『攻殻機動隊S.A.C』シリーズや『精霊の守り人』『東のエデン』といった映像作品の監督・脚本を手がけた神山健治さんの最新作が、『ひるね姫~知らないワタシの物語~』(以下、『ひるね姫』)だ。
2020年、東京オリンピックの3日前の日本を舞台に、自動運転という最新テクノロジーが完成間近の現実世界と、夢の中のファンタジーの世界を行き来する本作。ハード(ものづくり)とソフト(AIプログラムなどの新しい技術)の対立と融和、そして世代間の技術継承の断絶という、エンジニアにとっても身近で切実な問題が描かれている。
かつて自動車というハードで世界を席巻した日本。自動運転をはじめとするソフトウェアの重要性が高まる時代を迎えたにもかかわらず、今ひとつ存在感を示せていない現状と、本作で描かれる物語はまるで合わせ鏡のようだ。登場人物たちがそこにどんな決着を見出すのか、私たちにとっても決して他人事ではないはずだ。作品に込めた思いを神山監督に聞いた。
※注意:記事の構成上、物語の核心に触れる部分があります
あらすじ
岡山県倉敷市で、自動車整備工を営む父親と二人暮らしの森川ココネ。何の取り得もない平凡な女子高生である彼女は最近、不思議なことに同じ夢ばかり見るようになる。
そして、2020年の東京五輪3日前。突然、父親が警察に逮捕されて東京へ連行される。ココネは、父に託されたタブレット端末をめぐって次々と浮かび上がる謎を解決しようと、幼なじみのモリオとともに東京へ向かう。その道中、彼女はいつも自分が見ている夢にこそ、事態を解決する鍵があることに気づく。
ココネは夢と現実をまたいだ不思議な旅に出る。その冒険の末に見つけた真実とは……。
「ものづくり」での成功によって生まれたジレンマ
――『ひるね姫』というタイトルから想像しにくかったのですが、日本の産業が抱えるハードとソフトの融合がなかなか図られない、という課題を正面から扱っています。物語の着想はどのように得たのですか?
『ひるね姫』の企画を考えはじめたのは、いまから4~5年前です。日本は20世紀に大きな成功を収めましたが、21世紀になって産業が力を失いつつある。この原因はどこにあるのか、と考えていたんです。そして、その一因は「世代の断絶」、つまり技術が継承されていないことにあるのではないか、と思い当たりました。
テクノロジーの分野に限らず、私がいるアニメーション業界も、実は同じ問題を抱えています。日本人の悪い癖といえるかも知れませんが、「職人気質」が根強く存在するせいで、技術が継承されないのです。つまり、先人たちは「見て学べ」という姿勢で、勘や経験がロジックに落とし込まれていない。
結果として、上の世代の表現を見て学んだ今の監督やアニメーターが、それを下の世代に伝えられない。新しい世代、若い世代は「教えてくれないなら好きにやろう」となってしまう。職人が生みだしたものづくりによる成功が、次の世代には継承されていない、というジレンマがあるのです。
すると、どうなるかというと、下の世代が「あんなところでつまずかなくてもいいのに」というところで壁にぶつかっていたりするんですよね。すごくもったいない。周囲に話を聞いていると、どうやらこれは、アニメ業界に限ったことではないようだ、とわかりました。
たとえば、私は自動車が好きでよく運転をします。国産車の性能や品質はとても優れているのですが、このネット時代にあって、とてもスタンドアローンな存在だなと感じます。つまり、搭載されているカーナビの多くは、ネットにつながっていません。スマホのカーナビアプリに比べ、とても古い設計思想であるように感じてしまいます。
私の知人に、いわゆる「ガラケー」の設計を手がけていた人がいるのですが、ヒンジなどの工夫、つまりハードの性能が評価されていた時代は終わり、今ではソフト=アプリの良し悪しが問われるようになったと嘆いています。
そうかもしれないけれど、そんな風にハードとソフトを断絶させて考えていていいのでしょうか。ここ数年を見ても、たとえばライバル・中国のテクノロジーの進歩には目覚ましいものがあります。海外でクルマに乗ると、iPhoneをつなげば音楽もネット接続も連動するのが当たり前ですよね。日本車の平均点は高いとは思いますが、2000年頃から尖ったコンセプトのものが減って、つまらなくなってしまった。
中国など成長が著しい、経済的な発展段階からいえば、我々に比べて“若い”国々の「新しいものはどんどん取り込んでいこう」という貪欲さに、私たちも学ばなければならない。そういった背景があり『ひるね姫』を企画したのです。
――神山さんは『ひるね姫』以前に、フル3DCG劇場アニメ作品『009 RE:CYBORG』を手がけています。手描きからCGへというアニメの制作技法と、それに伴う現場の変化を目の当たりにされたことも影響していますか?
