連載 『悪たれ戦争』を巡って |
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座談会 ― 井筒和幸監督に聴く ― |
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出席者:井筒和幸(映画監督) 石飛徳樹(朝日新聞記者) 聞き手・構成:木田紀生(脚本家) |
――実は当時の資料が西岡さんの倉庫から見つかったんですが、それにもそのことが書かれています。 井筒 あいつも暇な奴だな(笑)。西岡はオレが出会った誰よりも几帳面な作家だから、ホントに頭が下がるよ。 ――資料には準備稿もあります。 井筒 (準備稿を見ながら)これは大事だよな。こんなのオレは、もう半年で捨てたね(笑)。音楽・上田正樹っていうのがいいよね。金がないからキー坊1人でやってくれたんだよね、そう、1人で。平山(秀幸)がチーフだな。あいつはオレの舎弟やっとったから。3本ぐらい舎弟やっとるから。舎弟頭だよ。(監督助手に)福ちゃん(福岡芳穂)もいるでしょ。いろいろおったよね。美術助手が部谷京子だもんな。部谷ちゃんはまだ右も左も分からない頃だね。ペンキ顔につけて一生懸命やってたよ、ぶち壊すラブホの部屋のドア、寸法間違えたりね(笑)。「あんた、手もまっくろけやで。風呂入ってんのか?」「こいつ、おもろい女やね」って言ってたのよ(笑)。それが今や巨匠だよな。傑作だよね。(制作進行に)坂本(忠久)ちゃんも、森重(晃)ちゃんもいる。坂本ちゃんというのはモンチ。2人とも今はプロデューサーだよね。みんなすごいよね。 石飛 1作目の『ガキ帝国』ではプレイガイドジャーナルが製作に入っていましたが『悪たれ戦争』では……? 井筒 プガジャは1本目だけで。関わらせる気なんてなかったよ。金は東映が出すし、オレと直契約で。 石飛 どうしてでしょう。(プガジャの)会社の状態が悪くなったからですか? 井筒 元々、プガジャは『ガキ帝国』の時も大乗り気ではなかったです。説得したんですよ。ATGが「話しに行けば」って言うんでそのまま言うたんよ。まあ、結局、繋いだのはオレだけど。最初は方向性は違ってたね。オレたちは反発したんですね。反発及び説得をしたんですね。強い説得です。恐喝ですね(笑)。 石飛 どんな映画を期待されてたんでしょうか? 井筒 最近の大阪タウンの若者事情みたいな。知ったこっちゃねえや、んなもん知るか、だったね。不良にも関心がなくて。 石飛 井筒監督にそれは意外な期待ですね(笑)。 井筒 強い説得をした後、じゃあやろうよということになって、一応、分からんまま了承しとったんやろうね。出来上がった時に初号を観て、製作者は納得してはった。こんな映画だったんだ、これは面白い、宣伝して頑張ろう、みたいな話だね。そん時に若ちゃん(若松孝二)もいたんですよね。大島(渚)はいなかったけど、その日は。若ちゃんが開口一番「傑作だ」って言ったんだよね。「今日はオレが奢る」とかなんて言い出したんだよね。ほんで西岡と「おっさん奢るて珍しいな」言うて。その日はそういう日だったと思う。佐々木史朗さんと一緒に中華料理屋連れってってくれて。最初、佐々木さんが「やあいいねえ、なかなか力強い、いいシャシンになったねえ」とか言うて飲みに行く話になったんですよ。それで赤坂の中華料理屋に連れて行ってくれたら、若松さんが「オレが奢る」って言って機嫌良かったな。その後、ゴールデン街に流れたと思うわ。それから半年もしないうちに『悪たれ戦争』のオファーが来るわけですよ。凄まじく早かったですからね。『ガキ帝国』は年末に出来上がって、年明け3ヶ月後に公開したでしょ。