ウェンブリー編
第4章:偉大なる詐術者(3)
【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】
既に幾度となく目に入れて来た自身の論文の題名に肘を突き、前方に見える窓を眺める。
外では既に陽が頂点を通過し、午後の麗らかな陽射しが眠たげに大地を包み込んでいる。
対照的に、そこから薄いガラスと石壁を隔てた図書室の内部は、煤けた空気に支配されていた。
本特有の匂いに囲まれた広いその空間は、目を瞑るとまるで雨中の森にいるような錯覚を感じる。
調べ物を終えて一息吐いているアウロスは、懐かしいその世界に少し気だるげに浸っていた。
記憶はとうに薄れていても、感覚だけは残っているらしく、かつて身を投じた世界を回想し、嘆息する。
そこに、本や論文などはない。
あったとしても、誰も手に取る事はない。
そう言う世界に存在た頃は、常に心臓の鼓動を気にしていたが、その代わりに慢性的な悩みと言うのはなかった。
思考は必要だが、同時に思考を消す事もまた必要だったから。
――――そんな懐郷に近い念を頭の隅に追いやり、別の思考に脳を浸す。
それは、つい先日の記憶。
錬金術の第一人者として紹介された老人の言葉だ。
『結論を言えば、御主の欲している性質のを有した金属は、幾つか存在する。中には原石が大量に発掘されている物もある。だが、合金に適している金属で、更にそれらの性質を全て残すとなると……難しいじゃろう』
アウロスの手には、その錬金術師から教えて貰い書き記した、材料の有力候補となる金属の一覧表がある。
しかし、そのどれもが単体では使えないし、既に問題点を指摘されている。
このままでは論文は完成しない。
「……あれ。アウロス君?」
耳に馴染み始めた男声が人気の少ない図書室に響く。
アウロスが振り向くと、その声の通り優しげな顔立ちの男――――ウォルト=ベンゲルが数冊の書物を手に意外そうな顔で立っていた。
「帰って来てたんだ」
「仕事が終わってから会いに行こうと思ってたんだが、手間が省けたな」
アウロスは向かいの席に座ったウォルトに、遠征時に得た情報と自身の見解を説明した。
「……合金、か。現在大量生産されている合金じゃなくて新しく製造するって事だよね?」
「ああ。だけど、どうやら厳しいらしい」
新たな合金の作成、と言うアイディア自体は、アウロスの頭の中に数年前からあった。
しかし、専門分野ではない事や時間や環境の都合もあり、構想の域を出ていなかった。
そして今回の件で、実現困難の烙印を押されてしまった。
可能性が消えた訳ではないが、事実上のお蔵入りだ。
「僕の方でも一応調べてみたけど、生産性が高くて記憶が可能な金属はちょっと見つからなかったよ」
「そっか」
朗報を期待していた訳ではなかったが、半ば礼儀としてアウロスは声に僅かな落胆を混ぜた。
「ただ、オートルーリング対応の魔具についての研究に役立ちそうな文献が二つ程見つかったんだ。暫くこっちの方を分析してみようと思う」
「頼む。俺もちょっと心当たりと言うか、調べてみたい事があるから、暫くそっちを当たってみる」
状況は厳しい。
とは言え、そもそも研究とは闇の中の迷路を手探りで進むようなもので、行き止まりなど珍しくもない。
よって、アウロスのような若輩者でも、凹むのにはとうに飽きている。
それを示すかのように、直ぐに顔を整えるアウロスを頼もしく思いつつ見ていたウォルトだったが――――
「……ところで、少し言い難いんだけど……その服は……」
目を半分閉じつつ、アウロスの着ている薄汚れたウール製の白いシャツに控えめなクレームを付けた。
白と言う事もあり、旅の間に付着した汚れがやたら目立つ。
臭いはしないものの、視覚的に余り気分の良いものではない。
「そう言えば、直でここに来たんだったな。一度宿に戻るか」
「じゃ、僕は調べ物があるから」
報告会はそこで終わり、アウロスは図書室を出て、そのままの足でいつもの料理屋兼宿舎へと向かった。
二週間振りに料理屋【ボン・キュ・ボン】の敷居を跨ぐと、最早古参の貫禄で牡蠣のグラタンを口一杯に頬張る情報屋の姿があった。
「は、ほふふん! へへー、ほほふははへへひははっはー!」
何を言っているのか全くわからなかった。
「……」
「はひはひ、はへんへひふーはんほひはふはふはんへはひひはほほひほほほほひははひはんへはひへはひはほー! へへへひはへ、ひはへほほへー!」
アウロスはそんなラディの顔をじっと見る。
その目は真剣で、ラディの奥底まで覗こうと言う意思が見えた。
