花束書房

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幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業。

【北村兼子】「肉体は売る時があっても学問は売りたくない」

★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子が、関西大学卒業を控え、学友会雑誌部発行の『千里山』創刊号に寄稿した「卒業して、それから」という文章。大正15(1926)年2月。

★翌3月、兼子は関西大学を卒業。たったひとりの女子学生ながら男子をしのぐ優秀な成績で全過程を修めた。だが女子だったので学位記はもらえず、「聴講生」としての証明書が発行されている。

★原文を確認していないので、以下、大谷渡『北村兼子 炎のジャーナリスト』(東方出版)P97-98より引用します。男子学生に交じり、ただひとりドイツ法学を学んだ兼子の切実さと情熱がこもった文章です。

★「卒業生の売れ口が好いとか、悪いとか、相場が高いとか、廉いとか、卒業生身売りの噂が高まる」ということに対し、兼子は吐き気をもよおすとし、次のように続けました。

***

 卒業生の誤りは文化住宅に住みたいと言ふ心にある。精神と肉体と売て、其(その)代償として此等を望む。それもよし併(しか)し傭主に憐みを乞ひ、心にもない愛嬌を作ってまでの交換物としては余りに低いではないか。私は之を陋(ろう)とする。出発点が陋劣である。売りかたが下手だと代物が粗製品に見える。喧嘩に負けた犬は優者に対して終局まで尾が上らぬ。

 私は女である。女であるが為め何十年大学に在っても学士にはなれない。正式の卒業も出来ないが併(しかし)しそれで好い。学問は人を造る。学問によって人にならうとするその高遠な理想に活きてゐる私は幸福である。学問を売らうと言ふ邪念が交ざると「人」の影が薄くなる。それが身振るひするほど嫌(い)や。

 私が女子学生聯盟に加はって学問の機会均等を叫ぶのは学士になりたいとか、無試験検定の恩典を裾分けしてもらいたいとか言ふケチな考へない。ただ正義に反する条理に反する、人道に反すると言ふ点を男性に知らしめ其悔悟を待つのみである。女子の為めに叫ぶのではなくして、男性の為にその蒙を啓(ひら)きたいのだ。男性の頭痛を代理する余裕はない。それ以外では私は現在の聴講生で申し分はない。

 私は肉体は売る時があっても学問は売りたくない。学問は肉体より尊い。百円や二百円の端金(はしたがね)に面(つら)を叩かれ、十年苦心の学問を売らうとは何事である。せめて対等の取引としてはどうか。但し、買ふ方は多く先輩であるから其点に於いて敬意を表するはよろしい。又た其指揮に服従するも素より正当だ。併し、売らんが為め煩悶し、焦慮し、憔悴する。そんな男は却(かえ)って買方から御免と逃げる。人間のバチ物を誰が買ふ。尊い学問をダンピングすな。売れなかったら労働者になれ、それは高尚だ。乞食になれ。そして餓えよ。更に貴い。餓えて死ね。最も尊い。



【メモ】

・女子が大学に進学でき、正式に男女共学になるのは戦後のこと。当時の関西大学では、兼子のようにごくひとにぎりの女子生徒は「聴講生」あるいは「選科生」と呼ばれました(兼子は前者)。

選科生は昼間は働き、夜は学ぶという生徒が多く、このような学び方は男子でも音を上げるのに、ましてや労働条件のきわめて悪い女子が挑むのはたいへんな苦労だったそうです。なかには睡眠不足と体調不良で脱落する女子もいて、ほかの男子学生と同じ学業を修了した女性との苦労がしのばれます。

・さらに、関大の女子生徒は男子学生に与えられるさまざまな特権(役人の高等試験における予備試験の免除など、就職に有利な6つの特権)を、たとえ正科の男子と同じ過程を修めても得られませんでした。入学金や授業料はまったく同額なのに、です。(以上、『関西大学に於ける女子学生の軌跡ー大正末から昭和にかけてー 文殊正子』参照)

・つまり、「男子と同額の金はもらうが、卒業はさせない、卒業生の特権も与えない」ということでした。兼子を含めた女子学生は、それをあえて承知しながらも、ひたむきに学問を求めたということです。そうした事情を知ったうえで上記の兼子の言葉を読むと、改めて重く感じられます。それから100年以上たった今なお、女子が大学入試において差別を受けている状況は、ことあるごとに具体的に怒っていかなければならないなと思っています




↑関西大学年史編纂室より。

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