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「新潮45」はなぜ杉田水脈を擁護するのか?差別と偏見に満ちた心理

議論によって正すのは難しいが…

「新潮45」の特集を読んで

杉田水脈議員の「LGBT支援の度が過ぎる」という記事を掲載した雑誌「新潮45」が、激しいバッシングに対抗すべく、今度は杉田擁護の特集を組んだ。

当の雑誌が発売になるや、ネット上ではさまざまな批判があふれ、私のところにも早速「読みました?」というメールやSNSのメッセージがいくつも寄せられた。

ちょうど新幹線を待っているところだったので、駅の書店で件の雑誌を買い、新幹線の車内で目を通してみた。

一言でいうと、論評にも値しないような、くだらない記事の寄せ集めだった。

聞いたこともないような評論家や、存在するのかどうかも怪しいような匿名の「LGBT当事者」などが、好き勝手殴り書きをしたかのようなお粗末な内容であった。

「新潮45」2018年10月号

「新潮45」は、何をそんなに必死になって杉田議員を擁護するのか。いろいろ憶測できることはある。

たとえば、最近の日中、日韓、果ては日朝までもが雪解けムードのなか、自民党のコアな支持層である右派の人々が政権に対する不満を募らせているところ、そのガス抜きとして、あるいは鉄砲玉のような存在として、杉田議員の存在はそれなりに重宝なのだろう。

いささかキワモノではあるが、「一部」の世界ではそれなりの支持を集めていたと聞く。

しかし、そういう存在としての杉田を擁護したいという目的があったにせよ、集まったのはスカスカで中身がないばかりか、さらに批判や嫌悪を呼び起こすような論文(?)ばかりで、果たしてこれで目的が達せられるのか、逆効果じゃないかと思えるほどだ。

また、炎上商法が目的だったとすれば、相当タチが悪い。目的のためには手段を選ばずというのを言論機関がやってよいものなのか。

とはいえ、この程度の筆者、この程度の記事しか集まらなかったところに、本は売れたとしても、その負け戦は如実に表れている。

一方、新潮社の文芸部が、「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という創立者の言を引きながら、各方面からの批判的ツイートをリツイートしていることには心を動かされた。

 

そもそも、醜悪なヘイトスピーチとも取れる偏見に満ちた文章を垂れ流すのは、言論の自殺行為だ。それに対する内部からの批判は、真っ当な自浄行為である。

私は、杉田議員の発言には「現代ビジネス」上で批判をしながらも、その発言を封殺するような行き過ぎたバッシングには警鐘を鳴らした(参照「日本社会を覆う『杉田水脈問題』で私たちがいま試されていること」)。

しかし、当の杉田議員は、騒動の後、まったくといっていいほど表舞台には現れず、何の発言もしていない。言いたいことだけを一方的に放言し、そのあとはほとぼりが冷めるまで引きこもっているというのは、国会議員として無責任な態度であるし、姑息である。

そしてこの再びの騒動で、彼女の無責任な引きこもりは、ますます長くなるだろう。