バンクーバーでは風邪を引いて、サンフランでは人気寿司店で出てきた偽の久保田に腹を立て、テキサスでは旧友と親交を温め、まあテキサス大学と打ち合わせしたりして、ボストンではMIT詣でをして、ニューヨークでは物件を探し、ロンドンでは大英博物館で髑髏水晶をみたりシャーロック・ホームズ博物館に行ったりして、パリではオルセーでガレとアール・ヌーヴォーの作品を鑑賞して世界で最も尊敬するジャパニーズバーベキューシェフと飯を食い、ブルゴーニュまで足を伸ばして坪単価の最も高い作物であるロマネ・コンティのぶどう畑の収穫に立ち会い、リンツではアートとテクノロジーについて考え、アブダビでは石油の掘り方と砂漠での暮らしを体験して、ムンバイではカレーを食べて、そして東京でDMMとチームラボの作った作品群に触れた。
まあこれで地球を全部見た、とは到底言えないが、長いようで居てあっという間の一ヶ月。
いろいろ思うところがあった。
まず、シリコンバレー含めて世界中、いまから東京が追いつけないような現実などどこにもないこと。ネットしかみていないとこの事実はわからない。
確かに学会などに行くと研究者の数では日本は欧米や中国に比べて小粒なのは間違いないが、実は日本の研究者は質が飛び抜けている。
というか日本の研究者はトップエンドが飛びすぎていて生半可な実績では一人前と認めてもらえない。
東京にたいていのものがあるので「わざわざ海外にいかなくても」という意識が強い。これが要は国際学会へ参加するモチベーションが低い理由だ。
日本以外の国はとにかく広い。たとえ国内学会であっても移動時間は6時間以上かかることが普通であり、必然的に国際学会に参加するのとあまり変わらなくなる。
ヨーロッパに至っては逆にひとつの国が狭すぎて、必然的にパリやロンドンやバルセロナに集まると国際学会になってしまう。
その御蔭で英語が磨かれたり国際的な人脈ができたりといった余録があるのだが、逆に言えばそれだけである。
この背景を無視してことさらに中国脅威論やGAFA最強論を論じても生産性がない。
しゃあないじゃん。俺たち日本人なんだからさー。
AIという、かなりざっくりしたくくりで見ても東京の知性密度は世界的に未だ持って異常な高密度であり、世界最大の都市である東京が、地価が高騰しすぎてアパートを追い出されてホームレス化した白人で道が埋め尽くされているサンフランシスコやシリコンバレーに劣る道理がない。
日本で生まれた人にとっておよそ東京ほど居心地の良い場所はないのではないか。
いまもって有効な利用方法が確立していないAI関連分野で特に重要なのは、テーマの多様性であり、多様なテーマに対してAIを適用していくことによってしか得られない知見をいかに蓄積していくか、これに尽きる。
僕が今回訪問した、名だたる世界のAIベンチャーや研究所がもっとも多く悩んでいたのはまさしくこの点であった。
彼には知識と技術があるのだが、顧客が居ない。顧客接点をもっておらず、要は宝の持ち腐れになっている。
そして当然、彼らの尖った技術を使いこなす顧客の方にも相応の知識と技術が要求される。
並大抵の顧客、つまりほとんどすべての顧客、とりわけAIを活用できる大半のエスタブリッシュメントにとって、AIベンチャーと会話することは非常なストレスになる。結果、彼らの技術を活かせるチャンスを失い、安っぽいPoCを繰り返して「ふーん」と納得する程度のレポートが上がってくれば御の字、という体たらくだ。
今回話を聞きに行ったそうした企業や研究者は、誰もが我々の話を聞いて目の色を変えた。
我々の強みは銀行や保険会社や建設業、小売業といったエスタブリッシュメントの顧客を多数抱え、実際に彼らの問題解決を行っているということである。
これは東京の密度があるからこそ実現可能なことだ。つまり世界最高水準のメガバンクや保険会社、製造メーカーや建設・建築会社のヘッドクォーターと、国内最高水準の大学が密集しているからこそできるのである。
