思想(老荘思想)などは日本に受け入れられ定着していきました。
特に飛鳥時代は道教文化を受け入れた凌明期であり、最盛期でもあったように見えます。

飛鳥時代の怪異
日本書紀には飛鳥時代の道教的な神仙的な怪異譚がいくつか載っています。この当時には仏教が導入されていますが、抽象的で分かりにくい仏教よりも具体的で分かり易い道教の思想が受け入れられたのだと思います。
片岡の飢者:尸解仙の話が聖徳太子の聖人譚として記載されています。
蘇我蝦夷の霊:青い笠の怪人が龍に乗って葛城嶺から生駒山へと移動。
朝倉山の鬼:斉明天皇の葬儀を見ていた朝倉山の鬼。
役小角:修験道の祖。文武3年(699)に伊豆に配流されています。
(参考)古代怨霊の真相

斉明天皇の両槻宮:道教寺院
斉明天皇は、656年に多武峰(とうのみね)に両槻宮(ふたつきのみや)を造営しています。この宮は道観と呼ばれる道教寺院であったようです。おそらく、古代における、記録されている唯一の道教寺院です。
この寺院がどの程度利用されたか不明ですが、ここへは持統天皇が693年と696年に行幸しています。また、文武天皇が大宝2年(702)に修繕したとの記録があります。
また、斉明天皇は土木工事が好きだったようです。香具山の西から石上山にいたる水路を造り、石を運搬して工事を行ったようです。そうして造ったのが酒船石遺跡であろうと言われています。そして、この酒船石遺跡が両槻宮にも関連する設備だとの説もあります。利用方法の不明な酒船石遺跡は道教関連の設備だったのかもしれません。
後述しますが斉明天皇は雨乞いのために四方拝を行っています。おそらく道教の影響で行った儀式です。

天武天皇と道教文化
天武天皇の即位前記に、天皇は「天文・遁甲に能(よ)し」と書かれています。壬申の乱(672)の際に黒雲が天に渡るのを見て陰陽道の道具を使い天皇が自ら占っています。また、天皇号は天武天皇のころに定められたようです。道教の北辰信仰の天皇大帝から取ったとも言われています。
天武4年(675)に占星台(天文台)を始めて造ったとの記録がありますから本格的に道教文化が定着したのは、この頃のようです。正式な官僚組織に陰陽寮も設けられています


八角形の天皇稜
飛鳥時代の天皇稜には八角形をしたものが多くあります。これは、道教の影響ではないでしょうか。おそらく、この時代だけの流行です。
 舒明天皇稜(段ノ塚古墳)  舒明天皇:641年没
 斉明天皇稜(牽牛子塚古墳) 斉明天皇:661年没
 天智天皇稜(御廟野古墳)  天智天皇:671年没
 天武天皇稜(野口王墓古墳) 天武天皇:686年没
 持統天皇稜(野口王墓古墳) 持統天皇:702年没
 文武天皇稜(中尾山古墳)  文武天皇:707年没


八角形の廟
また、飛鳥時代から奈良時代の寺の堂で八角形の建物があります。これも、道教の影響を思わせます。おそらくは誰かの霊を祀る廟として建立されています。

法隆寺夢殿
天平11年(739)に行信が建立しました。光明皇后の寄進があったようです。聖徳太子の霊廟です。

法隆寺西円堂
光明皇后の母で藤原不比等の橘夫人の発願で養老2年(718)に行基が建立したと伝えられています。誰を祀ったものか不明ですが、これも霊廟だったのではないでしょうか。

興福寺北円堂
藤原不比等の死後一周忌の養老5年(721)に元明太上天皇と元正天皇によって建てられた八角円堂です。

その他
八角堂は、この時代以降も建築されています。
栄山寺八角堂:天平宝字年間(757~765)の建立。
興福寺南円堂:引仁4年(813)建立。
(参考)横浜媽祖廟と横浜関帝廟

現代の日本にも、中国の民間信仰としての道教的な廟がありますが、それらもやはり八角形を基本としています。
横浜媽祖廟では、八角形の建物の中に媽祖や玉皇上帝が祀られています。また、横浜関帝廟は、建物こそは八角形ではありませんが、八角形の天井が組んであります。

高松塚古墳とキトラ古墳の壁画
装飾古墳として有名な高松塚古墳とキトラ古墳は700年頃に築造された古墳です。被葬者は皇族あるいは貴族だと考えられています。
この古墳内部には壁画が描かれていますが、その内容は中国的、道教的な題材です。ここには仏教的な要素も神道的な要素もありません。
なお、墳丘は残念ながら八角形ではなく、2段の円錐台になっているようです。
四神
東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武が四方の壁の中央に描かれています。
日輪と月輪
東側の上方には日輪、西側の上方には月輪が有ります。日輪の内部には八咫烏が、月輪の内部には桂樹とウサギとカエルが描かれています。
天文図
天井には天文図が描かれています。中央が北極になっており28宿の星座が表現されています。
十二支像
キトラ古墳には四方の壁の下方に十二支像が描かれています。顔が動物で身体が人間の十二支像です。
人物群像
高松塚古墳では十二支像がなく、代わりに人物群像が描いてあります。これから被葬者と散歩にでも出かけるような男女が4人ずつ左右の壁の4ヶ所に描かれています。