東京地区も5月ぐらいから公開が始まって、それと同時に、オファーが来たから。立て続け。しかももう決まってるんだもん、フィックスで。「9月の番線だぞ」と。「タイトルだけ使って副題は何でもええから勝手にしろ。タイトルだけはくれ」と。で「もう朝鮮人は出すな」と。その2点だけですよ、東映の本部長が言ったのは。「もう在日の話はいらないから、あんなものは出した所でウケないから」と。ひどいことを言いやがるなこの野郎、と思いながら「分かりました」って言った。「なんだったら原作も並行して書かすようにしろよ」って言われた。「マンガでも小説でもいいよ、適当にパッパと書けるだろう」と。いい加減な話よ。話は30分でしたね。「さあ、話は終わったから、明日から準備して。井筒くん頼むよ」なんて調子のいい部長だった。「もう決まってるんだから、(上映は)9月の十何日からだから」なんて、頼んでいる時から、言ってんだよね。 ――それ以外の注文は? 井筒 何にもない。白紙。「兎に角ね、不良どもがケンカしてりゃいいから」だって。「ケンカに次ぐケンカをね、前のシャシンみたいにやってくれりゃいいんから。あれだってケンカに次ぐケンカだろう。よく分からない話だけど」って(笑)。「あんたたちのノリで作れ」って(笑)。それで「在日は娯楽映画には余計だからな」だって。 ――その時は趙方豪さんは主演に決まっていたんですか? 井筒 決まってなかった。 ――じゃあ井筒さんが趙さんを? 井筒 「いいんじゃないの」って。それからすぐプロデューサーに「もう誰が出たっていいんじゃないの。向こう(併映作の『獣たちの熱い眠り』(1981/原作 勝目梓/脚本 永原秀一/監督 村川透)は三浦友和が主演なんだから」って。しかもこっちはB面でしょ。3,000万の映画に、誰でもいいだろって。 ――でもその当時としてはかなりの予算では? 井筒 いやいや。3,000万、4,000万ってこんなもんかって思ったもん。そりゃ1作目よりはあるかな、と思ったけど、それにしたって2倍少々じゃどうなんだって。また地獄が始まるのかよ、みたいな気分だったよね。 ――現場のルポを読みましたが。 井筒 地獄ですよ。それで、にわかに助監督をばーって集合させたわけやろう。何もかも一からだもん。オレと西岡しかいないんだから。そんなこと言ってる場合じゃないもん。西岡は西岡で鉢巻しめて書き出したから。旅館にみんなで入って書き出したから。「さあスタッフいない、どうすんねん、こうすんねん、また大阪ロケか」って一からですよ。それでニュー・センチュリーに頼むわ、なにするわで『七人の侍』みたいにスカウトしていったんだよね。「おまえ来い、おまえも来い」みたいなね。それで平山とかもウチに来て、福ちゃんとかももう一回来てくれて。もう混成部隊ですよ。(後の)トライアーツの、青木(勝彦)さんの仕切りだったからね。それで大阪に乗り込んだわけですよ。だから、モスバーガーには話をしてるからね。向こうも大きな会社だか知らないけどね、チェーンとして話が伝わっていませんでしたなら、こっちもすんませんでしたねえ、みたいなことを言えば、ちゃんちゃんで済む話なのにね。どっちみち作り話なのにね。要は。映画なんてどこまで行っても虚構なのにね。ドキュメントじゃないだから。何を言ってんだかって。 石飛 本当に不思議なんですよね。当たった映画の続編、何度もモスバーガーって登場するわけでしょう。すごくいい宣伝になると思うんだけどなあ。 井筒 大いになるよ。ロールで「協力 モスバーガー何々店」って出たと思うよ。 ――それが出てなかったそうなんです。だから本社の許可を得ていないでしょ、って話になっているようです。 井筒 そうか。そういうことか。出てると思ったけどね。ロゴマークを入れるとかね。