テニスの全米オープンにおける大坂なおみの初優勝は、テニス関係者のみならず、「日本人女性の初優勝」という快挙として、多くの社会的注目を集めた。
同時に、対戦相手であった往年の女王、セリーナ・ウィリアムズの審判への抗議、観客のブーイングにより、いささか後味の悪い試合ともなり、ウィリアムズの言動や大坂のアイデンティティについての議論をまきおこした。
テニスの国際試合というスポーツの枠組みをこえた社会的出来事としての今回の全米オープン女子の決勝戦について、文化的、社会的観点、歴史的背景から考えてみたい。
まず大前提として、スポーツの試合における海外の観客のブーイングの習慣は、日本とはかなり異質であることをふまえなければならない。
海外在住経験者の方にとっては当然かもしれないが、メディアでは意外と言及されていないので最初に指摘しておきたい。
競技種目は異なるが、たとえば海外の一部サッカーファンの振る舞いが、暴徒化したり、エスカレートすると人命まで失われたりする事件があるように、日本と海外で大きく異なることはよく知られている。
スポーツの熱狂的ファンはどこの地域にも存在するが、たとえば野球の阪神タイガースファンの熱狂とは質が違うのであり、海外の場合は、敵は徹底的に敵であり、“攻撃”の対象という意味で、敵・味方の認識が極めてシビアである。
その攻撃性はときに自国の敗戦選手にさえむけられ、敗戦責任があるとみなされた自国選手の殺人という痛ましい事件さえおこる。日本ではほぼありえない敗者への厳しさである。
著者がベルリン在住時に開催されていたサッカーのワールドカップ(南ア、2010年)で、ドイツが準決勝で敗れた際、下宿の若い女性がドイツをくだしたスペインに対し、「ドイツ人はオランダ人を普通あまり好きじゃないけれど、今回はみんな、決勝でスペインにあたるオランダを応援しているのよ」と憤慨しながら述べたことも思い起こされる。
スポーツ・バーでは、対戦相手の監督が画面に映るだけで、観客から激しいブーイングがおきる。スポーツ・バーという環境もあるが、試合が白熱している場面でもないのに監督が立っている映像を観るだけで、一斉にブーイングを浴びせる行動は、日本の観客にはあまりみられない。
これら海外の事例に比べれば、日本の観客は通常、敗者に実に寛容である。
選手自身も、種目に限らず、試合後はまずお互いの健闘をたたえあい、勝った相手に対しては、「俺たちの分までがんばってくれ」と励ますのが、日本社会が考える理想のスポーツマンシップではなかろうか。
昭和のスポーツ漫画の主役たちは、こうした“美徳”を備えていたし、勝者を潔く次の試合に送り出すことにためらいがない。