四神相応の地
始めての本格的な都である藤原京(遷都694年)や平城京(遷都710年)を造るにあたって風水を重んじたのは言うまでもありません。
天武13年(681)に藤原京の造営の地を観るために陰陽師や工匠を含む調査団を派遣しています。持統6年(692)には藤原京の地鎮祭を行っています。この時には伊勢・大倭・住吉・紀伊の神に幣を奉っています。都の地を定めるために陰陽師により風水を占ってはいますが、地鎮祭では伝統的な日本の神を祀っているようです。
和銅元年(708)に元明天皇は、平城京が四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)相応の地であり大和三山が鎮めをなしていると言っています。また、亀甲や筮竹による占いを行ったことも述べています

朝賀の儀式の幢幡
文武天皇の大宝元年(701)の朝賀の儀式で、正面に烏形幢、左側に日像・青龍・朱雀の幡、右側に月像・玄武・白虎の幡を立てたとあります。
烏形幢は蓮華座の上に銅製の三本足の烏(八咫烏)を据えて七筋の玉飾りを垂らした物のようです。当然、日像には八咫烏が、月像には桂樹とウサギとカエルが描かれていたと思われます。
ただし、例年このような幢幡を立てたかどうかは不明です。この年に限った稀なことなので記録されているのかもしれません。
四方拝
皇極天皇は642年に、雨乞いのため南淵の河上で四方を拝み、天を仰いで祈っています。
時代は下りますが天平宝字元年(757)の「橘奈良麻呂の変」の際に、橘奈良麻呂や安宿王、黄文王などが夜中に庭に集まり、天地と四方を礼拝し、共に塩汁をすすり合って誓ったとあります。
四方拝は、元々は道教的な呪文を唱える儀式のようですが、形を変えて現在も皇室に受け継がれているようです。

陰陽師と呪禁師
陰陽師(おんみょうじ)は中務省陰陽寮に所属し天文・暦・気象観測などを掌ったようです。天武4年(675)に占星台(天文台)を始めて造ったとの記録があります。もちろん藤原京や平城京を造るにあたっては陰陽師が風水を占っていました。
呪禁師(じゅごんし)は宮内省典薬寮に所属し道教系の呪術で身体の安全を守ることを掌ったようです。典薬寮ですから医療の一環としてまじないなどを行ったようです。持統5年(691)に呪禁博士に銀20両を賜ったとの記録があります。”


古代信仰と道教/道教の神観念
http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/77/7725/772504.htm
“〈道教の教理から移入された神
 『万葉集』巻十九の四二六〇番において大伴家持は,
 「大君オホキミは神にしませば赤駒の腹ばふ田居を京都ミヤコとなしつ」
歌っておりますが,大君である天武天皇が神であるとされていますその「神」とは,同じく天武天皇の崩御が「龍駕登仙」と表現され,また道教の蓬莱神山に住む神仙世界の高級官僚を意味する「瀛真人オキノマヒト」の語が天武天皇の諡オクリナとされていることからも強く示唆されているように,道教の「神仙」の「神」若しくは「神人」の「神」と重なり合うような意味内容を持つ「神」ではないかと考えられるのです。この歌に続く作者不詳の四二六一番の歌,
 「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼ミヌマを都と成しつ」
の「神」も,また全く同様に考えることができます。
 次に柿本人麻呂の
 「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬イホリせるかも」(同巻三の二三五番)
の歌の「神」についても,同じく人麻呂の草壁皇子の挽歌(同巻二の一六七番)に
 「神の命ミコトと天雲の八重かき分けて神下クダし、いませまつりし高照らす日の皇子ミコ」
若しくは
 「天の原、石門イハトを開き神上り、上りいましぬ我が大君、皇子の尊ミコト」
とある「神」と同じく,道教における天上の神仙世界に住む「神仙」若しくは「神人」の「神」と重なり合う意味内容を顕著に持つと解釈されます。因みにこの草壁クサカベ皇子の挽歌の中の「天雲」及び「天原」の漢語は,5世紀に中国の六朝時代に,道教の宗教哲学用語「霊運」を自己の名前とし,幼少時代は道教の寺院に預けられて養育された(『詩品』巻上)という宋の謝霊運の「祖徳を述ぶる詩」に「高情は天雲に属す」,また北魏の『水経注』河水の条にも,漢代の天を祭る聖地の名前として「皇天原」を載せています。
 更にまた同巻三の二四一番反歌
 「皇オホキミは神にしませば、真木マキの立つ荒山中に海を成すかも」
についてこの「おほきみ」は皇子の「皇」であり,詞書にも明記されていますように天武の皇子の長皇子を指します。そして「大君は神にしませば」の「大君(王)」が同じく天武の皇子である弓削ユゲ皇子を指す置始東人の
 「王ホオキミは神にしませば天雲の五百重イホヘの下に隠りたまひぬ」
の歌の「天雲」という漢語は,道教の神仙と親縁関係を持つ言葉です。この歌の本歌である
 「ひさかたの天宮アマツミヤに神ながら神といませば」
「天宮テンキュウ」という漢語も,また中国六朝時代に成立した道教教典の中に,神仙の棲む天上世界の宮殿を意味して「天宮に飛昇す」などと用いられているのです。天武の皇子であるこの弓削皇子の挽歌に歌われている「天宮に神ながら神といませば」の「神といます」「神」こそ,中国における道教の「神仙」の面影イメージで「おほきみ」としての弓削皇子の薨去コウキョ - 昇天 - を歌ったものと断定して大過ないでしょう。
 
