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新潮45『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』のおかしいところ ②小川榮太郎『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』 今更だけど「性的指向」と「性的嗜好」!

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読むに堪えない言葉使い、比喩、独特な文体で綴られた小川の記事は、瞬く間に各社大メディアで取り上げられ、多くの著名人、知識人から厳しい批判が集中した。
中でも「痴漢」について「触る権利を社会は保障すべき」との訴えは、それが皮肉による倒置的表現だっとしても、到底、受け止め難い発言だ。

小川の記事は、彼自身の中にある強固な「信条」をエキセントリックな修辞を用いて訴えるもので、論理的な推論や論評とは呼べそうもないのだが、筆者の感じた問題点は次の三点だ。

  • 性的指向」と「性的嗜好」の混同
  • 男女の「性別」概念について
  • 「生きづらさ」と政治の問題

LGBTはポストマルクス主義の変種」や「レズしべ、ゲイしべ」など一つ一つ潰して行きたいところだが、ここでは特に「性的指向」と「嗜好」の点について述べる。

おさらい「性的指向」と「性的嗜好

小川は「レズ、ゲイに至っては!全くの性的嗜好ではないか」とし、「同性愛」を政治の問題としては認めない一方で、歴史上の芸術家を参照しながら、プライベートな問題、ある種の「後ろめたさ」「性に関する自意識」としては肯定している。

だが、性に関する自意識など、所詮全て後ろめたいものではないか。古来秘め事という。性行為に関する後ろめたさと快楽の強烈さは比例する。同性愛の禁断、その怪しさは、快楽の源泉でもあるだろう。

性的指向」と「性的嗜好」の混同は杉田発言から一貫して続いている。杉田以前にも「同性愛」「LGBT」に対する人々のイメージ、偏見とも結びついたお馴染みのテンプレだ。その度に同じ説明が繰り返されて来たが、なぜ「嗜好」ではなく「指向」なのか。今更だが筆者なりの解説をする。
通常、「性的指向」と「性的嗜好」の説明は次のようなモデルで行われる。

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小川は「LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す」と語っている。

性的指向」と「性的嗜好」が混同されている彼の思い描く世界とは、ちょうどこのようなものだ。

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ここでは異性愛者は「異性愛者」としては存在せず、「特殊な趣味・嗜好を持たない者」としてごく当たり前に存在している。一方で同性愛者は「ゲイ・レズ!」「後ろめたさ」「禁断の快楽」を求める者として存在している。

小川は記事の冒頭「人間ならパンツは穿いておけよ」と述べているが、ここでは「パンツを履いている者」と「パンツを履いてない者」が存在している。「パンツを履いている者」とは小川、杉田達「普通の人間」であり、「パンツを履いていない者」達は他ならぬ「LGBT」である。この「パンツぐらい穿けよ」は、小川が生出演した19日のAbema TV『AbemaPrime』(※期間限定配信)でも語っている。小川は勢い良く喝破でもしているかのようだが、その主張は差別論においてよく知られる「無徴化/有徴化」にそのまま当てはまる。

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本当は小川、杉田達にも「性的指向」や「性的嗜好」があり、我々に違いはないはずなのだが、一方だけが「特殊な性癖を持つ者」として「印」が付与される。ここでは「異性愛者」と「同性愛者」を等価に置く「概念」がないのだから、「印を持つ者」だけが「特殊な人」として注目される。「パンツを穿く/穿かない」が一種の「差別構造」だということが判るだろう。

杉田発言の炎上以後、岡野八代、ロバート・キャンベルなど著名人がカムアウトした。ゲイ、レズビアンたちのカミングアウトは一般には「理解を求めて」されるものだが、それ以上に社会的な効果がある。

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同性愛者のカミングアウトは「パンツを穿いている/穿いていない」という差別構造を変質させる。そして、なぜ「嗜好」ではなく「指向」なのかというと、「性的指向」という概念こそが「異性愛」と「同性愛」を平等なものにするだからだ(※「指向」が先天的なものであるから、というのは「有効」だが普遍性が低いので注意したい。選択的同性愛、選択的トランスをフォロー出来なくなる。差別構造の解体がマスト)。