そうですね。手描きかCGかというだけでなく、これまで優れているとされ、「この先20~30年間は世界のトップを維持できる」といわれてきた日本のアニメーション技法が、まったく武器にならなくなったと感じています。
日本は「手描きでコツコツと何枚も絵を描く」という丁寧な仕事が得意分野。海外はそれを真似できないので、CGでアニメを作る方向に舵を切ったといわれます。一方、日本のアニメは競争相手がいないから、いわば独占状態だといわれてきましたが、そうこうしているうちに「作りたい」という人が減ってしまったのです。
その一因には、巷でいわれるように賃金が上がらない、ということがあるでしょう。世界が諦めた1枚1枚コツコツ描くというやり方を50年変わらずにやり続けた結果、ハードな労働環境も改善されず、そのやり方についていけない人はアニメ制作に加わることができない。
日本のアニメは職人芸の世界になってしまっているけれど、どんな技術も本来は科学的な根拠を参照して取り入れていくべきです。たとえば漆塗りや皮革のような伝統工芸でも、温度や湿度をきちんと管理しようという方向になってきています。
でも、アニメはいまだに勘や作家性に頼っていると感じます。さらに、2時間の劇場アニメの制作では、手描きだけでなく世界で主流のCGの工程も当たり前になって、ますます複雑化しており、その作業量はビルや橋を作るのに匹敵するもの。にもかかわらず、日本では未だに、制作手法や工程管理が職人時代の勘と経験に頼っていることがほとんどです。
――よく指摘されるのは、一度大きな成功体験を収めてしまうと、その方法論から抜け出しにくくなる、ということですよね。
そうですね。あとは「システムがあまりにもよくできている」という点もあると思います。アニメの場合は、「スタジオシステム【※】」という仕組みができあがってしまっている。だからこそ、安く大量に作れるし、私のようなフリーランスの監督がどのスタジオへ行っても同じ方法でディレクションできるのですが、それだけシステムが広く業界内で固定化されていることの裏返しでもあるのです。
※ 「絵コンテ」「作画」「動画」「撮影」といった工程に切り分け、各分野に特化した人材を育成・配置する制作システム。制作工程がある程度標準化されているため、監督やディレクター職が作品ごとにスタジオを移っても、制作方法に致命的な差がない。また、スタッフが同時に複数の作品に参加したり、お互いの仕事を融通しあったりもできることから、年間200本以上の新作アニメが量産可能となっている。しかし、近年は人手不足やデジタル技術への対応の遅れが指摘されている。
ところが、前述したようにシステムが老朽化し、無理が生じている上に、新しいやり方で参入しようとすると非常にハードルが高い。堀江貴文さんが以前「寿司職人の修行は無駄」と指摘していましたが、アニメの世界では新人は10年修行しないと食べていけない仕組みになっています。今は絵が上手ければ、アニメのほかにもっと稼げる仕事がある。だから、アニメのような、決められた方法やキャラクターデザインに沿わないといけない上に、稼げない仕事をやりたいという人は、本当に少数派になっています。スタジオシステムの仕組みは、足元から限界を迎えつつあるのです。
このシステムをどう変えていくか。私自身はスタジオの経営者ではないですし、監督という立場からは「作品が作れればなんでもいい」という考え方もできます。でも、良い作品作りのためにも、これまでの良いところは残しつつ、悪いところや限界を迎えているところは変えていくべきだと私は考えています。そんな思いも、この作品のテーマとして仕込んでいるのです。
――まさに自動車も、さまざまなメーカーから調達した部品を組み上げて完成させるシステムが確立されている一方、人手不足も深刻です。アニメ業界との共通項は多そうですね。
かつての栄光の時代を知るクルマ好きとしては頑張ってほしい。今までハード面で技術の頂点を極めていた企業が、いまや金融の世界では一種の商品、投機の対象になってしまっている。つまり、資本主義経済の発展とともに、技術を一から磨き上げるよりも、すでに完成された技術を持つ企業を買収したり売却したりしたほうが、収益を挙げる上では合理的だという考えが広まってしまっていて、これは残念だなと思っています。アニメもそうですが、ものづくりが儲からない、馬鹿馬鹿しいものだとなってしまうのではないか、という危惧があるのです。
『ひるね姫』という物語に込められた思い
――ものづくり(ハード)の世界は、「従来のやり方を変えねばならないのに、成功体験に縛られて変えることができない」というジレンマを抱えている。そして、そこに世代間の断絶が生まれ、新しい技術(ソフト)との融合を難しくしている。大きなテーマですが、それをアニメ映画でどのように描こうとされたのですか?
