はい、どうも。さとる(@satorism0321)です。
あなたは、大切な人と死別したことはあるだろうか。
仏教の開祖であるお釈迦様ことブッダは、「この世のすべては苦しみである」と説き、苦しみの種類を4つ=四苦(しく)に分けて説明した。
その4つの苦しみをそれぞれ、「生・老・病・死」(しょうろうびょうし)と呼ぶ。
生きていること。
老いること。
病にかかること。
そして、死ぬこと。
今回は、我々が避けることができない人生の終着点である「死」について、そして「生」とは何かをあれこれ考えてみたいと思う。
彼女の最期を思う
前置きとして
本格的に始めたのは数年前からだが、ぼくは仏教を勉強している。
現在の日本において広く信仰されている大乗仏教ではなく、今から2500年前のインドで興り、開祖・ブッダが説いた初期(原始)仏教についてだ。
端的に言えば、「超越者(仏)の力で救われよう」とする大乗仏教と違い、「自力で苦しみから脱しよう」という、人生哲学にも似た合理的な説得力を持っているのが初期仏教の魅力だ。
およそ宗教と言われてイメージするような、非科学的で神秘的な要素はそこには見られない。
ぼくは「人間はなぜ生きて、なぜ死ぬのか?」と言うことを以前よりずっと考えていて、オカルトやスピリチュアルなどを経由したのち、辿り着いたのが仏教であった。
その辺は今回のテーマではないので省略するが、ぼくの人生において「生と死」を考えることは、宗教にその答えを求めるほどに重要なファクターなのである。
早すぎる死
以前からこのことをテーマに書こうと思っていたが、なかなか重い腰があがらなかった。
と言うのも、この手の話題はおよそ迎合されるような内容ではないし、忌避すべきものと見られがちだからだ。
大体、ブログのネタとして宗教がらみはウケない。日常会話はもちろん、文字のみのやり取りであるTwitterでさえ、宗教というワードが入ってくるだけで人々が拒否反応を起こす例をぼくは多々見てきた。
しかし、今回このテーマで書こうと思い立ったのには理由がある。
先日、ぼくの従姉が亡くなったのだ。
享年45歳。ぼくの父の姉の娘で、ぼくより7つ上の人だった。病死だが、その病名についてぼくは詳しく知らされていない。
以前にも子宮摘出という大きな手術をしたというのは聞いていたが、まさか死に至る病に冒されていることなど知らず、ぼくの母から訃報を聞かされたときは驚きのあまり声を失った。
最近めっきり遊びに来なくなったなぁとは思っていたが、聞くところによれば、5年ほど前からずっと闘病生活を続けていたらしい。
結婚はしていたものの子どもを望めない体となり、さらには重い病と闘わなければならないという苦しみを与えられ、早々とこの世を去ったのかと思うと胸が苦しい。
そんな彼女の人生について、ぼくは何一つ知らなかったというのも悔しさが募る。
ぼくは仏教を勉強している身として、神という絶対的な超越者をその信仰の対象とはしていないが、この時ばかりは神を憎んだものだ。
いずれ来る「死」とは一体何か?
避けられないこの問題をきちんと見つめることで、今ある「生」の意味が浮かび上がってくる。
従姉のためにも、このことを今書かなければならないと思ったのだ。
従姉との思い出
従姉との思い出の中で、もっとも強烈なものを記憶の片隅に見出すとすれば、小学5年生の頃の出来事が思い浮かぶ。
ぼくの7つ上だから、従姉は当時高校1年生くらいの年頃か。
夏休みのことだっただろうか、ぼくは祖父に買ってもらった任天堂の新型ゲーム機「ゲームボーイ」を持って、従姉の家に遊びに行っていた時のことだ。
彼女の同級生にもゲームボーイを所有している人が多かったらしく、その中でも「テトリス」が流行っていたそうだ。
そんな話を聞いていたので、帰るときに「プレゼントあげる」と言われた時はてっきり「テトリス」だと勘違いしてしまい、中身がお菓子だったことが分かった途端「なんだぁ」とがっかりしたのを覚えている。
それを見た従姉は、「そんな高いの買えないってw」と笑っていたっけな。あの時は悪いことをした。
そんな思い出の中にある彼女が、今はもうこの世にいないのかと思うとやはり寂しいものがある。
ぼくがいずれ死を迎え、向こうに行った時にはきちんと謝るよ。待っててくれ。
「テトリス」のBGMとして有名なロシア民謡「コロブチカ」を聞くと、今でもこの出来事を思い出す。
ただ安らかに
これは従姉とぼくの写真だが、恐らくぼくが小学校低学年の頃だと思う。
さすがに顔出しは出来ないので、先ほどのイラストを合成させてもらった。
左下に「ながし」と見えるので、たぶん三重県の長島に遊びに行ったのではなかろうか(従姉は名古屋の人)。
改めて思い返せば、従姉はとても素敵な女性だった。
誰にでも優しく接することが出来る人だったし、ぼくも幼い頃は本当に良くしてもらったことを覚えている。
特にぼくは一人っ子だったから、従姉の存在は実の姉のように思えたし、実際ぼくは彼女をよく慕っていた。
お互い大人になってからは会う回数が減って行って、闘病していたというこの5年間はほとんど会った記憶がない。
病気のことを知らされていなかったとはいえ、もう一度会いたかったと心底思う。
訃報を聞いてしばらくは、彼女との色々な思い出が頭の中を駆け巡って止まなかった。
ただ安らかに眠って欲しい。ぼくに出来るのは、残念だがそう願うことだけだ。
いずれ来る人生の最期:死を考える
「死」とは何か?
