第十話 残火
サウスはティトの隣へとやってきた。全身は切り傷と火傷の跡で痛々しいが、サウス本人は落ち着いていた。やっと仇を討つことができたのだが、不思議と喜びは感じられなかった。サウスにとってこれはまだ復讐の始まりにすぎず、後に残った四人を殺すまでは何も感じなかった。
サウスは地べたにへたり込むティトを見た。その瞳にはかつての勇敢さや希望は消え失せ灰色の絶望だけが広がっていた。それはかつての自分の姿だとサウスは思った。今の彼女には慰めや励ましの言葉など意味はなくただ無限に続く地獄のような現実が目の前に広がるのみである。
ティトの視線の先には一体の異形の植物が聳えていた。それは生物と植物を混ぜたようなグロテスクな様相を呈し、身体の皮膚や血管や臓器や骨が植物と混ざり合い歪んだ異形の像。よく見るとそれはティトと同じ獣人族の女性である。しかしその表情からは生気を感じられずまるで蝋人形の如く固まり、微かに呼吸にあわせて上下する胸部が生きていることを教えてくれた。
彼女こそティトの探し求めていた姉であることは一目瞭然であった。だからこそサウスはティトに投げかける言葉を失っていた。こうなることはサウスにも予想がついていたことだ。奴隷商人に攫われた魔族の末路がどうなるか、サウスが知らなかったわけではない。それはティトとて同じだ。だがティトとサウスが決定的に違うのは、希望がいかに危険なものかというのを知っていたかどうかだった。
サウスにとって希望は自分を苦しめる悪魔のような存在に過ぎない。希望は確かにひとを前向きにさせ生きる勇気を与えるものだが、希望は時として顔を変えひとを絶望のどん底へ突き落す。その希望が強ければ強いほど闇は知らぬ間に背後から忍び寄り後には狂気しか残らない。サウスはそれをよく知っていた。
「嘘よ……こんなの現実じゃない……」
ティトが独り言のように呟く。
「こんなの……違う……悪い夢よ……だからお願い……早く覚めて……」
これが悪夢ならどれだけいいか。だがいくら目を閉じても目の前に広がる光景を変えることはできない。あるのは無残に変わり果てた最愛の姉の姿だった。
「ティト」
サウスの言葉でやっとティトは我に返ったように振り返った。その目は涙で赤く腫れていた。
「サウス……」
「終わったぞ」
「うそ……」
「本当だ。勇者を倒した」
信じられないといった表情で見つめるティトだったが、サウスの傷だらけの身体を見て激しい死闘が繰り広げられたことが伺えた。
「殺したの?」
「いや……まだな」
それ以上は何も言わずサウスは目の前の植物に目を移す。二人の間にしばらくの沈黙が続いた。
「夢じゃないのね……」
大きく息を吐いてティトは言った。
「ねえサウス、お姉ちゃんを元に戻す方法はないの!?」
「無理だ。マンイーターに寄生されたら臓器まで結合してしまう。見た目は魔族でも中身は完全に植物だ。意識もマンイーターに乗っ取られて今は魔力と栄養を供給するただの養分になってる」
サウスの語る内容はあまりに嘘がなく現実を突きつける。
「じゃあ……どうすればいいの……」
「お前にできるのは一つだ」
サウスはそう言ってティトにナイフを渡した。
「それで心臓を抉りだせば楽にしてやれる。心臓以外だとマンイーターの自然治癒で回復してしまうから確実に息の根を止めるにはこれしかない」
「そ……そんなの無理よ!」
「誰も強制はしない。このまま生かしておくのも自由だ。お前の好きにすればいい。だがこのまま生かしておいてもお前の姉が再び笑たったり喋りだすことはない。マンイーターに一度捕縛された者は永遠に生きた養分となるだけだ」
ティトの目の前が真っ暗になった。ナイフを持つ手が震え目からは涙が零れた。こんな残酷な仕打ちをなぜ私が受けなければならないのか。なぜこのオークは私にこんな事をさせるのか分からなかった。だが姉を自由にしてあげられるのは自分だけというのも真実だった。このまま姉を生かしておいて何になるだろう。考えることも喋ることも手足を動かすこともできない肉の塊、それが現実だった。
