(その1からの続き)
竹鶴政孝との契約を終え、独自の製造体制へと切り替えた鳥井信治郞は、本格的なスコッチウヰスキーの香り、味を目指していた白札、赤札での反省を踏まえ、スモーキーフレーバーになじみの少ない当時の日本人にあったウイスキーを作ろうと考えました。
鳥井は、息子であり竹鶴からウイスキー造りを受け継いだ𠮷太郎とともに、ブレンドを完成させては東京・銀座のバーに持ち込んで感想、アドバイスを受けるなど、試行錯誤を繰り返しました。
そして1937年に誕生したのが、「サントリーウヰスキー12年」、現在の角瓶の誕生でした。
その際、最初に蒸溜した原酒が12年の熟成に至ったこと、さらには日中戦争で諸外国との国交が危ぶまれて経済制裁を受け、スコッチウイスキーも手に入りにくかった情勢が追い風となり、売り上げを伸ばしていきました。
この波に乗った鳥井は、さらに高級なウイスキーとして1940年に「サントリーオールド」を完成させました。
しかし、開発の中で後継者として育てていた長男の𠮷太郎が31歳の若さで急逝してしまいました。
また、太平洋戦争の突入によって政府から販売の中止がされてしまいました。
ところが、戦時下に於いてサントリーは大きな特需を得ました。
当時の日本の海軍はイギリス海軍を手本に作られた経緯があり、嗜好品としてウイスキーを飲む習慣があったのです。
すでにイギリスとは敵対関係となってスコッチウイスキーが手に入らない中で、日本海軍はサントリーなどすでにウイスキーの製造をしていたメーカーと契約、戦時下でも原料となる大麦などを優先的に供給してもらえるといった優遇を受けました。
これによって、倒産寸前になるほどの赤字を築いていたサントリーのウイスキー事業は一気に回復し、莫大な利益を得ることができました。
1945年、鳥井は後継者として、佐治家に養子に出していた次男、敬三を入社させ、自らのウイスキー製造の技術を伝授することになりました。
1950年に、販売中止をしていたサントリーオールドを発売、高級なウイスキーの代名詞として浸透していきました。
1960年にサントリーローヤルを発売。これが鳥井信治郞最後のボトルとなりました。
鳥井は翌1961年に、社長職を敬三に譲り、翌年には肺炎のために83年の人生を終えました。
(その3へ続く)
竹鶴政孝との契約を終え、独自の製造体制へと切り替えた鳥井信治郞は、本格的なスコッチウヰスキーの香り、味を目指していた白札、赤札での反省を踏まえ、スモーキーフレーバーになじみの少ない当時の日本人にあったウイスキーを作ろうと考えました。
鳥井は、息子であり竹鶴からウイスキー造りを受け継いだ𠮷太郎とともに、ブレンドを完成させては東京・銀座のバーに持ち込んで感想、アドバイスを受けるなど、試行錯誤を繰り返しました。
そして1937年に誕生したのが、「サントリーウヰスキー12年」、現在の角瓶の誕生でした。
その際、最初に蒸溜した原酒が12年の熟成に至ったこと、さらには日中戦争で諸外国との国交が危ぶまれて経済制裁を受け、スコッチウイスキーも手に入りにくかった情勢が追い風となり、売り上げを伸ばしていきました。
この波に乗った鳥井は、さらに高級なウイスキーとして1940年に「サントリーオールド」を完成させました。
しかし、開発の中で後継者として育てていた長男の𠮷太郎が31歳の若さで急逝してしまいました。
また、太平洋戦争の突入によって政府から販売の中止がされてしまいました。
ところが、戦時下に於いてサントリーは大きな特需を得ました。
当時の日本の海軍はイギリス海軍を手本に作られた経緯があり、嗜好品としてウイスキーを飲む習慣があったのです。
すでにイギリスとは敵対関係となってスコッチウイスキーが手に入らない中で、日本海軍はサントリーなどすでにウイスキーの製造をしていたメーカーと契約、戦時下でも原料となる大麦などを優先的に供給してもらえるといった優遇を受けました。
これによって、倒産寸前になるほどの赤字を築いていたサントリーのウイスキー事業は一気に回復し、莫大な利益を得ることができました。
1945年、鳥井は後継者として、佐治家に養子に出していた次男、敬三を入社させ、自らのウイスキー製造の技術を伝授することになりました。
1950年に、販売中止をしていたサントリーオールドを発売、高級なウイスキーの代名詞として浸透していきました。
1960年にサントリーローヤルを発売。これが鳥井信治郞最後のボトルとなりました。
鳥井は翌1961年に、社長職を敬三に譲り、翌年には肺炎のために83年の人生を終えました。
(その3へ続く)
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