何でかね。プロデューサーが何人もいたのに。 石飛 そういうクレジットは入ってましたか? 当時のクレジットは割りとシンプルだったと思うんですが。 井筒 そのシンプルな時代の次なのよ。我々のニューシネマ世代は、ローリングの時代なんですよ。80年になると、昔のように、頭に全部出て最後に「終」でハイ終わり、というような時代ではなかったんですよ。短かったけど、ワンコーラス分は、必ずテーマ音楽がかかるパターンだったから。キー坊が自分で歌作って歌ってくれてね。その時に助手の名前から全部載せたよ。オレは載せたくなかったけれど。1作目は何も載せなかったからね。1作目はほぼノータイトルで、最後の協力のタイトルが出て終わりですから。監督の名前すら出ない。主演者も出ない。共演者も出ない。脚本も出ない。全スタッフが出ないですからね。かなり珍しいから、『ガキ帝』は。 ――「ビール1本!」で終わる。潔いですよね。 井筒 何もいらない、終わりもない。でも、協力タイトルだけは入れようかと。格安でやってくれたんだから。現像所とパナビジョン、若松プロ、高橋プロとか。まあいいじゃん、これも格好いいだろって。ほんの30~40秒でしたよ。後は真っ黒けーのけでしたよ。『悪たれ戦争』はその続きなんだし、またそれでいいんじゃないの、と思ってたんだけど、そうは問屋が何とかで、結局、東映からの注文できっちりロールを作れってなったんですよ。 ――趙さんの名前が、豪田遊とクレジットされたのも東映の要請だったんですか? 井筒 要請というか、確か「名前を変えた方がいいな」というのを誰かが言いだしたんだよね。東映の宣伝部あたりじゃないかな。趙方豪という名前はしんどいな、みたいな。日本名はないのかよ、と。でも、本人、日本名は使わない素人みたいな青年なんだから。しょうがないよね。立命館大学を出たばかりで演劇活動ばかりしてた青年なんだから。芸名もヘチマもないですよね。しょうがないからそんな名前を付けたんですよ。預かってた小さいプロダクションと一緒になってね。 石飛 まだそういう分かりやすい差別のあった時代でしたよね。 井筒 そういう時代だね。ただそういう時代って結構続くでしょ。続きまくっていますよ。それこそ、ウチらの『パッチギ!』(2005/脚本 羽原大介・井筒和幸/監督 井筒和幸)前後からでしょ。まんまで行け、みたいなさ。 ――西岡さんとの怒涛のホン作りはどうだったんですか? 井筒 当時、中野とかに良い旅館があるって、誰かが言い出したのよ。和風旅館があったんですよ。そこに荒井(晴彦)も入るわ、丸山(昇一)も入るわ、誰も入るわっていうね。そういう業界の風潮で、若いくせになんか偉そうな顔した奴らが入ってたのよ。そいでオレらも「入ろうぜ」なんて言って(笑)。オレたちが喫茶店で書いてた頃に、「あそこの旅館は朝飯が美味いからね」とか嫌味なことばっかり言うからさ。折角の東映の3,000万の映画なんだからそれぐらい出来るだろうって、入ったの。ほんで徹夜して朝飯食べたよ。そんで「皆、朝飯が美味い言ってたけど、これのどこが美味いんだ」って(笑)。傑作だよね。その次は、調布にも入ったかな。 ――そういう旅館が沢山あったんですね。 井筒 そうそう。シナリオライターが使う所があったのね。何箇所かあった。 石飛 調布はやっぱり日活映画ですか。 井筒 日活系や角川系だったかな、岩風呂付きの宿館とかね、多摩川の京王閣の横の連れ込み宿みたいな所もあったんですよ。プロデューサーに「あそこ入ろうよ」なんて言ってさ。「いいよ、何日でも入ったら? 時々見に行くから、酒とか要るのがあれば言ってよ」とか言ってさ。当時そんな時代だから。そしたら案の定、書きゃしないよ(笑)。