ティトはナイフを握りしめた。頬を濡らす涙を拭きとると、そこには決意した表情のティトがいた。ティトは慣れない手つきでナイフを姉の心臓部に突き立てた。
「ごめんねお姉ちゃん」
ナイフはずぶりと深く肉の奥へ突き刺さりその感触がナイフからティトの手へ伝わった。赤黒い血液が傷口から溢れ流れ出す。すると姉の身体がびくんと跳ね上がった。まるで生きているかのような動きにティトは戸惑ったが、これはマンイーターの反応に過ぎず彼女が本当に痛がっているわけではない。ティトは唇を噛みしめナイフに力を込めた。心臓から伸びる血管をぶちぶちと切っていく。血が噴き出しティトの顔に降り注いだ。顔面を鮮血で真っ赤に染めたことも気にせず、ティトは一心不乱にナイフで自分の姉の心臓を抉り取った。
マンイーターから断末魔のような叫びがおこった。それはまるで彼女の叫びであるかのようだった。ティトの手には赤黒く染まった心臓がまだ鼓動を打っていた。マンイーターはぐにゃりと折れ曲がるとしばらくして急激に枯れていった。ティトの姉も、次第に骨と皮だけの腐食した肉塊へと変化していった。ティトは心臓を落とすとふらふらとその場に座り込みその場で嘔吐した。
「終わったな」
サウスはそう言うと踵を返し出口の方へ歩き出した。
「待って! どこへ行くの!?」
「次の勇者を殺しに行く」
「私も……私も連れて行って!」
「駄目だ」
「なんで!?」
「お前は弱く足手まといだ」
「邪魔だっていうの?」
「そうだ」
「私も……愛する者全て奴らに奪われた。今さら命なんて惜しくない。捨て駒でも何でもするから!」
「いいかティト。これは俺の復讐だ。俺一人の戦いだ。誰かに自分の復讐を託そうなんて甘えた考えは捨てろ。殺したい奴は自分の手で殺せ」
サウスの言葉は有無を言わせぬ力があった。だがその言葉の奥はひどい哀しみで満たされているのをティトは感じ取った。
「こいつをどうしようがお前の自由だ」
サウスがそう言って指差した先には、変わり果てた姿のグレイがいた。手足を切断されマンイーターに捕縛されたグレイは自分のコレクション達同様の姿となっていた。マンイーターから伸びる枝はグレイの腹部に刺さり皮膚の下をミミズのように走り切断された手足は幹に吸収され磔の状態になっていた。マンイーターにとってこれほどの貴重な養分は他にないだろう。圧倒的魔力量が災いし、グレイの意識ははっきりと残っていた。
ティトは黙ってナイフをグレイの横腹へ突き刺した。脂肪で覆われた肉にナイフが深く刺さりグレイは絶叫する。
「ぐぎゃあああぁぁあおおおおおぉおぉ!!」
ナイフを引き抜くとみるみるうちにマンイーターの自然治癒力によって傷口が塞がっていく。マンイーターに魔力を吸収されたグレイは魔法を発動させることもできずただ黙って自分の身体が刻まれるのを見ているしかない。食事も必要なく排泄も必要なく老化の心配もなく心臓を抉り取らない限り永遠に生き続けることのできる身体、だがそれは今のグレイにとっては終わることなく永遠に続く生き地獄に違いなかった。
「ありがとうサウス」
少女はにこりと笑った。それはかつてのあどけない笑みと同じように眩しく輝いて見えた。しかし今度の少女の顔は鮮血を浴びて赤く染まり手にはナイフが握られていた。それは一生遊べる玩具を手にした子供の笑みであった。何度壊しても元に戻る不思議な玩具、これがあれば哀しみも絶望も全て忘れることができる。
「待て、やめろ……今なら許してやる……やめるのだ……私は勇者だぞ……欲しいものならくれてやる……金か?奴隷か?そうだ、お前に特別に私の奴隷をただでくれてやる。どれでも好きのを選んでいいぞ。駄目か??ならこの屋敷はどうだ?今なら奴隷首輪もつけてやる。これで奴隷はお前の言いなりだ。はははは。悪くない話だろ」
グレイの言葉はもはやティトの耳には届かなかった。ただ壊れた玩具が鳴いている程度に過ぎなかった。
「あはっ、あははははは!」
少女の口元から笑みが零れる。少女はナイフを振りかざした。そこにはかつて姉を探し求め奔走した勇敢な少女の面影はなく、目に狂気を宿し笑みを浮かべる復讐鬼がいた。グレイの悲鳴とティトの笑い声が屋敷中に響き渡るのを背にサウスは奴隷都市から去っていった。