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坂本龍一の『BTTB』をいま聴いて、思うこと

坂本龍一の『BTTB』をいま聴いて、思うこと

北中正和・平井玄・野田努 Sep 24,2018 UP

坂本龍一の1998年の『BTTB』が20周年記念盤としてリイシューされた。音楽遺産を現代的な解釈で甦らせたこの作品を聴くこと、彼の原点をいまいちど考察すること、昨年の『async』〜『REMODELS』と来て2018年の現在『BTTB』を聴くことは、わたしたちの視野を新しく広げるだろう。

爪を秘めてあえて穏やかに仕上げる

文:北中正和

 ピアノ・ソロのアルバムはクラシックにはいくらでもある。ジャズにもたくさんある。家庭名曲集その他の名前で有名無名の人が弾いているアルバムも昔から少なくない。80年代にはニューエイジ・ミュージックという名前の音楽も出てきた。近年はジャズ、クラシック、ポップス、アンビエントを横断するようなピアノ・ソロ・アルバムも増えている。
 20年前にこのピアノ・アルバムを作ることになったとき、坂本龍一の脳裏にはどんな思いが去来したのだろうか。著書『音楽は自由にする』の中で彼は、90年代のはじめごろから兆しはあった、『1996』というピアノ・トリオ・アルバムや『ディスコード』というオーケストラ曲を作った流れがあって、「自分の原点であるピアノ音楽を中心にしたアルバム」につながっていった、と語っている。『BTTB』はバック・トゥ・ザ・ベイシックの頭文字である。
 セッション・ミュージシャンとしてポップスの世界に足を踏み入れ、フュージョンのKYLYNやテクノ・ポップのYMOの時期を経てソロやコラボでも多彩な音楽を作ってきた彼は、その前は東京芸大の作曲科でいわゆる現代音楽の世界にいてジャズやロックにも興味を持っていた。さらにその前の少年時代はクラシックのピアノのお稽古もしていた。そんなふうに20世紀以前のさまざまな音楽を吸収してきた彼が「原点」という言葉をどこまで限定して使っているのかわからないが、少年時代に出会ったバッハやドビュッシーから現代音楽まで、あるいは部分的にはジャズまでを含むと推測しておこう。
 ピアノは18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの産業革命の工業技術の進展とともに改良されてきた楽器で、ピアノの名曲として親しまれているクラシックの多くはその時期に作られている。20世紀のピアノ曲は技法の工夫と共にその先へ進んできた。
 20世紀末にピアノのアルバムを思い立ったとき、彼がそうしたピアノの歴史を想起しなかったとは考えにくい。彼にかぎらず、ピアノのアルバムを作るということは、本人が意識するにせよしないにせよ、また、好むと好まざるとにかかわらず、そんなピアノの歴史を受け継いで上書きすることを意味する。
 『BTTB』はエリック・サティに刺激を受けたと思われる“オパス”からはじまる。サティは生前は同時代のドビュッシーやラヴェルほどには評価されなかったが、20世紀後半に楽譜の発掘やレコーディングが続いた。ミニマル・ミュージックやアンビエントの先駆者という側面からクラシック・ファンにとどまらない人気もある。サティの影は“ローレンツ&ワトソン”にも見られる。19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したサティの音楽の要素を20世紀末に置き、新しい要素と組み合わせてみるという楽しい遊びだ。
 ピアノの弦に響きを変える工夫を加えたプリペアド・ピアノを使った“プレリュード”や“ソナタ”は、当然、そのパイオニアである20世紀中期の現代音楽の巨人ジョン・ケージへのトリビュートだ。それに加えて、インドネシアのバリ島のガムランや、ガムラン的な音楽に取り組んだ西洋の作曲家たちへのオマージュも含まれているのかもしれない。いずれにせよ、プリペアド・ピアノをどのように演奏しているのか、どれくらいダビングしたのか、興味をかきたてられずにはいられない複雑なリズムや響きだ。この2曲から、水中マイクで録音した“ウエタックス”へと続くくだりは、このアルバムの中で最も現代音楽的に聞こえる部分だ。
 フランス語で歌を意味し、日本ではフランスの流行歌を指す言葉をタイトルにした“シャンソン”は転調の美しい小品。この曲をはじめ、ゆったりとした“ディスタント・エコー”、印象派的な“ソナチネ”、ロマン派的な“インテルメッツォ”などはこのアルバムの抒情的な側面を担っている。
 ふたつの“コラール”はタイトルからして賛美歌を意識して作られたのだろう。クラシックでは古い時代に栄えた様式だが、ここでは現代的に聞こえるのがおもしろい。カリブ海のドミニカ共和国で生まれ、サルサ・ダンスのチーク・タイムに愛用されるラテン歌謡の分野をタイトルにした“バチャータ”は、左手のリズムにわずかにラテン色が感じられるが、なぜこのタイトルにしたのだろう。娘の美雨のために作った“アクア”はJポップ的なキャッチーなメロディだ。
 こうして久しぶりに『BTTB』を聞き直してみると、曲ごとに多彩な音楽遺産を振り返りながら新しい要素を加えたアルバムであることがよくわかる。それだけ作曲の腕も試されるわけだが、自然な演奏を聞いていると、悩み抜いた印象はない。ポップスの制約から離れて彼はこのアルバムに楽しんで取り組んだのではないだろうか。現代音楽的な作品は、いくらでも鋭利だったり、衝撃的だったりすることが可能で、彼にもそういう作品があるが、ここでは爪を秘めてあえて穏やかに仕上げてある。バランス感覚のよさがよくわかるアルバムでもあると思う。


