とある九月の夜。まだ暑さが残る日だった。
18時を回ってもまだ汗ばむ。電車から降りた瞬間、むわっとした熱気に襲われた。
改札を出て約束の出口に向かう。
階段を登り地上に出たとき
「これはまずいな」
と思った。
横断歩道の向こう側には、僕が足を踏み入れてはならない世界が広がっていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
話は遡ること一週間前、いつものようにTinderでスワイプしていたらある女の子とマッチした。
新宿でバーを始めたという彼女。名前はマツモトミユキと言った。
お店が出来たばかりで、そこで働く店員を募集しているらしい。
過去にバーテンダーのバイトに応募して諦めた経験のある僕はもしかしたらバーテンダーになれるんじゃないかと思い、ぜひ働きたいと声をかけてみた。
話を聞いてみるとバーはバーでもボーイズバーらしい。
ボーイズバーと聞くとなんだか不安だが、とりあえずどんなことをするのか聞いてみると、ただお客さんと会話してお酒を飲むだけということだった。
シフトも自由。暇なときに来ればいい。
しかも時給は他のどんなバイトよりも高いとのこと。
さらに詳しく話を聞くと、
客層は20代後半から40代前半の女性。
しかも立派なところで働くしっかりとした社会人。
働く店員も僕と同じ歳くらいの大学生が多い。
とのこと。
みんな自由に暇なときに働いてお客さんとお酒を飲んで好きな時間に帰っているらしい。
それで高い給料が貰えるならいいじゃないか。おまけに綺麗な女の人とも仲良くなれるかもしれないし。
金と下半身のセンサーが反応した僕はぜひ面接したいですとお願いし、新宿に向かったのだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
待ち合わせは新宿三丁目の駅を出たところ。
普段あまり訪れない街だったが、出口を出たところで「これはまずいな」と思った。
横断歩道の向こう側にあったのは僕が足を踏み入れてはならない世界。
新宿二丁目といえば分かる人も多いだろう。
そう、横断歩道を越えると、そこから先は二丁目だった。
言わずと知れたゲイの街だ。嫌な予感がする。
そうこうしているうちにLINEが来た。
「もう着きましたか?今向かってます!どんな格好ですか?」
仕方ない。ここまで来たら行くしかないと服装を教え待っていると、数分後、ハゲ散らかしたおっさんが来た。怪しさが一層増す。
「君がヒロシくん?どうも、マツモトに言われて迎えに来ました。タハラです。」
タハラはそう話かけると、じゃあお店に行こうかと歩き出した。もう行くしかないと後ろを歩く。おい、ミユキが来るんじゃなかったのか。こんなおっさんが来るなんて聞いてないぞ。話が全く違うじゃないか。
タハラは歩きながら話を続ける。
「君、この街はよく来る?二丁目はさ、ゲイバーで有名なのは知ってるでしょ。うちもその一つなんだけどそんな怪しいところじゃないから。」
「働いてるのも君と同じくらいの大学生ばかりでね。みんな元気にやってるよ。」
「ミユキから話聞いてる?彼女すごいよね。25でお店開いちゃうんだから。君もネットでミユキと知り合ったんだっけ?俺はそういうの分からないけどなんか便利なアプリがあるらしくてそこで店員さんを募集してくれてるんだよ。すごいよなあ。」
そのマツモトミユキは来ないのか。来ないならそう伝えてくれ。話を続けるタハラに不信感を抱きながら歩く。やがて薄暗い雑居ビルの一角についた。
「ここがお店。じゃ上がろうか。」
違う。店の名前はこれじゃなかった。
さすがにボーイズバーで働くことに不安を抱いていた僕はしつこくミユキに質問した。
そしてあらかじめ店について調べるために店名を聞いたのだが、どう検索してもヒットしなかった。
連れて来られた店はそれとは全く違う名前だった。
初めから薄々感じていた不審感が確信に変わった。こいつは俺を騙している。
エレベーターで3階に上がり、一番近い扉を開けるとこじんまりとしたバーに通された。
カウンターには僕と同じくらいの歳の大学生が3人くらいタバコを蒸している。
その後ろのソファーに座っていた男が声をかけてきた。
「おかえりなさい。その子が面接の子?よしここ座って。」
席に通され、水が運ばれてきた。
店はそこまで大きくない。20人も入ればいっぱいになるだろう。
バーらしく薄暗い。カウンターには色々なお酒が並べられ、店員の男たちが談笑していた。僕には見向きもしない。
やがてタハラが隣に、ソファーのに座っていた男が向かいに腰掛けた。
「どうも。オーナーのマナベです。」
これはどう考えてもアウトだと直感で分かった。マナベの両腕には龍の刺青が掘られ、背は高くはないものの筋骨隆々。鋭い一重まぶたの奥から睨みつけるように僕を見ている。どう考えてもオモテの世界の人間ではない。
「じゃあうちの店について説明していくんだけど。」
とマナベの説明が始まった。初めのうちはあらかじめミユキから聞いていた通りだったが、徐々に雲行きが怪しくなってきた。
「君はここがどういう街か知ってるよね。」
はい知ってます。ゲイの方が多い街ですよね。
ナメられたらいかんとひょうきんに答えた。
