先日、あるテレビ番組でタレント・いとうまい子さんとご一緒した。彼女は、二つの顔を持っていることで知られている。
一つはテレビタレント、そしてもう一つは「研究者」の顔。早稲田大学人間科学部大学院博士課程に在籍し、自ら作成するロボットで介護予防を実現することに情熱を燃やしている。
梶原「新宿音楽祭でいとうさん(当時は伊藤麻衣子さん)と仕事したのは何年前でしたっけ?」
いとう「歌手デビューした1983年ですから35年前です」
梶原「ひえ?!」
1983年といえば、スマートフォンどころか、携帯電話(肩掛けタイプ)登場まであと2年、バブル経済の始まりの前であり、もちろん昭和で20世紀だった。まだ生まれてもいなかった読者も少なくない、そんな「昔」だ。
■事務所から独立して、厳しい現実に直面
本論から横道にそれるが、新宿音楽祭とはラジオの文化放送が年に1度、日本武道館を会場に開く、その年にデビューした新人歌手を対象にしたコンテストだ。文化放送の局アナだった私は松田聖子さんと田原俊彦さんが金賞(グランプリ)を授賞した80年から司会を務めていた。その3年後の大会で銀賞に輝いたのが、当時10歳代半ばの少女、伊藤麻衣子さんだったというわけだ。
梶原「変わりませんねえ!」
驚くべきことに、見た目には35年という経年変化をまるで感じさせない。ところが、実際は大きく変わっていた、というのが今回のテーマだ。
デビュー直後から歌も芝居もおしゃべりもできる人気アイドルとしてテレビに雑誌に映画にと、メディアに出続けた。それから5年。事務所を離れ、独立独歩の人生をスタートさせた。
「そういえば、最近、伊藤麻衣子、あんまり見ないなあ」といわれ始めたそのころ、彼女は主戦場を舞台やイベントに変え、「ライブの世界」で生きていた。
とはいえ、やはり不安だったようだ。「かつてのような『テレビをつければ当たり前のように会えるアイドル』ではなくなった自分のことを応援し続けてくれる人などいるだろうか」。テレビドラマや映画の主役、コマーシャル、雑誌の表紙やグラビア特集。当時の自分にとっては「特別ではない自然な日常」だと思っていたものが、するする消え落ちていった。
■苦労のなかで「恩返し」を意識
いとう「今から考えれば、まだ世間の何たるかを何も知らない若い身で、大きな傘(大手事務所)の下から外に出て、自分でやっていくなんて、無謀もいいところでした。でも、10年、20年と月日がたって、何とか生き続けた自分を俯瞰して、気がついたんです」
梶原「何に、ですか?」
いとう「もがき苦しんで、すべてをあきらめてしまおうかと思った、そんなときでさえ、直接存じ上げない方を含め、様々な人たちが救いの手を差し伸べてくださっていた。これ、決して、きれいごとで言うんじゃないんです。いつか、そういう多くの人、世間の方々に、恩返ししなきゃって思いが、どんどん強くなってきたんです」
梶原「恩返し? つまり、社会貢献ですか」
いとう「もっとシンプルに言えば、困っている人がいたら、その人のお役に立てる存在になりたい。どうしたら、そうなれるか? 私にそういう術(すべ)があるか、自問自答しました」
梶原「で、出てきた結論は?」
いとう「芸能界のことしか知らず、学もなく、無教養だった自分は、何から始めたらいいのか、皆目、見当がつかない。ひょっとしたら、大学というところに行って勉強すれば、世の中の役に立つことの土台が見つかるかも知れない! 単純にそう思いました」
■予防医学に関心がわいて、早大へ
梶原「どの領域をどの大学でと、決めていたんですか?」
いとう「いいえ、全く。でも、たまたまそのころ、文部科学省と東京大学医科学研究所の中村祐輔先生たちが立ち上げた『オーダーメイド医療実現化プロジェクト』を紹介するビデオにナビゲート役として起用していただきました。台本を暗記して、そのまま役割を演じてもよかったんですが、生命科学とかゲノムとか、あまりに知らないことだらけで、なぜか必死に関係書を読みあさるうち、がぜん興味がわいてきました」
梶原「そういうもんですか」
いとう「台本にあるからではなく、本当に知りたいから、先生にどんどん質問をぶつける。先生も『こりゃ本気だな』と思ってくださったのか、丁寧に教えてくださる。そこから『予防医学』というキーワードに魅了されてしまいました」
梶原「医学部を目指すぞという感じに?」