いきなり宴会だよ。だって映画人ってそういうもんだし。そこで、世の中を1枚捲ってやれ、みたいなことでしょ。2枚捲ってやれ、3枚捲ってやれっていう。それが良い虚構を作っていくわけで。更に踏み込んで、それで良い嘘が出来るわけだ。でもそれも真実なんですよ。嘘だ嘘だって逃げてるけど、でも本当はその奥底に真実があんだよな。それを追い求めるのがウチらの最高の仕事というか、遊びなわけだからね。だから宴会だよ、1日目から。『悪たれ戦争』の中野の時も確かすぐ宴会に切り替えたかな。西岡も焦ってたね。 ――それはそうですね(笑)。 井筒 だってもう1週間後に東映へシノプシスを届けないといけないわけよ。なのにさあ、「おい、酒買って来るか」だもん。当時は何の計算もしない人間だったから。今はちょっと計算して若い奴の顔伺ったりするけど。当時はそんなんないもん。どうなろうがどうでもいいんだもん。そんなもんプロデューサーの所為にすればいいだろうぐらいにしか思ってない。だから「朝飯食べようぜ」って言いながら「じゃあいいや、飲もうよ、福ちゃん」「そうですよね」「何だかなあ」なんて(笑)。それでも飲みながら、心半分は仕事してんだけど。それで暴走族の時代はどうなったとか、そんな話から始めてね。西岡が一番マメだったからそれもちゃんと筆記してたと思いますよ。そのメモが役立って次の日に原稿を書くことになるんですよね。それで西岡はもう2泊かしてシノプシスをダダダって上げたのかな。上げよりましたね。それをそのまま、東映にポンって持って行ったのを覚えてる。オレたちは酒飲んで「あれも書けよ、これも書けよ」とか適当なこと言ってただけだけど、西岡は適宜、いなしながら「うん、分かった分かった」っていう感じだったからね。それで持って行ったらさ、「うん、これでいけ」って。自由でいい加減な時代。マジでそうだったからね。それから2週間ぐらいで第一稿上げてたかな。で、すぐに印刷してたからね。そりゃ、現場でも直さないといけないよね。もう殴り書きだから。大雑把だ言うたら西岡先生に怒られるけど(笑)。初稿だからね。ちょっと小直ししてすぐ印刷。赤坂の他人の会社をスタッフルームに借りてたんだけど、制作部には印刷前の生稿、コピーして大阪に持って行かせたね。とりあえず半分でいいから、って言われた。「どうせ全部持って行ったって、3、4日で帰ってくるから、半分で充分」なんて制作担当の青木さんが。よくやってくれた。今の若い子たちもそういうフットワークでならもっと面白い映画が作れるよ、きっと。今は誰でもパソコン見てばっかりでデタラメだし、去勢されてるもんな。言われたことだけをして。マンガの原作や小説の原作にがんじがらめで、どこを使って、ここは無しでと、周りからガタガタ言われて。家でパソコンで書いて貼っつけて、ピッとメールで送って。緊張感も何もないよね。呼び出されてテニオハ言われて、それで終わりでしょ。旅館に集まって「で、今夜は何の話からだ、とにかく飲もう」とか絶対してないと思うわ(笑)。 ――してないと思いますね。 井筒 あの時は、梅田東映支社ビルにルームを持たしてもらって、風が吹くままに撮ってましたよね。ちょうど1ヶ月くらいかな。ボブ・ディランの「風に吹かれて」だね。ホントに風に吹かれるままに撮ってたね。大阪市内だけでなく岸和田とか、貝塚とかで撮ってたんだよ。生駒山のプール付きの家とか、神戸の浜辺とか色んなとこに繰り出して。で、どのシーンだか忘れたけど、まとめようがなくなって、そいで現場に西岡先生を呼びつけて、喫茶店で書かせて、2ページほどね。「早く書いてよ、何でもいいから、書いたまま撮るから」って(笑)。茶店で書いてもらう間、コーヒータイムにして待ってたよ。つれづれなる思いつきの映画。