以前から東京の知性密度の高さには注目してきたが、AIの時代になるとこんどは単なる知性の高さだけではなく、経済密度とでもいうべき指標が高いほうがその都市は発展できる。
世界大学ランキングで東大がいかに低かろうと、東大で生み出される研究成果は、実際的に世界を変えてきたものだし、特にコンピュータの分野では最先端を行っている。その他の東京圏の大学も同様で、日本人はこれを誇って良い。むしろ問題はそうした研究室の数と定員が少ないことで、優秀な一線級の人材を取りこぼしている可能性について考えるべきだろう。
アメリカで同じことをやろうと思ったら、ニューヨークとボストンとシリコンバレーで人をどうマネジメントするかかなり真剣に考えなければならない。もちろんそれを解決するためのフランチャイズシステムが確立しているところがアメリカの強みだが、同時にそれは弱点でもあり得る。結局のところ世界最強のフランチャイズシステムを発明したのがイトーヨーカドーだったのも、やはり東京の密度が関係しているはずだ。
AIに関わる人間を東京はもっと増やすべきだ。いや、東京に限らず全国的に増やすべきである。
AIというくくりではなく、コンピュータに関わる人を増やすべき、という言い方でも良い。それくらい、この2つは密接な概念であると同時にほとんど同じ概念である。
1950年代、人工知能とはコンピュータのことそのものを指していた。
この時代、まだいわゆるビットマップディスプレイは発明されていない。サザランドがそれを発表するのは1960年代のことだ。
とすると、この時代の人々の想像力は、自然と物いわぬ機械の「思考能力」に向かざるを得ない。
だから AI研究が盛んになった。ディスプレイというものが存在しない時代のコンピュータについて少し想像すればわかるが、これが何者なのか誰にもわからなかった。だからひとびとは一所懸命に機械に計算させたり、言葉を教えたりしてなんとか意味のあるものが作れないか苦労した。
ところがサザランドがディスプレイを発明し、その可能性を示すと、人々は一気にそれに目を奪われた。視覚というものがいかに人間の興味を引きやすいかということの証明でもある。
サザランドを起点とした系譜は「コンピュータグラフィックス」と呼ばれ、今日のVRやiPhoneに至るまで、人々はサザランドの示した道から想像力の幅を広げ、現在の世界を作った。
サザランドは意図的にAIを研究テーマから排除した。なぜならそれは「AIとは違うコンピュータの活用方法の研究」として出発したからであり、一方で視覚的説得力に乏しいAIはなんども廃れて何度も復活するということを繰り返した。
そしてサザランドのビジョンがほとんど全部実現されたとき、業界は行き詰まった。もう実現すべきアイデアがない。
その苦肉の策がAIの復活である。
SiriにしろGoogleアシスタントにしろ、そういう理由から取り入れられた。しかしもともと異質なこの2つのものは、進化が数十年前に止まったままのものだ。だから使いにくいし、イマイチ何の役に立つのかもわからず、たえず人をイライラさせるだけのものになっている。そしてスマートスピーカーにはやはりディスプレイがない。まさしくコンピュータグラフィックの対極的な存在であることを暗示するかのようだ。
今こそ人々はコンピュータについてもっと深く多様な視点から考えるべきであり、21世紀のサザランド(まだ存命だが)を探すか、目指すかしなければならない。
現在、われわれがコンピュータまたはスマートフォンと呼んでいるものは、主にコンピュータグラフィックスの成果である。
サーバと呼ぶものは、ある意味で人工知能の成果と呼んでもいいかもしれない。arduinoももしかするとそう。
この2つは全く異質なものであって、もっと溶け合うか、それとも全く異質な進化を遂げるか、とにかく同じ機械に同居するべきものかどうかという点にまで立ち戻って、いまいちどその意義、あるべき姿を考える必要がある。
面白い時代に生まれてきたじゃねーの