性的嗜好」は「異性愛者」を含め、「同性愛者」や「トランスジェンダー」「バイセクシュアル」みんな、「誰もが持っているもの」だから、筆者なら次のように説明したいところだ。「性的指向」と「性的嗜好」は対応関係にはない。誰でも持つものだから、本来は比べる意味などないのだ。

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実は「性的指向」と「性的嗜好」の「対応関係」は、ある「誤解」を生んでいる。まるで世の中に「性的指向」を持つ者と、「性的嗜好」の者とが別れて存在しているかのような錯覚を与えている。その「誤解」は結果的にはアンチゲイにも応用される。例えばLGBT内部においても、「同性愛」だけが「性的指向」として正当化され、その為に「ペドフィリア」、各種「フェティシズム」、数ある性的マイノリティが周辺化された、などとするテンプレだ。同企画でも比較的まともな論評を寄せた松浦大悟が類似する反論で杉田を擁護している。

LGBTも人権の線引きをしてきた過去を持ちます。1994年、国際レズビアン・ゲイ協会は、国連に加盟させてもらうために、これまで共に活動してきたNAMBLA(米国少年愛者団体)を切り捨てます。

しかし、「性的嗜好」や「フェティシズム」は、「LGBT」に限らず誰もが程度の差はあれ持っているものだ(持たない者もいるとして。「持たない」という形で持っている)。「同性愛者」にもSM愛好者やお尻フェチはあるし、痴漢もある。少年愛や、セックスの時に相手に要求したい事など、性的欲望を満たすための行動様式を持っている(※「同性が好き」は「指向性の問題系」だが、「少年が好き」は「行動様式の問題系」)。だからこそ同性愛者にも性暴力や性的ハラスメントの問題が生じるのだと言える。

LGBT団体が少年愛の団体との行動を別にしたことは、誰もが「性的嗜好」を持っていて、時として、そこに加害者と被害者の関係が生じることを考えると、自然な成り行きではないだろうか。

性的指向」と「性的嗜好」は位相が異なる概念で、そもそも「対応関係」にはない。こうした合意を人々の中に作ることが必要だが、もっとも、それには、LGBTもまた、自らが持つ性暴力やセクハラの問題に向き合う必要があるのだが。

性的指向」~差別構造の解体のために必要な概念

ところで、人々が「嗜好」として思い描くSMや、お尻フェチ、ロリコン、各種フェティシズムは主にどんな人々が愛好しているものだろうか。それがしばしば同性同士で行われるとしても、鑑賞者、消費者としての支配層は、やはり異性愛者たちではないだろうか。
異性愛者が支配層である性的嗜好の中のLGBTをイメージしてみた。

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性的指向」と「性的嗜好」を区別しないことは、クィア系の批判にも見受けられる。それは同性愛の規範化によって、セクシュアリティにおけるセントリズムがもたらされることへの危惧だが、近年、私はこうした立場から立ち去っている。

性的嗜好」に組み入れられたLGBTグループは、むしろ自らの性癖、変態性を語れなくなってしまわないだろうか。様々ある行動様式の正当化のためにLGBTは「性別」をアイデンティティとして語る機会を失ってしまわないだろうか。この状態は結果的には、世の中でLGBT当事者が声を上げにくい状態と近似している。

 やはり「性的指向」の概念の必要性とは、第一に社会の差別構造を解体するためであり、第二においては性に関わる問題を個人の趣味・趣向の世界から、政治アジェンダとして引き上げることにある。

杉田~小川に見られるアンチゲイの言説、もしくはLGBTの議論の周辺では、常に「性的指向」の概念と、誰がどんなセックスが好きか?何に性的な欲望を感じるか?といった本人の行動様式の問題が意図的に、場合によっては政治的に混同されている。

そして混同することであることが目指されている。
それは「性の問題」を政治が扱う「公の問題」ではなく、「家族が引き受ける問題」「プライベートな問題」に差し戻すことだ。

こうしたバックラッシュは今後も度々起こるだろう。その度にくどいようだが、もともとなぜ「性的指向」という言葉を使っているのか、使って来たことで何が起こり、使われないことで何が起こるか。面倒でも、私たちはいちいち立ち止まって振り返る必要がある。

※「性的指向」と「性的嗜好」の解説は一部持論が含まれているのでご注意下さい。

 参照元新潮45(2018年10月号 新潮社)
※評論のため一部引用しています。本論は同書に掲載された小川榮太郎『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』への論評です。