〈神人と現人神〉
 道教の「神仙」は,原則として天上世界を住居としますが,地上の世界に住む人間と結び付け一体化する思考を生むようになりますと,その結び付きなり一体化なりを最も端的に示しているのは,神仙と共に道教の重要な神学用語である「神人」という言葉(「神仙」の「仙」もまた山の字に人扁が付いているように本来的には「人」です。)です。道教の神学でいわゆる神人は,人であると同時に神である,神であると同時に人であるという存在です。しかし,この神人という言葉の原義は,中国の道教的な古典哲学書である『荘子』の用例からも知られるように,「神のような人」即ち人間が修行努力することによって超越的な存在である「神」の境地に到達し得たものということで,「神」と「人」とのうち,基礎はあくまで「人」にあります。 それに対してインドの仏教系の神と人とを結び付け一体化する考え方が,漢魏の頃インド・シルクロードを経由して中国に持ち込まれて来ました。例えばこの頃の漢訳仏典『維摩経』などに出てくる「色人シキシン(人)として現れる薩摩(神)」の思想がそれであり,この場合の「人」と「神」とのうち「神」に重点が置かれています。神が人の形を執って現れるというものです。日本の古典信仰で云えば,葛城カツラギの神だとか賀茂カモの神だとか,元々神である存在が一次的に人間の姿を借りてこの世に現れてくるという考え方で,そういった神と人若しくは人と神の結び付きの関係,一体化の方向もある訳です。
 人間が努力して神の境地に到達する,若しくは神そのものになるという「神人」の考
え方と,神の方が逆に人間の姿を借りてこの世に現れてきて,いろいろなことを説いた
り教えたりするという「現人神」の考え方の二つがある訳ですが,『万葉集』において
「大君は神にしませば」と歌われている場合の「神」というのは,一応道教の方の「神
人」の系列の「神」と観た方が良いのではないでしょうか

 
現人神は仏教思想
 神と人との関係を中心ににした日本の古代信仰を考える場合,縦軸の方向は暫く措くとして,横軸の方向においてこの問題を考えて行きますと,「神」の思想と信仰は大きく分けて二つの系列に整理できるように思います。道教的な「神人」の思想信仰の方向と,インド仏教的な「現人神アラヒトガミ」の思想信仰の方向とです。「現人神」の「現」という漢字の用法を中国の古典で調べてみますと,仏教の入る以前には「現」という字を「神」とか「人」とかを結び付けて熟語とした中国語の使い方は殆ど見当たりません。つまり「人」として現れた神,即ち「現人神」の言葉と思想的信仰は仏教系漢語乃至仏教系列の思想信仰ということになります
 ところで,『日本書紀』や『続日本紀』など漢文で書かれた日本の古代文献を観ますと,「明神御宇日本天皇(『日本書紀』孝徳紀)」,「明神御宇日本倭根子天皇アキツミカミトアメノシタシラスヤマトネコノスメラミコト(同前),「明神大八州所知倭根子天皇(『続日本紀』天平宝字元年)などのように,「天皇」と結合して「明神」の語が用いられていますが,この「明神アキツカミ」というのは,中国の道教系の「神」即ち「神人」の系列に属する「神」であると観られます。即ち明々の威徳を道教的な神である天皇,例えば天武天皇のように最終的には神仙世界である「瀛州」の「真人」とも成り得る道教的な神,『万葉集』に「大君は神にしあれば」と歌われている「神」としての天皇を意味します。
 これに対して『日本書紀(雄略紀)』において,葛城の神が狩猟をしている雄略天皇のところに現れて,
 わたしは「現人アラヒト之神」即ち「人の姿を借りて現れた神である」
と云われますが,この場合の「現人」ははっきりと仏教系漢語です。また同じく『日本書紀(孝徳紀)』の「現為明神御八嶋国天皇」即ち「現れて明神と為り八嶋国ヤシマクニを御シロシめす天皇」の「現」の字や,『続日本紀(文武元年)』の「現御神止大八島国所知天皇」即ち「御神と現れて大八島国をば知ろしめす天皇」の「現」の字も同様です。
 なお,前記において引用した雄略天皇と問答をしている「現人之神」としての葛城の神について,この神は『日本書紀』の漢文に拠りますと,「長人」即ち「一事主神ヒトコトヌシノカミ」とも呼ばれている「仙(神仙)」の如き「人」として示現しており,「現人」の「人」が同じく先に引用しました孝徳紀の「現れて明神と為る」に相当します。そして,これによっても「明神」という言葉が本来,仏教の「現人神」とは異なる道教系の漢語であり,従って「現為明神」の天皇即ち「現れて明神となる」若しくは「明神として示現し」,この大八嶋国を治めている天皇という言い方は,「明神」の天皇よりも後次的であるということになります
 以上,日本古代の天武持統期における「神」の観念乃至思想信仰を,主として『日本書紀』の天武紀・持統紀の宗教関係の記述と『万葉集』の「大君は神にしませば」などの歌を中心に,筆者は検討を加えてみました。
 結論として日本古代における「神」の思想信仰に関しては,「神人(「明神」)」の語によって代表される道教系のそれと,「現人神」の語によって代表される仏教系のそれとの,二つの流れがあり,天武持統期における「神」の観念乃至思想信仰には,道教系のそれが顕著に優勢である,と考えられるのです。”