ところで皆さんは、「メメント・モリ」(memento mori)という言葉をご存知だろうか?
この言葉はラテン語で、「死を忘れるな」「死を思え」という意味である。
人生において最も大切なことは何か?と問われれば、地位や名誉、お金、恋愛、家族・・・等々さまざまな答えが出てくるとは思うが、ぼくは「いつか必ず死ぬということ」と答えるようにしている。
まさにメメント・モリだ。
では、そもそも「死」とは何なのだろうか?
医療の現場においては、心拍数・呼吸・血圧・体温といったバイタルサインが無くなり、瞳孔反射(目に光を当て、瞳孔の変化を確認すること)も無い場合に「死亡した」と判断するそうだ。
しかし、これは当人以外の人間が確認できる「外的な死」であり、ぼくが常に考えていて、その答えを模索し続けるのは当人自身が体験する「内的な死」のことだ。
臨終の間際、人は一体何を見るのか?そして、死後どこへ向かうのか?それとも死を迎えた瞬間に無になるのか?
この謎は実際に「自分が死ぬ」その日まで分かることはないのだろうが、その答えの片鱗を求めるならば、必然的に臨死体験などといったオカルトチック(スピリチュアル)な世界に辿り着いてしまう。
そうやって以前からオカルトの範囲内でずっと考え続けていたが、祖母が亡くなった2013年頃から宗教に答えを求め始めることになる。常に「死の恐怖」と向き合い、救われようとしてきたのが宗教の本質であるからだ。
科学の進んだ現代の日本においては、死を迎えたその瞬間にすべてが無になると答える人が多い。
もしそうならば、人生には一体どんな意味があるのだろうか?
ブラックアウトしてすべてが消え去るなら、今この瞬間に死を迎えても、数十年の時を経て死を迎えても、結果は同じ。
長い人生の過程でたくさんの経験を積んで、自己を成長させる意味などなくなってしまう。
輪廻はあるのか
仏教において「死」とは、「生老病死」というライフ・サイクルの一部に過ぎず、生命は再び巡ると考えられている。
生まれ、老い、病にかかり、そして死ぬ。その後、魂が抜けてあの世へ行き、然るべき期間を置いたのち、また再びこの世に生を受けるというプロセスだ。
一般的に「輪廻転生」(りんねてんしょう)と呼ばれる思想だが、古代インドではこのことを「五火二道説」(ごかにどうせつ)と呼ぶ。
これは当時のインドで支配的だったバラモン教(後のヒンドゥー教)の思想であり、聖典である「ヴェーダ」の中の「ウパニシャッド」と呼ばれる部分に書かれている。
五火とは、
- 死者は火葬されたのち、月に行き
- そこから雨となって再び地に落ち
- 植物に吸収されて穀物となり
- それを食べた男の精子となり
- 女との性交により胎児となりこの世に再生する
という5つのプロセスを経て、輪廻するという説。
二道とは、
- 祖先の道(祖道):死後は先祖の世界に行き、後に再び五火のサイクルで人間界に戻る
- 神々の道(神道):死後は神々の世界に行き、人間界に戻ることはない
と、人間の死後の運命は2種類であるとする説。
仏教とは、煩悩と呼ばれるすべての執着を捨て去り、この輪廻のサイクルから抜けて二度とこの世に生を受けない(苦しみのない状態になる)こと=解脱(げだつ)を目指す宗教だ。
これは「輪廻する」ことを前提にしなければ成立しない考えであるので、少なくともブッダはそれを信じていたということになる。
また、「六道輪廻」という思想もあるが、これは初期仏教では重要と見なされておらず、体系化されたのは後の大乗仏教の時代であるのでここでは割愛したい。
ブッダはかく語りき
よく「ブッダは死後について説いていなかった」と言われるが、前述したように輪廻からの脱却を目指すのが仏教である以上、ブッダは「死後がある」と考えていたはずだ。
しかし、そのことについては「考えても分からんし、考えんでええよ。時間のムダや」としたのが彼のスタンスだ。
この手の話だと、形而上学的な質問(この世界は有限か・無限か等)をしてきた弟子に対して説いた『毒矢のたとえ』という有名なエピソードがあるが、その中で彼は質問を徹底的に無視して答えないという態度を取っており、「そんなこと考えるだけ時間の無駄だから、今この瞬間のみに集中して成すべきことを成せ」と諭したと言われている。
では、ブッダは「死後の世界」をどれほど理解していたのだろうか?