「んー? はひひへんほほ。はーほーは。ははひはひはははへへ、ほーはふははひほひひょふひひはふいはっへはへへ」
見続ける。
「……」
ラディは思わず食べていた物を全部飲み込んだ。
かつてない程真面目に顔を見つめられ、思わず顔を赤く染める。
「な、何なのよもう。そんなに見ないでよ。ねーってば」
それでも見続ける。
「ちょっ……え? これ、もしかして……えええっ? そんな、いきなりはダメでしょ流石に! ホラ、こう言うのはまず二人っきりになれる場所で、あと景色とかも大事で、ああでもそう言うの気にしない人最近多いのかな、じゃあ仕方ないのかな、でもでも私はどっちかってーと気にするタイプなんで、合わせてくれる方が好ましいと言うか、いや私が合わせても良いんだけど、そう言うのって今後の生活に影響すると言うか、あーでも亭主関白にも少なからず憧れみたいなのがあると言うか……」
「死神を狩る者」
「は?」
「一週間あれば調べられるよな? じゃ、頼んだ。あ、それと例の魔具のレンタルをもう一回頼む。そんじゃ」
「……ナニガナニヤラ」
アウロスは一方通行の会話を終わらせ、厨房に向かった。
そこにはこれまでと同じく、この店の唯一のシェフであるピッツ嬢の姿がある。
アウロスに気付くと、恰幅の良い身体を揺らし近付いて来た。
「あらー、お帰りになったんですかー。予定より大分遅くなりましたねー。心配したんですよー?」
「それは申し訳なかった。お詫びと言う訳じゃないが、これお土産」
「あらあらー! どうもありがとうございますー!」
語尾は相変わらず間延びしているが、語気は少し強い。
感謝の意は十分に表れていた。
「……あのー、ここにも一人女の子がいますよー。親しみやすい良い子ですよー。物を与えたら凄く喜びますよー」
変なテンションでアピールして来たラディを、アウロスはキリッと無視した。
「それで、大学の方で聞いたんだが」
「無視は……ゴメンして……」
しかしアウロスは毅然とした態度で無視し切った。
「クレール、自宅待機中なんだって?」
「そうなんですよ!」
ピッツ嬢から語尾の間延びが消えた。
それは真剣である事の証明。
悲痛な面持ちもそれを肯定している。
「あの子ったら、私には職場の事を何も教えてくれないんです。今回もずっと部屋に閉じ篭りっ放しで。アウロスちゃん、何か知ってます?」
「アウロスちゃん! うわ、私もそう呼ぼっかな! 呼ぼーかなー! 呼んで良いの? おーい!」
無視の限りを尽くす。
「心当たりはあるけど、俺から言う事でもないんで」
「そう……それじゃ、せめて声を掛けてくれないかしら。私が呼んでも大丈夫の一点張りで」
「了解。どうせ土産を渡さないといけない」
ピッツ嬢の顔が少しだけ晴れる。
それでも、妹に対する心配や無力な自分に対する失望が大半を占めているが。
「妹をお願いします」
そう言って頭を下げる、大家とも言うべき存在に――――アウロスはどう応えるべきか迷ったが、結局沈黙のまま頷くだけだった。
それをボーっと眺める女が一言。
「……何か私、空気読めないお子ちゃまみたいになってますね……」
「まさにその通りだ」
「うがー! どうせ無視するなら徹底してよっ!」
アウロスは錯乱するラディを尻目に、若干重い足取りで二階へ上がった。
普段はこの時間帯になるとクレールが明かりを灯すので、階段も廊下もはっきり見える。
だが、今日はやたら暗い。
そして、扉越しに感じる空気も暗い。
「……おい、クレールさん。いるか」
取り敢えず声を掛けてみる。
反応はないが、人の気配は感じ取れた。
聞こえてはいるようだ。
「大学で話は聞いた。大変らしいな」
その呼び掛けに反応したのか、室内から物音がする。
そして――――
「お姉ちゃんに言った!?」
扉は開かず、叫びにも近い音量でクレールの声が飛ぶ。
長時間喋っていなかった所為で音量の制御が出来なかった訳ではなく、必死さがそうさせたと言う感じだ。
「言ってない。だが顔色変わるくらい心配していた」
「そう……」
安堵と言うより疲労感を漂わせたその声と共に、扉がゆっくり開いた。
「入って。お土産、買って来てくれたんでしょ?」
アウロスは苦笑しつつ、クレールの横を通って中に入る。
クレールの部屋は、女性の生活空間とは思えない程質素で何もない場所だった。
アウロスの部屋も余り物はないが、多少の私物くらいは置いてある。
ここにはそれすらなく、アウロスが初めて自室を眺めた時の風景がそのままここに在る。
「……何これ」
「何これと言われても、土産としか。何か今流行ってるらしい」
「これが……?」