現人神すら仏教由来の可能性があります。「神道」に体系だった思想はありませんし(アンチ仏教勢力が中世以降作りますけど)。

天武天皇と翼
http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter1-16.html
“天武天皇が蘇我氏とも鳥とも切り離せない事は、他の記事からも推定できます。
 天智十年(671年)十月十七日に近江の宮で大王が重態になった時に、皇位継承を断った大海人皇子は、古人大兄皇子が行ったのと同じ所作で、内裏の仏殿の南に出るとひげや髪を剃って、沙門(ほうし)の姿になりました。そして十九日に「吉野に入って佛道修行をしたい」と申し入れて、すぐに出発しました。
 近江から菟道(うじ)(京都府宇治市)まで大臣たちの見送りを受けたあと、皇子の一行は大王から追討の兵を出されるかもしれない恐怖心からか途中の待ち伏せを恐れたためか、およそ(元)皇族とは思えない速度で逃げて、その日の夕方にはなんと飛鳥に着いています。そしてようやく落ち着いて宿泊したのが、蘇我馬子の館だった嶋宮でした。
 都が近江に移っても旧都(飛鳥)には朝廷の留守司が置かれていましたし、嶋宮は恐らく蘇我氏かゆかりの氏族が管理していたと考えられます。大海人皇子はそこを目指して、まるで途中に安心して休める場所がなかったかのように急いだのです。
 大海人皇子の宇治から嶋宮まで辿った道が推測されており、通説の陸路では異常な早さでほとんど休まずに駆け続けたことになります。
 しかし本論では、宇治から木津川のどこかの地点に出て船でゆるやかな川を上り、現在の木津川市(奈良市の北側)で降りて、あとを陸路を馬で走った、と推理します。数十名とはいえ、讃良皇女(のちの持統天皇)も女官たちもいたわけですから、これが一番無理がなく危険性が少ない上に、時間的にも説明がつきます。これが最も納得できる行程です。
 しかし、これには条件があります。事前に船、馬と輿の準備がなされていなければできなかったということです。吉野から脱出して挙兵した時も同様で、『紀』は急いで出発したように記していますが、その時に皇子はすでに準備を終わらせていて、実行の指示をしたものと考えられています。従って、吉野隠遁の準備は、天智大王が病に伏せた直後か、それより前だった可能性も十分に考えられるのです。

 大海人皇子はその八ヵ月後に吉野から美濃に逃れ、挙兵して「壬申の乱」に勝利を収めたのですが、その帰路は近江経由ではなく、本営を置いた野上(関ヶ原)から挙兵に走った道を逆にたどって、飛鳥を目指しました。そして飛鳥で最初の宿泊場所に選んだのが、またしても嶋宮でした。皇子たちも脱出した近江京には、何の未練もなかったのです。
 分家と係累が多かった蘇我氏は、「壬申の乱」の時には大友皇子側と大海人皇子側に分かれて戦っていますが、大海人皇子が蘇我氏の本拠地である飛鳥を頼りにしていたことは明らかであり、飛鳥の蘇我氏と他の氏族が大海人皇子を守っていたことも見えてきます。
 そして天皇になった大海人皇子は、五年(676年)の正月に嶋宮で宴を行っています。
 天武天皇には嶋宮との、そしてそれを建てた馬子との、断ち切れない因縁が感じられます。
 また天皇は難波と信濃に行宮(あんぐう)を設けようとしましたが、吉野宮(宮滝遺跡)を訪れた以外は、飛鳥を安住の地として一度も外部に出ていません。天武天皇が道教思想に基づいて大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)の中心に計画して持統天皇の代になって完成した藤原京は、手狭になった飛鳥京を移転するためでしたが、その地も飛鳥の北西部です。