「そうそう。だからお客さんも女性よりはそっちの男性の方が多いわけ。それでね、指名してもらえるようにお客さん来たらみんなでアピールするの。」
そのアピールがどんなものかは教えてくれなかったがマナベは説明を続ける。
「で指名されたら給料が発生するんだけど、それは普通のバイトと同じくらいなのね。で、もっと高い給料が出るのが、その先のデートなの。」
デート?なんだそれはと思っているとマナベは紙を取り出した。
「これうちの料金体系ね。写真撮ってもいいよ。」
その時に撮った写真がこれだ。
これはお客さんが払う額だ。教えてもらえなかったがそのうちの何割かが店員に入ってくるらしい。
「うちで稼いでる子はこのデートで稼いでるのよ。まず指名されて、一緒に飲んで、気に入ってもらってデートまで行くのね。多い子だと一晩で3回くらいデートするから何万も稼いでるよ。」
次の一言で僕は悟った。
「でそのデートなんだけど、キスと口でするのはしてね。」
そうか。ここはそういう場所なのか。
鋭く僕を見るマナベの目をじっと見ながら僕は思った。
ここは新宿二丁目のボーイズバー。
当たり前ながらゲイの人がたくさんくる。
ここでの本当の仕事は彼らとお酒を飲むことの先にある。
体を売ることにあったのだ。
「大丈夫?できるよね?」
そう言われた僕は「はい。できます。」と答えた。
すでにここまで来た以上、聞けるだけ聞き出そうという態度に変わっている。
「まあこれだけ高いお金もらえるんだからそういうことするのは当たり前だよね。普通のことして稼げるわけないんだからさ。分かってもらって良かったよ。泊まったりすることもあると思うけどきちんと尽くしてあげてね。」
おいおい止まんねえなと思いながら「はい。分かりました。」と答える。
言うまでもないがさっきまで言ってたことと全く違う。
隣に座るタハラもうんうんと頷いている。何頷いてんだてめえ。お前が言ってたこと全部嘘じゃねえか。
一通り話を終えると、契約書を書かされそうになった。が、「まだ働くとは決めてないので後日連絡します。」と断固として断った。
「そう。いい返事を待ってるよ。」
マナベの目は笑っていない。
「じゃあまた連絡します。ありがとうございました。」
と言って席を立った。タハラが「送るよ」と言い一緒に席を立った。
タハラにマナベが声をかける。
「マツモトさんありがとう。じゃあお願い。」
「はーい。」
おい。お前タハラって言ったよな。マツモトってミユキの名字じゃねえか。お前タハラじゃないだろ。本当はマツモトなんだろ。お前、女のふりしてTinderやって、働いてくれる男探してるんだろ。汚えぞ。
タハラ、いやネカマのマツモトの後に続き店を出た。
閉める時にカウンターに座っている店員の男たちがこちらを見ているのに気が付いたが、僕の視線に気がつくと目を逸らした。やはり顔を覚えられたくないのだろうか。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
下に降り、交差点のところまでネカマのマツモトと歩いた。
信号が赤になり僕らは立ち止まる。彼が話しかけてきた。
「どうだった?こういう業界って縁なかったと思うけど、頑張ればその分だけ稼げるからね。ぜひ前向きに考えてみてよ。」
「はい。」
働くわけねえだろと内心思いながら、これで最後だと思いマツモトに質問をした。
「店長のミユキさん、マツモトミユキさんは今日はどこにいるんですか?」
ちょっと間が空いて彼は言った。
「あー、今日は休みでねえ。家でゆっくりしてるって言ってたよ。たしか武蔵小杉の方に住んでてねえ。」
信号が青になり軽くお辞儀をして別れた。
渡りきったところでTInderを開きミユキのプロフィールを見る。
嘘じゃねえか。武蔵小杉ならこっから10キロ以上は離れている。
それに2kmの表示は空いてがすぐ近くにいるときにしか出ない。
やっぱりな。お前タハラじゃないだろ。マツモトだろ。ミユキのふりしてたんだろ。
ミユキなんて女の子はそもそも存在してなくて、ネットで拾った写真使ってネカマしてたんだな。店員集めるために。どうりで絵文字もおっさんくさかったわけだ。
さっきまでいた禿げたおっさんが頑張って若い女の子のふりをしていたかと思うとおかしくなってくる。
ふざけやがって。
その場でマツモトのLINEをブロック削除し、Tinderもマッチ解除した。
これで一生あいつらと関わることはない。さようなら。
再び駅に向かって歩きながら、カウンターに座っていた僕と同じくらいの男たちを思い出した。
黒髪に端正な顔立ちの、ごく普通の男たちだった。
彼らは今日も、男に抱かれるのだろうか。
さっきまで知らなかった男と個室に入り、枕を共にするのだろうか。
彼らは進んでこの仕事を選んだのだろうか。
色々な思いが頭をよぎったが、すぐに忘れることにした。
僕とはもう一生縁のない世界だ。
やがて初めの横断歩道に差し掛かった。
この道路が二丁目と三丁目の境目になっている。
向こう側まで渡りきり、三丁目に帰ってきた。
ここが僕の生きる世界。向こう側は違う世界。僕の居場所ではない。
僕は自分の世界で、平和に生きよう。
汗がすうっと引いていくのを感じながら、家に向かう電車に乗り込み、新宿の街を後にした。
<参考記事>