よく劇場にかかったよな。感心するよ。 ――西岡さんの倉庫から見つかった資料には、準備稿と一緒に号外もあったそうです。 井筒 号外だらけだったんじゃない? あの人は全部とってあるんしょ。(手に取り)へーっ、すごいね。最高だね。そうだよね、シーン1が東映マークだからね。今、書く人いないよね。シーンが東映マークで(笑)。ト書きが「白い波が岩間に砕ける」だよ。おっかしいねー、これ。「奴は入れ込んどるんだろうな」って思ったね。「書きたかったんだろうな」って。初めての五大メジャーの仕事だったからね。 ――当時の新聞記事もあります。西岡さんの写真が写っています。 井筒 西岡先生、たしか27~28才か、いや、オレが9だから、25才だよ、これ。お兄ちゃん。すごいねぇ。 ――残念ながら、今回の上映企画では『悪たれ戦争』を取り上げることはできなかったんですが、映画は観れなくても、シナリオで読むことはできる。というわけで月刊シナリオに掲載されたホンを読んだんですが、久しぶりにト書きに笑って、セリフに唸りました。映画を観たいですね。 井筒 これ一辺、シナリオ通りにリメイクしたら、めちゃおもろいと思うよ、誰かが。誰かがね(笑)。 ――でも、ラストシーン、あれはどう撮ればいいのか分からないですよね。 井筒 狂気な感じやね。凶暴で。なかなか良い不良の風俗映画ですけどね。 ――そうですよね。 井筒 80年代は虚構を求めていく時代、そういう時代に突入する時代だったな。 ――それに抗うかのように。 井筒 そう、みんなが新しく虚構に溺れていこうとする時代やね。バブルまでね。その最初の時代よ。間違いない。いつもオレは思うけど。大雑把に言うと80年代は夢の時代よ。74~75年ぐらいまではね。夢を追ってたんだ、どいつもこいつも、60年代から。 石飛 夢というのは理想の社会を作ろう、みたいなものなんでしょうか? 井筒 理想の手前かな。こうあったらいいな、とか。そういう夢うつつの頃ね。60年安保も終わってしまって75年ぐらいまで、個人個人の夢をね。間に全共闘の時代を挟もうが、夢を追ってる時代ですよね。夢は砕けるけど、また夢を追ってる。赤軍派も壮大な夢を追って、全部潰れてしまう。三島由紀夫も夢を追ってたけど、腹切ろうが何しようがお終い。庶民の小さな夢しか残らなくて、それもだんだん萎んでいったよ。1発目の『ガキ帝国』の時代は夢の時代ですね。67~69年を描いてるんですけど。要するに万博に向けて。最後は万博の垂れ幕のシーンだから。やっぱり自分の中の夢に生きたがった時代。結果がどうあろうが、こうなったらいいなと思って生きてたんだよ。ミナミで鉄砲隊がつぶされ、ホープ会もつぶれたら次はピース会でも作るか、とか(笑)。明日のジョーが死んでまうまで、明日を思っていたわけでしょ。そういう時代ですよね。それは全共闘の運動と変わらないですよね。革命ということを夢想してたわけだから、平気で。オレたちも思ってたわけだからね。こりゃ顛覆したら面白いことになるだろうなって。粛清ってなんだろうとか。金持ちとか反動主義者が粛清されてエラいことになるんかねとか。高校の授業中に話をしてるんだもんね。 石飛 私は少し後の世代なので、羨ましいと思いますよ。 井筒 すごく面白い時代ですよ。ベトナムが戦争に勝ったらどうなるんだろうね、アメリカも終わりだねとかさ。それが75、76年ぐらいに収束していくんですよ。個人的な時代になるんですよ。みんな、せめても個人の夢を叶えるために精一杯になっていくんですよ。でもそんなものは収まってしまうんですよね。そうすると経済はもう発展してモノも余り出したから、糸井重里とかが「おいしい生活」とか言い出すわけ。で、パルコが出て来やがんのよ。