 天武天皇が崩御したのは十五年(686年)の九月で、その二ヶ月前に天皇の病気回復を祈って、年号が「朱鳥」と改元されました。朱鳥は道教の四霊獣神(四神)の一で、よみがえりの地と考えられた南方を守る朱雀(すざく)のことであり、天武天皇が信奉した道教の思想に拠ったものです。
 朱雀はまた吉兆を示す鳳凰であり、仏教では極楽に住む迦陵頻伽(かりょうびんが)とも結び付きます。その形の元には、大鷲があったように思われます。
 尚、現在のところ古墳の壁画で朱雀が描かれたことを確認できるのは、天武天皇の皇子または側近が葬られたと思われるキトラ古墳(明日香村)だけです。本論トップページの写真がそれです。
 ところで、『紀』に記されていない年号「白鳳」が、寺社の縁起書や一部の史書に見られます。これを天智期から天武期とする説があり、天武期の一部とする説もありますが、孝徳大王が改元した「白雉」が白鳳(はくほう)の別呼称だったとみるのが妥当だと思われます。
 そうなると、孝徳大王は生國魂神社(いくくにたまじんじゃ。大阪市天王寺区)の森の木を切った程度で、「神々の祭りを軽んじられた」と記されるほどではなかったことになります。
 持統期になって、都が飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)から北飛鳥の藤原京に移されました。その新都は天武天皇が道教の方位学や地勢学、現代風に言えば風水に基づいて場所を定めて、前漢・隋・唐の都だった長安を模して造営された、壮大な計画都市でした。その規模はおよそ5.3km(十里)四方だったと推定されていますので、面積でいえば平城京も平安京も上回るものでした。
 宮は京のほぼ中心に位置して、宮から真南に伸びた大路の出口に朱雀門が設けられ、その延長線上に、天武・持統合葬陵(野口王墓)が設営されています。ちなみに、青木御陵とも言われるその陵は、他の治定陵と違って、明治13年(1880年)に発見された『阿不幾乃山陵記』(あおきのさんりょうき)という十三世紀の書物によって、現在埋葬者が確定している唯一の古代陵で、八角墳です。石室には大理石の切石が貼られていたと考えられています。
 『阿不幾乃山陵記』には、天武天皇の脛の骨の長さは1尺6寸(48cm)、肘の長さが1尺4寸(42cm)あったと記されていることから、身長はおよそ175cmあったと考えられています。当時としてはかなり大柄だったのです。
 「八」は道教で宇宙や全世界を現した数字でした。、『記』の序文に「天武天皇、天統を得て八荒(はっこう)を包みたまう」という文があり、『紀』では「神武紀」に「八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)となす」という表現があります。八荒=八紘は八角形に想定された「世界」の意味で、わが国が引き起こした太平洋戦争において、「八紘一宇」という侵略のスローガンに用いられました。
 各大王に国内で取れためずらしい物が献上されましたが、天武天皇に対しては鳥類が非常に多いのが目に付きます。その年月は省略しますが、次のものが記されています。----白い雉(備後)、めずらしい鶏(大倭国)、白い鷹(東国)、赤いカラス(筑紫)、白い鵄(とび)(近江)、白い巫鳥(しとと。アオジの類)(摂津)、白い茅鵄(いいどよ。フクロウ)(伊勢)、三つ足の雀(筑紫)、四本足の鶏(倭国)。
 新羅からの献上品には、鸚鵡(オウム)と鵲(カササギ)の記述もあります。ラバやラクダも献上されています。
 その他の物では、天武二年(673年)に対馬からわが国で初めて採取された銀、芝草(しそう。薬草)、めずらしい稲、めずらしい鹿の角、赤い亀、大きな鐘、白い海石榴(ツバキ。椿)、信濃国の図、十二の角がある子牛、といったものです。
 天武六年に筑紫から赤い烏が献上された時には、天皇は大宰府の役人たちに賜物を下し、烏を捕まえた人に爵位を与え、その郡の百姓には課役を一年免除して全国に大赦を行うという、喜びを現しています。よみがえりの色の赤と鳥に対する天皇の意識が、強く現れています。
 そして「天武紀」(下巻)には、鳥についての不明記事も何度か出てきます。----「めんどりがおすに変わった」、「臘子鳥(あとり)が天を覆って飛んだ」、「数百の鶴が大宮(浄御原宮)の方角に向かって空高く飛んだ」です。
 「あとり」については、欽明大王と堅塩媛(馬子の姉)との間にうまれた皇子の一人に、臘嘴鳥(あとり)の名があります。この鳥はスズメより少し大きめの小鳥で、わが国には越冬のために北から飛来する渡り鳥だとされています。
 しかし、天武天皇が鳥を珍重したことよりも、他の者たちが天武天皇を鳥と切り離せないと見ていたことが、もっと重要な記事に示されています。----吉野に隠遁する大海人皇子を菟道まで送ったあと、誰かが「虎に翼を着けて放つようなものだ」と言った、と『紀』が記したことです。
 これは単に風に翻る皇子の袈裟を見て形容したことばではなく、皇子が持っていた荒々しさを伏せた慎重な性格を暗示しており、獲物を狙う虎に鷹のような翼を与えて野に放ってしまった、と不安を漏らして表現したことばだった、と感じさせるのです。
 天武の性格と乱を予兆させるその重大なことばが、実際に発せられたにしても創作だったにしても、『紀』はその表現によって、天武天皇が爪でも牙でもなく「翼」に関係する者だったことを隠さずに、出自を暗示するために残したように考えられるのです。”


八角形の建物と道教
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/c04afe8bd68e086426b243bbb829fe31
“◎天武天皇から後醍醐天皇

八角形の建物と言えば、周易の八卦あるいは風水を意識したものだから道教のものだろうという説になる。木造建築は、火災、兵火であまり残っていないのだが、有名どころでは、徒然草の吉田兼好ゆかりの京都吉田神社の大元宮がまず道観だろうという話になる。

