よくある量産型烈士なら見逃してしまうのだが、酷い人生なのが気になった。
王が32年間守備に就いていたという開山島は、江蘇省連雲港市と塩城市の東側、黄海海上に位置する島だ。両者はともに帰属を主張している。響水県の主張は民国時代は塩城市の管轄だったというものだ。
江蘇省は明確な答えを出していないが、大抵の記事では連雲港市灌雲県の開山島となっている。塩城市響水県が2010年に商標登録を行い、塩城市唯一の島だと主張し、あきらめる姿勢は見られない。
開山島は日中戦争当時の1939年に、ここを足がかりに連雲港を占領された経緯があるためか、海上の要衝、戦力的重要拠点と位置付けられている。塩城市が簡単に引かないのは、祖国防衛のための前哨基地という背景があるからなのだろう。尖閣諸島に似たものを感じる。
実際の島は広さ約13000平方メートル。形状はもちろん異なるが、数字上だけで比較すれば、甲子園球場のグラウンドがこの約13000平方メートルだ。
もともとは解放軍が守備にあたっていたが、1986年3月に民兵の歩哨所が建てられ、以来4人の所長が赴任したが、いずれも短期間でギブアップしている。5人目として名前が挙がったのが王継才だ。
動物は生息せず、植物も育ちにくい孤島で王が5代目の所長の守備に就いたのは歩哨所開設から4か月後の7月、27歳の時だった。歴代の前任者は最長で13日、短いものは3日でギブアップしている。
島を守るような建造物や植物はなく、台風はおろか時折吹く海風や日光にも直にさらされるような過酷な環境の孤島に行かせたいと思う身内はおらず、総反対に遭った。村の中には「水牢」だと揶揄するものもいたという。王は反対した親戚には知らせず任務に就いている。
赴任にあたっては、2種類のエピソードが存在する。
1つは王は妻の王仕花と共に入島することを希望し、受け入れられたが、赴任はまず夫1人で行われた。小学校教師の職にあった妻が職を辞するまでの時間が必要だったからだろう。赴任から48日後、妻が久しぶりに見た夫は、日に焼け、痩せこけ、無精ひげをそのままにした酷いありさまで、妻は泣きはらした。
もう1つは、娘を連れて島に遊びに行ったが、夫の面倒を見る者もおらず、危険だと察知した妻が娘を祖母に預けて、夫と共に島に入ったというものだ。
ほんの30年前の話なのに、エピソードが2つ生まれた理由が理解できないのだが、島内が過酷な環境という点では共通している。
王が赴任した当時、島がに電気ガス水道は無く、外部との接触はラジオと、定期的に訪れているであろう船の乗務員、そして無線での会話だけだった。歴代の所長たちが発狂するのも無理はない。
王も形上はしばらく単身赴任だったが、妻がやがてやってくるという希望が支えにもなっただろうし、妻と一緒にとの希望を出した手前もあるし、妻に仕事を辞めさせたという負い目から、逃げられなかったものと推測される。逃げ出せば妻と共に路頭に迷う。
しかし、32年も孤島に夫婦で住まわせるというのは、さすがにおかしい。2011年の移民25周年で報道されたところによると、2人への補助金は年間で3,700元。1995年に灯台を建設してからはさらに2,000元の守備手当が支給されている。
補助金とあるので民兵の給与もあると推測されるのだが、どうも夫婦には出ていなかったようだ。すぐ家に帰れるわけではないし、事実上24時間営業だから、待遇は相当に悪いと言える。
夫妻の武勇伝として、蛇頭から10万元やるから見逃せみたいな取引を持ちかけられたが毅然と断ったエピソードが伝えられているが、讃える前に出すものを出してやれよという気がしてならない。
島で2人で暮らすには十分なのかもしれないが、妻には老婆、夫婦の間には子供が3人生まれている。子供3人は親戚に預け、息子の大学の学費3万元と、家の修繕費用6万元も借りたという。明らかに足りていない。
2008年、ようやく電気が通った。江蘇省軍区が小型の風力発電機を送ってきたのだ。「これで春晩を観られる」と日誌に書き込んでいる。ただ、この発電機は半年もたたずに壊れてしまった。2012年には太陽パネルが設置されたものの、雨が降れば当然使えない。
入島してから家族に会えたのは、32年間で5回だけ。25年ほど前に妻が産気づいたが、台風で医者が来られないため、夫が息子を取り上げへその尾はそこらへんにあるはさみで切り取った。祖国を胸中に抱くよう、その時の息子は「志国」と名付けられた。祖国にこの身をささげるため、ではないらしい。
毎日国旗掲揚を行っているのだが、風雨や強烈な直射日光ですぐに褪せてしまうので、自腹でこれまでに300枚以上買い替えている。国旗掲揚は任務には含まれていないのだ。
