産後2日目。「かぐや姫の物語」の前半を観ながら「翁まじ共感!」とブチ上がってそのまま寝落ちし、早朝6時に起きた。
これまでの人生で、いろんな「翌日」を体験してきた。部屋のぎこちなさと新鮮さを今でも思い出せる上京翌日とか、サニーデイ・サービスの聞こえかたが違った最高の脱童貞翌日とか。社会人生活2日目とかみたく絶望的な気持ちになった日もあったけど、当日処理できなかった実感が身体に馴染んでくる翌日こそが、ある意味本番だなって思う。
子供が生まれた翌日は、なんて大それたことが起こってしまったのだろうと呆然としていた。36歳まで生きてきて一度も分身したことなんてなかったのに、昨日から自分(の遺伝子)が増えちゃった。ああ、生まれて初めて100万円の札束を手に持ったときみたいなおっかなさ。そんな調子で、わーわー思いながらトーストを焼いてたら、病院にいる妻から「母乳出たwww」というLINEがきたのでもう自宅だし我慢しなくていいねと確かめ「うおー!」と声を上げた。生き物としての設定が大幅にバグってる人間がここにいる。
妊娠期間ですくすく育っていったパートナーの乳を見守った日々は、まるで穏やかな立ち上がりから終盤に向けて大きく盛り上げていくジャムバンドのライブみたいだった。お相手様からおっぱいを見せてもらえるだけで慈しみと感謝を抱きがちな我々男性陣だが、私は妊婦こと妻から露出だけでなく進化という未曾有の観戦体験までいただいていた。大きさなんて関係ないっしょとは思っていたが、日々強そうにアメリカ的にあばれていく乳の形状変化にはたびたびブチ上がらされたものだ。
だがしかし、「サブカル乳が大暴れ!」などと雑なコピーを添えるなどして親しんできたパートナーのおっぱいが、ここにきて第三者に用いられる。しかもその人の命にかかわるという。自分にとっての一大娯楽施設が、これから新人の命を紡ぐ装置として機能する。見慣れた街の変化、早くも切ない。
それはそれとして、病院に向かう途中でアカチャンホンポに寄って妻から依頼されていたドーナツクッションを購入する。赤子をひりだしてズタズタになっている性器を床に付けぬよう真ん中が空いているというやつだ。クッションに限らず、彼女からは続々と「ベビーモニターの検討を」「電動の鼻水吸い器があるといいらしい」などのオーダーが届いている。人がエモを転がして遊んでいるうちに、着々と“お迎え”態勢を整えていく様子がただただ頼もしい。
クッションとアイスを手に、いつもの病室へ。自然分娩でも産後5日は入院を余儀なくされるので、窓際でよかった。曇天続きが終わって、5月らしくさっぱりした晴天の光が差し、妻と子供がいた。子供がいた。ホントにいる。
食べごろを逃したグレープフルーツみたく、へしゃっとした丸い頭。透明なケースで静かに寝ている新生児。耳を近づけて初めて細かい呼吸を繰り返しているのがわかるってくらい、小さくて頼りない。前日の血みどろ感がなくなったこともあって、実は精巧なフィギュアですと言われても信じるくらいの現実感のなさがなんだかおかしい。「さっき初めてお乳を飲んだんだよ」と聞かされ、改めてウケた。
5分おきの陣痛が会陰の痛みに替わり、2時間おきの授乳というタスクが追加されたことでぐっすり睡眠とは無縁のままだけど、優しい表情を取り戻した妻。そのまわりだけ音が消えたかのようにスヤスヤと眠る新生児。平和だなあ。ひとり増えたけど、日常が戻ってきた実感がある。
子供を改めて見てみる。言っちゃなんだが本当に猿だ。目を筆頭に顔のパーツがとても大きくて、私と妻のどちらに似ているというのも言い難い。Oasisを初めて知ったときにどっちがリアムでどっちがノエルかわからず「目つきの悪いヨーロッパ人ふたり」みたいな見え方だったのと同じで、いつか慣れるものだろうか。