ピアノの前で

文:平井玄

 半世紀もたてば、思い出は朧になる。
 月に龍と書いてオボロ。俱利迦羅紋紋(くりからもんもん)のタトゥーが眼に浮かぶようだ。月夜に龍が舞う彫りとくれば舞台は女の背だろう。藤堂明保によれば、月は霞みを表す文字の形、龍の方はロウという音韻を示すという。50年、18000回の夜が過ぎる間にその月光の記憶は遠くかすんでいく。現在のビッグバン宇宙論からすれば、人ひとりの生きる時空は砂の粒より儚い。
 それでもこう言っておこう。天空を跳ぶ龍の艶かしい肢体がその一瞬を際だたせる──と。

 「青い月の光を浴びながら 私は砂の中に〜」と黒板に書かれていた。それもくっきりと。
 新宿御苑の緑に面した都立高校と区立中学校が背中合わせに並んでいる。薄いコンクリートの塀一枚を隔てた中学校の2階の窓からは高校の教室が覗ける。中学1年生がそこから見たのはどうやら音楽の階段教室らしい。
 「愛のかたみをみんなうずめて泣いたの ひとりきりで〜」
 誰がやったのか。「砂に消えた涙」の歌詞すべてが書き写されていた。1965年の初夏だったと思う。戦後まだ20年。大正期の白壁にくすぶる黒煙の痕。戦争を生き延びた旧制高校の校舎に似合わない色っぽい歌詞。楷書で綴るチョークの跡が鮮烈だった。まるで篠田正浩のアートシアター映画だ。「砂に消えた涙」は1964年5月にイタリアの歌手ミーナがリリースし、12月には漣健児の訳詞で弘田三枝子がカヴァーした曲。というより、漣は彼女が歌うことをイメージして書いた。13歳の脳髄には弘田三枝子自身の歌として濃密に刻み込まれている。
 「あなたが私にくれた愛の手紙 恋の日記」。カンツォーネというよりメローなR&B。低く歌いだされた声はワンフレーズごとに裏返り、地声と裏声の縫い目はまるでリストカットの傷痕。今カヴァーを聴けば、竹内まりやの囁きも矢沢永吉のゴスペル風もそれぞれにいい。それでも弘田三枝子のあの跳ねるような痛々しさは、1965年の何かだったと思う。
 それから3年後に同じ階段教室で、高校2年生の坂本龍一はある歌曲のコンサートを開く。アルノルト・シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」である。教室の使用許可など取っていないだろう。勝手に東京藝術大学声楽科の女子学生を呼んだ挑戦的なライヴだ。西洋近代音楽の素養など何もない1年生の私は、そのトンガリぶりに感じて教室の隅に座る。この時の衝撃、その訳のわからなさを今も考えている。これは『愛と憎しみの新宿』(ちくま新書)に少し書いた。1969年だったか、そこはオボロ。としても7月の山下洋輔トリオによる早稲田大学バリケード・ライヴのころである。──月夜に龍一が舞う。