過酷な環境の割に給料が安すぎると同情した企業経営者が、ウチに来ないかと誘ったが、「誰が島を守るのか」と断っている。頑固な奴め、と経営者はため息交じりに漏らしたとあるが、確かに頑固だ。
2015年には解放軍が夫妻を診察に訪れている。夫が重い椎間板ヘルニアだと診断されたが、島を守らねばとの夫の判断で手術は見送られている。
人民日報はこれを美談仕立てで報じているが、この年の旧正月に開催された軍民茶話会議で労働模範として表彰され、習近平の横に座らされた手前、弱音を吐けなかったのではないか。
夫の死後、妻の仕花が名誉所長となり、3人の共産党員と退役軍人が守備することになっている。烈士となって称える前にやってあげればよかったのではないか。
==参考消息==
http://www.xinhuanet.com/politics/leaders/2018-08/06/c_1123228928.htm
http://news.sina.com.cn/s/p/2011-08-01/055722911260.shtml
http://news.12371.cn/2018/08/07/ARTI1533599290845635.shtml
http://politics.people.com.cn/h/2011/0731/c226651-1680133906.html
http://military.people.com.cn/BIG5/n/2015/0515/c1011-27004671.html
http://www.xinhuanet.com/politics/2015-02/11/c_1114339478.htm
http://news.ifeng.com/a/20180913/60061861_0.shtml
島で2人で暮らすには十分なのかもしれないが、妻には老婆、夫婦の間には子供が3人生まれている。子供3人は親戚に預け、息子の大学の学費3万元と、家の修繕費用6万元も借りたという。明らかに足りていない。
2008年、ようやく電気が通った。江蘇省軍区が小型の風力発電機を送ってきたのだ。「これで春晩を観られる」と日誌に書き込んでいる。ただ、この発電機は半年もたたずに壊れてしまった。2012年には太陽パネルが設置されたものの、雨が降れば当然使えない。
入島してから家族に会えたのは、32年間で5回だけ。25年ほど前に妻が産気づいたが、台風で医者が来られないため、夫が息子を取り上げへその尾はそこらへんにあるはさみで切り取った。祖国を胸中に抱くよう、その時の息子は「志国」と名付けられた。祖国にこの身をささげるため、ではないらしい。
毎日国旗掲揚を行っているのだが、風雨や強烈な直射日光ですぐに褪せてしまうので、自腹でこれまでに300枚以上買い替えている。国旗掲揚は任務には含まれていないのだ。
過酷な環境の割に給料が安すぎると同情した企業経営者が、ウチに来ないかと誘ったが、「誰が島を守るのか」と断っている。頑固な奴め、と経営者はため息交じりに漏らしたとあるが、確かに頑固だ。
2015年には解放軍が夫妻を診察に訪れている。夫が重い椎間板ヘルニアだと診断されたが、島を守らねばとの夫の判断で手術は見送られている。
人民日報はこれを美談仕立てで報じているが、この年の旧正月に開催された軍民茶話会議で労働模範として表彰され、習近平の横に座らされた手前、弱音を吐けなかったのではないか。
夫の死後、妻の仕花が名誉所長となり、3人の共産党員と退役軍人が守備することになっている。烈士となって称える前にやってあげればよかったのではないか。
==参考消息==
http://www.xinhuanet.com/politics/leaders/2018-08/06/c_1123228928.htm
http://news.sina.com.cn/s/p/2011-08-01/055722911260.shtml
http://news.12371.cn/2018/08/07/ARTI1533599290845635.shtml
http://politics.people.com.cn/h/2011/0731/c226651-1680133906.html
http://military.people.com.cn/BIG5/n/2015/0515/c1011-27004671.html
http://www.xinhuanet.com/politics/2015-02/11/c_1114339478.htm
http://news.ifeng.com/a/20180913/60061861_0.shtml
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