そして八角墳。7世紀中頃から8世紀初頭まで、舒明天皇陵の段ノ塚古墳、天智天皇陵の御廟野古墳、天武・持統合葬陵の野口王墓古墳、文武天皇陵の中尾山古墳のように、天皇陵は八角墳(封禅書では八角形の壇上で天子が天を祀る)となった。道教に傾倒したと思われるのはまずは天武天皇だが、この世紀は、前後の天皇を含め、実はずっと道教メインだった可能性が疑われる。
時代は下って、白河天皇の御代に、代々の天皇の尊崇を受けた京都白河の法勝寺に1083年に高さ約80メートルとされる八角九重塔が建立され、京都じゅうからよく見えたが、1208年)にこの塔が落雷で焼失。このときは栄西が大勧進になって再建した。これは今は残っていないもの

奈良吉野の金峯山寺は、後醍醐天皇が一時身を寄せていたあたりだが、ここになぜか八角の建築がある。それが八角三重塔で、後醍醐天皇の南朝時の住まいがあった場所に、建てられたものとされる。

八角は、皇室のシンボルである菊花紋16弁の元ではあり、また道教独自のものであるとは言えないところがある。というのは地水火風の4大のそれぞれに、陰陽ないし表裏などのサブディレクトリーを設ければ8になるだけのことだからである。ただし、日本の建築土木の八角ものの由来を考えると、どうしても道教、それも道教を国教とした唐の影響に思い当らざるを得ないのである。

後醍醐天皇は、時代が飛ぶので、吉野に依った動機が何かあったのだろうと思う。”

日本の道教政権の時代
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/a275b2c0ff5ce3e41f7616227d763cdc
“◎八角形の古墳・鏡・神社

福永光司説では、斉明・天智・天武・持統天皇(655-697)の時代は、天皇の事蹟において、道教の影響が強いとされる。

その根拠として、
1.斉明天皇は、奈良県多武峰に垣を巡らして、2本の槻の樹のほとりに、道観を建立した(両槻宮)(日本書紀)。
2.八角形の古墳は飛鳥地方に7世紀後半か8世紀初頭にかけてあらわれ、天武・持統合葬陵や、文武天皇陵とされる中尾山古墳と斉明天皇陵とされる牽牛子塚古墳が八角形となっている。八角形は道教の宇宙の象徴である。

672年の壬申の乱で、唐の影響力の強い政権が日本に誕生した可能性が高いが、唐は道教優勢の国家であったことから、早速に日本でも道教を国教としようとした運動の名残がこうしたものに残っているのではないだろうか。

このような性急な宗教政策は、明治維新の廃仏毀釈が仏教側の巻き返しによって結局徹底できなかったように、この時代でも成功しなかった。この当時は、日本には仏教が入ったばかりの頃であったが、日本人の宗教感覚が、道教の一本道の土着化を許さなかったということだろう。

八咫の鏡も八角鏡(神道五部書:鎌倉時代)だというし、京都の吉田神社なんかは、時代が下がって室町時代の吉田神道によって成るものだが、八角形の本殿に六角の後房とこれまた道教的ではあるが、八角が道教の専売特許かといえば、クンダリーニ・ヨーガでは、宗派共通のシンボルも勿論あろうが、人類共通レベルのシンボルもあろうから、八角をもって道教と決めつけるのもやや弱いのではないかと思う。

神仏習合のように当時流行の宗派は相互に影響を与え合うのが日本の宗派共存の主流なのとだから、ここは古神道、道教、仏教が相互に影響を与え合った中で、結局道教が民衆レベルにまで根付くことはなかったと見たい。”


天武・持統陵に午後立ち入り 奈良、八角5段の墳丘 鎌倉時代には盗掘被害
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140221/wlf14022110260001-n1.htm
“2014.2.21 10:18

(引用元では画像)
奈良県明日香村の天武・持統天皇合葬陵

 宮内庁が管理する奈良県明日香村の天武・持統天皇合葬陵(7世紀後半)に21日、日本考古学協会など考古学、歴史学関係の15団体の研究者が立ち入り、墳丘の様子などを観察した。

 陵墓は宮内庁が立ち入りを制限し、これまで外部研究者による調査は行われていないが、同庁は昨年、合葬陵の構造について天皇陵固有とされる「八角形墳」で5段築成と結論付ける論文を発表。昭和25年以降の調査結果などから、最下段の一辺は約15メートル、全体の高さは約7・7メートル、凝灰岩の切り石で覆われ「仏塔のようだったと推測される」と報告した。
 宮内庁管理の陵墓には被葬者に論争があるものが多いが、今回の合葬墓は鎌倉時代に盗掘されて内部の詳細な記録が残されており、研究者の間でも天武、持統両天皇が埋葬されたとみる説が強い。

 天武天皇は壬申の乱に勝利した後、673年に飛鳥で即位。天武、持統天皇は律令国家形成の基盤を造った。

 研究者団体は陵墓の研究や保存のためとして、平成17年に近畿にある陵墓への立ち入り許可を宮内庁に申請。これまで邪馬台国の女王卑弥呼の墓説もある箸墓古墳(奈良県桜井市)などを調査してきた。”

神社のお札やお守りが1年しか持たない理由
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-559.html
神道のお札の文化がそもそも中国道教由来なのか?という疑問が
まずありますが、

かなり高い確率で中国道教が元ネタ
だと
思われます。

というのは、フェイド大帝は社家(神社の子息)でもないし、神職
ではないですが、神職が神道の学校(宮司とかの資格を取るための学校)
とかで使う”教科書”を実は持っていたりします。(笑)
マニアックな本屋に行けば売っていたりします。
市の図書館とかには余り置いてないみたいですね。
まぁ、神道関係の教科書よりも仏教の僧侶用の
教科書の方が入手しづらいんですけどね、実際は。
で、その神職用の教科書にお札の由来とか作り方とか
が書いてあるわけです。

