【米津玄師】心像放映の歌詞の意味を解釈・考察
心像放映の曲にまつわる情報
心臓放映は米津玄師さんの1stアルバム「diorama」に収録されている曲で、イントロから電波が飛んでいるかのようなノイズっぽい音がメロディを奏でているのが特長的な曲です。
Aメロの「心臓放映」のメロディに中毒性があり、曲を聴いた後はずっとAメロの部分が頭の中で何度も繰り返されていまいます…。
心像放映のPV
PVに関してですが、心像放映はアルバム曲でPVはありません。
PVがあれば歌詞の解説もかなりやりやすいのですが…(心像放映の歌詞を読み解くのがかなり難しい)。
無い物は仕方ないので、代わりにこちらの弾き語り動画をYouTubeからアップします!
心像放映のギターコード
ギターコードはこちら!
心像放映はAメロが伸びやかな分、ギターは割とリズミカルに弾いてもいいかもしれません。
サビは言葉数が多いので初心者は弾きながら歌うのが少し大変かもしれませんが、その場合は4拍子のカウントでストロークをして徐々に慣れていきましょう。
https://ja.chordwiki.org/amp/%E5%BF%83%E5%83%8F%E6%94%BE%E6%98%A0
心像放映のインタビュー記事
インタビュー記事はこちら!
心像放映はかなりマイナーな曲なこともあって、ほとんどインタビューでは語られていません。
そのため、こちらの記事ではdioramaのインタビュー記事を下にあげます。
・ナタリーミュージック
https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi/page/2?nosp=1
心像放映の歌詞の意味を解釈・考察
心像放映はタイトルの通り、お互い見えないはずの自分の心と相手の心を映し出し合うというコンセプトのもとストーリーが描かれた楽曲で、メロディも歌詞もどことなく儚さを感じる楽曲です。
歌詞も一筋縄では理解できないようなものになっているので、しっかり解釈していきたいと思います。
心像放映_1番Aメロ歌詞の意味・解釈
心像放映 私に心を見せてくれ
心像放映 火星の果てから声がする
心像放映 映像を夢に注いでくれ
心像放映 太陽も青く塗りつぶした
(出典: 心像放映 作詞:米津玄師 作曲:米津玄師)
心像放映は、その名のとおり心の形を映し出す映像の「像」と心臓の「臓」をかけた言葉です。
1番Aメロでは、その心の映像を自分の夢=脳内に流し込んでくれと願っています。
また、ここのパートの歌詞の特徴として火星や太陽など天球に関わる歌詞が多く出ていますね。
これはまだ推測ですが、自分と相手の距離感を表す比喩なのではないかなと思われます。
何光年離れているなどの表現もあるように、自分と相手が離れているからこそ、あなたの心を知りたいから心像放映してくれと主人公は言っているように感じます。
しかし、この推測だけだと最後にある「太陽も青く塗りつぶした」という歌詞はまだちょっと分かりにくいですね。
そこでさらに自分なりに解釈を深めて考えてみた時に、これは心像放映された結果として、日常が非日常になるという意味なのではないかなと思いました。
「あなたがいるからなんでもない毎日が楽しくなる」とよく言いますが、これと同じようなことを普通は赤いと思える太陽も青く見えるという比喩を通して表現しているのではないかなと僕は考察しています。
心像放映_1番サビ歌詞の意味・解釈
きっとまたあなたは優しくなって 私に花を贈るのだろう
それでも私はさびしくて また涙を裂いて笑うのだ
凛と澄む心が一人になって あなたと違う私を知る
がらくたみたいな心でも 何かプレゼントできるかな
(出典: 心像放映 作詞:米津玄師 作曲:米津玄師)
あなたが自分に花を送ったにもかかわらず、自分はまだ寂しくなってしまう。
やはり直接会えていないことが寂しさの原因でしょうか?ここでの涙を裂いて笑うという行動は、悲しいけど笑っているという強がりの人の証拠として捉えられます。
続く歌詞を見てみると、心のあり方が自分と相手で違うことを客観的に眺める時の”自分のある種冷めた心”を「凛と澄む」と形容しているように解釈できます。
