ウェンブリー編
第4章:偉大なる詐術者(2)
同じデ・ラ・ペーニャ国内と言う事もあり、トアターナ地方と第二聖地ウェンブリーの気候には殆ど差はない。
しかし、土地柄が異なると、どうしても肌に感じる空気には違和感がまとわり付くもので、それが例え2週間程度のブランクでも、アウロスの身体は敏感にそれを感じていた。
とは言え、身を焦がすような緊張感の中で命のやり取りをした後に感じる平和な風は、それなりに心地良く。
結局、相殺されて割と普段通りの通勤となった。
「あ、アウロスさん! お帰りなさいませ」
と言う訳で――――帰還。
暖かな陽の光が差し込み、淀んだ空気を洗浄している早朝の研究室に、アウロスは威風堂々と入室した。
ちなみに帰還してそのままここに直行したので、服装は遠征時のままだ。
「どうでした? 左遷……じゃなくて島流し……うわあ違う違う、ええと……」
「派遣だ。取り敢えず収穫はあった。ようやくカンファレンスでまともな発表が出来そうだ」
そんな格好の所為なのか、天然なのか、或いは嫌味の強調のつもりなのか、色々判断に迷うリジルの狼狽を軽くいなし、2週間振りの椅子に座る。
まだ馴染むと言う程使い慣れた感じはないものの、それなりに懐かしくはあった。
「それは何よりですよ。久し振りに良いニュースを聞いた気がします」
「……俺の留守中何かあったのか?」
「はあ、まあ」
歯切れの悪いリジルの態度を横目にノートを開き、アウロスは様々な単語や公式が入り乱れた最新のページに目を通した。
移動中、馬車に揺られながら書き殴ったものだ。
これらを整理し、自身の論文に組み込めるか確認するには、資料室で過去の論文を読み倒す必要がある。
アウロスは早速決定した今日のスケジュールに従い、席を立とうとした。
「実は、クレールさんが解雇寸前の大ピンチに」
「……は?」
その腰が直ぐに落ちる。
「何やらかしたんだ? あいつ」
「ええと、言い難い事なんですが……盗作疑惑が持ち上がりまして」
盗作――――大学の研究室でその話題が出る場合、ほぼ確実にその対象は論文だ。
他人の発案した理論を勝手に拝借し、さも自分が思いついたかのように書き記したり、実験データを勝手に流用したり――――そう言った愚劣な反社会的行為が大学内では稀に行われている。
無論、それが露見すれば、解雇になる可能性が極めて高い。
それも、ただ解雇と言うだけではない。
それ以上の大きな烙印が、人生の基盤に押されてしまう。
「何でも、ライコネン研究室の人が以前学内で発表した論文と、クレールさんの論文の内容が一部酷似していたらしくて、査問委員会が調査に乗り出すとか……」
普段は中々その存在を知る事もない査問委員会。
それは独立した特別な組織と言う訳ではなく、大学内の人間が担当しているだけのもの。
しかし、大きな権限がその委員会には付随されている。
「クレールは?」
「ミスト助教授の指示で自宅待機中です」
アウロスはノートを畳み、嘆息した。
クレールと論文盗作――――頭の中でその2つを結んでみるが、一向に形を成さない。
アウロスが彼女と知り合いになって、それほど長い年月が経っている訳ではないが、それでもある程度性格や性質と言うものは見えている。
そこに、姑息な手段を用いる人間像は浮かばない。
同じような意見を持っているのか、リジルもまた嘆息していた。
「でも、僕はクレールさんが盗作したなんて信じられなくて……レヴィさんは激怒してましたけど」
「ミスト助教授の名前に傷を付けたとか騒いで、か。行動パターンが単純な奴だ」
「単純で悪かったな」
まるで計ったかのようなタイミングでレヴィが研究室を訪れた。
その表情には話に出ていた憤怒の色はなく、どちらかと言うと涼しげなもの。
余裕すら感じられた、
「帰っていたのか。予定日時を大幅に越えていたから殉職したとばかり思っていたが」
「……」
アウロスはその言葉を無視し、再び腰を上げる。
そしてそのまま無言でリジルの肩を軽く叩き、研究室の扉を開けた。
「何処に行く。もう直ぐ早朝カンファレンスの時間だぞ」
嘆息し、立ち止まる。
「お前の大好きなミスト助教授に報告をしに行く。それと調べ物もある」
「調べ物。他人の論文をか?」