ぼく個人の見解としては、この世界の真理を「悟り」、輪廻の輪を外れる(解脱する)プロセスを示している以上、ブッダは世界の仕組みもきちんと理解していたと思っている。
それは言葉や文字で体得できるものではなく、自力で「悟り」に到達したときにおのずと理解できることであろうから、その過程にある時は余計なことに気を取られずに集中させる為、あえて「考えるな」と言っていたのではなかろうか。
悟りを得て輪廻から脱し、再びこの世に生を受けることのない状態を目指すのであれば、あの世のことなどあれこれ考えても確かにムダである。
例えば、大学に受かるために勉強してるのに、落ちたときのことばかり考えても仕方ない。受かったあとのことを考える方が有意義だし、前向きになれるもんね。
しかし、「悟り」を目指さないパンピーたる我々の場合はどう生きればいいのだろう?
あの世は存在するかもしれない
以上のことを踏まえると、我々パンピーは「あの世は存在する」と仮定して人生を送るほうが良いと結論できる。
なぜならば、万一「実在した時に困るから」だ。
これは「パスカルの賭け」という、有名な哲学的命題にも言及されている。
パスカルの賭け(パスカルのかけ、フランス語: Pari de Pascal, 英: Pascal's Wager, Pascal's Gambit)は、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが提案したもので、理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方である。
引用元:Wikipedia
つまり、
- 神が実在する:あなたが信じている or 信じていない
- 神が実在しない:あなたが信じている or 信じていない
という選択のどれかに人生を「賭け」なければならない場合、最もメリットのあるものが「神が実在/信じている」のパターンになるというもの。
逆に、最もデメリットの多い組み合わせは「神が実在/信じていない」というパターンとなる。
パスカルの言葉を借りれば、「あなたがこの世界に存在する以上、賭けに乗らなければならない」のだ。
それはあなたに信仰心がある・ないに関わらず、だ。
また、初期仏教における、最古層の経典のひとつ「ダンマパダ」(法句経)にはこうある。
真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。
これらの三つの事によって死後には天の神々のもとに至り得るであろう。
引用元:「ブッダの真理のことば・感興のことば」 / 訳:中村元(岩波文庫刊)
ということは、死を迎えても意識がブラックアウトせずに継起し続け、各宗教の持つ死生観のように生前の行いを清算→然るべき期間を経て→記憶をリセットして輪廻する、というプロセスが「実際にあり得る」のだ。
このことからも、「死後の世界は存在する」と仮定して生きている方が良いのではなかろうか。
だってその方が、自身の経験値を高めて成長していく意味を見出せるでしょ?
我々が「今を生きる」理由は、こういったことなのかもしれない。
悪を成すな、善い行いをせよ
では、「死」を迎えるまでの間、どのように「人生を生きる」べきか?
これはやはり、ずっと「死」と向き合ってきた宗教に答えを求めるのが一番近付けるのではないかと思う。
前述のダンマパダ(法句経)にはこのようにある。
悪しきことをなさず善いことを行ない、
自己の心を浄めること、これが仏の教えである。罵らず、そこなわず、戒律を守り、食事に関して適当な量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむこと、これがブッダの教えである。
引用元:「ブッダの真理のことば・感興のことば」 / 訳:中村元(岩波文庫刊)
とてもシンプルである。
ここで言う戒律とは、仏教的には出家/在家で内容が異なるが、在家に限って言えば5つを守れとブッダを言ってる。
その5つとは、
- 不殺生(ふせっしょう):殺すな
- 不偸盗(ふちゅうとう):盗むな
- 不邪婬(ふじゃいん) :不倫をするな
- 不妄語(ふもうご) :嘘をつくな
- 不飲酒(ふおんじゅ) :酒を飲むな
と、されている。これを五戒(ごかい)と呼ぶ。
ちなみに、ぼくはお酒を嗜むので5つ目がどうしても守れない!
このような道が明確に示されているからと言って、「良い人生の送り方」を知るために宗教に入れ込む必要などない。
何事においてもそうだが、盲目的に信じているようでは真の姿を捉えることは難しい。ぼくのように特定の宗派には属せず、一歩引いたところから俯瞰し、勉強するというスタンスがちょうどいいかと思う。
宗教に属さずともその手の書籍などいくらでもあるし、ネットで検索してもゴマンとページが出てくる昨今だ。
大切なのは「選択」だ。あなた自身の心を拠り所として、最適なものを選ぶのが良いと思う。
最後に:天国の扉を叩く時
ここまで書いてみたものの、「死」についてはその時を迎えるまで理解できることはないだろうし、ましてや「死後の世界」なんてもっと分からない。
色々考えてみるけど、結局考えたって分からない。
ただひとつ言えるのは、あの世の存在を信じているのは「大切な人を失った経験がある」人だということ。
だってそうでしょう。そういう人は「もう一度会いたい」って思うものだもの。
だからこそ、「死後の世界」を信じたいのだ。
そこでぼくは、祖父母や従姉、そして犬ともう一度会ってみたい。
いずれぼくが死を迎え、天国への扉を叩く時が来たら、向こう側で待っていて欲しいと願っている。
今回はこの辺でおしまい。長々とお付き合い頂きありがとうございました!
それではまたねーーー!!