糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

09月21日の「今日のダーリン」

・大阪に連日いるというのも初めてなのだけれど、
 もうひとつ、とんでもない初めての経験をしている。
 それは「超都会」で暮らしているということだ。

 「梅田駅」というのは、同時に「大阪駅」なのだった。
 銀座が同時に東京であるというくらいの関係かなぁ。
 たいていの鉄道やら、ほとんどの商業施設やら、
 なんだったらオフィスやら、観光や娯楽まで、
 なにもかもがこの周辺にまとまっているのだ。
 混むよ、そりゃ。人は通るしとどまるよ。
 おそらくお金もモノも情報もすべて集まり流れるよ。
 ものすごい場所だよ、これは。
 資本主義の滝壺のなかにいるみたいな凄みがある。

 考えてみたら、ぼくもずいぶん長く東京に住んでいて、
 都会の生活には慣れているように思っていたけれど、
 滝壺の中心にはいなかったものなぁ。
 大なり小なりの公園があったり、広い庭の家が見えたり、
 墓地やら、お寺やら神社やらがあったり、
 コンクリートジャングルとかなんとか言っちゃってても、
 それなりに「稼ぎ出さない場所」もたくさんあるんだね。
 霞が関あたりだって、雑草の野原もあるよ。
 だから、ぼんやりと犬の散歩なんかもできてたわけだ。
 だけど、梅田のあたりは、そうはいかないよなぁ。
 都会というものが、行くところまで行ったような、
 追い詰められたのではなく、追い詰め切っちゃった感じ。 
 たぶん、大阪の街ぜんたいは、こうじゃないのだろうな。
 もっと緑や土や油断や無駄なんかもあって、
 のほほんとしてられる住宅地とかもありそうだけどなぁ。

 つまり、ぼくは大阪という地域にいるという以上に、
 「超都会」にいるということに、まだ慣れてないのだ。
 未来都市というものがどうなっていくのかわからないが、
 人間が生きるためには、けっこうなコストを覚悟して
 「稼ぎ出さない空間や時間」を配置することも、
 けっこう大事なことなのではないだろうか。
 もしかすると、大阪では、その役割を
 「人間という自然」が先頭で担っているのかもしれない。
 ぼくらの「たのしみ展」だとか、隣の「九州物産展」は、
 実は、とても古臭いものへの人気のように思えてきた。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ビルの地下街には「郷愁というデザイン」もしてあるんだ。