正直言って大した内容は書いてありません。
(そりゃ明治以降の寄せ集め宗教だからねぇ......)
恐らく中国道教由来であると書かれているだけです。(笑)

お札に思いっきり”急々如律令”と書いてある。(
笑)

(漢字が違うのは知っている。日本語のフォント変換だと出てこないだけだ。
 漢字が分からないわけじゃない)

この”急々如律令”という文言は道教特有(陰陽道も使うけど)の
文言で”天帝のお墨付きですよ。ちゃっちゃっと取り掛かって下さい”
という意味で、元々中国の皇帝の出す勅令の文章の末文から
コピーして来た文句
です。
だから仏教系のサンスクリットで書いてあるお札にはこの文言は
つきません。
逆に道教の霊符には佛という仏教の”仏”という文字を入れる場合が
あります。これは仏教から仏様を道教側がパクったわけですね。
元々、仏教が中国に伝わったばかりの中国では道教自体が原始的
な宗教から抜け出しきれておらず、仏教の方がずっと教義が
高度だったのです。
つまり現代の台湾や中国の道教教義というのはかなり後世に
なってできた物なのです。最初から高度な老荘思想とかを
含んでいたわけではありません


というわけで神道の教科書のお札の例に”急々如律令”と
書かれているということはほぼ100%中国道教由来

考えて良いわけです。
ただ、問題はこのお札の開眼(仏教用語だが要は魂入れのこと)
方法が中国道教のやり方じゃないことです。
2chのスレでレスに書いてあった

”宮司が祈祷してカーッとやる方法”

がその本には書いてありました......

はっきり言ってそれじゃ効果ないです......
(道教の観点からという意味で)

ちなみに横浜の馬姐廟だかでオバちゃんが
やっている線香の煙にお札をまぶす方法も間違いです。

これは完全にいいかげんチャイナのオバちゃんにカモられているね。

フェイド大帝は中国道教の正一教(張陵の系譜)、茅山派、閭山派、
という超メジャー流派のお札の作り方のマニュアルを持っていますが
”線香の煙にまぶすだけ”という方法は存在しません。
(尤も他の流派は良く知らないけど)
実際は気功で体の中を浄化したり、禹歩を踏んだりとか
やたらと手順が複雑に出来ています。

後、2chで出ていた木製のお札についてですが、
これの起源について説明しましょう。
(2chでは誰も知らないみたいだったので)

これは元々、中国でお札というのは桃の樹の木片
に書いて使っていたからです。
桃というのは魔除けの木としても有名ですね。
桃太郎の鬼退治というのもここから来ているわけです。
じゃ、なぜ桃の木に魔除けの効果があるのかというと、
古代中国では北東に日本でいう”鬼門”という霊界とこの世を
繋ぐ出入り口があったと信じられていました。
で、その”鬼門”のすぐ側にでかい桃の木が生えていたわけです。
この桃の木には二人の門番が見張りをしていました。
この二人が現代の中国の門神の元ネタです。
この門番達は悪霊(中国では”鬼”と呼ぶ)が悪さをしようと
この世に入ってこようとすると、桃の樹の枝を切り取って
ツタ状にして捕り縄として使っていたのです。

桃の樹のロープで悪霊=鬼を縛り上げていたわけですね。

だから桃の樹には悪霊をとっちめるパワーがあると
信じられる様になったのです。

で、この故事を基に二人の門番の似顔絵を玄関の門の左右の扉に描く
風習が中国で広まったのです。
この門の扉が”木”で出来ていたので

この木の板に門神の絵を描く=魔除けのお札がお札の起源になったわけです。


↑中国の門神

昔の中国の聖職者というのは修行をしたり、金丹を作るための
材料を取るために良く山の中に入りました。
昔の山ですから、毒蛇だとか、トラだとか危険が一杯あったわけです。
で、魔除け/厄よけとしてお札を携帯するようになったのですが
門の扉を担いで山を登るのは大変ですよね?(笑)
そういうわけでお札はどんどん小さくなって腰帯に
木の板を巻き付ける様に変わっていったわけです。

ところで何で絵を描いたお札に魔除けの効果があるのか?

その理屈は何か?

確かにお札は桃の木で出来ていますが、門神が使っていたロープ状
ではなくただの板っ切れです。
こんな物にビビる悪霊はいません。

実はこの板っ切れに描いてある”門神”が重要なのです。

これは要するに

悪霊に対して”俺は怖い友達を沢山知っているんだぞ!”と
アピールしているのです。

”俺は身内にヤ○ザがいるんだぞ!”、”政治家の偉い先生を知っているんだぞ!”
と同じ理屈です。(笑)

これがお札の理屈です。(笑)