一つ目の象の置物を半眼で見つめながら、クレールは困惑の表情を浮かべていた。
実際、土産物と言うより呪術用の道具に近い。
「さて、それじゃ事情聴取と行きますか。ミスト助教授から頼まれてるんだ」
「ミスト助教授から……?」
「と言っても、俺は何も知らないからな。一から説明してくれ」
「……事の発端は、クレール=レドワンス助手が現在手掛けている論文の中に、およそ一月前にライコネン研究室のガルシド=ヒーピャ研究員が提出した学士論文の内容と一部酷似した箇所がある――――と言う報告がグラウディオ教授の元に届いた事から始まった」
前衛術科、ミスト助教授室。
「グラウディオ教授は直ちに調査し、真偽の確認を行うよう自らの諜報員に命令。その結果、確かにクレールの論文にはデータの流用などを疑うべき点があった。独創的な発想はないものの、細部に渡っての綿密なデータ測定が特徴的で、偶発的な一致は考え難い。よって、委員会に報告し正式な手続きで審議を行う……とまあ、そんな所だ」
太陽が地に隠れ、室内は暗がりの中に主を隠していた。
そしてもう一人、闇のヴェールに影をなくした女が視線を下げて立っている。
「それにしても、研究員が個人で管理している論文を上司の私が知らない間にチェックを入れるとは、随分と優秀な諜報員を持ってるんだな。羨ましい限りだ」
机に小さく嘆息が落ちた。
それを拾うように、やや小さい手がスッと差し出される。
しかしその指は息に触れる事なく、文字を編綴した。
「機嫌が悪そうですね」
その声と共に、天井のフレアペンダントライトに火が灯る。
魔術士が一般人に最も羨ましがられるのは、もしかしたらこの瞬間なのかもしれない――――そんな感想を抱きつつ、ミストは肩を竦めてみせた。
「それはそうだろう。余り面白い気はしない。部下に盗作疑惑が掛けられていると言う事は、私にも責任が発生するからな」
それならそう言う顔をすべきでは――――明かりが灯って直ぐにそんな非難めいた視線を受けられたミストは、久方ぶりの笑みを零した。
だからと言って、心が休まる訳でもないのだが。
「まあ、それが目的だろうから当然だがな」
「目的、ですか」
抑揚のない声が薄暗い室内を静かに揺蕩う。
それと同時に、床に伸びた影が形を変えた。
先の少し折れた三角形がくの字と繋がり、中央の長い影と同化した。
「盗作なんてのは誰かが騒がなければわからないものだ。当然、密告者がいる。その目的も、今回の件で誰が損するかを考えれば明らかだ」
「彼女に対しての私怨と言う可能性は?」
「なら密告は私に来るだろう。彼女は私の研究室の一員だ。わざわざグラウディオ教授に持って行く必要はない」
ミストは瞑目した。
そして、ある人物の顔を想起する。
「私を陥れようとする人間となると、特定もし易い。と言うより、ほぼ特定は終わっている。能動的なのか、非常手段なのかは知らんがな」
「……?」
目を開け、眼前の魔術士のキョトンとした顔を確認し、微笑を漏らす。
もしここにいるのが『あの男』なら、これだけで全てを察してしまうのだろう――――そんな推測がもたらした笑みだ。
「何れにせよ、まずは本当に盗作があったかどうか、だ。君はどう思う?」
「彼女の性格上、あり得ないでしょう」
「ほう。アウロスと同じ見解か」
敢えて言葉にする。
しかし反応はなかった。
「となれば、随分と楽が出来そうだな」
「何か御手伝いしましょうか?」
「君の世話になる気はない。やるべき事をやってくれればそれで良い」
「では、傍観の方向で」
それを聞いて、ミストは満足気に口元を緩めた。
「失礼します」
声の主は、上司に何の気負いも感じていない様子で出て行った。
それを見送るでもなく、ミストは机の上に置いてある報告書を手に取った。
既に一度目を通したそれは、自身にとっての吉報が記されている。
何度見ても悪い気はしない。
(保険のつもりだったんだがな)
どうやら予想以上に機能してくれそうなその存在を思い、窓を眺める。
水滴の弾ける音と風の鳴き声が、ミストの心を適度に潤わせた。
学長の心証は良好。
前衛術科の株は上昇。
余計な露出もせずに済んだし、発言力も向上したと見て良いだろう。
捕虜として身柄を確保した『あの男』も、何かには使えそうだ。
今回の件も利用出来る算段が高い。
(全てが順調だ)
言い聞かせるように、内心で独りごちる。
それが苛立ちの裏返しである事は――――自覚していた。
自身の下らない性質に思わず嘲笑を浮かべ、目を細める。
そして、何かを振り切るかのように呟いた。
「問題はない。何一つとして、だ」