2018年09月23日

科学技術史上の稀覯本の森

ゲーテ『色彩論』上野の森美術館の「世界を変えた書物」展に行ってきた。本展は科学技術史上重要な稀覯本をずらっと並べたものである。所蔵元は全て金沢工業大学で,学生の育成を兼ねた企画展だったようである。金沢工業大学は教育熱心なことで有名で,地方の私立大学としては別格に評判が良い。その所蔵元の関係からか,驚きの入場料無料&写真撮影OK。それもあってか会場は非常に混雑していて盛況であった。客層も普段から美術館にいそうな人々に加えて理系っぽいお兄さん~おじさんたち,春画展でよく見かけたようなサブカルカップルと多種多様であった。混雑を考えると,500円か300円でも取ったほうがよかったと思うし,そのお金はぜひとも携わった研究室に還元されてほしい気も。

展示は分野別となっていて,古代ギリシア~12世紀ルネサンスまでのみ一括り,ルネサンス以後は建築史,ニュートンまでの天文学,解析幾何,物理学,光学……と続いて最後は非ユークリッド幾何学という並び。医学・生物学関係が無く,逆に建築学があったのは所蔵元の性格によるものだろう。なお,建築史だけ完全に別枠で,ギリシア・オーダーの解説書(ドーリア・イオニア・コリントのあれ)に始まって,ウィトルウィウスにヴァザーリ,パラーディオ,ピラネージと出てくるので,確かにここだけ内容が文系に近い。

また,科学史とは細分化の歴史でもあり,万能の天才がいなくなっていく歴史でもあるから,古代ギリシア~12世紀ルネサンスの時期だとまだ分野別にする必要がなく,ここもまたそうした別の理由から文理未分化という雰囲気がする。イシドールス『語源学』,エウクレイデス『幾何学原本』,プトレマイオス『アルマゲスト』,プリニウス『博物誌』,アリストテレス著作集,アポロニオス著作集と言った面々で,出版地は多くがヴェネツィア。ギリシア→バグダード→パレルモと翻訳されつつ,当時としては最高の言論の自由があったヴェネツィアにたどり着いて出版され,その”現物”がここにあることを思うと,とても感慨深い。この中だとアポロニオスだけ高校世界史に登場しないが(イシドールスも実質的に登場しないだろうという正しいツッコミをする人は重度の受験世界史マニアです),数学で「アポロニウスの円」なんて勉強したことを思い出した。高校世界史に回収されないが数学には回収される珍しいものを見た思いである。

分野別では,天文学ではコペルニクス『天球回転論』,ケプラー『新天文学』,ガリレイ『星界の報告』,ニュートン『プリンキピア』と完璧な並び。幾何学はネイピア,デカルト『方法序説』,ライプニッツ,オイラーとこちらも錚々たるメンツ。デカルトの『方法序説』が浮いているように見えるかもしれないが,哲学として重要なのは文字通り「序説」の部分であるが,本論は幾何学・光学・気象学だったりするのでこの並びで正しい。「デカルトは哲学者として知られているが,理系の分野での功績も大きい」と強調されていて,確かに高校世界史や倫理で習うとそういう印象が強いよなと思う。XY座標はデカルト座標と呼ばれることがあるくらい,数学史上でも巨人なのだが,理系の人でもそういう印象は薄いかもしれない。

光学ではスタートがアルハゼン(イブン・アル・ハイサム)だったのだが,イブン・アル・ハイサムの名前が優先されるべきだろうし,彼だけ「古代ギリシア~12世紀ルネサンス」のゾーンではなく分野別に置かれていたのかが不可解で,この点は数少ない不満。ここではゲーテの『色彩論』があったのがおもしろかった(今回の画像)。隣の鑑賞者の若い男性が「小説家じゃねーの!?」とめちゃくちゃ驚いていたが,ゲーテは鉱物の研究もしてたりする「最後の(ルネサンス的)万能人」なのだ。そして,航空力学のゾーンのベルヌーイ,リリエンタール,ウィルバー・ライトと来て最後が合衆国大統領調査委員会による「チャレンジャー号事故に関する報告」というのはパンチが効いたオチだった。原子・核物理学のゾーンにも合衆国戦略爆撃調査団による「広島、長崎に対する原子爆弾の効果」報告書があり,科学の発展には犠牲がつきものというブラックジョークを地で行く構成に乾いた笑いが。ただし,こちらはその直後に長岡半太郎と湯川秀樹が出てきて終わるので,ちょっと救われる。そして全ての展示の最後を飾るのがアインシュタイン。ニュートンとこの人はあらゆる分野で巨人すぎる。


ところで上野の森美術館は良く言えばチャレンジ精神旺盛の,悪く言えば話題先行で中身が伴っていない企画展が多く,当たり外れが大きい。面白そうでも尻込みしそうになるのだが,今回の展示は大変良かった。「怖い絵」展くらいから変わってきたのだろうか,それとも偶然かはわからないが,ここ最近は中身が伴うようになってきた。この感じだと次のフェルメール展も,あまり怖がらずに見に行ってよいのかもしれない。それはそれとして言うなら,おそらくドイツ語履修者が学生にいなかったのだろう,ドイツ語のキャプションはかなり危うかった。「アウグスブルグ」「シュトラスブール」「マグデブルグ」といった表記が見られ(その割に「ブラウンシュヴァイク」は正しかった),気づいた限りは指摘しておいた。別の言語がどうなっているかはわからない。気になる人は警察ついでに見に行けばよいと思う。あと2日しかないけど(2015年には大阪で同じ展覧会をやっているのでそのうちまたやる気も)。