物語とは葛藤を描くものです。『ひるね姫』では葛藤を生み出す対立構造を「若い世代」と「20世紀に成功体験をした世代」、そして「新しい技術(ソフト)」と「古い技術(ハード)」という風に置きました。ただ、それだけでは物語に落とし込むのは難しい。脚本を何度も作ってはやり直すということを繰り返し、夢の世界(ハートランド)と現実の世界(日本)という2つの世界を行き来する構造にたどり着いたのです。
もう1つ気をつけたのは、そういった対立構造を体験していない世代にも響く物語にしたかったということです。たとえば私の娘は、「昔、日本がものづくりで世界を席巻した」ということすら身をもっては体験していない。主人公のココネがそうであるように、当たり前に「便利だからスマホを使う」世代です。そういった世代の目を通して、「世代間の対立なんて馬鹿馬鹿しい。ソフトとハードの良いところを組み合わせて使えばいいじゃないか」という一歩進んだ視点を提示したかったのです。
アニメとして描く上では、ファンタジーの要素も入れてほしいという興行上の要請もありました。そこで、ココネの見ている夢の世界が、実は彼女の父親から聞かされていた「上の世代で実際にあった出来事」の比喩であるという仕掛けも組み込んだのです。
――若い世代にとっては「自分は体験していないけど、両親・祖父母の世代が経験した物語」として受け止められるわけですね。ファンタジーとして描くことで、自分とは直接関係のないお説教や自慢にも聞こえてしまうお話も受け入れられやすくなる、と。
そうですね。ココネのような若い世代の視点が物語を構成する上でも重要でした。成功と挫折を体験した私たちの世代の対立だけを描いていても、結局誰からの共感も得られないと考えたからです。テレビアニメ『東のエデン』(2009年放送)も、成功を収めて富める老いた世代と、機会を奪われた若い世代との対立構造を描きましたが、どうすればそこに観る人の共感を得られるのか、という答えが見えていたわけではありません。『ひるね姫』という作品づくりがその答えを見つける旅でもあったわけです。
『ひるね姫』では、『東のエデン』よりもう一歩踏み込みたいという思いがありました。もはや対立に拘泥していない世代が生まれている。新鮮な視点を持つ彼らが私たちの物語を知ることによって、新しい「何か」を見つける姿を描きたかった。
――夢の世界は『桃太郎』をモチーフにしていたり、現実世界でも活躍するサイドカー「ハーツ」が、「バイク」と「人工知能を備えたロボット」の組み合わせだったりする道具立ても、非常に興味深かったです。
実は、「ハーツ」はバイクではなく、後輪二輪駆動の「トライク(三輪型自動車)」なので、分類上は自動車です。だから、高速道路を2人がヘルメット被らずに走ってもOKなんですよ。
あのタイプのクルマは、四輪の自動車がまだ高価で普及する以前に、親しまれていたものです。『ひるね姫』を企画していたころは、日本でも自動運転のコンセプトが語られ始めた時期で、クルマの原点ともいえるサイドカーが自動運転に対応したらどんな風に描けるだろうか、というのが発想のきっかけでもあったわけです。
――なるほど、そこにも狙いがあったのですね。制作にあたって、神山さんご自身もメーカーへの取材や調査をされたのでしょうか?