それで「不思議、大好き」とまた言い出す。それは夢じゃなくてね、虚構を求めるんですよ。生活スタイルはこうありたい、こういう人とモノに囲まれたいとか。今まで夢にも見なかったのに。ある虚構ですよね。人間関係も。だから身銭を切ってでもすぐに求め始めた。虚構の中にリアリティを探し始めた。それが80年代ですよね。バブルではじけるまで。結果、90年代にパコーンと地価の下落と共に人の関係も崩壊して冷えてしまう。それから失われたウン十年が続いてるってことです。厳しい現実の前ではリアリティもヘチマも感じなくなって、いじめや疎外が起きて、わけ分からん奴が殺人を犯して。何がリアリティなのか分からない、ということに。だからパート2の方は、虚構を求め出し、虚構を買いに走り出す時代に、血と暴力で抗い、オトシマエをつける奴の物語です。70年代の夢の残滓みたいに、オレはオレなんだ、馴れ合ってたまるか、みたいな主人公で。そして、格好良く言えば、「夏も終わりやね」ってヒロインの女子に最後で言われるように。 ――ますます観たくなりますね。未だにモスの担当者が上映を拒否するというのは、そういう痛いところというか、時代の空虚さを突かれていると感じているからですかね。いや、観ているかどうかは分からないですけど。 井筒 どうやろな、それは分からんけど。ある意味ね、そういうことを求めたんでしょ、モスバーガーも。フランチャイズしていったからね。映画って嘘だけど、その感じを言い当ててるんですよ。みんなが虚構を求めるは勝手だろうが、こんなアメリカナイズドされていく文明ってどうなのよ、と思ってたから。だから西岡がト書きで、アメリカの味、アメリカの味って書くわけですよ。そこなのよ。何を浮ついたことを言うとんねん、何がアメリカだ、ここは関西やぞと。たかがファストフードでしょ。それを日本の味にしたとか。何を言うてんのよと。そこを批判してるわけですよ。ウチらがやりたいのはつまり、文明批評なんです。でないと書かないし、こんな設定も出てこない。そういう発想が元にあったのよ。何なんだこのチャラチャラした所は、チャラチャラした男は、この女はっていう発想からよ。あの頃、そんなんみんな嫌がってたから。マックだって嫌だったもん。現場の途中でマックなんか制作部が買って来た日には「何だこれは!」って。夜食で出しやがって、頭に来たことあるもん。未だにそうだもんね。だから、当時は、相手さんもまさかそういう批判を見抜いて言ってるとは思わなかったけど、もし見抜いて公開しないで頂きたいと言ってたら、オレたちはきっと「やったね」って言ってたよ。ジャンクされても、オレは今も言ってやりたいよ。映画の思想とはそういうことだと。でも、そんな喧嘩にもならないし、そんなレベルじゃなかったんでしょ。ウチの企業展開に良くないとか、聞いてなかったとか、そんなこと言われた日にはね、お話にならない。映画のテーマなんて話したくないけど、そういう心の内だったのよ。 ――ホントにおぼこい、けど尖がった映画だったんですね(笑)。青春がつまってる。モスもこれまで築き上げた自社のブランドに自信があるなら、この映画のテーマに堂々と対峙できるんじゃないかと思います。作り手にとっても、西岡さんが『悪たれ戦争』のことを〝うちの子〟と表現して、36年間監禁したまま、未来永劫表に出さないつもりなのか? と訴えかけていますが、他人事とは思えない、ホントに身につまされる話です。井筒さんはいつ以来、観ていないんですか? 井筒 一度、趙方豪の亡くなった時にやったんだよな。シネカノンの上の4階の映画館でオールナイトで。あれで久しぶりにみんなで観た時かな。もう満員だったよ。やっぱ、業界の奴らがさ、聞き捨てならない人たちがいっぱい来てて(笑)。