 『BTTB』のリマスタリング盤を聴いて想うのはこの経験だ。電子楽器やさまざまなユニット、あるいはネット上で多くの音の実験、化合や交雑を重ねてきた。しかし彼の基底にあるのは端正なピアノの音である。
 今回それを強く感じた。back to the basicというのだからそれも当然だろう。そのbaseが彼の場合かなりアノマリーなのである。すべての作品のいたるところで、何かしら「解決を拒む」ような静かな異例性に満ちている。14の“Aqua”を聴くと、かえってリスナーは讃美歌のような清冽な高揚感を感じてしまうだろう。この曲だけがシンプルなメジャーコードで始まり「ヒーリング的、ニューエイジ系」といわれる由縁だ。それでも割り切れない残余が聞こえてくる。
 昨年、アエラ誌で久しぶりに彼と話をした。その最初に出たのは阿部薫のことである。「なんでそんな完全4度が弾けるんだ!」と、いきなり演奏中にマウスピースを外して阿部は言い放ったという。Bags’ Grooveにおけるマイルスとモンクの喧嘩セッションみたいなエピソードだが、これは事実である。私はその声を聞いていない。しかし1975年ごろのそういう空気は充分に吸い込んでいた。古典的な楽理書で「溶け合う」完全協和音程とされるような音感を、阿部の体は激しく拒む。憎んでいたと言っていいだろう。私もそうだから感染するのである。
 ところがロマネスク時代に対位法が発達すると、4度は不協和音とされるようになった。5度と違い「解決を必要とする」不安定さを残しているからだ。音の近代物理学をめぐる古のテーマだ。したがって最低音との関係で3度をめざして解決が図られる。それができない4度の使用は厳格対位法では完全に禁止された。坂本龍一のピアノはそういうところに踏み込んでいく。決して解決できない領域を彷徨うように。“Aqua”ではそれがよく出ているが、9“Chanson”や15“Energy Flow”にも気配を感じる。

 シェーンベルクに「別の惑星の空気を感じる」というバーンスタインは同時に「12音技法にも隠された調性がある」という。ジョン・ゾーンが「月に憑かれたピエロ」を演奏した「Chimeras」を論じるアレクサンダー・ラインハルトはむしろ「伝統的な調性への回帰」という。ところが無調から12音への狭間で創られたこの曲には、シュプレヒシュティンメという「語り歌」が介入してくる。この声のざわめきが聴く者に感覚の放浪を促すのである。こういうヴォイスの萌芽はドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」に生まれたという。ドビュッシーは坂本龍一の肌になじんだ作曲家なのである。いま思えば、あの音楽教室で演奏された曲はこういう流れの中にあった。
 「解決するな」。唇から血を流す阿部薫の問いかけに、ピアノを前にした坂本龍一は長い時間をかけて応えようとしたのではないか。青い月の光を浴びながら、私は道化師になって弘田三枝子を、阿部薫を想い出す。そして坂本龍一のピアノを聴いて、我々の時代が砂の中に深く埋めた問いを掘り出そうとするのである。


『async』〜『REMODELS』そして『BTTB』というこの流れ

文:野田努

 昨年の『async』〜『async - REMODELS』と来て、今回の『BTTB』再発というのは、ひとつの流れになっている。それはスタイルやジャンルの問題ではなく、内的な一貫性からくる流れのように思える。
 ぼくは“solari”という曲が好きだし、『REMODELS』では“LIFE, LIFE”のアンディ・ストットによるリミックス(remodel)・ヴァージョンが好きだし、なぜかというと昨年からずっとBBCのラジオではなんども再生されているからなのだが、しかしこと『async』は曲単位であれこれいうような作品ではないこともわかっているつもりだ。