いとう「さすがにそれは難しそうだと思って、いろいろ探した結果、『人間環境』『健康福祉』『人間情報』の3領域を横断して『予防医学』を学べそうな早稲田大学人間科学部eスクールにたどり着いたのが2010年のことでした」
■介護予防ロボットで注目を浴びる
早大のeスクールは通信教育課程とはいえ、選択した科目を時間内にきっちり履修しないとシビアに落とされるのだそうだ。「好きなときに自分のペースで無理なく学べ、卒業時期も自分で選べる、学費も安い」と噂される従来型とは真逆だ。
学費は通学生と同じ年間100万円レベルと安くはない。成績評価は厳密に行われる。ゼミもある。プレゼンテーションもある。レジュメも作る。もちろん卒論もある。芸能界という厳しい競争社会を生きてきたいとうさんには、この「ゆるさゼロ」がむしろ心地よかったらしい。
ゼミの同級生である整形外科医師がクラスで口にした「ロコモティブシンドローム」という言葉が耳に残ったそうだ。その後、クラスの仲間や教授とのディスカッションから学びを深め、一方で福祉ロボット開発で名高い可部昭克教授の教えを独自に融合させた卒論とともに、彼女にとっては「介護予防ロボット第1号」ともいうべき「作品」を作り上げ学内外で注目を集めた。
「大学院でも研究なさるようでしたら、協力させてください」。彼女のロボットを見た「業界の方」の声もあり、学部の成績優秀者として大学院への推薦状をも授与された彼女は2014年に修士課程へ進み、ここからは所沢キャンパスに日参する日々が始まった。
東京での仕事以外に、レギュラーで名古屋の生放送、地方のロケがあるいとうさん。論文研究に加え、年間30課目の受講をクリアするという、アイドル時代に勝るとも劣らない「ギリギリのスケジュール」で研究を続けたようだ。
いとう「各課目、それぞれで与えられたテーマにつき、自分で調べ、角度をつけ、掘り下げ、自分の考察をまとめる。それをパワーポイントに作り込み、発表し、ディスカッションし、評価される。毎回その繰り返し。もちろん同時並行で論文研究と新型ロボット作成に取り組みます。材料調達の交渉ももちろん私がやります。AD(アシスタントディレクター)さんはいないですからね」
■博士課程でも学び続ける日々
修士の2年間で課題科目、論文、そしてロコモティブシンドローム予防を目的としたスクワット運動をアシストする卓上型ロボット「ロコピョン」開発にも成果を上げた。
いとうさんの話を聞きながら、私は、自分がカウンセリング専攻の大学院生だった40歳代の終わりごろを思い出した。指導担当だった国分康孝教授の厳しく温かい励ましをいただきながら調査表を配るため街をさまよい、慣れないパソコンで統計の数字を出し、図表を作り、1日にわずか1ページしか書けなかった情けない自分を。話が横にそれてしまった。
2016年に修士課程を修了したいとうさんは、さらなる高みを目指し、博士課程へと進んだ。現在も「予防医学」を促進するロボットの開発研究を続けている。「世間の方々への恩返し」という志は揺るがない。
いとう「サラリーマンの方も、入社試験をパスしたら、その後の人生は安泰だという訳にはいかない状況ですよね」
梶原「そりゃあ、今はキツいでしょう!いとうさんがやっている、自分で決めたり、与えられたりするテーマを調べ掘り下げ、レジュメを作ったり、パワポにしたりしてプレゼンして、討論して、最終的に製品に仕上げ、成果を上げる。同じかもしれませんね」
いとう「どんな分野でも、自分をバージョンアップしていかないと誰も手を貸してくれない厳しい時代なんですね。私の場合は、一歩でも昨日と違う自分でいられるためには、勉強するしかないと思っています。『これって、今の問題解決には直接関係ないけど、とりあえず勉強しとこうかしら』なーんてやっておくと、不思議にそれを生かすチャンスが訪れる。幸運の女神は勉強する人を好いてくれる気がします」
博士課程で「ロボット研究」を続けるいとうさん。「介護予防」に寄与することでの「世の中への恩返しの夢」は着実に前進しているようだ。
※「梶原しげるの「しゃべりテク」」は毎月第2、4木曜更新です。次回は2018年8月23日の予定です。
梶原しげる 1950年生まれ。早稲田大学卒業後、文化放送のアナウンサーに。92年からフリー。司会業を中心に活躍中。東京成徳大学客員教授(心理学修士)。「日本語検定」審議委員。著書に「すべらない敬語」「まずは『ドジな話』をしなさい」など。 本コンテンツの無断転載、配信、共有利用を禁止します。