「趙君の弔い上映会だ」なんて森重がプリント焼いてもらうと言うてくれたわけよ。森重は『悪たれ戦争』の制作進行だし、ほいで劇場がないから李(鳳宇)さんに頼んで劇場を借りたわけよ。その時に崔(洋一)ちゃんも協力してくれたのか。それが今から……。 ――20年ほど前ですね。 井筒 そんなになるか、趙方豪が死んでから。20年にもなるんだ。あの野郎……。 ――上映中止になってから、それまでに一度も? 井筒 観てない、観てない。追悼の時も半分ぐらいしか観てない。もうその時は酔っ払ってたもんで(笑)。いっぱい会場に来てたよね。みんなひっくり返ってたよ。なんちゅう映画なんだって(笑)。あの時はみんな飲みながら観てたから。崔さんなんか、ワイワイ言いながら、何なんだこれは!みたいな。笑いまくっとったね(笑)。 ――今回の問題では、西岡さんが手記を書かれてるんですが、その中で、自分が死んだら追悼で上映が出来るのかと、皮肉をもって語ってらっしゃるわけですよ。 井筒 そりゃあ(笑)。あいつは物書きだから、書くでしょう。まあ、オレは頓着しないから、あんまりそこまでは思ってなかったけど。ただ、みんなが観たいなら、観せられるようになればいいのにね。また恥の上塗りになるなぁ。結局は、2社(東映と徳間書店)で作ったわけだから、2社の許可さえあれば上映出来るんじゃないのって思うけど。 ――本来はそういうことなんですけどね。 石飛 私には、何か上手い対応が出来れば、すぐ上映出来るような感じもするんですけどね。そんなにものすごく嫌がってるわけじゃなくて、最早、面倒だとか、プライドだとか、そういうものに過ぎなくて、本当に上映されたら困るなんていう意識なんてないですよね、きっと。 井筒 初代社長は自分の人生本を、5冊もくれたしね。 石飛 上手いこと、話せれば、と思うんですけど、「実在の会社とは関係ありません」と一言おことわりを入れるとか。 井筒 そうだよね。東映も、もうちょっと働きかけてね、金儲けしたろうか、という気持ちになれへんのかね。 石飛 そうですよね。本当にそう思いますよ。 井筒 最初にモスと話した東映社長がダメですよね。そんな手打ちしてきたらあかんよね。そりゃアウトだな。「話つけてきたぞ」って、「どっちの方につけて来たんだ」っていうね(笑)。 ――『パッチギ!』で大友康平さんが演じるラジオ局のディレクターが、鼻血を出しながら話つけて来たっていうシーンがありましたが、そういうことだったらね(笑)。 井筒 全然逆やないかってね(笑)。 ――『パッチギ!』で大友さんに、歌っちゃいけない歌なんかこの世にないんだ、って言わせてるじゃないですか。上映したらいけない映画なんてないんじゃないんですかね。 井筒 ないんだよ。うん、ないんだよ。だって映画は嘘なんだもん。分かれよと、嘘を楽しむということをね。 石飛 それが映画でしょうに、と思いますね。今の観客はきっと虚構として笑って見ていますよ。目くじら立てる必要なんか全然ない。宣伝になると思うんだけどな。 ――モスのイメージを悪くするつもりもなかったんだし。 井筒 損ねることはないよ。 ――時代も違いますからね、本当に。 井筒 だから皆さんがしたいようにしてくれたら。けど相手側のことだし、相手が変わらない限り何にもならないからね。懐の深い所を見せてくれたらいいのに。「モスバーガーのご協力により」とタイトルを付けたって良いくらい。本当。あと、オレの映画渡世の本も5冊差し上げますよ。 10月7日 都内・井筒組スタッフルームにて
月刊「シナリオ」誌 2018年1月号より
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