冒頭に文章を数行追加しました。
最近の彼の写真を見て驚いたが、あれじゃマスターではなくマフィアの幹部だねえ。
道を極めるにしても「そっちの極道かいっ?」ってツッコミたくなる。
何にもまして、人相が悪い。
若い頃は品のある顔をしていたのにね・・・
その後の彼がどんな生き方をしてきたのかは知らないが、私はアジズ・フーマンに興味はないので・・・
アジズ・クリストフ(以下、アジズとする)がヒューマン・ブッダという視点で、悟った人間の「人間としての生の部分」を正直に語っているところは、過去の覚者があまり語ってこなかったものであるがゆえに、その勇気や誠実さに敬意を表したいと思います。
彼の人間に対する洞察も悪くない。
それゆえに肝心な「目覚めの道における教え」が、なんであのようなものになってしまったのかを思うと、とても残念な気持ちになる。
彼が「会ったことはないが、私の唯一の師」と仰いだニサルガダッタ・マハラジからの影響で、マハラジの言うところの
A.「私は在る(I IM)」=B.「サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)」=C.「ビーイング・気づき(アワェアネス)・ハート」
として解釈しちゃったからなんだろうね。
A=Bまではマハラジ自身がそう認めている所だから良いのだけれど、アジズがA=B=Cにまで展開したことによって、アジズの教えにおいてはA=Cということにもなるから、おかしくなっちゃうんだよ。
そもそもマハラジ自身が、「私は在る(I IM)」と「気づき(アワェアネス)」を別のものとして、わざわざ使い分けているのにね。
ま、彼自身がそういう解釈で自身の目覚めを進展させてきたのだろうから、彼の中では何の間違いもないということになるが、アジズのこの教え(過去においてはフーマンも同じ)の言葉だけを読んだ人がいざ実践するとなると、後々かなり問題が生じて来るので、あえて言葉にしておいた。
私はアジズという人間を批判する気はないが、彼の教えが日本のスピリチュアル・シーンに残した悪影響というものにおいては、黙ってみていることができない状況になってきていることに気づいています。
つまり特定の政治家、その人そのものがどうということではなく、その政治家の政策によって国益として損なわれる面が多いことが明らかな場合には、警鐘を鳴らすことも必要だという次第であります。
私がここで言うアジズの教えとは、あくまでも日本で発売されている書物を通してのものであるということをご理解いただきたい。
私はアジズに会ったことがないので、彼のセッションも受けたことがない。
現在の彼がどのような教えを説いているのかも知らないし、興味もない。
あくまでも過去に日本で出版された書物に書かれている彼の言葉による教えについてに関することだけについてのものです。
その前提の上での話です。
アジズの個人セッションにおいて、彼の聖なるものの直接伝達能力を受けた方は、あのような教えでも、結果的には聖なるものの目覚めが起きている場合もあるでしょうから、アジズのその臨在の部分のこととは関係がありません。
繰り返しますが、あくまでも過去の彼の「言葉による伝達」に関することに限ってのことに対しての「私の個人的な意見」であります。
それが気に入らない方は、私に議論を挑むような愚かなことはなさらずに、このサイトから黙って立ち去ってくだされば無事に解決することです。
それでは、本題に入ります。
簡単に言ってしまうと、アジズが敬愛していたフーマンも示唆しているように(とはいっても私はフーマンの教えについても、違う意味で否定的ではありますが。)、その教えにおいてアジズは「目覚めの準備のためのマスター」です。
一昔前にグルジェフやOSHOの行っていた準備のための様々なワークを、良くも悪くも「ステート・オブ・プレゼンスという一つのワーク」に集約した人です。
その教え(現在は知りません)においては、のステート・オブ・プレゼンス確立から、悟りの状態まで描かれていますが、ステート・オブ・プレゼンス以降は実際的には役に立たないどころか、同じ場所をグルグル回り続けさせられることとなります。
私からすれば、ステート・オブ・プレゼンス以降の聖なるものの目覚めやその後の過程も全て体験により理解していますから、アジズのステート・オブ・プレゼンス以降の過程の教えは、それなりに成熟した探究者にとっては有害なものとなることは明らかです。
そこのところもフーマンも示唆しています。
ですが、1日1時間の瞑想をしている程度では、アジズの教えが役に立たないということが経験的に理解できるところまで至ることができません。
しかし毎日5時間でもアジズの教えに従って瞑想を数年間続けていれば、誰だって気がつきます。
「なんか、おかしいな」と・・・
「どれがビーイングでどれがハートで・・・だったら私がいつも感じているこれは何なんだ?・・・」と、唯一の最も大切なものである聖なるものを捨ててしまうことになる場合があります。
現在の私がステート・オブ・プレゼンスというタイトルで記事を出しているのは、アジズの教えの海で溺れさせないための方便としてであってね。
本当は、ステート・オブ・プレゼンスという言葉は使いたくないのです。
結果的にアジズの教えを広めてしまうことになるから。
もちろん人には運もありますから、結果的にアジズの言葉による教えだけで、うまく行ったという人がいないとは言い切れませんが、それはまた別問題ですので、そのようなケースはここでは除外します。
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