2日 愛と死の記録 上

東京新聞2017年2月26日2面:核なき世界願う原点 広島で被爆した青年とその婚約者の悲劇を描いた「愛と死の記録」(蔵原惟繕監督)は、大ヒットした「愛と死をみつめて」から2年後の1966年9月に公開された。吉永さんのライフワークである「核なき平和な世界」を目指す活動の原点になった重要な作品だが、映画の出来も素晴らしい。演出、映像、音楽、演技、どれを取っても一級品で、蔵原さんが日本のヌーベルバーグの一翼を担った監督だったことが実感できる。
だが、実は、撮影が順調にスタートしたわけではなかった。「もともと共演することが決まっていた浜田光夫さんが、撮影直前、名古屋のクラブでけんかの巻き添えになって、目に大けがをしたんです」浜田さんとは60年の「ガラスの中の少女」を皮切りに、「キューポラのある街」「愛と死をみつめて」など、計44本もの映画で共演した名コンビだった。
「2歳年上ですが、本当に仲の良い同級生という感覚でした。忙しい頃は、1年間で合わない日は数日というほど顔を合わせていましたけれど、”男性”という意識はなくて付き合っていました。昔も今も『はまやん』『さゆりちゃん』と呼び合っています」
小学生の頃から映画に出ていた浜田さんは「しっかりした演技力」を、常に安定して発揮できる俳優だった。「野球で言えば、私は直球しか投げないピッチャーで、浜田さんは非常に優秀なうまいキャッチャー。感覚的にすごく優れていて、どんな球を投げても受け止めてくれるという感じでした」浜田さんの目の傷は、その後1年間の休業を余儀なくされるほど重く、「愛と死の記録」の出演は不可能だった。製作自体が危ぶまれる状況で、日活首脳部が浜田さんの代わりに抜てきしたのが、前年、宍戸錠さん主演の「あばれ騎士道」でデビューしたばかりの渡哲也さんだった。
「東京の撮影所で衣装合わせの時に初めてごあいさつして、いい感じだなと思いました。でも、寡黙な方なので、撮影前にはほとんどしゃべることはありませんでした。パイロットを、目指していて、元々役者志望だったわけではないということや、これまでアクション映画がほとんどということを聞きましたので、今回は、私がしっかり渡さんの球を受けなきゃいけないと思いました」
8月6日の平和祈念式典など実写部分を撮影した後、8月8日に広島ロケが始まった。だが、吉永さんの広島入りは数日遅れた。日活との契約交渉が難航したせいだ。「私が20歳を過ぎた頃から、父がマネジャーを務めていました。父は私の女優としての可能性を広げようとして、松竹など他社への映画出演も認めてほしいと、日活と交渉していたのですが、うまくいかなかったんです」
吉永さんが日活に入社した60年以降、映画はテレビの進出に押され、娯楽の王様としての地位を失いつつあった。60年に10億人を突破していた映画館の年間入場者数は、66年には3億4500万人にまで減少する。映画業界全体の不安定な状況が、俳優の生き方に影を落とすことになった。
だが、作り手たちの情熱は決して失われていなかった。9月12日のクランクアップまで1ヵ月余り、吉永さんと渡さんはその熱気の中に投げ込まれる。そして、2人は、限られた時間を懸命に生きようとする若い恋人たちを見事に演じきった。(聞き手=立花珠樹・共同通信編集委員)

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