で、紙が発明されてからはお札もだんだん木材から
紙へと変わっていったわけです。

これがお札の起源の話です。

次はなぜ神道ではお札を毎年替えないといけないのかについて。

お札とは別の構造なのですが、中国道教には日本の
”呪いの藁人形”のような呪物を製作する技術があります。

この系統の呪術というのは何をやっているのかと言うと
人形の中に悪霊を封じ込めて使役しているわけです。
元々、悪霊とか生霊というのは本来霊界にいないと
行けないのですが、時々、人間でいう”不良”みたいな
やつが居て、この世にちょっかいを出すために稀に
やって来る浮遊霊のようなのがいるわけです。
で、こういう霊というのは姿が見えないので人に気付かれず
に悪戯をしたり取り憑いたりして害を及ぼす特殊能力を
持っているのです。
で、流石中国人というべきなのですが、この悪霊を
”利用”する方法を考えたわけです。
悪霊というのはその辺に浮かんでいたりするのですが
藁人形が一種のトラップとして作用して、この悪霊を
人形の中に封印して閉じ込めてしまう技術があります。
閉じ込められた悪霊は自由に身動きが取れませんし、自分で
”食物”を摂取することもできなくなります。
従って、完全に術者に飼われている状態になるわけです。
ですので、

呪いの藁人形は実は食事を与えないと餓死して
効果が無くなってしまいます。

こういうの陰陽道じゃ教えないでしょ?

人形にどうやって食事を与えるかというと、
お供え物をするわけです。
これを一般的に”供養”と呼びます。
ヒンドゥー教では”バリ”と呼びます。
ですのでお盆で果物とかをお供えするのは
先祖の霊に食事を与えているわけです。

で、ここで食事の量だとかをコントロールすることによって
悪霊を無理矢理、術者の命令に従わせることができるのです。
悪霊が言う事を聞かなかったら、孫悟空の冠の様に
悪霊に”体罰”を与える呪術とかもあります。

つまり中国式は暴力で従わせているってこと。

まぁ、この悪霊自体も元はチンピラ気質なので、
自分より強い暴力には弱いのでしょう。

で、こういう悪霊を呪う相手にけしかけてダメージを
与えるのが”呪いの藁人形”の本当のメカニズムなのです。

ちなみにここが重要なのですが、

悪霊というのは基本的に”死霊”です。

つまり元々は人間だったり、動物だったりするわけです。

中国では人や動物が死ぬと、”鬼(グイ)”と呼ばれる”死霊”になるのです。
普通はそのまま霊界に行って成仏するのですが、
死霊にも個人差があって素直に成仏しない奴がいるんですね。
こういうのが道士等の呪術師に利用されるわけです。

で、なんでこんな話をしたのかというと、

神道のお札はこの死霊召喚のメカニズムを
使っている可能性が高い

勘の良い方は気付かれたと思いますが、

神道の神というのは基本”死霊”です。

だから名前の後ろに”何とかの命”って付くでしょ?

あれは元は生きている人間だったわけです。

だから神道系の葬式だと仏教でいう”戒名”の代わりに
”命”という字を故人の名前に付けるわけです。

神社のお札というのは天照だったり、氏神だったり、ともかく
”何とかの命”なわけです。
だから”死霊”なんですね。
で、こいつらを紙のお札に封じ込めちゃうわけです。

だから神棚って毎日供養しろって言うでしょ?

餌を与えないと天照が餓死してしまうからね

それで、身動きの取れない天照にやれ金を増やせだとか、
恋人をつれて来いだとか、
東大に受からせろとか無茶苦茶な要求をするわけです。

日本神道エゲツない

天津神、死んでもサラリーマン

ところが、中国道教由来のこの呪術、

一個だけ落とし穴がある。

実は人形に霊を憑依させて使役する呪術ってのは

時間が経つにつれ強力になる

お守りは時間が経つとパワーダウンすると言っているそこの貴方!
逆ですよ?

古ければ古いほどお守りは強くなるんです

これは実は厄介な現象なのです。
というのも

強力になりすぎた霊は中途半端な呪術師の手に余る

術者が相当強力な霊力を持っていれば良いのですが、
神社でお守りを買って来るだけの一般人にそんな霊力も
技術もありません。

つまり、天照を長く飼いすぎるとヤバいことになる

そりゃ元が死霊なんだから報復してくるわけですよ。

つまり本来、

日本の神職はネクロマンサーなのだ

良く考えて下さい。

貴方の地元の世襲宮司に暴走した天照を抑える
霊力が備わってそうですか?

多分駄目でしょう。
神道学校で教えてませんから。

じゃ、どうするのかというと、ここも流石中国人。

実は人形に霊を憑依するときに寿命を設定する

要するに最初に人形に封じ込める時に”自決プログラム”を
組み込んでおくわけです。

寿命一年とかに設定しておけば自動的に一年経つと無害な
ただの人形に戻る様に出来ているわけです。

だから神社のお札も恐らくこのシステムを採用しているはず。

何ですって!?貴方の宮司のカーッには寿命設定の
祈祷がないですって!?

その天照、持ち続けていると危険ですよ?

今直ぐお炊き上げに行きましょう。

しかし、この理屈だと、

日本神道では毎年、天照を焼身刑に処しているわけか

こりゃ、魏の皇帝も卑弥呼は”鬼道”使いと呼んだ訳だ。”

漢文で「鬼」は「キ」であり「亡霊」って意味です。
「神道」には「墓に至る道」という意味があるように、「死のイメージ」がつきまとっております


以上です。
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