その発言は間違いではない。
実際、アウロスは他人の論文を参考文献として調べる予定だ。
しかし、レヴィの言葉は明らかにそれを示す物ではなかった。
口の端を吊り上げたその表情からも、その事実が窺える。
再び嘆息が漏れると同時に、アウロスの足は動き出した。
「余りそう言う小物臭い事を言うなよ天才。折角の才能が台無しだ」
「なっ……」
心底嘆きつつ、アウロスは背後の怒号を気にも留めずに扉を閉めた。
他人からの中傷は、言われ続ける事で慣れてしまう。
ただ、その慣れと言うのは『相手がそのような事を言う』事に対しての事。
同じ相手が別の人間を攻撃する場合、それは必ずしも当て嵌まらない。
アウロスは明らかに、クレールを侮辱する言葉を発したレヴィに対して苛立ちを覚えていた。
それはとても不思議な感覚。
(仲間意識なんてものがあるのかね……)
自分に芽生え始めている奇妙な感覚は、トアターナ地方でも感じたもの。
それに戸惑いつつも苦笑し、アウロスは眼前の助教授室の扉を開けた。
「随分と楽しい出張だったようだな」
「……2週間振りに帰って来た部下に労いの言葉とかないんですか」
滞在が長引いた事に対する嫌味とも取れるミストの物言いだったが、表情がそれを否定していたので、アウロスは遠慮なく軽口を叩く。
グレスと何度か眼前の男、ミストについて語った事を思い出し、同時に心中でこっそり頭を掻いた。
相変わらず、目の色が判別し難い。
総大司教や殺し屋と思しき男と対面した時にも一切感じなかった高揚感に、暫し身を委ねる。
そのミストは、破顔しながら机を指で軽く叩いて、機嫌の良さを表していた。
「ま、良くやってくれた。一応事後承諾をしておくが、土産は有効利用させて貰った」
「了解です。それより盗作疑惑とやらについて一言あるんですが」
それについては全く興味がなかったので、本題に入る。
尤も、その本題はつい数分前に摩り替わったばかりだが。
「聞こう」
「あり得んでしょ」
「ほう。随分仲間を信頼しているんだな。結構結構。かなり溶け込めたようだな」
ミストは珈琲の入ったカップを手に取り、一口すすった。
若干の糖分を含んだ苦味が口の中に広がり、脳を程よく刺激しているらしい。
微かに顎が震えている。
「彼女の性格上あり得ないと言ってるだけです」
「性格……か。しかし彼女は色々と悩んでいた。そう言う人間が本来の性格から想像も出来ない愚行をしでかす例は幾らでもある」
「悩んでいた?」
アウロスはその言葉に、過去のクレールの言動や表情などを回想する。
しかしその中に、悩乱の様子は欠片も見渡らなかった。
陰りのようなものは微かに見られたが――――
「人には見せないだろう。彼女の性格上な」
上司として、アウロスより数倍長い期間見て来た人間の言葉だけに、言葉の説得力は並大抵ではない。
しかしそれでも、アウロスは全く納得出来ずにいた。
尤も、それは悩み云々ではなく盗作の件に関してだが。
「本人に話を聞きます。続きはそれからにしましょう」
「そうだな。君が事情聴取してくれるなら手間が省けていい」
「了解しました」
アウロスは頭を下げ、踵を返した。
「あー、一つ忘れてました」
しかし再びその場で振り向き、上司と目を合わせる。
「何だ?」
相変わらず、厄介な瞳。
まるで、その中に広大な海を閉じ込めたような色。
天候によって、或いは時間帯によって様々な色になる海は、母にもなるし、魔物にもなる。
圧倒的な雄大さもあれば、何よりも身近な感じもある。
しかしその実、全く掴みようがない。
そもそも、その存在感は人間とは余りにかけ離れている。
自然の象徴。
それと同じような印象を、アウロスはミストの目に感じていた。
「一つ報告を。ルインって人と会いました」
「ほう」
ミストの顔色は変わらない。
海に投げた小石は、小さな飛沫すら上げずに底へ沈んでいった。
そう言う目的でもなかったが、少し物足りない。
「彼女の居場所知りませんか? 聞きたい事があるんで探してるんですが」
「私は把握していない」
「そうですか……じゃ、失礼します」
意味のない答えに対し取り敢えず礼を言い、アウロスは助教授室の扉を閉める。
それを見つめる厳つい顔に――――笑みはなかった。