「では、どう違うのか?」となった時に、自分はしょうもないがらくたの心であると自虐的に語りつつも、そんな自分でも何か相手にできることがあるのだろうか?と自問している様子がサビの結びとして描かれています。
心像放映、歌詞が少ない分、かなり解釈が難しいですね。。
2番Aメロ歌詞の意味・解釈
心像証明 ぼやけた魚が映るのは
心像証明 私の心の一部だろう
(出典: 心像放映 作詞:米津玄師 作曲:米津玄師)
このdioramaの初期の頃の米津さんの歌詞には魚がよく出てきますが、これは単純に米津さんが魚のことを好きだというそれだけに過ぎないかと思われます。。
恐らく魚を自分と重ねて考えているのでしょう、そんなぼやけた自分の心の一部が映像として流れて具現化したものが「ぼやけた魚」なんだと読み取ることができます。
ここの歌詞が「心像証明」となっていることにも注目です。2番に入ってからは1番とは違い、自分の心の様子を描く歌詞となっています。つまり、自分の心は自分できちんと理解できていて曖昧な部分はない(=証明できる)という解釈をすることができます。
「放映」と「証明」で韻を踏みながらもこのような細かいニュアンスを表現できる米津さんのセンスがとんでもないですね。
心像放映_2番サビ歌詞の意味・解釈
きっとまた揺れる街路樹のそばで 私の影に気付くのだろう
それでも私は嬉しくて 全てを捨て去って泣いたのだ
睫毛の下から絵の具のような 心の一部が落ちていく
きっとまだあなたは優しいんだ それじゃ私はどうだろうな
(出典: 心像放映 作詞:米津玄師 作曲:米津玄師)
街路樹から影に気づくという表現から察するに、かなり主人公と相手の距離は開いていて、本当にかすかな存在感だけでも気づいてもらえたら何事にも代えがたいくらい嬉しいという意味合いなのでしょう。
続く歌詞を見ていきます。
睫毛の下から流れるものはもちろん涙のこと。それを心の一部と言いながらも絵の具と形容しているのは少し気になりますね。
おそらく、嬉しかったり悲しかったりという感情が様々混ざり合うことが、絵の具の色と色とが混ざり合う特性と似ていることからこの比喩が出てきたのではないかなと僕は考えます。
相手が細かい気遣いをするだけで主人公がこれだけ喜んでいるところから考察しますが、もしかしたらこの曲は「いじめや不登校などで一人ぼっちになってしまった主人公」の歌なのではないかという仮説が頭をよぎりました。
いつも一人だからこそ、他の人とコミュニケーションを取りたいと無意識に思い、相手が何を考えているのか?相手は自分に気づいてくれるか?という微妙なニュアンスでのかまってちゃんな気持ちが表現された曲のように心像放映を読み解くことができるように感じます。
心像放映_ラストサビ歌詞の意味・解釈
きっとまたあなたは優しくなって 私に花を贈るのだろう
それでも私はさびしくて また涙を裂いて笑うのだ
凛と澄む心が一人になって あなたと違う私を知る
がらくたみたいな心でも 何かプレゼントできるかな
あなたと私を繋ぐように 心を映せ 古いテレビよ
(出典: 心像放映 作詞:米津玄師 作曲:米津玄師)
ここの前半部分は1番サビと全く同じ歌詞ですので、解釈は割愛させていただきます。
最後の歌詞だけ今まで出てこなかった歌詞ですが、やはり心像放映は自分と相手の心のやり取りで、それの媒介が古いテレビだったということがここの歌詞から読み取ることができます。
このテレビがなぜ古いのか?を考えると、これは相手と自分がコミュニケーションをオフラインなリアルな場面でとっていた時期から時間が経ってしまったことを婉曲的に比喩しているのではないのかな?と解釈します。
古いという言葉がつくだけで少しノスタルジックになる効果も米津さんは狙っているのではないかなと個人的には感じています。
まとめ| 心像放映の歌詞の意味を解釈・考察
心像放映の歌詞を解釈してみましたが、いかがだったでしょうか?
自分と相手の心の距離感を映像という媒体を利用して表現している名曲ですね。
こういうライブで再現するのが難しそうなdioramaの曲をいつかライブで生で聞いてみたいところです…!
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