テクノロジーは時代を映す鏡なので、2020年が舞台の『ひるね姫』では、できれば現実(上映時の2017年)の半歩先を描きたいと思いました。なので、企画段階ではメーカーさんに将来的なお話を伺うなど、取材も重ねました。
しかし結論としては、私のような一般人が持つ知識でも理解できる範囲で描いたほうが良いだろうと判断しました。自動運転に対するさまざまな答えが見えてくるのは、恐らく20年後くらいで、このままでは物語にならない、と行き詰まったのです。黎明期ならではのおもしろさがあるのではないかと期待しての取材だったのですが、正直まだそれを感じる時期にすら達していないのだな、と。
インターネットの発展期のように、自動車産業もその成立以前は、携わる人が熱狂の中にあって楽しい時代があったはず。ところが、いま自動運転を担っている人たちは、どうも楽しそうじゃないわけです。みな正解を模索しつつも、「先に手を出して失敗したくない」という姿勢で、物事が前に進みそうな感じを受けない。『ひるね姫』の1シーンでも描きましたが、本音では「クルマは自分で運転してこそ楽しいんだ」と思っている人たちなんですよね。
この分野に新規参入するプレイヤーはとても楽しそうな一方で、自動車メーカーはそういうエコシステムの一部に取り込まれていく感覚がどうしても拭えない。クルマはもはや主役ではない、という諦観の中での試行錯誤なので、楽しくないわけです。
――物語にも色濃く反映されたテーマでもありましたね。自動運転なんてやりたくない、でもオリンピックへの対応でやらざるを得ない。であれば、技術を盗んでやれ、という人まで出てくる始末……。
黎明期、つまり陽が昇る前が一番暗い、という状況なのか、もしくは終焉を迎えようとしているのか。いずれにしても、とても困難な時期を描くことになります。そんな物語の中にどうやって「希望」を込めればよいのか、なかなか私自身も見つけることができませんでした。
『ひるね姫』を企画していた頃、ドラマや映画などでも町工場を舞台にするなど、古き良き時代を描いた作品が非常に多く現れました。でも、あくまでそれは「昭和」の話であって、現代・近未来を舞台にした途端に、苦しいだけの躍動のない物語になってしまう。
そこで「希望」になりうるのは、ココネのような前の世代に対する拘泥がない世代だと考えました。
――ただ、ココネが作品内で問題=世代間の断絶を解決したかと問われると、たとえば「彼女自身がエンジニアを目指す」といった単純な答えを出すわけではありません。父親と祖父の断絶をつないだのが「希望」ということでしょうか?
私自身、明確な答えはまた見出せていないと思います。でも、「争っている場合じゃない」というメッセージは込めたつもりです。孫に言われて、上の世代がようやくそれに気づく、という。
ココネは高校3年生、私の娘は当時中学2年生でしたが、彼らは“何かを作るよりも使うことに長けた世代”だと思うんです。モノはあふれかえっているので、何かを生み出したいという渇望はない。でも、私たちが想像しないような使い方を編み出す能力は優れている。自分の子どもを見ていてもそう感じます。
アニメに対しても同じで、与えられたストーリーを楽しむことを超えて、その世界観を使って、二次創作として別の物語を生み出したりしますよね。彼らはゲーム世代でもあるので、受け身ではなく主体的に物語に関与するということが自然にできるのです。ココネくらいの年齢の子どもは多面的なものの見方を身につける時期なので、彼らは私たちよりも柔軟で自由な発想が可能なのではないかと思います。ココネのキャラクターには中学2年生の私の娘が影響を与えているので、高校3年生にしてはちょっとおバカさんじゃないか、という指摘も頂きましたが(笑)
そんな世代の彼らが、この国や社会が抱える問題とどう向き合うのか? 『ひるね姫』では、ココネは父親から聞かされた物語が、自分なりに物語の枠組みを超え「実際に起こった/起きていること」とリンクしていると気づいたからこそ、断絶という問題を解決できたのです。私たちは見落としがちだけど、彼らが得意とすることや優れている面を『ひるね姫』では描きたかったのです。
――そこに可能性、希望があるということですね。世代と世代の断絶も柔軟につなぐことができるし、ソフトやハードといった違いも気にすることがない。
そうですね。実際、劇場アニメですから、興行を考えてもファミリー向けである必要があり、彼らの世代にも観てもらいたいという思いで「ひるね姫」は作りました。でも私の娘の反応をみるに、まだ大人向け過ぎたかもしれない、とも思いますね(笑)。そういう意味ではもう少し上の世代、20代~30代の方、それも技術職にあるような方に響いているのかもしれない、とは感じています。
『ひるね姫』のプロモーションなどのために海外のイベントに参加する機会もありましたが、そこでも「かつて日本の自動産業が世界を席巻した時代があった」という物語の大前提が通じなくて苦労しました。もう時代はそこまで移り変わってきたんだ、という実感があります。
でも、日本がモノづくりに自信をもっていた時代というのは確かにあった。アニメもそうであったし、クルマもそうですが、良い製品を作って、多くの人が喜んでくれていた時代があったわけです。それなのに、担い手世代はなかなかそれをうまく語れず、得てして“お説教”になってしまう。
そんな時代のことを、物語という受け入れやすい形で、知ってほしかったというのがまずあります。そして、日本が得意であったはずの「モノづくり」が、その遺伝子が継承されないことで衰退してしまうかもしれないという危機感を持ってほしいと同時に、若い世代を応援したいと思ったのです。『ひるね姫』の結末がそうであるように、経済的に豊かになることだけが成功ではありません。そういったメッセージを感じ取ってもらえると嬉しいなと思います。
――まさにHRナビの読者にもオススメの作品だと思いました。本日はお忙しい中ありがとうございました。
編集:ノオト