そうこう言っていると、子供がホヤホヤぐずりだした。オギャーとは程遠く、「エヘァ、エヘァ」という声の弱々しさにフフ……と笑うも、すぐさま「ハッ、お乳のお時間か!」とビビりだす私。それを見ながら「面白いんだよ、見てて」とニヤリとする妻が、ボロンとクソデカ乳をこぼれさせ、目も開けずに泣く小さい命の前に差し出す。泣いていた子は、なかば押し付け気味にあてがわれるやいなや、すぐさま乳首をチュッと口にした。うおお、こないだまで羊水の中でヌルヌル生きてたのに、乳首をくわえるなんて誰から聞いてきたんだろうな。昨日初めて見たおっぱいと向き合い、ンックンックと口を動かす新生児を見て、いまや何かするときは検索から始めずにいられなくなってる36歳は尊敬の念を覚えた。
口から離すときにデロリと伸びる乳首の形状変化を面白がりながら、夫婦して「おつかれさまでした」と新人をねぎらう。口は達者でも手の使いみちには困っているのか、ふよふよと両手をまわすように動かし、しばらくして目も開けた。
ほとんど黒目の瞳に、光が跳ねる。本当に同じ人間なのだろうかというくらい、すべての道理を知り尽くしているかのようなたたずまい。実際は手の使いみちも不確かなくせに、達観しているような瞳で我々を一瞥するさまが不思議だ。「すごいものを産んでしまったねえ」と笑いながら、その目に夫婦仲の良さを見せつけるなどした。
ひとしきりiPhoneに写真を貯める作業などをしてからTwitterを開くと、ceroの六本木フリーライブに向かった友人たちの様子がちらほら。現時点で一番好きと言っても過言ではないグループなので「予定日が前後したらワンチャンあるな」なんて思っていたし、妻も行けばいいのにと言ったが、ためらいなく不参加である。あわよくば、そういう決断をくだしたことが、子供に将来、こんなに大切にしているんだぞというアピールにつながればいいが。
初の抱っこにも挑戦。肘から先とほぼ同じサイズの子供の軽さと命の重さを同時に感じるという神秘的な体験をしたような気がした。ちなみに撮ってもらった写真を見たところ、おれは面白いぐらいにへっぴり腰をしていた。我ながらこの頼りなさは先行きが思いやられる。こうしておれは父になるのか?
その翌日も病院に行った。入院2日目のドン引くような消耗ぶりではない妻に安心しつつ、やはり下半身を始めとする痛みの顕在化や2時間おきの授乳で乳首がちぎれそうとか眠れてはいない状況。見ていてやりきれない。立ち会い出産で何もできず、その後も替われるものがないというのが、こんなにつらいものだとは思わなかった。おやつやサラダを密輸するなどでわずかでも貢献になればいいが。
そしてうだうだ言ってる私にかまうことなく、子供は驚異的なスピードで進化を続けている。この日、我々夫婦はふたりともタレ目で、それがしっかりと遺伝されていることがわかった。昨日よりも肌の色がなじみ、瞳の開閉もいささかスムーズ。あらゆるものを瞳に吸い込もうとする好奇心が、わかりやすく現れてきている(実際はほとんど見えていないというが)。実に頼もしい。生き方がシンプルなぶん、成長もまっすぐだということだろうか。
それにしたって人生3日目にしていろいろなことを教えてくれる人だ。第一子の誕生を歌ったTravis「My Eyes」の歌詞のように、おおらかに「ようこそ」とか言っちゃう姿勢でいるつもりが、実際は慎重でおごそかで、軽くおびえながら先方のご訪問をお迎えする格好になってしまっているのに我ながら驚く。 日に日にめざましく成長していく課程で、どうか私にもっといろいろ教えてほしい。
病院から出るやいなや自転車がパンクしてしまい、徒歩での帰路に。しばらく歩きながら、その道のりが昨年付き合いたてのとき、酒を飲んでベロベロになりながら2人して歩いた道だと思い出す。ああ、自分も10ヶ月あればこんなに人生をドライブさせられるもんだな、子供に負けてないな、というのがうれしかった。