 曲によってさまざまなアプローチを見せている『async』は、表面的には優しく見せながら荒涼としていて、抽象的でありながら忘れがたい作品だ。破壊的かもしれないが、それは計算されたものでも政治的主張を果たすものでもなく、逃避でもない。推測で言えば、それは本当に、自分の運命に決意している音楽かもしれないと思う。そしてそれは、露骨な商業主義など眼中にない作品だ。曲の短さも、とりとめのなさも、ありきたりの耽溺を寄せ付けないでいる。とらえどころがないというのに強烈な作品。
 ある意味では孤独なアルバムと言える『async』がそして『REMODELS』となり、(コーネリアスと空間現代を除いては)インストゥルメンタル音楽の気鋭の追求者たち(主にエレクトロニック・ミュージックのシーンにおいて活躍している)によって再構築されたことは、いかなる自発的な芸術表現もアクチュアルに機能するという意味において時代から逃れらないということであり、リミックス盤という媒介によって坂本龍一の創出した旋律の数々はさらにまた多層に拡散したということもである。
 高度に専門化されたクラシック音楽出身の坂本龍一だが、おもにぼくのように体系的な音楽学を知らない感覚的なリスナーが多くを占めるポップ・フィールドで活躍してきている。そして、ときとして発せられる無防備なきわめて情熱的な政治的発言や行動において、日本のポップ・フィールドでは浮いてしまっている。坂本龍一のなかには、音楽がそれ自体として自立しない、社会から切り離されて自己充足的に存在するものではないという感覚が一貫してあるのだろう。音楽に自閉していればこと足りると思っているほとんどの日本のミュージシャンとはそこが決定的に違うし、それは彼が困難な立場を引き受けているということでもである。『BTTB』リリース当時の背後状況に関しては、後藤繁雄さんによる散文詩的ドキュメンタリー『skmt 坂本龍一とは誰か』に詳しい。それはそうとして、最初に書いたようにぼくは『BTTB』を『async』〜『async - REMODELS』という流れで聴いている。

 坂本龍一の原点回帰作として知られる『BTTB』は、クラシカルな曲からガムランやプリペアド・ピアノなど多彩な試みが聴けるものの、わかるひとにしかわからないというアルバムではない。好きなことを好きなようにやったイノセントな作品なのだろうけれど、『async』より口当たりが良いアルバムで、いろんな局面での再生可能な万能薬だ。ピアニストのアルバムであり、また同時に『BTTB』から数年後にエレクトロニカ/IDMからも派生するモダン・クラシカルなる名称のサブジャンルの先駆けと位置づけることもできる。敷居が高く習練を要するクラシック音楽と素人の逆襲とも言えるエレクトロニック・ミュージックのシーンとの回路。サティ風の悲哀を帯びた調べの“Opus”のような曲は彼の内面と決して明るくなれない社会の見通しとどこかでリンクしているのだろうし、しかもそれは、ポスト・モダニズム的なんでもありの修羅場とは微妙に距離を置きながら、アンチ・ミュージックめいた側面を擁するエレクトロニカ/IDMとも接続している。なんとも自由奔放な、おおらかな円環が描かれているようだ。
 それはラヴェルでもドビュッシーでもサティでもなく、コーネリアス・カーデューでもない。世代を超えて成り立つ音の連なりのなかに、坂本龍一にしか描けない円環が見える。音楽は境界線を越えることができるということをぼくたちは知っている。内的な作品であっても、外側に大きく広がる。今年はモダン・クラシカルの起点となったマックス・リヒターの『The Blue Notebooks』(2004年作)がこちらは15周年ということでグラムフォンからジェイリンのリミックス入りで再発されたし、ローレル・ヘイローの新作においてもクラシック音楽との結合術が見て取れたから言うわけではないけれど、『BTTB』はいまこそ聴く必要があるアルバムだ。『async』から『REMODELS』へと漂泊したぼくたちが着地する場所=日々の営みとして、これほど温かく、心休まる穏やかなところはほかにないのだから。


坂本龍一 「energy flow」


Directed by Neo s. Sora and Albert Tholen
Produced by Zakkubalan
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